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日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「聖霊の働き」
日本基督教団信仰告白に基づく教理説教⑥
ローマの信徒への手紙12章1~8節
関口 康
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(1節)
「この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」(日本基督教団信仰告白)
今日は「ペンテコステ(聖霊降臨日)」の礼拝です。キリスト教会の歴史的出発をお祝いする日です。
新約聖書によると、死者の中から復活された主イエス・キリストが天に昇られた後、主イエスの弟子たちがひとつの部屋に集まっているところに、父なる神とイエス・キリストのもとから聖霊が降り、弟子たちにとどまりました(使徒言行録1~2章参照)。
「炎のような舌」(使徒言行録2章3節)が弟子たちの上にとどまるなど、聖書に描写されている情景が「ホラー映画のようだ」と感じる向きがあるかもしれません。しかし、それは聖書の読み方の問題です。明らかに文学的表現が用いられています。
「炎のような舌」は、神の御言葉を炎のように熱い思いで力強く宣べ伝える教会がそのとき生み出された、と言いたいだけです。そのように考えながら読めば、意外なほど安心できる当たり前の情景が描かれていることが分かります。
5月4日(日)から「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」を続けています。偶然の一致ですが、「聖霊の働き」について記されている箇所がペンテコステ礼拝の日に巡って来ました。まさにふさわしいテーマですので、両者の要素を掛け合わせてお話しいたします。
日本基督教団信仰告白の今日の箇所も、「この変らざる恵みのうちに」と記されているとおり、「神の恵みの教理」(恩恵論)です。人間の努力や功績によらず、神から一方的に与えられる「賜物」(ギフト)としての「神の恵み」です。
日本基督教団信仰告白では、神の恵みの教理(恩恵論)の中に、最初に選びの教理(予定論)と信仰義認の教理(義認論)が配置され、その次に「聖化論」(Doctrine of Sanctification)が配置されています。「聖化論」の内容は以下のとおり。
日本基督教団信仰告白
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英訳(公式)
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試訳(暫定訳)
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この変らざる恵みのうちに
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In this unchangeable grace
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この二度と取り消されることのない神の恵みの中で
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聖霊は我らを潔めて
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(The Holy Spirit accomplishes His work) by sanctifying
us
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聖霊(なる神)は私たちを聖化し
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義の果を結ばしめ
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causing us to bear fruits of righteousness
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義の実を結ばせ
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その御業を成就したまふ
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The Holy Spirit accomplishes His work
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(聖霊なる神ご自身の)御業を成し遂げてくださいます
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この文章の主語は「聖霊」です。三位一体の第三位格としての「聖霊」は、端的に「神」です。聖霊なる神ご自身がお選びになった人に信仰を与え、その人は罪人のままなのに、あたかも罪が無い人であるかのようにみなしてくださること(=義認)までが先週の箇所です。それに続く、その人を「潔め、義の実を結ばしめる」部分が「聖化論」です。
「義認」は「みなし」なので法廷的(forensic)概念であり、「聖化」は実体変化を意味するので実質的(substantial)概念であるなどと言われます。
「義の果」の内容は、日本基督教団信仰告白の文面だけでは不明です。しかし、「聖霊の結ぶ実」は「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とガラテヤの信徒への手紙5章22節に記されています。
これは「キリスト教倫理」と呼べる内容です。神の御心にかなう善き行いを指します。最初は「個人」において実現します。それが「キリストの体なる教会」という形態を獲得し、「社会」や「国」や「世界」へと広がります。キリスト教の二千年の歴史がその事実を物語っています。
しかし、私はこのあたりで話を止めて、考え直す必要があると感じます。「予定、義認、聖化」を「人間の努力や功績の結果」ではなく「神の恵み」としてとらえることは間違っていません。しかし、この論理は人間を要らないものにしている気がしませんか。わたしたちの働きは無視ですか。人間の努力は無用ですか。
聖霊の働きを正確に理解する必要があります。聖霊なる神は、私たち「の代わりに」(instead of)働いてくださる方ではなく、私たち「の中で」(in)、私たち「と共に」(with)、私たち「と一緒に」(together)働いてくださいます。私たちの理性も意志も感情も排除されません。
聖霊なる神は、わたしたちをパートナーにしてくださいます。信仰は「与えられるもの」ですが、信じるのは私たちです。「義の実を結ばせる」のは神ですが、義の実を味わって生きるのは私たちです。
今日朗読していただいた聖書箇所は、ローマの信徒への手紙12章1節から8節までです。この箇所で最も大事な言葉は、最初の「こういうわけで」(1節)であると言われることがあります。どうしてそういうことになるのでしょうか。
ローマの信徒への手紙は、大別すると3部に分かれます。次の通りです。
1~8章
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信仰義認の教理 (義認論)
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9~11章
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選びの教理 (予定論)
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12~16章
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君たちはどう生きるか (キリスト教倫理)
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このように見ると分かるのは、ローマの信徒への手紙は、1章から11章までが「神の恵みの教理」で構成され、つまり「神のわざ」で埋め尽くされているのに、12章に入った途端、「人間のわざ」の話になる、ということです。
もう少し噛み砕いていえば、1章から11章まで「人間は何もしないで救われる」と言ってくれていて、「ありがたいお話だ」と思いながら読んでいたら、12章になると「君たちはどう生きるか」の話に切り替わって、「ナニ、結局、人間の努力が求められちゃうわけ?なんだ、つまらない」と、がっかりする人はがっかりする(がっかりしない人もいる)展開になっているのが、ローマの信徒への手紙の全体構造だったりします。
なかには「ローマの信徒への手紙は、1章から8章までだけでいい。9章以下は要らない(予定論が嫌いだから)。12章以下は論外だ(道徳的なことは興味ない)」と言い出す人までいます。実際に出会ったことがあります。
しかし、そんなことを言われても困るわけです。ローマの信徒への手紙の1章から11章までの「恩恵論」(義認論+予定論)と、12章から16章までの「君たちはどう生きるか」を問うてくる「キリスト教倫理」をつなぐ重要な蝶番(ちょうつがい)が、12章1節の「こういうわけで」である、というわけです。
これで私が何を言いたいかというと、「人が救われるのは努力や功績によらない」という教えと「神の御心にかなう生活をめざすこと」は両立する、ということです。
神の恵みによって救われた人たちは、その恵みにふさわしい「義の果(ぎのみ)」(fruits of righteousness)を結びながら、潔められた(=聖化された)生活を営みます。
(2025年6月8日 日本基督教団足立梅田教会 ペンテコステ礼拝)