2025年8月17日日曜日

使徒派遣

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「使徒派遣」

マタイによる福音書10章5~15節

関口 康

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8節)

今日の箇所に描かれているのは、イエス・キリストが多くの弟子の中から12人の弟子をお呼びになり、彼らに「使徒」と名付け、「権能」を与え、宣教の働きへと派遣なさった場面です。

イエスが12人の弟子に与えた「権能」(ギリシア語ἐξουσία エクソウシア)は、英語のauthority(オーソリティ)です。「権能」の定義は難しいです。主イエスと同じステージに立って同じことができるようになるための許認可のようなことです。

「同じことができる」の意味は、働きのスタートラインにつかせていただくことです。主イエスと同等の能力がすでに備わり、同等の結果を出すことができるということではありません。

12人の弟子に主イエスが「使徒」(英語Apostle アポッスル)と名付けられました。「十二使徒」(δώδεκα ἀποστόλων ドーデカ・アポストーロン)の名簿は、マタイ(10章2~3節)、マルコ(3章16~19節)、ルカ(6章14~16節)の各福音書にあります。この名簿に「徴税人マタイ」や「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」の名前があります。

「12人の使徒」作画・関口 康

「使徒」と呼ばれる存在は、この12人と、イスカリオテのユダの後任として選ばれたマティア、そして後に使徒となったパウロだけです。しかし、主イエスから使徒に与えられた「権能」は、彼らの代で終了したわけでありません。

使徒の働きの本質は「宣教」、すなわち福音をあまねく宣べ伝え、神のみわざを地上で行うことです。その「権能」を継承するための制度化が、キリスト教会の歴史の中で行われました。

それは、たとえば日本基督教団の教師検定制度のようなものになりました。旧約聖書・新約聖書の語学や解釈、2000年のキリスト教会の歴史、キリスト教の現代的な理解や様々な議論、説教やカウンセリングなどの試験に合格すれば、「権能」が授けられるようになりました。

もうひとつ大事なことは「12」という数字です。なぜ使徒は「12人」でしょうか。間違いなく、古代イスラエル王国が「12部族」で構成されていたことと関係あります。アブラハム、イサク、ヤコブと3代続く族長の3代目のヤコブに、神が「イスラエル」という名を与え、ヤコブの12人の子どもたち(創世記35章23~26節など)が、イスラエル12部族の祖先になりました。

使徒の時代にはユダ族とベニヤミン族の2部族だけが残存していて、ユダヤ地方を形成していました。しかし、ユダヤ人たちの自己理解においては、あくまで自分たちはモーセとダビデの時代から続く12部族の連合体としてのイスラエル王国を受け継ぐ存在であると信じていました。

5節以下の主イエスの言葉の中に「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」とあります。この「失われた羊」は「ユダ族とベニヤミン族を除く10部族」だけを指すと狭く受け取るべきではありません。しかし、イスラエルには多くの「失われた羊」がいるという事実を、彼ら自身が強く自覚していたと考えることは可能です。

ところで、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」という主イエスの教えの意味は何でしょうか。ユダヤ人は神を信じる民です。その人々に福音を宣べ伝えるというのは、すでに神を信じている人々に「神を信じてください」と言っているのと同じです。

それは、私たちの文脈に置き換えて言えば、かつて教会生活を熱心になさっていた方々や、他の教会でつまずいて教会生活ができなくなっておられる方々へのアプローチから取り組みなさいと言われているのと同じです。かつて熱心だったことがあるからこそ、「二度と信じまい、二度と教会に足を踏み入れまい」と心に誓っておられる方々がおられるかもしれません。

主イエスは「異邦人の道に行ってはならない。またサマリア人の町に入ってはならない」(5節)とも言われています。異邦人とサマリア人は当時のユダヤ人にとって軽蔑と差別の対象でした。主イエスは差別主義者なのでしょうか。そのように誤解されそうな危険な発言です。

しかし、この件は冷静に考えることが大切です。使徒たちの働きに「範囲」や「限界」が設けられたと考えることができないでしょうか。

どんな仕事にも役割分担があり、仕事の範囲があります。使徒は人間です。時間と空間の枠の中で生き、体力にも気力にも限界があります。限界を超えると過労死の原因になります。使徒たちにはユダヤ人伝道という働きがあり、他の人々には異なる働きがあるのです。

8節以下に具体的な指示が細かく記されていますが、大事なことはひとつです。それは、使徒たちの働きは「無償」であるということです。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8節)というのが至上命令です。

「使徒派遣」作画・関口 康

これは今日の教会にも当てはまります。教会の教師と役員の働きは「無償」です。これは理想主義ではありません。有償にするとたちまち格付けランキング競争が始まるでしょう。この牧師の説教の日の入場料はいくら。あの牧師よりも上か下か。座る席まで変わって来るでしょう。礼拝堂の前から順に「S席、A席、B席」。

毎週日曜の礼拝で「席上献金」をどのタイミングで行うかの議論で「説教後にすると金額が変動するので説教前のほうがいい」という意見があるのをご存じでしょうか。おひねりの感覚なら、そうなるでしょう。教会がそんなふうになってよいでしょうか。

そもそも牧師の給与は「説教の回数×〇〇円」ではありません。講演料をいただいているのではありません。特別礼拝の講師に謝礼を支払うこととそれは意味が違います。

「無牧(=定住牧師がいないこと)の教会は、他の教会から来てくださるいろんな牧師の説教を週替わりで聞けて、定住牧師とその家族の生活を支える必要がないので安上がりである」と言う人々に出会ったことがあります。反論したことはありませんが、私はいちいち傷ついています。定住牧師の存在が本当に必要かどうかは、自分自身で証明するしかなさそうです。

「神の言葉は無償である」という点はユダヤ教も同じ考えでした。律法学者がトーラーの知識を私利私欲に用いるのは間違っている。トーラーは土を掘るスコップではないし、金銭を得る手段ではないと、ラビ文書に記されています。

それでは、使徒、律法学者、牧師は、どのようにして生きていけばよいのでしょうか。主イエスの教えは次のとおりです。

「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には、袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(9~10節)。

この教えの趣旨は、禁欲や苦行のすすめではありません。任務遂行に遅れをとらないようにするために「何も持たないこと」が求められています。旅に必要な最低限の物資があれば、それで十分です。旅の食料は供給されます。

牧師の給与の話にしてしまいますと、その趣旨は「食費」であるということです。食費以上を要求する人は「偽預言者」であると『十二使徒の教訓(ディダケー)』11章6節に記されています(説教「人生の土台」2025年7月27日参照)。

飢え死にしない程度で大丈夫です。最終的には、神が天からマナを降らしてくださるでしょう(出エジプト記16章)。

(2025年8月16日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)