2025年10月12日日曜日

講演「これからの教会と日本基督教団」北村慈郎牧師

北村慈郎牧師(中央)と足立梅田教会の教友(1970年頃)

講演「これからの教会と日本基督教団」北村慈郎牧師

日時:2025年10月12日(日)11時40分~13時
場所:日本基督教団足立梅田教会
主催:日本基督教団足立梅田教会
後援:北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会


はじめに

・ この題は関口先生からのもので、先生が東京神学大学で開かれた集会に出席して、教団議長の雲然俊美さんが同じ題でお話しされたのをお聞きになって、同じ題で私にも話してもらいたいと思われたようです。

・ 今回は、私自身がここ数か月忙しくしていて、いろいろな資料に当たってお話しすることができませんでしたので、普段考えていることをお話しさせていただきたいと思います。


「これからの教会」(不安)

まず「これからの教会」ということで、みなさんはどんなことをお考えでしょうか。ごく素朴にこの表題から受けるイメージは、「これからの教会どうなっちゃうのだろうか」というものではないかと思います。

牧師になろうとする人も少なくなっていますし、地方の教会では牧師のいない(招聘できない)教会も多くなっていますし、解散や閉鎖する教会も、私が属する神奈川教区でもこの数年で 3 つも出ています。現在も一教会がそのことで教区との話し合いをしている状況です。私が今実質的に牧師をしています船越教会でも、9 月28日の礼拝後に教会全体修養会を行って、「今後の教会について」話し合いました。その教会全体修養会に出席したのは私を入れて10名です。その話し合いでは、基本的に「やれるところまでやる」と、船越教会と同じような教会が神奈川教区にもいくつかあるので、「教区がそれらの教会が共同して教会運営をするための繋ぎの働きをしてもらうように教区にお願いすること」にしました。その話し合いの中でも「やれなくなる」ことを想定して、教会を解散することも考えに入れておくべきではないかという意見もありました。

おそらく多くの方々は、今までのように教会が伝道して信徒を増やして、信徒の献金によって教会運営をするということが、段々難しくなっていくのではないかという思いを共有しているのではないでしょうか。そういう不安が「これからの教会」はどうなっていくのだろうかという問いを生み出しているのではないかと思います。


「これからの教会」(そのあるべき将来像)

あるいは、「これからの教会」ということで、今までの教会の在り方とはちがった教会像を考えていくべきではないかという、将来に対する積極的な展望として「これからの教会」を問題にしているということも考えられます。

沖縄では「合同のとらえなおし」との関連で、2002年の教団総会で沖縄教区が提出していた「名称変更議案」をはじめ「合同のとらえなおし」関連議案がすべて審議未了廃案になり、それ以来沖縄教区は教団とは距離を置き、沖縄教区は現在まで教団総会議員を出していません。

その沖縄教区は2002年以降、教区の常置委員会に「沖縄にある将来教会の在り方を検討する特設委員会」を作り、2008年 2 月13日に答申「沖縄にある望ましい将来教会の在り方」を出しています。その答申と「2002年以降の合同のとらえなおし関連文書」と共に、2013年に沖縄教区常置委員会は『沖縄に立つ合同教会をめざして』という沖縄教区ブックレットを出しています。答申「沖縄にある望ましい将来教会の在り方」では 9 項目に分けて記していますが、それを紹介したいと思います。(※下線はすべて筆者)

第 1 項目「沖縄に立つ教会」――沖縄および沖縄教会の歴史をふまえた沖縄の教会、沖縄戦の戦禍によりゼロから出発し直した平和を希求する教会、戦責告白に生きる教会――

第 2 項目「教会と国家」――この世の中で国家と共にありつつ、国籍を天にもつものとして国家から自由に生きる在り方をする教会、国家に屈服させられた1941年合同の負の遺産を克服する質の教会、沖縄という人間社会をフィールドとする教会――

第 3 項目「内外に開かれた合同教会としての教会」――内外に開かれた合同教会としての教会、他教会、他教派との協力関係を重視し、地域社会との連帯に生きる教会――

ちなみに私の支援会で賛同者を集めています宣言の表題は「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる宣言」で、宣言の内容は、「1, 北村慈郎牧師の免職処分の即時撤回と教団教師としての復権を求めます。2, 聖餐についての論議の場が設定されることを求めます。3, 「戦責告白」の教団史における意義を踏まえ、歴史に向かい合う教団となることを求めます。  4, 沖縄教区に対する謝罪と関係回復への具体的作業を求めます。5, 一方的な「公同教会」の主張を再考して「合同教会」の形成を求めます」です。

第 4 項目「沖縄における合同教会の信仰告白」――独自の信仰告白を持つ教会、一定の規範性をもつが、固定化せず、多様性を尊重し、絶えず追求していくべき目標・証しとしての信仰告白――

「多様性を尊重し」ということは、現在の教団の多数派の考え方のような一つの「信仰告白と教憲教規による一致」とは違います。後で紹介しますがカナダ合同教会の信仰告白に対する考え方に近いと思われます。カナダ合同教会では信仰告白は複数あって、各個教会がその一つを自由に選ぶことができます。

第 5 項目「積極的に福音宣教する教会」――<小さくされた人々>と共に、神と人との交わりに生きる教会のわざとしての宣教――

ここには、「交わりとしての教会」について記されていますが、この点については資料に入れておきました私が昨年農伝のアドベント礼拝でした説教をご覧ください。

第 6 項目「沖縄にある開かれた教会の聖礼典」――沖縄にあり、沖縄の歴史を踏まえた教会、国家体制から自由になり、平和をつくりだす教会、内外に開かれた合同教会としての教会、多様性を尊重し、絶えず追求していくべき目標・証しとしての信仰告白を持つ教会、神と人との交わり、「小さくされた人たち」との交わりに生きる教会の聖礼典――

(冊子40, 41頁参照)

第 7 項目「財政的自立」――教会、地域、世界という他者とともに、主のみことばに聴き、みことばの実現のための人的・財的連帯協力によって財政的自立をする教会――

第 8 項目「信徒論・教職制・会議制」――“神が創り、イエス・キリストが招くすべての人のための教会、この世の支配的な力を相対化する教会、責任と対話による教会”の信徒・教職の固有の役割と会議の在り方――

第 9 項目「教会の主体性(69年合同の総括)」――69年合同からみえてくるもの、それは沖縄の教会の主体性の弱さである。「沖縄に立つ教会」を目指すとき、私たちは「69年合同」を超えなければならない――

この答申「沖縄にある望ましい将来教会の在り方」が、沖縄教区の諸教会・伝道所にどれだけ生かされているかはわかりません。ただ沖縄教区では、少なくとも2008年にこのような答申を出したわけですから、「沖縄にある望ましい将来教会の在り方」を考えたという事実は打ち消し難いことだと思います。

沖縄教区では、2010年代の前半に戦後第二世代の牧師たち((平良修さん、山里勝一さん、大城実さん、名嘉隆一さん等)の懇談会が積み重ねられて、それが記録として冊子になりました。この懇談会では沖縄教区の教会の「これまでとこれから」がテーマになっています。

そのある時の懇談会に教団ではなくバプテスト教会の饒平名長秀牧師が招かれてお話をされています。その中で饒平名牧師は、沖縄の第二世代の牧師たちの懇談会で、「信仰共同体としての公同教会」というテーマで話し合った時に、大城実さんが言われたことに触れているところがあります。そのところを引用します。

「大城実さんが、ちょっと興味深いことを言っているんですね。これからどういうふうにいけばいいのか?と、どういうふうにわれわれは進んでいけばいいのか?というふうなことを発言しているところがあったと思うんです。小さな共同体ですね、小さな交わり。小さなグループというふうなものをドンドン作っていく、そこから始めるのがこれから歩んで行く道じゃあないかなーというようなことを、どこかでおっしゃっているんですね。大城さんはどういう意味でおっしゃったのか、それ以上の深いことはおっしゃってないんですけど、この言葉にちょっと私は惹かれたんです。これは国家論を問う問題でもあると思うんです。教会という信仰共同体、小さな交わりですね、教会というのは。私はある意味では神の国のひな型だと思うんですね、ある意味でですね。教会は神の国ではない、しかしやはり神の国を目指していく、これは多分いつ果てるともない働きかも知れけれど、目標としてはですねそういう共同体ですね。それが目指されていくとですね、神の国の形になっていくという、そういう小さな共同体が沢山出来る。沢山できて、その共同体のまさに共同体同士の連盟というんでしょうか、全体の組織ですね。そこには支配関係もないし搾取関係もないです。草の根的ですね、ドンドン広がっていくと。ですから勿論そこに経済も入っているわけで、相互扶助的に経済も入ってくるわけです。そこからやがて現在ある国家というものを無化していく、弱くしていく、国家体制というものは、ある意味で支配の組織ですから、こういうものは暴力組織ですからこれを無化していくと。それから経済の資本主義を無化していくというね、資本主義を無化していくという、そういうふうに組織がドンドンその小さな群れが皆一つになっていく、小から中、中から大というふうなのが、あるいはあるかも知れませんけれど少なくともそこには権力は存在しない、支配、被支配、搾取、被搾取の関係はないと、差別、被差別もない、そういう世界です。だから最終的には国家もなくなるし資本主義もなくなる、それが私の教会だと思っています」(『旧沖縄キリスト教団第二世代牧師懇談会会議録』p.173-174)。

戦時下の教会は教会を守るために国家に妥協し、国家の戦争協力に加担していったわけですが、教会が小グループとしてあれば、戦時下の教会のように教会を守るためにという発想から少し自由になれるのではないかと思うのです。

私が東京神学大学の学生だったころに、当時の学長だった高崎毅さんが、「戦時下のような状況になったら、自分は教会を解散して、一人一人のキリスト者として戦争に抵抗していく」という主旨の発言をしたのを覚えています。その発言に私自身は共感し、感動しましたが、その後高崎毅学長は東神大に機動隊(国家権力)を導入したので、がっかりしたのを覚えています。

そういう意味で、これからの教会は信徒の小グループを基盤にアメーバー的に広がるというイメージで考えられるのではないかと思います。

そこまで行かなくても、各個教会が個々の事業体の競合のような現在の日本基督教団の在り方から、各個教会を越えて信徒同士が相互に支え合い、所属する教会は異なっても信徒同士の協力・支え合いがもっと密になって、キリスト者としての生き方を明確に打ち出して一緒に生きていくようにならないと、日本基督教団の教会は衰退していくか、この世に埋没していくしかないように思います。

「これから」のことを考える時に大切なのは、日本基督教団という教会の存続もさることながら、「これから」の時代にイエス・キリストの福音を信じて生きる教会とはどのような教会かということです。そういう観点から現在の日本基督教団について考えて見ますと、 2 つの点で極めて消極的・否定的な見方しかできません。


現在の日本基督教団の消極的・否定的な二つの問題

㋑ 教会と社会、教会と国家の問題

・ 1941年の国家の圧力によって誕生した日本基督教団は、その後戦前の天皇制絶対主義的な日本国家の戦争に積極的に協力し、教団内にあっては、日本国家による 6 部・ 9 部のホーリネス教会の解散と牧師の弾圧に対して、見て見ないふりをするだけでなく、自分たちにも弾圧が及ぶのを恐れて、ホーリネス教会の牧師に辞任を迫ったのです。

この時の教団の中枢は、復活信仰のようなキリスト教の教義を国家が否定するなら殉教もいとわないと、当時の文部省の役人に言ったと言われています。つまりこのことは教義を否定されたら殉教するが、教義を否定されない限り、戦争協力は喜んでいたしますということになるのではないかと思います。そんな教会ってあるのでしょうか。戦時下の日本基督教団はそういう教会だったのです。

戦後すぐに教団から離脱して旧教派に戻った教派(ルーテル教会など)がいくつかありましたが、それ以外は教団にとどまって戦後の教会活動を始めました。戦後最初の教団総会は1946年 6 月に第 3 回教団総会として開催されました。その時教団は九州教区の中にあるべき沖縄支教区を抹消しました。

また、この戦後最初の教団総会では、戦時下国家への屈従・内応によって成立した教団の問題性は議論にならずに、戦前の教団と戦後の教団が連続することになりました。この時の教団総会だったかどうかは分かりませんが、教団の戦争責任を問題にした発言をした牧師がいたと言われていますが、教団としては全く問題にならなかったということです。

事実この教団総会が終わった翌日、青山学院で全国基督教大会が開催され、約4,000人が参加して、以後 3 年間、「全日本へキリストを」を標語に「300万救霊」を目標として、新日本建設キリスト運動が全国に展開されました。

9 月の神奈川教区の常置委員会の前にZoomで「二種教職制について」の協議会があり、九州教区の梅崎浩二牧師が九州教区の二種教職制についての議論を踏まえて講演してくださいました。その中で梅崎牧師は、袖井林二郎(国際政治学者・法政大教授)の以下のような痛烈な批判を引用しています。

「日本基督教団は1946年 6 月 9 日、東京の青山学院で開かれたキリスト教全国大会で、三百万人の信者獲得をめざして『新日本建設キリスト運動』を開始した。そのときに賀川が少なくとも追放を免れ、身分を保障されていたことは、教団にとっても救いであった。もちろん賀川の献身的な努力にもかかわらず、新しい信者は三百万人はおろか三十万人も獲得できなかった。みずからの戦争責任をえぐり出すことのできぬ教会が、国民の信を獲ち得られるはずはなかった」。

沖縄戦を経験した沖縄では、1945年 6 月沖縄戦終結直後、各地の収容所で礼拝、集会が守られていましたが、1946年 6 月沖縄キリスト連盟が結成されました。その後沖縄では沖縄キリスト教団と名称を変えて、沖縄独自の教会活動が行われます。

そのようにして1960年頃までは、「教団問題」と言われている問題は教団の中には顕在化することなく、戦後の教団の歩みが続いてきました。その教団の歩みは回心を目的とした伝道を中心とする歩みと言ってよいかもしれません。

ところが1960年前後から「教会と社会(国家)」の問題に教団は徐々に関心を持つようになってきました。「ハイマン博士社会問題協議会」(1958年 6 月 9 日~13日、天城山荘で開催、126名出席)、「時局に対する日本基督教団の声明」(1958年10月~24日、富士見町教会で開催された第10回教団総会で、 4 つの建議案の審議の結果、警察官職務執行法改正案反対を主な内容とする声明を発表した)、「『教会と社会』協議会」(1962年 6 月軽井沢で、「激変する社会における教会の証し」を主題に、ジョン・ベネット博士などを講師に迎えて開催。参加者100名、「『教会と社会』協議会報告ならびに提案」を発表)。「憲法擁護に関する声明」(第12回教団総会決議に基づき、1962年11月 3 日付で発表)。「『建国記念の日』反対」(教団は1963年 6 月以来反対声明を 2 回発表し、反対請願および申し入れを 2 回行なった。また、1966年12月19日「 2 月11日が建国記念日に決定されたことに対する反対声明」を発表した)などにそれが現れています。

私は1959年クリスマスに高校 3 年で洗礼を受けました。1963年 4 月に東神大に入学しました。教会は紅葉坂教会の所属していましたが、その頃青年たちが60年安保、靖国問題(靖国国家護持反対)、紀元節復活反対(建国記念日問題)などでデモに参加するのを、教会の長老が苦々しく思っていたという状況が教会の中にもありました。

そういう中で1967年 3 月26日イースターに「第 2 次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(以下戦責告白)が教団総会議長の鈴木正久さんの名前で出ました(資料参照)。

戦責告白は教団を二分化しました。私は、戦責告白の本文には違和感がある文言(例えば「祖国」)もありましたが、あの戦争が誤りで、その戦争に協力した私たちの教会も誤り犯したことをはっきり言い表したという点で評価できると思いました。戦責告白が出た時、私はちょうど東神大の大学院に入る前だったので、「これで教団の牧師としてやっていける」という思いを持ったことを覚えています。

私は1969年 3 月に東神大を出て、最初の任地であるこの足立梅田教会に赴任しました。その時お隣の教会ですが聖和教会という教会があり、その教会の牧師は向井先生というお年寄りの方で、何かの機会に向井牧師から話があると言われて、聖和教会に伺ったことがあります。この方は戦前から牧師をしていましたので、戦時下の牧師がどんなに大変だったかをお話しになり、自分は戦責告白を認めることはできないと、はっきりおっしゃいました。そういう方がけっこう沢山いて、一方戦責告白を支持する人もそれなりに多くいて、戦責告白を巡って教団が二分化するようになったのです。それが現在でも続いていますが、教団の二分化が顕在的になったのは、この戦責告白をめぐってが初めてではないかと思います。

戦責告白が出たのが1967年 3 月で、沖縄キリスト教団と日本基督教団が合同して議定書がかわされて合同式典が銀座教会で行われたのが1969年 2 月25日で、那覇中央教会で行わたのが同年 3 月21日です。

万博キリスト教館出展の問題で反対者を含めて徹夜の常任常議員会を開催したのが、1969年 9 月 1 日~ 2 日です。この時常議員の一人であった東神大教授の北森嘉蔵氏が反対者の青年から平手打ちをされました。そのことを問題にした東神大教授会が「 9 ・ 3 声明」を出したのを契機に、その教授会声明を批判した東神大学生が話し合いを拒否する教授会に対抗してバリ封鎖をして、東神大問題が起こります。後に教授会は機動隊を導入してバリ封鎖を解除し、反教授会の学生約70人を除籍し、 3 名の学生が起訴されることになります。

また、1969年の教団教師検定試験において関西学院神学部の推薦取り消しによって合格保留となった受験者が出たことに端を発し、教師検定試験問題が起こります。

1969年には沖縄キリスト教団と日本基督教団は合同しましたが、その後その時の合同は「大が小を呑み込む」吸収であって、両教団の真の対等な合同ではなかったのではないかという問題提起が起こるようになりました。

このように1970年前後に集中して教団の教会としてのアイデンティティーを問う「戦責告白」「万博・東神大問題」「教師検定試験問題」「沖縄キリスト教団と日本基督教団の合同問題」が起こりましたので、「教団問題」を「70年問題」と言われるのはそのためです。

このころから教団の中に、70年問題を受け止めて明日の教団を考えるグループの他に福音主義教会連合というグループの活動が活発化し、教団は二分化していきます。

70年問題を受け止めて明日の教団を考えるという問題意識を持った人たちが中心になって、70年以後の日本基督教団の運営がされていき、教団総会も行なわれて来ました。それは1990年まで東京教区が教区総会を開くことが出来ず、東京教区からは教団総会議員は出せなかったからです。

ところが、東京教区総会が開催すようになって、東京教区からも教団総会議員が出るようになりました。たしか東京教区からの総会議員は(東京教区52名、西東京教区24名)76名で、総会議員数は400名ですから、76名がいなかったそれまでの教団総会では324名の総会議員で総会を行っていたところに、多様性が無く、ほとんど一方的な立場の総会議員が76名急に加わったわけですから、総会議員の構成の比率が変わり、どちらかというと、それまでは70年来の問題提起を受け止めて来た教団総会が、東京教区から議員がでるようになると、むしろ70年来の問題提起を放棄し、信仰告白と教憲教規による一致をかざして教団の正常化(正統主義的な信仰による一致)を進めるようになり、現在に至っています。

2002年の教団総会以降沖縄教区が教団と距離を置くようになってから、元教団議長の山北宣久さんが、戦責告白以降の40年を「荒野の40年」と言って全否定しました。山北さんは戦責告白以降の40年は、教団は論争にあけくれて、伝道がおろそかだったと言うのではないかと思います。山北さんは、「それ行け、伝道!」という、信者獲得という伝道を優先的に考えている人だと思います。彼が教団総会議長になった時、山北さんは福音主義教会連合にも深く関わっていました。福音主義教会連合は連合長老会とも一体となって70年頃から教団の中で活動してきています。

万博問題で問われた、70年万博が経済成長を遂げた日本の企業がアジアへ経済侵略を進める足係として行う祭典である万国博にキリスト教館を出展して憩いの場を設け、キリスト教の宣伝である伝道の機会にするという、そのようなキリスト教館出展は日本の経済侵略を補完することでしかないのではないかという問いは眼中にないと思われます。あるいはそういう問いはあっても、何が何でも伝道が出来ればいいではないかという考え方ではないかと思われます。状況捨象の神学と言ってよいかもしれません。

このような考え方では、また再び日本の国家が戦争をするようなことが起こったら、戦時下の教団と同じ過ちを犯す可能性が高いと言わざるを得ません。ここに「教会と国家」の問題を私たちは避けて通れない所以があると思います。戦争協力を積極的にしてしまうような教会でいいのか、それとも戦時下でバルメン宣言のような信仰告白を表明することができるような教会でなければ、教会とは言えないのではないか。そういう問題です。

㋺ 合同教会としての日本基督教団のアイデンティティーの問題

以上は主に教会と社会、教会と国家という問題に関わりますが、教団はさまざまな教派の教会が合同して成立していますので、合同教会としてのアイデンティティーの問題を抱えています。しかも教団の成立は国家への屈従・内応によりますので、正教師・補教師という二種教職制も、教会・伝道所には必ず主管者(教師)を置かなければならないという国家の要請に応える形でできたものです。ですからこの二種教職制の再検討の問題は教団がずっと抱えてきている問題です。

信仰告白の問題も、全体教会の信仰告白を教会の生命線と考える長老主義教会と会衆派の教会とでは違いがあります。組合教会の場合には全体教会の信仰告白はありません。そもそも全体教会という考え方もありません。教会は各個の教会があって、長老主義の全体教会当たるのは各個教会の連合体で、それを組合教会と言っているのです。ですから、カナダ合同教会も日本基督教団と同じ合同教会ですが、カナダ合同教会にも信仰告白がありますが、信仰告白に当たる文書は複数あります。各個教会はそれぞれそれらの信仰告白から選択して用いていると言われています。しかもカナダ合同教会にあっては信仰告白は全ての教会を縛るTHEではなく、Aになっています。カナダ合同教会では信仰告白を持たない組合教会への配慮から、そうしていると言われています。合同教会である日本基督教団はカナダ合同教会に学ぶことが多いと思います。

そういう意味で、教団は合同教会としてはまだまだ未定型です。まだまだ合同しつつある教団です。日本基督教団の信仰告白は、告白という観点からすると大変問題があります。プロテスタントの正統的な教えが簡易にまとめられていると、よく言われますが、それだけでは教会の教義の説明としては良いとしても、信仰告白の場合は状況の中での告白ですから、そういう面が教団の信仰告白には欠けています。敗戦後約10年後の1954年に教団の信仰告白ができました。当時会派問題が起きて、長老主義教会の教団離脱を避けるために、長老主義教会へのリスペクトとして教団信仰告白をつくったのです。長老主義教会では信仰告白のない教会はあり得ないからです。そういう意味で1954年の教団信仰告白は日本基督教団の教会内的な事情からつくられたもので、本来の信仰告白が持つ状況性が希薄になっています。そこには教団の戦時下の戦争協力につての懺悔は全くありません。教団の信仰告白は戦時下教団の教義の大要の焼き直しと言われていますが、戦後の教団が戦時下の教団と連続しているのも問題です。

日本基督教団の成立において、国家の圧力によって合同した日本基督教団は合同教会としてのアイデンティティーを自らの内側から、様々な教派の教義や制度の違いを話し合いによって一つにまとめて成立したのではありません。外的な国家権力の圧力によって一つになったのですから、日本基督教団はそれぞれの教派的な違いを内在させたままで現在まできています。

しかもその違いを互いに認め合う関係ができているかというと、御存じのように現在の日本基督教団は全数連記による常議員選挙に象徴されていますように、一部の人たちの考え方、形式主義的な長老主義によって主導されています。

自分たちの考え方によって他の考えを廃する構造になっています。「信仰告白と教憲教規による一致」とか、「多様性の一致」を目指すのではなく、「一致の多様性」を目指すのだと、訳の分からないことを言って、自分たちだけを正統化しているのです。

元教団議長の山北宣久さん以来、前教団議長石橋秀雄さん、現教団議長の雲然俊美さんと続いて、「教団信仰告白と教憲教規による一致」路線を歩んでいます。

その間1970年の東神大問題で教授会が機動隊を導入したことに教団総会は反対決議を出していたのですが、石橋さんが教団議長になってから、その反対決議を無視して教団と東神大は和解し、東神大学長や教授が教団総会や委員会活動に参加して、教団の神学的な方向性を牛耳るようになっています。機動隊を導入し、学生の半数を除籍した東神大教授会が反省することなく、そのまま居直っている限り、東神大の神学は破綻したままだと思います。東神大は機動隊導入を否と認め、除籍した学生にきちっと謝罪し、教団立神学校として存続していくためには、疑似長老主義的な神学を相対化して、世界の合同教会に学び、合同教会としての神学を生み出さなければなりません。そうでなければ教団立神学校ではなく、認可神学校の一つになるべきです。

教団総会がその正常化路線になったのが、2002年開催の第33回教団総会からです。この総会での沖縄提案の「名称変更議案」をはじめ「合同のとらえなおし」関連議案すべての廃案と、性差別特別委員会と天皇制情報センターの廃止決定がそのことを物語っています。

私は2002年の教団総会に神川教区選出の教団総会議員として、20数年ぶりに教団総会に出席しました。そこでこの教団総会が終わった時に、沖縄の方々が泣きながら去って行くのをつぶさに見たわけです。ですから、2004年の第34回教団総会にも神奈川教区選出の教団総会議員として出席しましたので、その時の礼拝での聖餐式ではパンもぶどう酒を取らす陪餐には与りませんでした。沖縄教区が第33回総会終了後教団との間に距離を置くと言って、第34回総会には総会議員を送ってきていませんでしたので、沖縄教区の議員のいない教団総会での聖餐式には陪餐できないと考えたからです。

この時の私の陪餐拒否が、私もその総会で常議員に選出されていましたが、その後の常議員会で問題とされて、記録を取らない懇談会での発題ということで、紅葉坂教会の開かれた聖餐についての発題を私が頼まれてしました。すると次回の常議員会で山北議長はその懇談会での私の発題を理由に教師退任勧告を出してきました。そのことが出発点となって、私は2010年 9 月15日付けで戒規免職処分をうけることになったのです。


おわりに(破局の中の希望)

最後に現代という時代について考えたいと思います。福島揚さんは、『カール・バルトの破局の中の希望』で現代の「地球の危機」についてこのように記しています。少し長くなりますが、その部分を紹介して終えたいと思います。

「人間を含む生命世界の破局が進みつつある。平和的生が確保された未来への道が閉ざされつつある。無国籍的な資本主義による掠奪と搾取が、地球生態系の全体を再生不可能な破滅へと追いやり続けている。さらにこの無国籍的資本主義によって存続を脅かされる国家制度もまた、国民を掠奪し搾取する暴力装置へと退化しようとしている。/『死』は元来、人間を含むすべての生命に共通する必然的現象だった。有史以来、存在するすべての生命は死に絶えてきた。死のない生命はあり得ない。どのような生命も、死を通して次世代の生命に場所を譲り、その可能性に貢献してきた。/しかし現代においてとりわけ脅威となる『死』は、もはやそのような自然現象としての死、生死の循環としての死ではない。それは、人間を含む多種多様な地球上の生命が、おのおの生を全うしてーー例えば創造神話に登場するあの族長アブラハムのように『齢満ち足りて』(創世記25:8)――迎えることができるような死では、到底ない。生を全うする以前に短縮され、自由と尊厳とを奪われ、暴力的にもたらされる死である。/そのような死はとりわけ、現代世界を特徴づける三重の危機によってもたらされる。三重の危機とは、貧富の差の拡大、生態系の破壊、戦争という、互いに連動し増幅しあう危機である。そしてこのような、三重の死の危機全体に関係し、それらを代表するのが、核災害のもたらす死である。核災害は、それが核発電の事故であれ核戦争の被害であれ、長期的で回復不可能な生態系の破壊であり、緩慢な殺人である。天文学的な年月におよぶ放射性物質の危険性は、人間の体験や歴史的理解を超えている。自らの世代のみならず、未来の世代も半永久的な死に曝されるという観念それ自体が、未来に向かって生命を繋いでゆく希望を人間社会から奪いとる。/このような巨大な『死の陰の谷』(詩編23:4)となった現代において、キリスト教という一伝統宗教には、何が可能であろうか。・・・・・古来、伝統的な宗教や古典的な思想はさまざまな仕方で、現生の死を超えた永世の希望を語り継いできた。しかし、そのような伝統の枠内にある者も、枠外にある者も、今や共通して無差別に、死と罪悪と災禍の地球的連鎖の中に閉じ込められている。/死と罪悪と災禍の連鎖が織りなす虚無に支配された現実を単に黙認することなく、現実を超えて生命に満ち溢れる未来を指し示す希望は、あるのだろうか。未曽有の危機に対峙して、諦念や無関心によって眠り込むことなく目覚めており、しかも堅固に耐え抜くことができるような希望はあるのだろうか。/・・・・・/伝統的諸宗教は、人間の生老病死の根本問題に取り組んできた、思想と実践の結晶である。そのような伝統を単に軽視し忘却すれば、人間は大切な知恵を失う。この点で、宗教に関する研究や教育は現代において必要不可欠である。しかしその際、さらに伝統的な宗教思想を単に教条主義的に反芻するだけではなく、現代の視点から問い直すことも必要不可欠である。/そのような課題意識を背景として、・・・・旧新約聖書に基づくキリスト教的死生観、とりわけ20世紀においてそれを代表していたプロテスタンティズム最大の神学者、カール・バルトの思想である。/・・・・・/死生観は、死と生とを互いに切り離すことなく、両者の不可分性と不可同性を把握し、それによって一種の「生命の逆説」を表現する。この逆説的な知恵をキリスト教の文脈において端的に言い表しているのは、新約聖書におけるイエスの次のような言葉である。/「実に自分の命を救おうと欲する者は、それを失うだろう。しかし、自分の命を私と福音のために失う者は、それを救うだろう」(マルコ8:35)/筆者は、バルトの死生観がまさしくこのイエスの逆説的な死生観と共鳴し一致するものであると考える。それは人間の生が、既存の自己の死と再生を経て、新たな質を持った生へと変革される、絶え間なき運動である。ただしその死と再生の運動は、自力の克己を原動力とするものではない。そのような一切の克己が断たれた彼岸から到来する、「福音」と呼ばれるものの働きかけによってのみ開始される運動である」。

このイエスの逆説的な死生観である「福音」と呼ばれるものの働きかけによってのみ開始される運動に参加することによって、これからの教会(日本基督教団)は、貧富の差の拡大、生態系の破壊、戦争という、互いに連動し増幅しあう現代社会の三重の危機に対して信仰と希望と愛を証言していけるだろうか。そこにこれからの教会の課題があるように思われます。




資料① 時系列による日本基督教団の歴史(『日本基督教団年鑑2025』より)


教会合同運動 日本基督教連盟は1925年以来、教会合同の機運促進と調査につとめ、1929年 9 月には「日本基督教諸派合同基礎案」、1937年 1 月には「日本基督公会規約(試案)」が発表され、検討と修正が加えられていた。1939年 4 月からは各派の選出による教会合同委員会が発足し、1940年10月には「合同教会案」が作成されるに至った。

宗教団体法 1899年以来政府の懸案であった宗教統一立法が1939年 3 月23日、第74回帝国議会において「宗教団体法」として成立した。これは同年 4 月 8 日、法律第77号として公布され、勅令第855号により1941年 4 月 1 日から施工された。1940年 6 月12日に文部省はキリスト教各派の代表者に教団認可の基準として、教会数50、信徒数5,000を内示した。

教会合同の宣言 1940年10月17日、東京青山学院校庭において皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会が開かれ 2 万人が参加した。この大会宣言の 1 項に「吾等は全基督教会合同の完成を期す」とあった(宣言草案の「基督信徒の大同団結を完成せんことを期す」が直前に変更された)。

教会合同準備委員会 教会合同準備委員会は1940年10月18日から1941年 6 月23日までの間に 9 回開催された。・・・

創立総会 1941年 6 月24日、25日、東京の富士見町教会において、日本基督教団創立総会が開催され、日本基督教団が成立した。

統理者の伊勢神宮参拝 1942年 1 月11日、冨田統理は鈴木浩二総務局長を帯同して伊勢神宮に参拝し、新教団発足の報告と今後の発展の「希願」を行った。

第 6 部、第 9 部の受難 1942年 6 月26日、第 6 部および第 9 部所属の教職96名が治安維持法違反という理由で検挙された。起訴された者81名、実刑を受けた物19名、内獄死者 3 名、保釈後死亡 4 名。第 6 部、第 9 部の201教会と63伝道所は、宗教団体法第16条および治安警察法第 8 条 2 項の規定により解散処分を受けた。教団は文部省の内示により解散を命じられた教会主管者および廃止された伝道所代表者に自発的辞任を勧告し、その他の両部教師に謹慎を命じた。

日本基督教団より大東亜共栄圏に有る基督教徒に送る書簡 1944年のイースターに教団統理者の名で発表をし、日本文は同年11月20日に発行された。

軍用機献納 1943年11月24日、25日に開催された第 2 回教団総会の決議により軍用機献納運動が展開され、1944年10月までに717,629円85銭に達して軍に献納された。

教団の憲法・規則 1946年 5 月 1 日、2 日開催の常議員会は、宗教法人令発令に伴い前年末より準備が進められていた教団憲法および規則の原案を一応承認し、その中で教団総会を組織するために必要な条項を発効させた。

第 3 回教団総会 1946年 6 月 7 日、8 日に東京の富士見町教会で開催され、教団規則(原案)による議員300名によって組織された。

新日本建設キリスト運動 1946年 6 月 9 日青山学院で宣告基督教大会が開催され、約4,000人が参加した。以後 3 年間、「全日本へキリストを」を標語、「300万救霊」を目標として、新日本建設キリスト運動が全国に展開された。

会派問題 戦後教団を離脱した諸教会は旧教派を再建し、あるいは新教派を結成したが、1947,8年頃から教団内に旧教派関係有志グループ活動がおこり、その中から会派の公認も要求されるようになった。第 5 回教団総会はこの問題の処理を機構改革委員会にゆだね、同委員会は第 6 回教団総会に「会派問題についての報告」(のちに会派問題報告書とよばれた)を提出して受理された。しかし1951年 1 月以降、旧日本基督教会系の一部が教団を離脱するようになったので、同年 2 月会派問題特別委員会が設けられた。

日本基督教団信仰告白 1954年10月26日から28日まで富士見町教会で開催された第 8 回教団総会で信仰告白原案を採択し、ここに教団信仰告白が制定された。またあわせて生活綱領が決定された。

沖縄キリスト教団 1957年 3 月26日開催の総会において沖縄キリスト教会は沖縄キリスト教団と改称し、また宗教法人沖縄キリスト教団規則を制定した。

神奈川教区発足 1965年 4 月 1 日から発足した。

第 2 次大戦下における日本基督教団の責任についての告白 1967年 3 月26日のイースターに鈴木正久議長名で発表した。

日本・沖縄両教団の合同 1966年の日本基督教団夏期教師講習会参加者の声により、第14回日本基督教団総会に「日本基督教団と沖縄キリスト教団との関係について研究開始要望の建議」が提出され、常議員会に付託された。常議員会は鈴木正久総会議長と佐伯倹総務局長を1967年 2 月 2 日から 6 日まで問安使として沖縄に送り、そこで「沖縄キリスト教団と日本基督教団の合同決意に関する声明」が両教団で作成された。そして同年 2 月20日から22日まで開催された日本基督教団常議員会と 2 月15日開催の沖縄キリスト教団定期総会の承認を得て、これが発表された。それから合同の準備が具体的に進められ、1968年10月21日から24日まで開催の第15回日本基督教団総会は「沖縄キリスト教団との合同に関する件」を、同年10月24日開催の第19回沖縄キリスト教団総会は「日本キリスト教団との合同に関する件」をそれぞれ可決した。沖縄では議決直後直ちに「第 1 回日本キリスト教団沖縄教区総会」に切りかえられた。合同式典は1969年 2 月25日夜東京の銀座教会で、沖縄教区設立式は同年 3 月21日那覇中央教会で挙行された。

万博キリスト教会館問題 第15回教団総会では「日本万国博『キリスト教館』建設に参加並びに募金に関する件」が否決された後、「日本万国博キリスト教館に関する件」(出展賛成、推進運動支持)が可決されたが、1969年に入ると大阪、兵庫、京都、さらに東京の各教区で反対運動がおこってきた。1969年 9 月 1 日午後 1 時半から 2 日午前 8 時過ぎにかけて、常任常議員会メンバー 9 名と反対運動諸団体の約150名とが白熱の討論を展開し、飯清議長は教団臨時総会招集の決意を表明するに至った。1969年 9 月 8 日の第15総会期第 5 回常議員会は飯議長の判断を可と認め、臨時総会の準備に入った。一方、常議員16名による「第15回教団総会議案第55号『日本万国博キリスト教館に関する件』の議決を再検討するための臨時総会の開催要求」が提出され、教規第16条④⑶により開催要求が成立した。第16回教団総会は1969年11月25日、26日、東京山手教会で開催されたが、開会後討論集会に切りかえられ、万博問題をめぐる討論がなされた。万博関係の議案は上程されず、飯議長の「討論の総括」と松田定雄沖縄教区議長の「沖縄返還に関する抗議文」朗読をもって終わった。

教師検定問題 1969年春季補教師検定試験において関西学院神学部の推薦取り消しによって合格保留となった受験者の出たことに端を発し、同年秋季検定試験は試験延期の要望提出者と教師検定委員会委員長との話し合いがつかなかったので中断された。教団の教職制度、検定の基準としての信仰告白、認可神学校の基準などが問われ、試験が延期される中で小川貞勝委員長以下 7 名の教師検定委員は辞表を提出、1971年 3 月31日の第15総会期第29回常任常議員会で辞任を承認された。同常任常議員会は常議の中から教師検定委員を選任し、菊地吉弥氏を委員長とする新委員会は、1971年 6 月22日開催の同期第19回常議員会の承認を得て「教師検定試験実施にあたって教師検定委員会の見解」を発表し、説明会、懇談会を開いた上で、1971年 8 月から 9 月にかけてレポート方式により学科試験を実施し、 2 ヶ所で面接試験を行った。以後1973年秋まで検定試験が行われたが、この間試験実施に対して各方面から質問、抗議がなされた。

東京神学大学問題 教授会は万博問題に関する「 9 ・ 1 ~ 2 集会」の倫理性を批判して「 9・ 3 教授会声明」を発表したが、学生自治会は声明の撤回を要求した。この問題をめぐって全学討論集会の開催がはかられたが、開催方法についての交渉が不調に終わり、11月24日には全学バリケード封鎖が行なわれた。1970年に入って 2 回開かれた予備集会も全学討論集会の開催に至らず、大学は同年 3 月11日朝、機動隊を導入し封鎖を解除した。これに対して支持または抗議の声が上がり、その春の各教区総会でも教授、学生をまじえて論議や決議がなされた。授業は 3 月17日から再開されたが、登録のよびかけに応じなかった学生約70名は(教授会から除籍され)結局大学を去ることになり、また 3 名の学生が起訴された。

第 2 回決議と第 5 回決議 第17回、第18回教団総会は、1973年秋季教師検定試験合格者承認を決議するに至らなかったが、1975年 4 月14日、15日に開かれた第18総会期第 2 回常議員会は懸案の合格承認を、「さまざまな立場の切り捨てが起こらないような方法で教師検定試験の準備にとりかかる」ということを含めて決議した。この議決によって選任され、組織された教師検定委員会(菅隆志委員長)は議決の理解、試験の基準についての意見の対立のため、活動を凍結した。1976年 2 月23日より25日に開催された第 5 回常議員会は、この問題について「教団信仰告白を基準とし、教憲教規に」もとづいて試験を実施する」ことを第 1 項目とする決議した。教師検定委員会はこの決議について一致できず、全員辞任した。そこで新たに選ばれた教師検定委員は後宮俊夫氏を委員長とし、第 2 回議決と第 5 回議決をふまえつつ関係各方面と懇談を重ねて準備をすすめ、1976年秋、 3 年ぶりに教師検定試験を実施した。

沖縄教区への問安使派遣 1978年 7 月10日、11日開催の第19総会期第 4 回常議員会の決議にもとづき、中嶋正昭総幹事と徳永五郎社会員長は、同年 8 月21日から31日まで沖縄教教会および関係諸団体を訪問した。両氏は 9 月18日付の報告書を常議員会に提出し、沖縄教区も問安使と沖縄教区の対話から得た成果を報告した。

3 委員会合同委員会 教師養成や教師検定等教師に関する問題の根本的な検討のため、教師・教師検定・信仰職制の 3 委員会が、1984年 7 月 2 日と 3 日、教団会議室で合同委員会を開催した。 3 委員会の他、問題提起をしてきた教区、問題意識をもつ人など47名が参加した。

「合同」特設委員会 1985年 1 月17日、18日開催の第23回総会期第 2 回常議員会は、第23回教団総会の「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同のとらえなおしと実質化の推進に関する決議」により、「日本基督教団と沖縄キリスト教団の合同に関する委員会」(「合同」特設委員会)を設置した。

東京教区総会 1990年 9 月23日および10月10日に、19年ぶりで、第48回東京教区総会が開催された。

全教区揃っての教団総会 第27回教団総会は、1992年11月10日から12日に、箱根小涌園で開催されたが、これには23年ぶりに東京教区選出の議員も出席した。

第33回教団総会 2002年10月、東京池袋のホテルメトロポリタンで開催され、議長に山北宣久、副議長に小林眞、書記に鈴木伸治を選挙した。靖国・天皇制問題情報センター、(性差別問題特別委員会、)会堂融資組合の廃止を決定、教団名称変更議案ほか、いわゆる「とらえなおし関連議案」は廃案となった。

戒規免職問題(審判委員会) 2010年 9 月15日、審判委員会が結審し、北村慈郎氏の免職が決定。

第37回教団総会 2010年10月26日~28日、第37回教団総会を東京池袋ホテルメトロポリタンで開催。議長に石橋秀雄、副議長に岡本知之、書記に雲然俊美を選出。この総会がら常議員選挙が全数連記になり、現在に至る。




資料② 第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白(戦責告白)


わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。

まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯したあやまちを、今一度改めて自覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。

わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました。

明治初年の宣教開始以来、わが国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが、当時の教会の指導者たちは、この政府の要請を契機に教会合同にふみきり、ここに教団が成立いたしました。

わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さとあやまちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。

まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。

しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。

心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。

終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。

1967年 3 月26日 復活主日

日本基督教団総会議長  鈴木正久




資料③ 日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡(1944年)


序文

キリスト教は福音である。すなわち「大いなる歓喜の音信」である。ゆえに四福音書あり、福音を伝えるために遣わされた徒の旅行記あり、使徒パウロの著作はいずれも教会あるいは同信同志の人々に送った書翰である。福音に始まった聖書はアジアの七教会に贈ったヨハネの書翰で終わっている。キリスト教は実に福音である。

今ここに日本基督教団が東亜共栄圏内の諸教会および同信同志の兄弟たちに書翰を贈るゆえんは、キリスト教が「大いなる歓喜の音信」であるという信仰に基づくためにしてこれを現代の使徒的書翰と称するも言い過ぎでなかろう。

日本基督教団は東亜共栄圏内のキリスト教会に対して常に関心を有しその発達のため熱祷してやまない。これがため教団は共働者を遣わし、また必要なるものを送ろうと計画しているが、今日の事情においてはその志望のごとく実行できないのをはなはだ遺憾としている。やむを得ず、先ず教団を代表する公同的使徒的書翰を送って挨拶し、われらの平素の志を略述することにした。その詳しき内容については受信者が本書翰を詳らかに通読せられんことを望む。

日本基督教団の現代的使徒書翰は、本書が第一信であって、続いてしばしば書翰を送る計画である。望むらくは諸君がこれらの書翰を隔意なく迎えて、これを文字通りに解釈して、我らの志を理解し、信望愛を同じうせられんことである。少数ではあるが日本基督教団より特派した伝道者あり、書翰中にもし諸君に理解し難き所あらばこれを詳らかに懇ろに説明するであろう。彼らもまた、使徒パウロの記せしごとく「キリストの徒」であるから諸君は隔意なく彼らと親交せられんことを併せ望まざるをえない。

予は教団の統理者として種々記したいこと多いが、今は書翰を紹介する文だけに留め、後便に譲ることとした。書翰を読んだ人々にしてその腹蔵なき応答を寄せられるならば、われらの喜悦これより大なるはない。

最後に予は二千年来伝え来たった使徒的挨拶をもってこの序文を終わろう。「願わくは、主イエス・キリストの恩恵、神の愛、聖霊の交感、汝らすべての者とともにあらんことを」。

昭和十九年 千九百四十四年復活節の日

日本基督教団教団統理者 富田 満


第一章

われら、日本に在りてキリスト・イエスとその福音とを告白し、その恩寵の佑助によりて一国一教会となれる日本基督教団およびそれに属するもろもろの肢は、東亜共栄圏内に在る主にありて忠信なるキリスト者たちに心よりの挨拶を送る。願わくはわれらの主イエス・キリストの恩寵と平安、常に諸君の上にあらんことを。

主に在りて忠信なる兄弟たちよ。われらは未だ面識の機会なく、互いに伝統と生活の習慣とを異にしているが、かかるもろもろの相違にかかわらずわれらを一つに結ぶ鞏固なる…紐帯が二つあると思う。その一つは、われらの共同の敵に対する共同の戦いという運命的課題である。彼ら敵国人は白人種の優越性という聖書に悖る思想の上に立って、諸君の国と土地との収益を壟断し、口に人道と平和とを唱えつつわれらを人種差別待遇の下に繋ぎ留め、東亜の諸民族に向かって王者のごとく君臨せんと欲し、皮膚の色の差別をもって人間そのものの相違ででもあるかのように妄断し、かくしてわれら東洋人を自己の安逸と享楽とのために頤使し奴隷化せんと欲し、遂に東亜をして自国の領土的延長たらしめようとする非望をあえてした。確かに彼らはわれらよりも一日早く主イエスの福音を知ったのであり、われらも初め信仰に召されたのは彼らの福音宣教に負うものであることを率直に認むるにやぶさかではないが、その彼らが、今日あくなき貪りと支配慾との誘惑に打ち負かされ、聖なる福音から脱落してさまざまの誇りと驕慢とに陥り、いかに貪婪と偽善と不信仰とを作り出したかを眼のあたり見て、全く戦慄を覚えざるをえない。かくのごとき形態を採るにいたった敵米英のキリスト教は、自己を絶対者のごとく偶像化し、かつて使徒がまともにその攻撃に終始したユダヤ的キリスト者と同一の型にはまったのである。「汝ユダヤ人と称えられ、盲人の手引、暗黒における者の光明、愚なる者の守役、幼児の教師なりと自ら信ずる者よ。何ゆえ人を教えて己れを教えぬか。窃む勿れと宣べて自ら窃むか。姦淫する勿れと言いて姦淫するか。偶像を悪みて宮の物を奪うか」(ローマ書二・十七ー二二)。これはことごとく先進キリスト教国をもって自認する彼らの所業に当てはまってはいないであろうか。彼らがもしこのような自己の罪に目覚め、悔改めをなし、一日遅れて信じたわれらと同一線上に立って初めて信ずる者のごとく日ごとに主を告白する純真な信仰を有っていたならば、かかる反聖書的な東亜政策を採るに到らなかったであろう。彼らがもし主への真の従順と奉仕とを日ごとに決断し実行していたなら、自国の内外の政治軍事経済文化のあらゆる領域にわたってあのような敗退と混乱とを演じないですんだであろう。

われらは聖書に基づく洞察と認識とによって彼らの現状を憐れむと共に、この不正不義を許すべからざるものとして憎まずにはいられない。

日本はこの敵性国家群の不正義に対してあらゆる平和的手段に出でたるにもかかわらず、彼らの傲慢は遂にこれを容れず、日本は自存自衛の必要上敢然と干戈を取って立った。しかも緒戦以来皇軍によって挙げられた諸戦果とその跡に打ち樹てられた諸事実とは、わが日本の聖戦の意義をいよいよ明確に表示しつつあるではないか。彼らの不正不義から東亜諸民族が解放されることは神の聖なる意志である。「神は高ぶる者を拒ぎ、謙る者に恩恵を与え給う」(ヤコブ書四・八)。それでは米英の高ぶりは何によって排撃されるであろうか。皇軍の将兵によってであり、地上の正義のために立ち上がった東亜諸民族の手によってである。そして諸君の民族がこの大聖戦にわれら日本と共に同甘共苦、所期の目的を達成するまで戦い抜こうと深く決意し、欣然参加協力せられたことによって、大東亜の天地には、われら日本人と共に諸君の、すなわち大東亜諸民族の一大解放の戦い、サタンの狂暴に対する一大殲滅戦の進軍を告ぐる角笛は高らかに吹き鳴らされたのである。聖にして義なる神よ、願わくは起き給え、しかしてわれらの出てゆく途に常に共に在して、行く手を照らし助け導き給え。兄弟たちよ、諸君とわれらとを結ぶ第一の絆は、われらが相共にこの聖戦に出て征く戦友同志であるという深い意識である。

次にわれらを種々の相違にもかかわらず一つに結ぶ第二の、しかも決定的な絆は、われらが共に主キリストを信じ霊的に彼の所属であるということである。彼はわれらの生と死における唯一の慰めであり、教会の主であり給う。われらはこの天地の主なる神の御言葉また御子が肉体を取り、われらのごときものの一人として、われらの兄弟として今ここに立ち給うことによって、何らの代償なくして、ただ御恩寵により主イエスの兄弟としての破格の待遇に浴し、一切の罪を赦され、罪と死との彼岸にある永遠の生命の約束に与る神の子たちの新しい身分に移されたのである。信仰者の生にとってこの主を認識し、この主に奉仕すること以上に貴重なる財産は何一つない。兄弟たちよ、われらは、この信仰の認識と奉仕とを、この感謝と讃美とを、われらより奪い去りうるものは何一つとしてないという確信において一致している。この主より賜わりたる貴き福音の富を、われらの同胞と隣人に持ち運ぶ愛の委託をわれらより奪いうるものは何一つとしてないのである。「しかして御国のこの喜びの使信はもろもろの民族への証言として全世界にわたって宣べ伝えられん」(マタイ伝二四・十四)。われらがかかる約束を賜わったということは、福音宣教の唯一の命令に縛りつけられたということにほかならない。われらは罪人たるわれらの業や言葉に頼って、どれだけこの約束を実証し、どれだけこの命令を果たしうるであろうかを知らない。しかしわれわれの罪ある被造的な、相対的な決意と努力と業とを通じて、真にこの命令を成し遂げ給う者は、われらではなく命令者イエス・キリスト御自身であり、ただ彼のみであるという確信において一致していると信ずる。またこの主イエスは、神を愛するとともに、「己れの如く汝の隣りを愛すべし」と命じ給うた。われらが主の福音を聞いたということは、必然的にこの主の誡命に聞き従ったということでなければならぬ。大東亜共栄圏の理想は、この主の隣人愛の誡めを信仰において聞き、服従の行為によって実践躬行することをわれらに迫る。われらはこの主の誡命の下に立ち、あらゆる障害を排して一直線に前進すべきである。この必然の道においてわれらは全き一致を示しうるではないか。「汝ら召されたる召しにかないて歩み、平和の繋ぎ(靭帯)のうちに勉めて御霊の賜う一致を守れ」(エペソ書四・一、三)。兄弟たちよ、われらは牛が力を合わせて犂を牽くように、この強靭なる紐を牽いてゆかなくてはならぬ。これが諸君とわれらとを結ぶ第二の決定的な索縄である。

第二章

愛する兄弟たちよ。 われらは諸君に期待し、諸君を信頼している。諸君は、「おおよそ真なること、おおよそ尊ぶべきこと、おおよそ正しきこと、おおよそいさぎよきこと、おおよそ愛すべきこと、おおよそ聞こえあること、いかなる徳、いかなる誉にても汝らこれを念い」(ピリピ書四・八)これを認むるにやぶさかでないであろうことを。この大東亜戦争遂行にあたって、わが日本と日本国民とがいかなる高遠の理想と抱負とを抱いているかは、次第に諸君の了解されつつあるところであろう。われらもまた政治経済文化の各部面で諸君と提携するために腐心し挺身しつつあるわが朝野の、軍官民の先達たちの報告によって、諸君の中にわれらの学ぶべき「おおよそ愛すべきこと、おおよそ聞こえあるべきこと」のあるを聞き知り、尊敬と共感と親愛の情を覚え、諸君に強く牽かるる思いがする。諸君が地域の如何を問わず、文化の傾向を論ぜず、よきものに共感し、尊きものを尊しとする公明正大の心を有ち、敵性国民の無責任にして放縦なる個人主義とは全く類を異にすることを確信する。しかも諸君は人間の個性的な面においてまことに深きものを包蔵し、各自の職域にあってあくまでも自己の深い信念に生き、それと密接に繋がっている高い公の犠牲的精神を備えていらるる様子を聞くに及んで、早く諸君の風?に接したいと願う念いや切である。神もし許し給わばいつかわれらは諸君のもとに往き、諸君もわれらのもとに来たって、互いに個人的に親しく相交わり、顔と顔とを合わせて相識り、固く手を握り合うことも許されるであろう。しかし、われらも諸君自身を相識ること浅いごとく、諸君もまたわが日本の真の姿を識ることにおいて未だ不十分であるかも知れない。乞う、われらが今少しく「大胆に誇りて言う」(コリント後書一一・十七)ことを許せ。

そもそもわが日本帝国は、万世一系の天皇これを統治し給い、国民は皇室を宗家と仰ぎ、天皇は国民を顧み給うこと親の子におけるが如き慈愛を以てし給い、国民は忠孝一本の高遠なる道徳に生き、この国柄を遠き祖先より末々の子孫に伝えつつある一大家族国家である。われら国民は、畏くも民を思い民安かれと祈り給う天皇の御徳に応え奉り、この大君のために己れ自身は申すまでもなく親も子も、夫も妻も、家も郷も、ことごとくを捧げて忠誠の限りを致さんと日夜念願しているのである。この事実は諸君が既に大東亜戦争下皇軍将士の世界を驚倒せしむる勇猛勇敢なる働きをみて、その背後に潜む神秘な力として感づいていらるる所であろうが、一度でもわが国の歴史をひもといた者は、その各頁がこの精神に充ち満ちていることに驚異せられるに違いない。

兄弟たちよ。諸君は使徒が「おおよそ真なること、おおよそ尊ぶべきこと」と語っているところのものは、単に教会の中なる諸徳について言っているのではなく、教会の外の一般社会の中にあるかのごときものを、思念せよ、尊敬せよ、と言っているのであることを十分御承知と思う。この美徳を慕う感情においても諸君はわれらと一つであられるであろう。分裂崩壊の前夜にある個人主義西欧文明が未だ一度も識らなかった「おおよそ尊ぶべきもの」が、東洋には残っている。われらはこの東洋的なものが、今後の全世界を導き救うであろうという希望と信念において諸君と一致している。全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なるわが日本の国体であるという事実を、信仰によって判断しつつわれらに信頼せられんことを。

諸君の既にしばしば聞き知っていられるように、われら日本人の先祖は非常に謙遜に、しかも積極的に、心を打ち開いて外来の文化を摂取したのである。中国よりは、君らの優れたる父祖である孔、孟の教えを。インドよりは、君たちの聖者釈迦を開祖とする仏教とこれと共にインド文明を、しかもわれらの先祖たちは決して当時の先進諸外国の文化に心酔したのではなく、非常に博大な心と謙虚な思いをもってこれを摂取し習得したのみならず、高い強い国体への信念とこれに基づく自主性に立って、これをわが国ぶりに副うように醇化し日本化して来たのである。かの聖徳太子の準備せられ中大兄皇子の完成し給うた大化の改新は、支那古代の儒教と制度文化が日本化して具現された最初の結実である。次にわが鎌倉時代の日本仏教特に道元の開いた日本禅は、インドの仏教が中国を経てわが国の土壌に吸収消化され、これに全く日本的な新生面を開いたもので、この時代以後わが国民精神の基調となり日本武士道の培養の素となったものである。また支那の曇鸞、善導の浄土門信仰は、日本の法然、親鸞によって世界の宗教学者達が驚歎するほどの絶対恩寵宗教の立場に醇化発展を遂げたのである。わが飛鳥天平の文化、平安時代の文芸より、鎌倉時代の武芸、禅学、彫刻にいたるまで、さらに室町、安土、桃山時代の豪華なる建築、茶道、絵画、江戸時代の儒学、国学、蘭学より、さては明治維新以後のヨーロッパ文明の摂取醇化にいたるまで、すべて日本人の深い謙虚さと己れを失わない高い信念との所産でないものはない。われらの父祖はこれらの外国のよきものを虚心坦懐に学ぼうとしたと共に、深い批評精神に基づいてこれに創意を加え、日本化し、独特の日本文化を産出し、今日の隆盛をいたしたのである。 かくのごとき歴史の盛観を現出することを得たゆえんは、日本精神の創造的活動の根柢に儼乎(げんこ)たる尊厳無比の国体が存したるに由る。殊に外来文化の摂取に当たって指導者たちが常に新文化の先覚者であったことは、日本精神がいかに強靭にしてしかも柔軟性に富んでいるかを物語る。まことに霊峰富士に象徴せらるる明るき清き直き心である。 右のごとき大精神は、ただ日本の国土内に留まるにはあまりに崇高にして広大無辺である。今より一〇余年前に独立し爾来ますます発展を遂げつつある満州帝国といい、われらと協力して敵米英に宣戦した中華民国といい、盟邦泰国、過ぐる日独立を祝祭した新生ビルマ国家、最近独立して新政府を組織したわれらの兄弟フィリッピン、その他いかなる地域いかなる辺境といえども、あたかも太陽が万物を光被化育するように、この大精神に照らし掩われていないものはなく、相共に深い決意をもって互いに助け、互いに尊敬し、互いに愛し、正義と共栄との美しい国土を東亜の天地に建設することによって神の国をさながらに地上に出現せしめることは、われらキリスト者にしてこの東亜に生を享けし者の衷心の祈念であり、最高の義務であると信ずる。

第三章

わが国の有力なキリスト者の一人である内村鑑三は、当時欧米文明の滔々たる輸入と憧憬との支配していた時代風潮の中にあって、「世界は畢竟キリスト教によりて救わるるのである。しかも武士道の上に接木せられたるキリスト教に由りて救われるのである」と喝破した。彼は夙に欧米の特に米国の宣教師が成功と称して勢力と利益と快楽とを追求する信仰を非信仰として排斥し、宣教師の一日も早く日本より退散して、日本人の手による日本国自生のキリスト教の必要を叫んだ先覚者である。

彼の予言はまた諸君にもあてはまるところであり、心ある士が既に考えられているように、大東亜には大東亜の伝統と歴史と民族性とに即した「大東亜のキリスト教」が樹立さるべきである。われらは今信仰における喜びと感謝と誇りとをもって、日本には日本の社会と伝統と民族性とに基づいた独特の日本のキリスト教会が建設されるに至った。しかもそれが、いよいよ確立しつつあるという事実を報じたいのである。今その日本キリスト教確立の歴史的沿革と独自固有の性格とを簡略に述べたいと思う。

日本にキリスト教が渡来したのは、遠く天文十八年(一五四九)にフランシス・ザヴィエルが最初の宣教師として来朝したことに遡る。しかしこれはローマ・カトリック教会のキリスト教であって、プロテスタント教会の伝道は明治維新以後近代日本国家が世界に向かって開国したのちのことである。当時武士の子弟にして青雲の志を抱く前途有為の青年たちが、宣教師の開きし聖書学校に最初は英語を学ぼうとして集い来たったが、実に測りがたき神の恩恵によって彼らの中の或る人々に御言葉の種が植えつけられることとなった。沢山保羅、新島襄、本多庸一、植村正久、海老名弾正、小崎弘道等みな純然たる日本武士が、この教えを聴くに及んでその中に日本武士道に通ずる深い奥義の秘められてあることを悟り、ただに一人のキリスト教信徒たりしのみならず、進んでイエスの命令「汝は往きて宣べ伝えよ」に全身全霊をもって従い、パウロのごとく「されど母の胎を出でしよりわれを選び別ち、その恩恵をもて召し給える者」の声を聴き「御子をわが内に顕してその福音を異邦人に宣べ伝えしむるをよしとし給える時」という信仰と自覚との下に、御言葉をこの国土と同胞との間に持ち運ぼうと深く決意した。彼らは走った。しかし彼らと共に御言葉が、主御自身が走り給うた。彼らも倒れもした。しかし主は彼らと共に倒れ給わぬ。福音の宣教は未だ数少なき幼い教会によって大胆に行われた。この様子を看て宣教師たちは驚いた。そして心ある者は秘かに考えたと言う。「日本人は変っている。日本人の伝道は日本人の手にゆだねるべきである」と。かくして日本における『使徒行伝』は彼ら初代伝道者先覚者たちによって綴られていった。ある時は同胞の無理解と侮蔑と嘲笑を買ったがこのような状況下に次第に信ずる者の数増し加えられ、日本のキリスト教会は生い立っていった。主イエスは彼らの真実な活動によってこの国にますます偉大となり、彼らの弱きときに彼らの中に神の力をもって強く在した。ことにキリスト教は日本武士道に接樹され、儒教と仏教とによって最善の地ならしをされた日本精神の土壌に根を下ろし花を開き結実していったのである。

先代先覚者によって薫陶された第二、第三の後継者たちも大君に捧ぐる清明心と隣人を敬愛する情誼と千万人といえども我往かんという勇気とをもって地上的一切の栄達を擲ち、キリスト教に把えられつつ後のものを忘れ前方の目標を追い求めていった。そして個人主義・自然主義・社会主義・無政府主義・共産主義などの諸思想が猛り狂い、怒濤のごとく押し寄せて来る大正時代より昭和の初期にかけて、よくこれに戦いを挑み、キリストの真理を護り、肇国の大義に生き抜いたのである。これら日本キリスト教の指導者たちを偲ぶにつけても、わが国体の本義と日本精神の美しくて厳しいものが遺憾なく発揚せられた事実を想起し感慨無量である。

しかして遂に名実とも日本のキリスト教会を樹立するの日は来た、わが皇紀二千六百年の祝典の盛儀を前にしてわれら日本のキリスト教諸教会諸教派は東都の一角に集い、神と国との前にこれらの諸教派の在来の伝統、慣習、機構、教理一切の差別を払拭し、全く外国宣教師たちの精神的・物質的援助と羈絆から脱却、独立し、諸教派を打って一丸とする一国一教会となりて、世界教会史上先例と類例を見ざる驚異すべき事実が出来したのである。これはただ神の恵みの佑助にのみよるわれらの久しき祈りの聴許であると共に、わが国体の尊厳無比なる基礎に立ち、天業翼賛の皇道倫理を身に体したる日本人キリスト者にして初めてよくなしえたところである。

かかる経過を経て成立したものが、ここに諸君に呼びかけ語っている「日本基督教団」である。その後教団統理者は、畏くも宮中に参内、賜謁の恩典に浴するという破格の光栄に与り、教団の一同は大御心の有難さに感泣し、一意宗教報国の熱意に燃え、大御心の万分の一にも応え奉ろうと深く決意したのである。

本年四月には在来の諸学校が教団立神学校として統一され、教団の制度組織も形式内容も日日に整備せられ、全一体たる教会の実をますます具現しつつある。これを国史に徴するも一大盛事と謂うべく、これを古より闘争に終始した西欧の教会史に徴するも、まことに主の日の予兆の大なる標識というべきであろう。「遂に一つの群れ一人の牧者となるべし」(ヨハネ伝一〇・十六)。

第四章

われらの敬愛する兄弟たちよ。

われらは諸君にわれらの信仰を告白しわれらの衷情を披瀝したこの長い書翰を結ぶ前に今少しく熟慮して頂きたいことがある。使徒パウロがピリピの教会に勧めているように、われらはキリストの慰めによって呼びかけられている者として同じ愛と同じ思念とを懐き一つとならなければならない。われらは敵性国民らのキリスト教にのみならず、われらの自らの中にも、自己に立ち、己れを高しとし、他を己れに優れりとなしえぬ罪が「唯一つの事」(ピリピ二・二)を念おうと欲せざる人間固有の分裂的遠心作用が働いていることを人間存在の秘奥の底に認めざるをえない。キリストはかかるわれらに代わってわれらの成しえずまた成そうと欲しない所を成し遂げ給うた。すなわち彼は神の子であり神と同等の者であり給うたが、この彼の本来固有の所有をさえわれら人間のごとく固執する事とし給わず、かえって己れを空虚にし、己れの神的本質とは全く異質の人間的本性を身に纏い、人と成り給い、それのみならずさらに進んでわれらのために十字架上に苦しみ、死し、この彼の道を地の底なきところにまで進み給うた。しかして父なる神の意志にわれらに代わって完全に従い給うた。ここに神の人間に向かって成し給うた宥和と啓示との行動は、隠されつつしかも現実に起こった。このゆえに神は彼を死の床より起こし給うた。死人の中より甦えらしめ給うた。そうして彼の死人の復活をわれらの救い、助け、力として栄光の中に証示し給うたのである。まことに、イエスは教会と共に全世界に父を示した予言者であり、教会と共に全世界に代わって父のもとに執成をなし給うた祭司であり、全教会の主にていまし給う。

兄弟たちよ。われわれはこのキリストを証しする証人であり、彼の体であるということを銘記しようではないか。彼よりこの宥和を宣べ伝える職務を賜わっていない者は彼の恩寵を受けているとはいえない。彼なしには失われており彼においてのみ救いの約束をもっている全世界の、被造物の嘆きを聞かないでは、われらは教会の主の御声を聞いているのではない。われら大東亜のキリスト者が同胞諸民族の間でこの主の光を反射してから輝いていなければ、光を有っているのではない。ナザレのイエスの使信の犠牲の死と権能の証示とこそ、われらの慰めである。ただにわれらキリスト者のみならず、われらの属する大東亜諸民族の慰めである。彼の中にわれらの途の終りがあると共にすべての人の一切の途の終りがある。彼の中にわれらの途の始めがあると共にわれらの同胞すべての生くる途の真の発端がある。このことこそわれらの希望である。ただにわれらキリスト者のみならず、東亜諸民族の希望である。繰り返して言う、かのイスラエル民族によって捨てられ、天地の主なる神によって栄光の中に証示され給える者、彼がわれら教会とその肢のみならず全世界の慰めである。われらが様々の運命と謎と苦難と死との中に存在しつつしかもそこで生命への信頼を有ちうる基礎は、イエス・キリストの栄光の日において、天地の更新において顕示せられるものにほかならぬ。これがわれらの希望である。

兄弟たちよ。われらはこの慰めとこの希望とを一つにするがゆえに、同じ愛、同じ思念の中に一つとならなければならぬ。隣人愛の高き誡命の中にあの福音を聞き信じつつ大東亜共栄圏の建設という地上における次の目標に全人を挙げ全力を尽さなければならぬ。われらはこの信仰とこの愛とを一つにする者共であるから、同じ念い、共同の戦友意識、鞏固なる精神的靭帯に一つに結び合わされて、不義を挫き、正義と愛の共栄圏を樹立するためにこの戦争を最後まで戦いぬかなければならぬ。われらはこのことを諸君に語る前に自分自らに語っている。われらの盟友にして戦友よ!「汝らキリスト・イエスのよき兵卒としてわれらと共に苦難を忍べ」(テモテ後書二・三)。

 われらは祈る。キリストの恩恵、父なる神の愛、聖霊の交際、われらがその現実の一日も早からんことを望みてやまざる大東亜共栄圏のすべての兄弟姉妹の上にあらんことを。                          

                                 アーメン。



資料④ バルメン宣言第5テーゼ


『第5テーゼ』

「神を畏れ、王を敬いなさい」(ペトロの第 1 の手紙 2 ・17)

国家は、教会もその中にあるいまだ救われないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量(はかり)に従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、法と平和とのために配慮するという課題を、神の定めによって与えられているということを、聖書はわれわれに語る。教会は、このような神の定めの恩恵を、神にたいする感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。

国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。

教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。




資料⑤ 日本基督教団神奈川教区教区形成基本方針


神奈川教区形成基本方針

前文

日本基督教団神奈川教区は、1965年 東京教区より分離独立し、教区としての歩みを始めた。そして「教区の教会性の強調」「信仰告白の実質化」を方針に掲げ「一つの教会」となるためのさまざまな努力を重ねられてきた。

しかし1969年以来、万博キリスト教館出展問題、東京神学大学への機動隊導入問題等を契機にして教団成立以来十分に自覚・検討されてこなかった諸問題が一気に噴出する状況となった。すなわち、教区においても諸教会やキリスト者の間に、福音理解や教会観、信仰告白に対する態度や宣教の理解、さらには「教区とは何か」等、重要な問題についての理解に大きな相違があり、それらが具体的な諸問題との関わりで表面化して、多様な立場や主張が対立し合うことになった。そのため、従来の「教区基本方針」では教区総会すら開催できないという状況に立ち至った。

そこで教区諸機関における、「1970年度基本方針」案および修正案をめぐる精力的な議論を経て、1971年に第20回教区総会が開催され、教区内に相違や対立がある現実を率直に認めると共に、それらの相違や対立を抱えつつも尚、一つの教会であることを求め、真に「一つの教会」を「形成」することを目指すことを形成途上の教会であることを確認した。このようにして採択されたのが、今日の教区形成基本方針の原形である。

その後、教区においては「教師検定にかかわる問題」「教区の教会人事への介入を巡る問題」等さまざまな問題が起こったが、いずれもこの方針に沿ってそれらと関わるように努力がなされてきた。しかし今日、教会を取り巻く状況も大きく変化し、教区内の教職・信徒の世代交代も進む中で、教区形成基本方針を採択した事情や、提起された問題や自覚を迫られた意識、またここに盛られた願いや精神を直接に知り得る者も少なくなった。そこで、数年前から教区形成基本方針の再検討を求める声が強くなり、今日の状況に即した方針が求められるようになった。

その再検討に当たり心すべきことは、この教区がさまざまな困難な状況の中で重ねてきた20数年の歩みを踏まえつつ、現在および将来に向かう新しい展開を望むことである。すなわち、新しい状況への適応を急ぐあまり過去の状況、特に今も未解決のまま継続的に問われ続けている諸問題を忘れ去ったり、切り捨てたりしないこと。同時に、過去から引き継いでいる問題が新しい状況の中でどのような展開をうながしているかを探り求めることにより、前進に寄与するものとなることを求めたい。

このような認識と願いをもって、以下のように教区形成基本方針を定める。

本文

我々は、1941年の日本基督教団の成立、1954年の「教団信仰告白」、1967年の「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白」、1969年の日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同等、今日改めて問い直すべき内容を含む課題を負う教団の現実を踏まえ、理解や方法論の対立を伴うその他の諸問題についても、意見を誠実につき合せ、対話を重ね、聖霊の導きを求めつつ、なお一つの地域的共同体としての教区形成を目指すことを基本方針とする。

我々は既に、この状況の中で時と地域と課題とを共有している。さまざまな理解の相違や対立は存在する。しかし我々は共に集まり、共に祈り、共に語り合い、共に行動することが許されている。我々は対立点を棚上げにしたり、性急に一つの理念・理解・方法論に統一して他を切り捨てないよう努力する。忍耐と関心をもってそれぞれの主張を聞き、謙虚に対話し、自分の立場を相対化できるよう神の助けを求めることによって、合意と一致とを目指すことができると信じる。

我々は、合同教会としての形成、教会会議、今日の宣教、教会と国家、教会と社会との関わり、差別問題、さらに教区運営・教区財政、地区活動、諸教会の宣教の支援等、教区として取り組むべき諸課題を担い、当面合意して推進し得る必要事項を着実に実施できるようにと願うものである。

(1994年 2 月26日 第91回教区総会にて制定)




資料⑥ 農伝アドベント礼拝説教「ザカリヤの預言」


説教「ザカリヤの預言」ルカによる福音書1章68~79節

北村慈郎牧師

2024年12月 6 日(金)18:00~ 於・農村伝道神学校 礼拝堂

私は、一昨日12月4日で満83歳になりました。

今年1月と9月に、牧会経験のある二つの教会の創立記念礼拝の説教を頼まれました。その時、これが最後の私の説教になると思いますと言って、説教をしました。農伝でもおそらく私の説教する機会は、これが最後ではないかと思います。

そこで、最後にこれから牧師になられる農伝の学生の方々に、何を語ったらよいのかを思いめぐらし、やはりイエス・キリストの福音とは何かという、教職にとっても信徒にとっても、キリスト者として何を信じて生きているのか、その根源についてお話しすべきではないかと思いました。そのことを短い時間ですので、簡潔にお話しさせてもらいたいと思います。

最近出版された鈴木道也著『違いがありつつ、ひとつ~試論「十全のイエス・キリスト」へ』には、私の日本基督教団における戒規免職の背後には、信仰理解の相違があり、教団は神学的対話をしないで、私を免職にしたことは問題であると述べています。

信仰理解の相違とは、簡単に言えば、信仰告白のキリスト像とイエスの歴史的生の違いと言えます。教団の中で「信仰告白と教憲教規」を教会の基準にしている人たちは前者「信仰告白のキリスト像」に立つ人たちと言えます。聖餐を福音書の5,000人、4,000人の供食物語を一つの起源に考えて、「開かれた聖餐」をしている人たちは後者「イエスの歴史的生」を教会の基準にしていると言えます。私は、イエス・キリストの福音の根底には「イエスの歴史的生」があると思っています。

この相違は、キリスト者とは、教会とは、をどのように考えるかの違いにもなっています。

以下『イエスと出会う~福音書を読む~』という本からの引用になりますが、この本の著者はカトリックの人ですので、ちょっと違和感のあるところもありますが、その点お含みおきください。

「キリスト教徒のしるし」として、「十字架を身につけ、熱心に祈り、儀式(礼拝)に参列していれば、キリスト教徒と言えるだろうか」。この著者がこう問うているということは、そのように考えるキリスト教徒がいるということです。それに対してこの著者は、「そうではなく、人々を分け隔てなく迎え入れることがキリスト教徒であることの何よりのしるしとなる。様々な価値観を受け入れ、国籍が違っても互いに尊重しあい、一人ひとりを大切にし、共につくりあげていく喜びをわかちあおうとするのが、キリスト教徒だ。『ここでは敵とも言葉を交わしている。これがイエスの友達のしるしだ!』と人々は言うであろう」と述べています。

 前者は「礼拝共同体」としての教会、後者は「交わりとしての教会共同体」と言えるかと思います。この本の著者は、後者「「交わりとしての教会共同体」を「イエスの友達」とか「イエスのチーム」と呼んでいます。

そしてこの本の「山上の説教」の解説では、「イエスの友達」「イエスのチーム」であるキリスト者はこの世の中に「幸せをもたらす人々」であると言うのです。「山上の説教」の解説では「幸せ」「幸せをさまたげる」「幸せをもたらす人々」と、三つのテーマについて短く記されています。

それを読ませてもらいます。

 「幸せ」

 毎日ご飯が食べられ、住む家があり、生きていくのに必要なだけのお金があって、自分の場所と呼べるところがあるとき幸せだ。つらいときに慰めが得られ、喜びを味わうことができ、正義が保証されているとき幸せだ。愛する人、愛してくれる人、惜しみなく与える人、信頼できる人に囲まれているとき幸せだ。また爆弾や戦車が存在しない平和な世界で子供を育て、なにかを生み出して行くことができるとき、自由に考え、行動し、発言できる権利があるとき、幸せだ。そして、追われたり、軽蔑されることなく神を信じ、神を知ることができるとき、それから……まだまだある。これらの幸せを、神はすべての人にお望みになっている。

 「幸せをさまたげる」

 地球上に貧しい人はたくさんいる。国全体が貧しいこともある。食料がなく、耕す土地もなく、仕事もなければ、利用できる資源もない。彼らは、多くの場合、周囲から、そのまま放っておかれている。富のある人は、ときに、自分の財産を楽しんだり、増やすことばかり考えていて、なにももたない人の犠牲のうえに今の生活が成り立っているということをまったく考えない。貧しさが原因でどれだけ不幸が生み出されていることだろう。信仰や思想が理由で、あるいは単に国の指導者たちにとって不都合な存在だったりするがために、迫害されている人は大勢いる。暴力による犠牲者の数も多い。戦争や国外追放、反乱、家宅侵入、離散した家族。人が人の幸せを破壊することもよくある。他人が幸せになるのがゆるせなかったり、すべてを独占しないと気のすまない人たちによる行為だ。

 「幸せをもたらす人々」

 他者に心を開いている人は、地球上のどこにいても、神が人々に望まれる幸せを実現しようと立ち上がる。腕を組んでただ待っているようなことはしない。平和をもたらし、正義を実践し、一人ひとりの尊厳を大切にし、良心に耳を傾け、誠実な行動をとり、飢餓と戦い、人々の権利を守り、喜びを富に見いださず、互いに大切にしあう世界をつくろうとする。彼らは、“幸い”な人々だ。“幸い”なとき、神への愛とイエスへの信仰を実践している。

 ザカリヤの預言の中にも、マリアから生まれるイエスは、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」と言われています。また「マリアの賛歌」では「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えている人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1:51-53)と言われています。

 そういうイエスの歴史的生が福音なのです。私は、「イエスの歴史的生」を排除して、頑なに「信仰告白と教憲教規」を主張する教会は、戦時下教団の教会のように戦争協力に巻き込まれるように思えてなりません。

 最後に、この農伝を卒業して牧師になって、みなさんが遣わされる教会は多かれ少なかれ「信仰告白のキリスト像」の優位な教会が多いと思います。「イエスの歴史的生」を大切にしようとしても、すんなりとそれを共有してくれる教会は少ないと思います。ですから、既成の教会に遣わされても、根気強く開拓伝道をするつもりで働いてもらいたいと思います。一人でも二人でも時間をかけて忍耐強く理解者になってもらう努力をしながら、「イエスの友達」「イエスのチーム」としての教会共同体を「礼拝共同体」と共に建てていっていただきたいと思います。

主がそのようにみなさんを導いて下さいますように!

 

祈ります。

神さま、今年も主の降誕を喜ぶ時が近づいています。

あなたがこの世に遣わされたナザレのイエスが生きられたその生涯の中に

私たちすべてに対するあなたの贈物があることを信じます。

どうか私たち一人一人を、そのあなたの贈物によって、全ての

人と共に生きる道を歩ませて下さい。

主の名によってお祈りいたします。   アーメン。

 



資料⑦ 「カナダ合同教会の歴史と現在」ロバート・ウイットマー


「カナダ合同教会の歴史と現在」 ロバート・ウイットマー(前農村伝道進学校校長)

はじめに

こんばんは! 今紹介いただきましたウイットマーです。今日私が所属するカナダ合同教会の歴史と現在を、みなさんに紹介する機会が与えられて、本当に心から感謝します。みなさん、本当にお疲れのことと思うのですが、この話が北村先生のこれからのことのためにも、また日本基督教団のことを考えるためにも、少しでも参考になることを、心から願います。

Ⅰ カナダ合同教会はどんな教会(教会合同への歩み)

1番目のスライドにあるのは、2012年に作られたカナダ合同教会の新しいクレストですね。


ちょっと見づらいですが、また後で出て来ますので、後ほど何がどう変わったのかについて説明させていただきます。カナダ合同教会は1925年に出来ました。他の教派が繋がって世界の中で出来た合同教会としては一番早かったと言われています。その前から例えば、メソジスト教会の中での沢山の合同がありました。それで一つになって、そこでカナダ合同教会になるんですね。長老教会も同じようにカナダ合同教会になる前に、いくつもの長老教会が合同して、3分の2ですね、100%ではなく、3分の2の教会がカナダ合同教会に加わりました。組合教会はカナダでそんなに大きな教会ではなかったのですが、それも加わって1925年にカナダ合同教会になりました。カナダの西部にユニオン教会と呼ばれている教会がありました。カナダの西部というのは広くて、地理的に教会もすごく離れていて、何百キロも離れている所もあります。ですからカナダ合同教会が出来る前から、やっぱり教派を超えて一緒に教会を作りましょうということで、特にメソジスト、長老教会が繋がって、ユニオンチャーチになって、その教会もカナダ合同教会に加わりました。実は60以上の先住民族の教会がありましたが、教会として位置付けられていなかったのですね。白人の宣教師がそこで宣教の場として伝道している。だから合同する決定には全然参加していません。教会として扱われなかったんですね。これで“The United Church in Canada”ではなくて、“ The United Church of Canada”が出来ました。日本基督教団は英語で言うと、“The United Church of Christ in Japan”で、日本にある合同教会ですね。カナダ合同教会はカナダの合同教会ですね。何故そうなったかと言うと、カナダはこの時代キリスト教国だと思われていたでしょうし、イギリス系の人たちはカナダ合同教会にも多かったし、カナダの人口自体はイギリス系の人たちが多かった。フランス系の人たちを除けばですね。だからカナダ合同教会は国造りに参加でき、電話をかけて首相と直接話が出来る。多分そういう思いがあって、こういう名前になったと思うのですね。今のカナダの状況は全然違うのですけれども。今もThe United Church of Canadaですね。

A.R.ストーンは、「カナダ合同教会」が成立した翌年に日本に派遣されました。ストーン宣教師は洞爺丸で1954年に亡くなりました。初代の農村伝道神学校の校長でもありました。彼はカナダ合同教会が出来てすぐ日本に宣教師として来たんです。もしかしたら、カナダ合同教会の日本に来た初めての宣教師だったかもしれません。で、その時代、教団はまだ出来ていないから、日本のメソジスト教会の宣教師として見えたのですね。ある時、日本のメソジスト教会の牧師たちが、「やあ、私たちメソジスト教会だねえ」と言ったんですね。するとストーン宣教師は怒って、「私は、メソジスト教会の宣教師ではなく、カナダ合同教会の宣教師です。メソジスト教会に協力しているだけです」と言ったのです。そのことが新堀邦司著『海のレクイエム』(p47)に書いてあります。 

これは北海教区道北地区がカナダ合同教会の本部を訪ねた時の、どの教会が合同したのかということを表す、バナーですね。書いてあるのは、「わたしたちは、ユニオンチャーチであり、メソジストチャーチであり、組合教会であり、長老教会であり」と書いてあります」。それから1968年に、ドイツ系のメソジスト教会ですが、福音合同同胞教会がカナダ合同教会に加わりました。今五つのバナーがあります。


これは2012年にカナダの西部サスカチュワン教区の教会を教区と地区の交流のために訪ねた、一般の教会ですね。その教会にもこういうバナーを貼っています。だから、どことどこが合同したか、何で私たちは繋がったのか、本当にキリストにあって一つであること、それを覚えることをすごく大切にしていますね。私が神学校に行ったときにですね、合同する前の教派の牧師がまだ健在だったので、その人たちの話も聞くことが出来ました。そうしたら、組合教会の牧師だった人は、何にこだわっているかと言いますと、先ず一つは招聘制度で教会が牧師を招聘する。もう一つは信仰告白です。「これが決まっている」、「正しいわたしたちの信仰告白だ」という信仰告白はあってはならない。それぞれの教会が作る。それにこだわった。だから、カナダ合同教会に、「これがカナダ合同教会の信仰告白だ、これを信じないと教会の者ではない。」そういうことはないです。それは組合教会のこだわりです。メソジスト教会のこだわりは、ここにもキリストを必要とし、あそこにもキリストを必要としている人たちがいるし、ここにもいるし、どこにでもわたしたちは出かけて行って、イエス・キリストの福音を分かち合わなければならない。それにこだわっていたのですね。宣教ですね。出かけて、イエス・キリストの福音を分かち合う。長老教会は、何にこだわったかと言うと、教会の建物と礼拝にこだわりました。そういう話を聞くことが出来ました。

カナダ合同教会には13の教区があるんですね。例えば、これが一番大きいのはモントリオール教区。これは面積で言うと、日本の10倍ですね。そして教会がいくつあるかと言うと、269しかないです。モントリオールは大きな町ですよ。そこにはたくさんあるかもしれない。地方の教会は本当に散らばっていると言うか、離れている所にあるということですね。Conferenceはメソジストの言葉、Presbyteryは長老教会の言葉ですが、現在の13教区(Conferences)85の地区(Presbyteries)は、カナダ合同教会の体制、仕組みが変わって、16の地域に分かれるんです。それについては、後程ちょっと話をします。でも今までの教区はこういう感じです。

Ⅱ カナダ合同教会はどんな教会(2016年12月31日現在)              

 1. 農村(地方)の教会である 

カナダ合同教会はどんな教会かと言いますと、先ず農村教会と言うよりも、地方教会ですね。人口2,000人以下の町や村にある教会は53%、半分以上です。会員数も30%。人口3万人以下の町にある教会23%、会員数は26%。3万人以下の町にある教会は76%、4分の3以上ですね。会員数は56%。全部で今2,834教会があって、それが2,141の牧会区域に分かれている。分かれているということは、兼牧が多いということですね。ですから一人の牧師が二つの教会、三つの教会、多い所で五つ、六つの教会を牧会していることがカナダ合同教会の場合は一般的なことです。


2. 多様性のある教会である 

それから多様性のある教会でもあります。先住民族の教会は今も60の教会があります。そして、合同した時は決定に参加することも出来ませんでしたけれども、今は先住民族の教区もあります。それから、フランス語の教会も12教会あります。

カナダ合同教会の讃美歌を見ると、「アメージンググレース」(くすしきみめぐみ)は  英語、フランス語、先住民族の言葉でクリ―語、モホーク語、オジブワ語、イヌクティトゥット語、それに中国語、日本語にもなっています。それからカナダ合同教会で一番人気のある信仰告白、「新しい信条」は、讃美歌を開くと、英語、フランス語、クリー語、日本語、韓国語、中国語、フィリピン語で記されています。フィリピン語というのは、フィリピンのタガログという言葉に基づいて作られたフィリピンの標準語ですね。そういう多様性を大切にしている教会ですね。

3. 高齢化が進んでいる教会である 

教会では高齢化が進んでいます。それは日本基督教団についても同じことが言えると思います。世界の多くの教会について言えることだと思います。カナダ合同教会の会員数のピークは1965年です。200万人以上いました。2016年はその半分以下ですね。2016年の洗礼者は5,485人で、永眠者は13,683人ですね。だけど、その中でカナダ合同教会に所属意識のある人数は、約200万人ですね。だからカナダの人に「あなたの教会はどこですか」と聞けば、200万人は教会生活をしていないかもしれないけれども、カナダ合同教会だと言う。もし自分が教会に行くとしたら、カナダ合同教会に行きたい。そう言う人はそれだけいるということですね。でも礼拝の平均出席は、132,459人です。20代から50代前半までの多くの人々は教会生活を必要としていない。これは日本でも同じことがあるのではと思うのです。この人たちを言い表す新しい言葉が出来たんですよ。SBMR→ spiritual but not religious 、だから、霊性そのものは否定しない。霊性は大切だけれども、宗教はいらない。宗教を持つ必要はない。自分の生きている所で霊的な力に繋がって、そこで生きて行けばいいんだ。そういう考え方が非常に今広がっていると思うんですね。教会に多様性があって、高齢化が進んでいるだけでなくて、一般の社会そのものも多様化する中で、カナダ合同教会が存在しているんですね。

4、カナダの社会が多様化する中で存在する教会である 

今カナダの5人に1人はカナダの生まれではないんですね(2016年)。人口の20%です。250以上の民族および様々な文化圏の人々がカナダに住んでいる(2016年)。毎年約25万人の人々がカナダに移民する。2014年の一番多い国は、フィリピン、中国、イランとパキスタンですね。カナダの宗教がどういう風に変わっているかと言うと、キリスト教は一番多く、ローマ・カトリックは39%、カナダのフランス語圏の人々は100%と言っていい位、カトリック教会ですね。プロテスタントは28.3%。この中でカナダ合同教会が一番大きくて、カナダ全体の6.1%ですね。その他の宗教が今どういう風に伸びているかと言うと、イスラム教3.2%、ヒンズー教1.5%、インドのシク教1.4%、仏教1.1%、ユダヤ教1%、ユダヤ人は昔もうちょっとパーセンテージが高かったんですけれど、今はユダヤ人は増えてなくて、ほかの宗教の人たちがどんどん増えているということですね。もう一つは、無宗教だと言っている人たちが23.9%、だからプロテスタントのクリスチャンと同じくらい多いですね。その中でカナダ合同教会は存在しています。

⓵ カナダ合同教会の「牧師」??? (2016年12月31日現在) 

カナダ合同教会の場合は牧師になる制度は、日本基督教団の場合とは全然違っていて、正教師と補教師の制度もないし、例えば按手礼を受ける牧師もいれば、最初から按手礼を受けない牧師もいるんです。牧師にはなるけど、教会の牧師にはなろうと思っていない。刑務所で働くとか、病院の治療チームとして働くとか、そういう働きをするから、按手礼を受ける必要がない。勉強の期間は同じですよ。だけど按手礼は受けない。按手礼を受けるために教師検定試験とか、そういうものは一切ないんです。教区の面接で決まります。教区が按手礼を授ける。またカナダ合同教会の場合、按手礼を受けている牧師や受けていない牧師だけではなくて、任命された信徒牧師もたくさんいます。カナダ合同教会の「牧師」は 2016年12月31日現在 、按手礼を受けている牧師 3,428人(男性2,,070人、女性  1,358人)、按手礼を受けない牧師 289人(男性26人、女性 263人)、任命された信徒牧師132人、信徒牧師も主任牧師になれる。主任牧師になれれば、もちろん洗礼式と聖餐式もできます。礼拝指導をするライセンスのある信徒もいる。これは教区が決めるので、人数がその年その年で変わります。彼らはどういう時に礼拝を指導するかと言うと、それは牧師が入院しているとか、或いは休みでいないという、そういう時に代わりに行くのですね。説教も出来るし、或いは聖礼典も出来る。信徒牧師も、按手礼を受けた牧師も、ライセンスのある信徒もいない場合があるから、教会が本当に何百キロも、千キロくらい離れている場合もあるから、必要があれば聖礼典を執り行うことが出来る長老、役員もいます。でも、これも事情によって教区が決めることですから、何人いるか数えられないですね、その時その時決めますから。このような制度がカナダ合同教会でどうして生まれたかと言うと、特に信徒牧師とライセンスのある信徒ですね、その背景に何があるかと言うと、カナダ合同教会の総会をいろんなところで開くんですよ。私は教団の総会に5,6回出ていますが、東京か箱根にしか行ったことがないですね。カナダ合同教会は毎回違うんですよ。全教区で開いているんです。そうすることによって、その教区の事情を学ぶことが出来る。学ぶことによって、例えば信徒牧師の制度が必要だとか、そういうことを知ることも出来ます。

② カナダ合同教会の総会

総会はいろいろな所で開いています。北の方には、なかなか行けないし、道路があるとも限らないし、それは難しいので開けないのですが、でも東から西までいろんなところで開いています。1925年より43回開いているんですね。1994年まで2年おきでした。出かけて行くとお金がかかります。でも出かけて行くことは大事にしたいから、人口の集中している所ばかりで開きたくない。だから3年おきに変わったんですね。それで今も全国を回ることが出来る。全国13教区のすべてで開かれている。人口3万人以下の町で6回、カナダ合同教会の総会が開かれているんですね。一番小さい町は5,000人以下でした。どうしてそういうことが出来るのか。カナダはどの町にもアイスホッケーのアリーナとカーリング場があるからです。そこが会場となる。カナダ合同教会の総会は夏です。だから大学が夏休みになっているときに、その大学の体育館と寮と食堂を借りて、そこでやるんですね。日本の場合もキリスト教主義学校がいっぱいあるから、10月にやらないでそういうところを使って夏休みにやったら、町のホテルを使うより安く済むのではないでしょうか。いい協力関係が生まれるかもしれないですね。各教区で選ばれる議員は全部で356人、これは今年のカナダ合同教会の総会ですね。でもその他に250人位が来ている。青年は80人~110人で、その内少なくても13人は正議員になります。その他に陪席者もいるし、外国のパートナー代表もいるし、バンドは必ずあるから、バンドのメンバーもいるし、それから地元のスタッフのボランティアがいっぱいいるんですよ。その総会の行われる教区の人たちにとっては、与えられた機会ですよね。一生懸命ボランティアとして協力してくれるんです。カナダ合同教会の総会議場でもちろん議長が選ばれます。任期は2年でしたけれども、1994年から3年に変わりました。1968年以降の議長は信徒4人、女性6人、先住民族1人、アジア系の人1人、アフリカ系の人1人、レズビアンの女性1人、ゲイの男性1人です。

私は信徒で初めて議長になった人の影響を受けて、日本に来ることになりました。彼は実は宣教師だったんですね。中国、ビルマ、インド、パレスチナのガザ、そういう所で働いたのです。私が海外に行きたいと言ったら、海外に行くなら教会を通して行った方がいいよ。パートナーがいるから、迎えてくれるパートナーシップ、協力関係のある団体があるから、教会に行きなさいよと。それで教会に問い合わせたら、私の当時の資格で牧師じゃないから、香港、韓国、日本ですよと言われた。どこにもそんなに興味がなかったのですが、1964年の東京オリンピックの思い出がまだ頭に残っていたものですから、じゃあ日本に行きますと言って、そうなりました。1970年代にはアフリカ系で初めての議長が生まれました。1980年には女性で初めての議長が誕生しました。彼女は牧師です。1986年にも信徒の女性が議長になりました。彼女の議長時代の1988年のカナダ合同教会の総会では、性的志向(セクシュアル・アイデンティティー)は、クリスチャンになるにも、牧師になるにも妨げにはならないと、カナダ合同教会が決定した時ですね。彼女が牧師でなく信徒議長だったことはすごくよかったと思います。でも彼女にとって大変な、大変なことでした。後ほどもうちょっと話をします。彼女のすぐ後にサン・チュル・リーというアジア系の牧師が初めて議長になりました。彼はシベリア生まれで、それから満州に移って、1965年に韓国からカナダに移りましたね。2006年になった議長は議長になってから、治まっていた癌が再発して、癌の治療を受けながら、彼は議長の働きを続けたのです。こういうこともカナダ合同教会にとってすごく大切なことだったと思います。彼にとって大変なことだったかもしれないけれども、でも彼は続ける気持ちがあったから、よかったと思います。2012年にはゲイの人で初めて議長になった人もいます。レズビアンで初めて議長になった人は、2015年~2018年まで議長でした。

③ 信仰をどのように表現するか 

カナダ合同教会の信条については、組合教会のこだわりがあって信仰告白を持ってはいけないから、合同した時に、1925年にArticles of Doctrine(教義の条項20条3ページ)を作りました。それから1940年にA Statement of Faith(信仰の声明12条4ページ)を作りました。A ですね。Theではないです。それから1968年に、ちょうど50年前ですね。A New Creed(新しい信条)を作りました。これもAです。これが今一番人気があるんですね。これは1980,1995年と2回改訂しています。2006年にA Song of Faith(信仰の歌)という7頁の信仰告白も作りました。基本的にどれを使ってもいいです。でもさっきから言ってるようにA New Creed(新しい信条)が一番人気があります。これはカナダ合同教会の神学なのです。1968年に作った時は、Man is not alone だったのですよ。Manは人類という意味もあるけれども、Manは男性と言う意味もあるでしょ。それはおかしいと。だからManがWeに変わったのです。Man、his、him、heがあったところを全部Weに変えたんですね。「わたしたちは招かれているんだ」。「彼は何々している」ということではありません。「わたしたち」が主語で、「わたしたちが招かれる」。それから1995年に、先住民族の人から指摘されて、「被造世界を大切にして生きるために」を加えました。これからも、もしかしたら変わることがあるかもしれません。

以下は人気のあるA New Creed(新しい信条)の日本語訳です。


「カナダ合同教会  新しい信条 1968年(1980年、1995年改訂)」 

わたしたちは ひとりでは ありません。 

わたしたちは 神の世界に生きています。 

わたしたちは神を信じます。 

神は世界を創造され、その創造のみ業は今も続いています。 

神は、この世と和解し、世を新たにするために、肉となられた言、イエスを通して、世に来られました。 

神は、聖霊によって、わたしたちや他の人々の内に働かれています。 

わたしたちは神を信頼します。 

わたしたちは教会となるように、招かれています。 

神が共にいてくださることを喜ぶために。 

被造世界を大切にして生きるために。 

他の人々を愛し、仕えるために。正義を求め、悪を退けるために。 

十字架につけられ、復活され、わたしたちの審判と希望となられたイエスを宣べ伝えるために。 

生きるときにも、死ぬときにも、死を超えた生にあっても、神はわたしたちと共におられます。 

わたしたちは ひとりでは ありません。 

神に感謝をささげます。 

⓸ カナダ合同教会のクレスト、さあ何が変わったでしょう???

⓵1944年


②1980年


③2012年


これはカナダ合同教会の最初のクレスト、⓵は1944年、ラテン語(UT OMNES  UNUM  SINT,ひとつとなりますように)と英語(THE CHURCH OF CANADA)です。②の1980年に初めてフランス語を加えました。そして2012年に色を変えたんですよ。この四つの色は先住民族にとって大切な意味のある色です。人生の段階を表すし、民族を表すし、その捉え方は先住民族によって多少違うんですが、彼らのことを覚えて、それを大切にしてこの色に変えたんです。それから先住民族のモホーク民族は北アメリカに来たヨーロッパの探検家が初めて出会った先住民族と言われているので、彼らの言葉にしました。それはAkwe Nia'Tetewá:neren アグェー・ニァディディワァ・ネィーレン 、英語でAll My Relations。その意味は「すべての命がつながっている」。だからこれがカナダ合同教会の霊性の一部になっています。このように先住民族と新しい関係を持つ努力もしています。

⑤ カナダ合同教会の週報

ちょっとカナダ合同教会の週報を見てみたいと思います。


カナダ合同教会の牧師は、信徒牧師、按手礼を受けている牧師、受けない牧師、がいると言いましたが、日本基督教団の場合、牧師は教師ですね。教師は英語で言うとteacher。そういう言い方を牧師について使うことは全然ないです。聞いたことないですね。日本語で使われている牧師、それを英語にするとpastorという意味ですね。pastorは牧会する人、もちろん教会の主任牧師であれば、牧会すると思いますけれども、pastorという言い方もほとんどしない。カナダ合同教会ではministerという言い方が一般的ですね。ministerは「仕える人」という意味です。安倍晋三さんはprime ministerだから、誰よりも一番国民に仕えなければならない人ですね。ministerはそうですよ。じゃあこの週報を見て、ministersは誰か。“everyone”「全員」です。こっちの週報は、ministersは“all the people”「全員だ」。教会によって書き方が違うんですよ。この教会の週報はministerの働きを誰がするかと言うと、“The people of this church”。もう一つの教会の週報によるとministerは“all of us”「私たち全員」です。こういう書き方をしている教会が非常に多いです。もちろん按手礼を受けている牧師もministerですよ。でもみんなministerだ、みんなに仕える働きがあるし、出来ることがある、役割がある。そういうことを覚えて、それを大切にするために、こういう風に週報に書いているんですね。

⑥ 地域との関り

それから地域との関わりですが、最近のカナダ合同教会の週報にはこういうことも書いてあるんですよ。「地域の低所得者層の子供たちのために、学校で必要な物を集めましょう、リュックサックとか、お弁当とか、ノート、鉛筆、消しゴムなど」。週報に載せて、集めて、そういう支援活動している所に渡すということですね。また、わたしたちと繋がりのあるカナダ合同教会の人たちは、ほとんどと言っていいくらい、難民を迎えて、彼らがカナダの生活に慣れるまで、さまざまな形で協力と手伝いをしているんですね。

シリアの難民を迎える

⑦ カナダ合同教会と先住民族

また先住民族に戻りますが、カナダ合同教会は1986年と1998年に2回先住民族に謝罪しています。これが謝罪文ですね。

謝罪文 ↓ 

謝罪文

カナダ合同教会の本部からのEメールに必ず次のことが書かれています。The United Church of Canada acknowledges that its buildings and ministers, from coast to coast to coast, are on traditional territories of Indigenous  Peoples.(カナダ合同教会の建物と働きは東から西から北まで先住民族の伝統的な土地に立っていることを認識しています。)

また、週報には最近全教会ではないと思いますが、これを書いています。「私たちの教会は先住民族の土地に建っている。感謝と尊敬を持って先住民族がこの大地を大切にしたことを覚えて、神さまのみ心に適う新しい関係が作れることを願っています」。

⑧ カナダ合同教会が目指す礼拝

わたしたち宣教師は定期的に本国活動と言って、日本からカナダに戻って、短い時は4か月、長い時は1年くらいですが、カナダのあちこち回って日本の働きを紹介します。これは貴重な時だと思います。その時にわたしたちが経験した礼拝のいくつかを、ちょっと紹介したいと思います。


一つは、どの教会にもキリストのローソクがあるんですね。礼拝が始まる前に、大体子供か高齢者が、子供と高齢者が一緒に、前に出てそのローソクに灯をつける。キリストのローソクだから、キリストはわたしたちと共にいる。高齢者にも子供にも役割が与えられることですね。それから礼拝に来れない人も増えているので、礼拝に来れなかった人のためにコーヒータイム礼拝があります。礼拝と書いてありますが、牧師がいるとも限らないし、説教があるとも限らない、でもお祈りと讃美歌があって、豊かな交わりの時ですね。こういうことをする教会が増えています。平日ですね、日曜日ではありません。それから古くなっている礼拝堂が沢山ありますから、この教会は2階にある礼拝堂が使える状態じゃないので、地階の部屋を使って、輪になって礼拝を守っているんですね。

コーヒー礼拝

輪になる礼拝
          

そういう風にしている教会も沢山あります。

もう一つは、カナダ合同教会はどの教会に行っても、必ずと言っていい位、これは地方の教会であろうと都会の教会であろうと、どこに行ってもプロジェクターとスクリーンがあります。で、それは高齢化が進んでいることもあって、讃美歌を持つのも、聖書を持つのも大変ですし、新しい人が来た場合でも、新しい人は週報の見方も分からないし、聖書と讃美歌の開き方も分からないし、だからそれが全部スクリーンに出るんですよ。また、三つ、四つの教会が一緒にインターネットで礼拝している所もあります。何百キロも離れているんですよ。そしてどの教会も受け身になっていないですよ。それぞれその教会の役割がある。私はこの教会で説教していますけれども、牧会祈祷は他の教会でする。献金の祈りも他の教会でする。オルガンも他の教会で奏楽する。聖歌隊は他の教会で歌う。みんなに役割があって、みんなが参加している。そしてこれらを録音して送ることも出来ます。もし牧師がいなくて、この礼拝を見たいと思う人がいれば、特にわたしたちは日本の報告をしますから、実は1,000キロくらい離れた教会から、この礼拝を送って欲しいと言われて、その教会に送ったのですね。そしてもう一つは、わたしたちは私の姉の教会で礼拝をした時に、日本語で祈ったのですね。その礼拝が終わって、コーヒータイムになって、ある人がわたしたちの所に来て、「やあー、この教会で英語でない言葉で祈りを聞いたのは初めてだ」。彼はアフリカ系の人で、日本語で何を祈っているか、全然わからないけど、でも英語じゃない言語を聞くだけで、それに感動したということ、わたしたちにとってすごい発見でしたね。コーヒータイムが終わる時に、またわざわざわたしたちの所に来て、涙ぐんでありがとう、ありがとうと言いました。日本の教会も日本語だけでなくて、他の言語を使うことも、いろいろな人がいれば、その人も礼拝を共にしていいんじゃないですかね。神さまに通じるから、と思いました。それともう一つ、これは面白かったのですが、トロントはカナダで一番大きい町で、何百万人の人口ですが、夏にジャズ祭りをやるんですね。そしたら、トロントのあるカナダ合同教会はジャズ礼拝をやったんですよ。牧師は説教しなくてよいから、すごく喜んでいました。ジャズ歌手がいたんですよ。歌って、それからその歌詞の背景にある霊的な意味を紹介して、すごく感動的な礼拝でした。やはりこの新しい試みと工夫とかは、新しい発見に繋がるんじゃないでしょうか。

⑨ 聖餐式

これはカナダ合同教会の聖餐式です。

カナダ合同教会は全ての教会、100%と言っていいと思いますが、受洗者のみの聖餐式をやる教会は一つもないと思います。聖餐式そのものは教会のものじゃない。招くのは教会じゃない。キリストなのです。キリストは全ての人を招く。その招きに応える、応えないは、その人が決めるべきです。それを押し付けることはない。これは私の姉の教会で使われていた式文です。全ての教会がこれを使っているわけではないのですが、一つの例として参考になればと思います。

《必要とされている人にパンは用意されています。希望される者のためにぶどう酒は用意されています。生まれ変わりたい者に主の食卓は呼びかけます。全ての者が招かれています。それは信じるからではなく、信じたいからです。それは理解出来るからではなく、希望を持ちたいからです。神を知っているからではなく、神に愛されているからです。健全だからではなく、必要だと分かっているからです。 私たちが裂くこのパンによってキリストの命を分かち合います。私たちが祝福する杯によってキリストの愛を分かち合います。主の食卓は皆さんを待っています。神さまは私たちを招きます。どうぞこの食卓へ、すべてが準備されています》。

⑩ 2018年7月21日~28日開催のカナダ合同教会の総会

最後になりますが、今年のカナダ合同教会の総会の交わりが、どんな雰囲気であったのか。議案はほとんど教会のあり方、教会が何をしなければならないか。何が今わたしたちに求められているかについての議案でしたね。だから、会計報告だとかに長い時間はとりません。楽しい雰囲気ですよ。議長も総幹事も色のある帽子をかぶっています。そして紙の資料はないですよ。紙の資料を用意しなかったのは今年初めてです。議案資料は何か月も前からインターネットで見れる状態になっていました。議案を見るだけではなく、それについて他の人と、或いはカナダ合同教会のスタッフとも話し合いが出来ます。もっと知りたいことがあれば、聞くことが出来ます。総会に出る前にですね。総会に来たら、配る資料は全くないです。だから、コンピューターか、アイホンか、スマートホンで見るんです。それがない人でも、総会が体育館で行われますのでスクリーンがいくつもある。だからどの方向を向いても、どの議案を今取り上げているか、その内容が何かを見ることが出来ます。また、誰かが何か言うと、それもスクリーンに出て来ます。そして順番があるんですよ。その議案を紹介する。それを聴く(Listen)。それから少人数に分かれて話し合う(Discuss)。そこで、これおかしいとか、これ変えた方がいいんじゃないのかとか、そういう話が出来ます。そしてそれを議長に提案することも出来ます。そして最後は決定する(Decide)のです。三つの段階がある。だからその場で、聴いて、じゃあもういいですか、採決しましょうーか、じゃないです。時間をかけます。総会は1週間ですからね。1週間ですよ。そしてレクリエーション、信仰祭り、売店、コンサートもあって、いろんなことがあります。それから議長候補者は総会が始まる前からいます。今回12人でした。女性7名、信徒2名、先住民族1名、レズビアン1名、障がい者1名。8つの教区と10の地区の推薦によってこの人たちが候補者になっているんですね。脳性麻痺の人も候補者になっています。脳性麻痺だから自分の口でしゃべれないのですよ。だからコンピューターで彼が打って他の人がその人の思いを伝えます。それでも議長の候補者になったんですね。


議長候補者10名の内 女性7名 信徒2名 先住民族1名 レズビアン1名 障がい者1名 

8教区(Conference)の10地区(Presbytery) の推薦

そしてみんなストールをかけて、そして自分が議長になったら何をしようとしているか。何を大切にしたいか、短いスピーチをして、それから選挙します。選挙するときも紙を配るわけではないのです。リモコンみたいなものを全員が持っていて、それで選ぶのですよ。1 番、2 番、3 番、・・・・。議案の採決をするときもそれを押します。だから何かに書いたり、手を挙げたりすることもないですね。結局、新しい議長にはリチャード・ボットという人が選ばれました。

先住民族の挨拶ももちろんありましたけれども、彼らの原語も何回も総会の中で聞きました。今どういう状況に置かれているか、これから教会として何をしなければいけないのか、そういうことはいくつもありました。

それと1988年、さっきもちょっと触れましたけれども、セクシュアル・マイノリティーのことについて、クリスチャンになるにも、牧師になるにも妨げとならないと決議した時のことについての芝居もありました。今日、教団総会でこの集会の前に行われた解放劇と同じような感じです。この時は、ヘイトメールと脅かしの電話とか手紙とかで、議長は本当に大変でした。このことでまだ、セクシュアル・マイノリティーの人を受け入れることが出来なくて離脱した教会と信徒もいました。でも加わった人もいました。今はともかくセクシュアル・マイノリティーを受け入れることがカナダ合同教会のものになっているのです。カナダ合同教会の一部です。その時のことを覚えて、芝居をしました。また踊りもあり、バンドも二つありました。だからよく歌います。世界のいろんな歌を歌うんです。今回の一つのバンドのミュージシャンの二人は日本人だったのですよ。だからいろんな国の人が手伝ってくれるんですね。  

多文化が平等に尊重されているかどうかを見る人(Intercultural Observers)

これで最後になりますが、カナダ合同教会のIntercultural Observersと呼ばれる人たちがいるんです。英語では新しい言葉だと思うのですけれども、interculturalというのはその文化がどういう風に混ざっているか。本当にみんなが平等の立場なのか、どうなのか? そのことを大切にしたいから、みんな平等で、白人だから上に立つ、西洋の文化だからいいことだと、そういうことはない。それを「観察」する人がいるんですよ、総会中に。差別があるのか、偏見があるのか。どうなのかを見て、そして報告するんです。その人はこの総会の会場にも差別はあったと言ったんですね。これは総会が終わるちょっと前ですよ。でも彼がそれを言って、それで次から次へとその総会で、或いはカナダ合同教会で、或いはカナダの社会で、差別と偏見を経験している人たちが、マイクの前に立って、自分の差別の経験を語ってくれたんです。議案がいくつも残っていたんですけれども、この時間を大切にしなきゃという議長の判断で2時間半それを聞きました。差別と偏見の出来事。それで夕食も2時間遅くなって、残っている議案はもう取り上げる余裕もなくて、日本で言うと、常議員会にゆだねることになったんですね。でもこういう人がいるということ、彼はアフリカ系の人ですけれども、もう一人の「観察」する人は障がい者です。そういう人が見ているんですね。本当に平等かどうか、みんな同じように扱われているかどうか。カナダ合同教会は、これで完全だとか、問題はないとか、全然そうは思っていません。むしろこれからだ、そのためにこういう人を置いているんですね。

おわりに、16の地域”Regions”に分かれて  これからの大きな課題

先程教区と地区がなくなるという話をしましたけれども、とにかく今までの組織はなくなる。「Region」になる。「Region」はどう訳したらいいか。地域と言ったらいいのか。今までの教区の数より多くなりますけれども、やっぱり地方の教会、離れている教会にとって、これは大変なことかもしれないので、小さな教会とどう連帯するか。これはカナダ合同教会にとって一番大きな課題の一つではないかと思います。でも「神様を信じて歩もう」「神さまに期待しよう」そういう気持ちを持って歩もうとしています。

カナダ合同教会の新しい信条の最初の所の言葉を紹介して終わります。



神様を信じて歩もう  神様に期待しよう 

「 わたしたちは ひとりでは ありません。 

 わたしたちは 神の世界に生きています。 

 わたしたちは神を信じます。 

 神は世界を創造され、その創造のみ業は今も続いています。

 神さまの働きは終わっていない。わたしたちはこれからも     

 道を求めます」。