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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
関口 康
「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」( 3 節)
先週はすみませんでした。アップルパイのことです。
レシピどおりの焼き時間にセットしたオーブンで焼いていて、時間がすぎても全体がまだ白いのに焦げ目がつき始めて、おかしいと思ったら、オーブンに入れる前に溶き卵を塗るのを忘れていました。それではパイらしい色になりません。
「足立梅田教会に行くと牧師の料理を食べなくてはならないらしい」という悪いうわさが立つと困るので、毎週押し付けないようにします。しかし、今日は先週の挽回をさせていただきたく、ミニチョコパイを作らせていただきました。
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| 板チョコの15等分がいちばん難しかったです |
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| 半解凍した冷凍パイシートでチョコをくるみます |
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| ブラック、ハイミルク、ミルクです |
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| アップ |
「ミルクチョコ」とミルク多めの「ハイミルクチョコ」と「ブラックチョコ」の 3 種類です。区別できるように「M」「H」「B」とパイ生地の表面に竹串の先で書きましたが、焼いて膨らんだら文字が消えてしまいました。チョコのラベルをお皿に乗せて区別しておきます。
今日もテサロニケの信徒への手紙一を開きました。今日は 2 章です。このあたりからちょっと不穏な空気が漂いはじめます。文章の調子がやや弁解がましくなります。
その理由は分かります。テサロニケ教会の中にパウロに不信感を抱いている人々がいるという情報を、パウロ自身がなんらかのルートで入手したからです。情報ルートの可能性は 2 つです。ひとつはテモテ( 3 章 6 節参照)、もうひとつはテサロニケ教会のどのかたかです。
不信感の原因ははっきりしています。パウロのテサロニケへの滞在期間が短かったことです。使徒言行録17章 2 節にはパウロがテサロニケのユダヤ人の会堂(シナゴーグ)で「 3 回の安息日にわたって聖書を引用して(ユダヤ人と)論じ合った」と記されています。しかしその後ユダヤ人が暴動を起こしてパウロの滞在先の家を襲ったので、信仰を与えられたテサロニケの人たちが「夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出し」(使徒17章10節)ました。
夜のうちに逃げたのですから「夜逃げ」です。「そんなの聞いていない!」と思った人がいたに違いありません。テサロニケの教会の中に「パウロはなぜ夜逃げしたのか」について憶測が飛び交うようになりました。
現代の牧師と教会の関係もそうです。毎日お会いしているわけではなく、基本的に週に一度お会いする関係です。お互いをよく知っているようで、あまりよく知らない。その状態で牧師がいきなり教会からいなくなった。どうやら夜逃げしたらしい。一体どうなっているのかと激怒した人たちもいたでしょう。「あの牧師はわたしたちを見捨てたのか」と不信感を持った人たちがいたと考えられます。
不信感の内容については私個人の推測ではなく、聖書学者の推測をご紹介します。私がいつも頼りにしている註解書には「テサロニケの教会の中のある人々はパウロを宗教的ペテン師(een religieuze charlatan)と見ていた」と記されています(M. H. Bolkestein, De brieven aan de Thessalonicenzen, Prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1970, p. 47)。
「宗教的ペテン師」は、宗教の隠れ蓑を着て、自分の利益だけ追求し、自己目的だけめざし、私利私欲に溺れる人です。自分のことをそこまでひどく言われていることを知るに及んで、パウロが夜逃げの弁解を始めたというわけです。
弁解というのは、すればするほど逆効果になる場合もあることを、私は知っています。言えば言うほど墓穴を掘る。しかし、そこでどうしても黙っていられないパウロでした。性格の要素が関係しているかもしれません。
パウロが最初に全力で訴えているのは、わたしたち宣教チームとテサロニケの教会の人々は、少なくとも最初の出会いの時点では親しい間柄だったでしょう?ということを思い出してもらうことです。
「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによった」( 1 章 5 節)こと、また「主の言葉があなたがたのところから出て……神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられている」( 1 章 8 節)という事実にパウロが訴えていることの趣旨は、最初の出会い、本来の関係は良かったはずだということです。
ここでお断りします。私は今日はパウロの弁護人の側に立つことをお許しいただきたいです。私自身がこれまでパウロが経験したのと同じような経験をしてきましたので。
パウロが「力」や「確信」という点を強調しているのは、自分はあなたがたに信仰を与えた力ある説教者だったと言いたいのではありません。そこは逆です。この私パウロは、肉体的にも人間としても弱い者であるということを教会の人々に理解してもらおうとしています。
「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」( 2 節)の趣旨は、パウロの力は彼自身のものではなく、神のものであるということです。自分自身は神なしには生きられない弱い人間であるということです。
パウロたちがフィリピで巻き込まれたひどい事件については、使徒言行録16章19~40節に記されていますので、ぜひお読みください。
3 節にパウロが記している「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」の趣旨は、「宣教」とは何か、とりわけ「説教」とは何かという宣教本質論、説教本質論です。
これは、パウロの個人的確信や自己弁護としてとらえないほうがよいです。パウロに限らず、時代状況に縛られず、すべての時代のすべての教会の宣教・説教に当てはまります。私たちにももちろん当てはまります。
「① 迷い」と「② 不純な動機」と「③ ごまかし」で説教されても困ることは、それはそうだろうと納得できることだとは思いますが、パウロが書いている言葉の意味内容を正確にとらえておきたいです。
「① 迷い」は新共同訳の訳です。聖書協会共同訳も同じです。しかし、改訂英語聖書(Revised English Bible, 1989)では「デリュージョン delusion」と訳されています。delusionは「欺瞞、誤り」(アンカーコズミカ英和辞典、学習研究社、2008年)です。
オランダ語聖書(Groot Nieuws Bijbel, 1997)では「ドワーリング dwaling」と訳されています。意味は「欺瞞、誤り」です。
これは旧約聖書的背景を持つ言葉です。偽の預言、背教、偶像崇拝などを指します(ミカ 3 章 5 節、イザヤ 3 章12節、 9 章15節、30章10節、エレミヤ23章13節、17節、32節など)。
「欺瞞」とは「人目をあざむき、だますこと」(広辞苑第 4 版)。他人に対して不誠実な意図を持って行動することです。
「② 不純な動機」は、多くの箇所で「性的に不純」という意味で用いられています(ローマ 1 章24節、コリント二12章21節、ガラテヤ 5 章19節、エフェソ 5 章 3 節、コロサイ 3 章 5 節など)。
もしその意味でパウロが書いているとすれば、説教者としての立場を乱れた性的ふるまいの隠れ蓑として利用したと非難され、それを彼が打ち消していることになります。
使徒言行録17章 4 節にテサロニケの「かなりの数のおもだった婦人たちも……二人に従った」とあります。女性からの人気が高くて妬まれたでしょうか。ただし、この言葉にはもっと広い意味があります。ひとつの意味に限定しないほうが妥当です。
「③ ごまかし」は聖書協会共同訳では「策略」と訳されています。改訂英語聖書(REB 1989)では「ディスィーヴ deceive」と訳されています。その意味は「うそをついたり隠し立てをしたりすること」です。「ディスィーヴァー deceiver」が「詐欺師」です。
私は二枚舌を使っていません。イエス・キリストの使徒という本来の姿以外の何者かを装っていません。他の目的や動機を持っていません。仮面を被っていません。どうか私を信頼してくださいと、パウロは訴えています。
すべての牧師と教会は己が身を省みて、自分も本当にそう言えるかと自戒すべきです。
もちろん私自身も例外ではありません。














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