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日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「平和のためにできること」
マタイによる福音書 8章 5~13節
関口 康
「そして、百人隊長に言われた。『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」(13節)
説教題を「平和のためにできること」としたのは、毎年8月第一主日が日本基督教団の定める「平和聖日」だからです。今日をその日にすることを1962年の教団総会で決議しました。
そして、1967年には鈴木正久教団議長名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)を公表しました。その趣旨は次の通り。
①日本基督教団は、大日本帝国政府が戦争遂行の必要から諸宗教団体の統合と戦争への協力を国策として要請したことを契機に成立した。
②「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきでなく、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対して正しい判断をなすべきだった。
③しかし、我々は教団の名においてあの戦争を是認し、支持し、勝利のために祈り努めることを内外にむかって声明することによって、「見張り」の使命をないがしろにする罪を犯した。
④我々は心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、特にアジアの諸国とその教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞に心からのゆるしを請う。
この文章に基づいて「平和のためにできることは何か」の答えを探すとすれば、「見張りの使命を怠らないこと」です。「見張り」と言っても諜報活動ではありません。公開されている情報をよく見ることです。それだけでもかなりのことが分かります。
自衛隊の海外派遣は現時点ですでに行われていることです。憲法上問題ないと裁判所が判断しています。問題はその先です。
自衛隊を「日本防衛軍」、自衛官を「軍人」、陸上・海上・航空各自衛隊を「陸軍、海軍、空軍」、幕僚長を「参謀長」、護衛艦を「駆逐艦」等にするという名称変更案を外務省発行の外交専門誌『外交』16号(2012年)で公表したのは、私の中学の同級生です。2022年に再会して話す機会がありました。
いま私が申し上げたいのは「準備はすべて整っている」ということです。だからこそ、日本国の戦争への直接参加には、絶対に反対しなくてはなりません。
戦争は、必然でも運命でもなく、人間が意志をもって実行することです。戦争の全責任は人間にあります。しかし、ほとんどの人は巻き込まれただけです。戦争で利益を得る可能性があるのは、ごく少数の権力者だけです。ほとんどの人が犠牲になります。そのことを先の戦争の体験者がたはよくご存じのはずです。
どうしても私は、複数の学校(小中高)で聖書の授業をすることが許された、トータルで6年間の日々を思い起こします。授業の中で何度も言ったのは「日本が戦争に巻き込まれたら、戦地に行くのは君たちであって私ではない。『教え子を戦地に送らない』という言葉を教室の授業の中で言わなくてはならない状況にしてしまったことを申し訳なく思う」ということでした。
今日の聖書の箇所は、日本基督教団聖書日課の今日の箇所です。今年5月9日(金)信濃町教会での「東京教区東支区・北支区合同連合祈祷会」で私が奨励を担当したときに取り上げたのと同じ箇所です。奨励の内容は教会ブログで公開しました。もしよろしければ併せてお読みください。
これは、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムで、ローマ軍の「百人隊長」が自分の「僕」の病気を治してほしいと主イエスに懇願し、主イエスがその「僕」をおいやしになった物語です。
並行記事はマルコ以外の2つの福音書にあります(ルカ7章1~10節、ヨハネ4章43~54節)。比較すると違いが分かります。マタイとヨハネは百人隊長自身が主イエスのもとを訪ねたことを記していますが、ルカはそうではなく、百人隊長自身は主イエスを訪ねず、使いの者を送っています(ルカ7章3節、6節、10節)。
この物語の理解のポイントは、この「百人隊長」と「僕」をどうとらえるかです。「百人隊長」はローマ軍の職名ですが、ローマ人だったことを必ずしも意味しません。カファルナウムは北の国境に近く、外国からの流入者が多かったため警戒視されて軍隊が配置されました。この「百人隊長」はシリア人の傭兵だったのではないかと考えられています。
しかし、この人は確かにローマ軍の兵士でした。いち兵卒から登り詰めて「百人隊長」の地位を得た人であり、ルカによると「ユダヤ人のために会堂(シナゴーグ)を建ててくれた人」として尊敬されています(ルカ7章5節参照)。明らかに資産家です。
このように、地位も名誉も資産も体力もあり、ユダヤを支配する側のローマ軍にいたこの人が、ユダヤ人として生涯を送られた主イエスに助けを求めたこと自体が驚くべきです。
この物語を理解するもうひとつのポイントは「僕」です。マタイはこの人を、通常の「奴隷」を意味するドゥーロス(δοῦλος)ではなく、「自分の子どものように愛する僕」を意味するパイス(παῖς)と呼んでいます。
この「パイス」について、5月9日(金)連合祈祷会で司会を担当された尊敬する先輩牧師が教えてくださったことを聞いて、ひっくり返りました。
最近の解釈によると、この「パイス」は軍人にあてがわれた性的奴隷であると考えられていて、その点からこの箇所を読み直すと、当時の感覚では使い捨てとされていたパイスが病気になったことを悲しみ、彼の助けを求めた百人隊長のその願いに主イエスがお応えになったと理解できるということでした。
初めて耳にする解釈で驚きましたが、可能性は十分あるでしょう。戦争が生み出す闇です。
ところで、主イエスは百人隊長から「ひと言おっしゃってください」(8節)と求められて、どんな「ひと言」をおっしゃったでしょうか。マタイとヨハネで共通しているのは「帰りなさい」(マタイ8章13節、ヨハネ4章50節)だけです。つまり「帰りなさい」が「ひと言」です。
しかし、「どこ」に帰るのでしょうか。原文には「どこ」は明記されていません。近年の解釈によれば「家」です。1989年の英語聖書Revised English Bible(REB)と、1972年のオランダ語新共同訳聖書(Groot Nieuws Bijbel)が「家に帰りなさい」(Go home; Ga naar huis)です。
REBの訳はカッコいいです。〝Go home; as you have believed, so let it be.〟ビートルズです。
地元を離れて傭兵生活をしていた百人隊長にとって「家に帰りなさい」という言葉は二重の意味を持ったはずです。病気の僕(パイス)と住む家だけではなく、家族が住む地元の家が重なって見えたのではないでしょうか。「あなたを必要としている人のもとに帰りなさい」と言われた気がしたのではないでしょうか。
戦争は、身近な人、大切な人との絆を破壊します。人を人とせず、効率と生産性と利益の追求がすべてであるかのように教育し、不利益になるものを容赦なく叩き壊します。
「平和のためにできること」の最適解は「家に帰ること」(Go home)です。愛し合う「家」に、いやしがあります。
(2025年8月3日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)