2025年6月22日日曜日

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教⑧礼拝と宣教

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「礼拝と宣教」

テモテへの手紙二4章1~8節

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教⑧

関口 康

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(2節)

「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ」(日本基督教団信仰告白)

日本基督教団信仰告白は「教会」を「公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝える」団体としています。

「福音を正しく」の「正しく」は公式の英語版で〝aright〟です。教会が語る「正しさ」は聖書の解釈という手続を必ず採りますので、多様性が生じることは避けられません。

突き詰めていえば、私たち人間は神の御心を完全に知ることはできません。謎は残り続けます。神の不可把握性(incomprehensiveness / incomprehensibility of God)の教理と言います。

教会の仕事は「①礼拝」と「②宣教」です。もうひとつ信仰告白に記されている教会の仕事は「③愛のわざ」です。「①礼拝」と「②宣教」と「③愛のわざ」に取り組むのが「教会」です。

「③愛のわざ」は公式英語版では〝works of love〟と訳されています。最も近いのはチャリティ(charity)です。「洗礼と聖餐」は「①礼拝」を構成する要素として位置付けるほうがよいと私は考えます(【チャート】タイプ1)。

しかし、今ご紹介したのとは異なるタイプのチャートを描く人たちもいます。それは「②宣教」について狭い意味の「説教」だけを指すと考える立場です(【チャート】タイプ2)。

【チャート】教会の仕事のとらえかたの2つのタイプ

「福音を正しく宣べ伝え」は、公式英語版で〝preaches the Gospel aright〟と訳されています。プリーチ(preach)ならば、確かに「説教」です。「①礼拝」の中に「(「②宣教」と同義扱いの)説教、洗礼、聖餐」を配置すれば、独立した「②宣教」は不要になり、教会の仕事は「①礼拝」と「(③から繰り上げて)②愛のわざ」の2つになります。

しかし、これはだんだんおかしな話になっていきます。「礼拝」の要素は「説教、洗礼、聖餐」だけですか、「讃美歌」や「祈り」や「献金」はどうでもいいと思われているのですか、と不満を感じる人が現れて当然です。

それと、狭い意味での「説教」とは区別される「②宣教」に否定的な人たちは、とにかく教会の中に社会問題や政治運動の要素が入って来ることに警戒してきました。

私は違います。狭い意味での「説教」とは区別される、社会問題や政治運動を含む「②宣教」が「①礼拝」と「③愛のわざ」と並んで大事です。しかし、そうでない考えの人々がいます。そこで論争が起こります。

「①礼拝」については、教会の内部で自己完結していても問題ありません。信者だけで集まり、信者だけに理解できる言葉で語り合い、互いに励まし合う自己目的的な集会を行うのは、少しも悪いことではありません。

しかし「②宣教」と「③愛のわざ」まで、教会にとって自己目的的であるわけには行きません。教会の外へと開かれた方向性が無いような教会は空虚です。だいたい、内部で自己完結しているような閉鎖的な団体にあえて新しく加わろうとする人はいないでしょう。息苦しくて仕方がないと思われても仕方ありません。

また、日本基督教団は第二次大戦のとき主体的に戦争協力した経緯があります。そのことを反省し、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(1967年)を当時の鈴木正久教団議長名で公表しました。

教会だからといって、社会や政治の問題に目をつぶるわけに行かないのです。

教会だからこそ、聖書とキリスト教に基づいて、社会の問題、政治の問題について、何を考え、何を語り、何を行うべきかを示すことが求められています。

私たちの敬愛する北村慈郎牧師は、社会や政治の問題に熱心に取り組んで来られました。

今日の朗読箇所にある「御言葉を宣べ伝えなさい。折(おり)が良くても悪くても励みなさい」(テモテへの手紙二4章2節)の意味をよく考える必要があります。

「折が良くても悪くても」(エウカイロース・アカイロース εὐκαίρως ἀκαίρως)を、英語聖書は16世紀から20世紀まで一貫して〝in season and out of season〟(KJV, RSV, NIV, REB)と訳しています。シーズンの問題になっています。

しかし、これは「暑い夏でも負けずにがんばれ」とか「凍えそうな季節に君は」というような話でしょうか。そうではないでしょう。社会や政治や国、時代や世代の問題が関係しているのではないでしょうか。

私は先週、かなり長い時間を、前回の説教の最後に触れた「教会の外に救いなし」という言葉を遺した西暦3世紀のラテン教父キプリアヌス(西暦200年頃~259年頃?)について調べることに費やしました。

キプリアヌスについての文献

私はこれまでキプリアヌスについて何も知りませんでした。しかし、詳しく調べているうちに、以前皆さんに紹介したことがあるロドニー・スターク著『キリスト教とローマ帝国』(新教出版社、2014年)で取り上げられていた問題に、キプリアヌスの存在が大きくかかわっていたことが分かりました。

スターク説とは、西暦2世紀から3世紀にローマ帝国で大流行した疫病の罹患者への献身的対応とキリスト教宣教の進展との関係についての歴史仮説です。

疫病は、流行のピークにはローマだけで1日に5千人が亡くなったという報告があるほどのひどいものでした(スターク、同上書、101頁)。

その中で「死を恐れない信仰」を持つ特に女性のキリスト者たちが、感染の危険を知りつつ患者の体に触れて看護したことで、互いに愛情が芽生え、結婚して家族になり、しかも出産後の嬰児を選別しないキリスト者の人口が増加したため、西暦4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になった、というものです。

その疫病がアフリカのカルタゴに西暦251年(*252年と記す資料もあります)に襲ったときのカルタゴの司教がキプリアヌスでした。スタークがキプリアヌスの言葉を紹介しています。

「この疫病は恐ろしくて致命的なものと見えはするが、おのおのの正義や心を吟味するために、これほど適切で、これほど必要なことがあろうか。健康な者が病気の者を世話したかどうか。近親者がその親族を愛情込めて愛したかどうか。主人たる者が使用人の疲労や衰弱に同情したかどうか、医師は懇願する患者を見捨てたりしなかったかどうか。この死すべき定めが他に何を与えないにしても、神の僕であるわれわれキリスト者にとって、死を恐れないことを学ぶにつれて、喜んで殉教することを望むようになる。これは訓練であって葬式ではない。これは心に剛毅の栄養を与え、死を軽んじることによって、勝利の栄冠を準備するのである」 

(キプリアヌス『死を免れないことについて』15-20。スターク、同上書、106~107頁から引用)。

ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国』

キプリアヌスは西暦200年頃生まれ。誕生日は不明。アフリカのカルタゴの比較的裕福な家庭出身。学者として名声を得た後、45歳頃キリスト教に入信。私財を売り払って貧困の人々に施し、教会の長老になりました。

48歳か49歳の頃、カルタゴ司教に選出。入信からの期間が短すぎたため、キプリアヌスの司教推挙に反対する者が多くいましたが(「少なくとも5人の長老が反対した」E. ファーガソン編『初期キリスト教辞典』(英語版、1990年)「キプリアヌス」の項参照)、教会員から厚い支持を得ていました。

キプリアヌスが51歳か52歳(西暦251年か252年)のときカルタゴに疫病が襲いかかりました。58歳(258年9月14日)(*日付はF. L. クロス『教父学概説』(日本聖公会出版事業部、1969年、145頁)参照)、ローマ総督に逮捕されて斬首。司教としてアフリカ最初の殉教者になりました。

殉教前の裁判における遺言の内容は「聖なるキュプリアヌスの行伝」(土岐正策訳)『殉教者行伝 キリスト教教父著作集22』(教文館、1990年、121~128頁)で読むことができます。

100年以上後のアウグスティヌスが「キプリアヌスの著作を聖書とみなしてはならない」(Contra Cresconium, 2. 31, 39, 書簡93. 10. 35参照)と強調しなければならなかったほど、キプリアヌスはアフリカで尊敬されました(F. L. クロス、同上書、146頁参照)。

「宣教」の意味を考えさせられます。狭義の「説教」や「伝道」に収まるものではありません。

(2025年6月22日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

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