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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「心の支えは同じ」
マタイによる福音書 2 章 1 ~12節
関口 康
「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」( 9 -10節)
今日の箇所も待降節(アドベント)や降誕節(クリスマス)のたびに読まれ、説教されます。
毎年同じ話をするのは申し訳ないという気持ちがあるのですが、「年末は『忠臣蔵』を観ないと落ち着かない」という方もおられるようですので、どうかお許しください。
今日の箇所に記されているのは、以下のことです。
①イエス・キリストは、ユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。ベツレヘムは「都会」のエルサレムとは対極の「田舎」です。
②それはユダヤの王がヘロデだった頃の「紀元前37年から紀元前 4 年までの間」でした。これが主イエスの誕生年の「紀元前 4 年説」の根拠です。ヘロデは西暦元年まで生きていません。
③ユダヤから見て「東」のバビロニアの占星術師(マギ)たちが、メシアが生まれたことを示す「星」が出現したと結論づけ、ユダヤまで表敬訪問に来ました。
④ヘロデ王は猜疑心が強い人だったので、メシア誕生の知らせに恐怖心を抱き、自分のところに来たマギたちにメシアを探させて居場所を突き止め、メシアを殺害しようとしました。
⑤マギたちはメシアのもとにたどり着き、崇拝の儀礼を行いましたが、「ヘロデのところへ帰るな」と告げる天使の声に従い、ヘロデに報告せずに、バビロニアに帰りました。
ヘロデの残忍性については、複数の記録があります。歴史家ヨセフスによると、ヘロデによって殺害された人々のリストの中に義兄弟アリストブロス、妻マリアムネ、その母アレクサンドラ、息子のアリストブロス、アレクサンドロス、アンティパトロス、その他大勢の名があります。
歴史家マクロビウスによると、ヘロデが自分の子どもたちまで殺したことを耳にしたローマ皇帝アウグストゥスが「ヘロデの豚(ギリシア語 hus)になるほうが彼の息子(ギリシア語 huios)になるよりましだ」と言いました。ヘロデは豚肉を食べなかったからです。
バビロニアの占星術は、当時の価値観に照らせば、高度な学問でした。マギのユダヤ来訪は天文マニアの個人的な趣味や探検レベルの事柄ではなく、国と国との関係、国際外交の一環でした。だからこそ彼らはヘロデ王と直接話すことができました。
バビロニアのマギがなぜメシアの誕生を知りえたかについては、バビロニア捕囚(紀元前597年~538年)の後も多くのユダヤ人がバビロニアに留まったことで、ユダヤ教がバビロニアに影響を与えたことから説明できます。メソポタミアにおけるユダヤ教の影響力の強さは、西暦50年にバビロニア王がユダヤ教徒に改宗したことから明らかです。
東方の君主がローマ皇帝に捧げた敬意の例としては、アルメニア王ティリダテスを挙げることができます。
ティリダテスは、妻、息子たち、3000人の騎兵、大勢の従者を率いて、西暦66年、皇帝ネロに敬意を表すため、ユーフラテス川からローマまで行進しました。ティリダテスはネロを「主」と呼び、地にひれ伏して、跪(ひざまず)きました。
ネロが自分のティアラ(王冠)を外し、ティリダテスの頭に置きました。ティリダテスはネロに「主よ、私は私の神であるあなたを拝みに参りました」と語りかけました。
ネロの返答は「私はあなたがアルメニア王となることを宣言する。私が王国を奪いもし、与えもする力を持っていることを、あなたと他の人々に知らせるためである」というものでした。
先日公開された米国大統領の横で日本の総理大臣が飛び跳ねた映像は、現在の日米の上下関係をよくあらわしています。
バビロニアのマギたちはメシアの生誕地は当然王都エルサレムだろうと予測しましたが、それは間違いでした。最高法院(サンヘドリン)の祭司長たちと律法学者たちがヘロデから依頼されて捜索を始めました。しかし、目標にたどり着いたのはバビロニアのマギたちが先でした。なんと驚くべきことに、それは王都エルサレムではなく、片田舎のベツレヘムでした。
彼らは幼子を見つけてひれ伏し、黄金、乳香、没薬を贈りました。贈り物が 3 つであることが「三賢者」とされる理由です。 3 人だったかどうかの根拠は聖書にはありませんが、聖書外資料の中に「カスパール、メルキオール、バルタザール」という名前がついた伝説があります。黄金と乳香は王への贈り物です(詩編72編 9 ~15節、イザヤ60章 6 節)。没薬は古代の香水です。
今日の箇所が教えているのは、「異教徒」こそがイエス・キリストを最初に崇拝したということ、そして「ヘロデのところへ帰るな」という神の警告に最初に耳を傾けたということです。
その意味は「神の救いは普遍的である」ということです。救いの恵みは、宗教の壁を越えます。宗教間対話の可能性は初めから開かれています。
毎年同じ話だとつまらないので、最新情報を仕入れてきました。
私は一昨日12月12日(金)日本福音ルーテル東京教会(新宿区大久保)で開催された「ニケア公会議1700年記念・世界教会協議会(World Council of Churches (WCC))第 6 回信仰職制会議報告会」に出席しました。
WCCはプロテスタント、カトリック、オーソドックス(正教会)の違いを超えてキリスト教会の一致を目指す世界会議です。一昨日の報告者は西原廉太先生(立教大学総長)でした。
なぜ今この話を持ち出すのかと言えば、宗教間対話を行うためには、まずはキリスト教の一致を目指すべきなのに、いまだに一致できていないことについての認識を共有したいからです。
西原先生によると、キリスト教会の一致を妨げている大きな壁が 2 つ残っています。
そのどちらも、ちょうど1700年前の西暦325年にニケア(ニカイア、ニケヤとも表記)(現在のトルコ・イズニック)で行われた「ニケア公会議」の決定事項と関係しています。
第 1 に、イースターの日取りが一致していません。
西方教会(カトリック、プロテスタント)はニケア公会議で定めた「春分の次の満月の後の最初の日曜日」を守っていますが、東方教会(オーソドックス)は違います。
第 2 に、ニケア信条(富士見町教会HP「ニカイア信条」参照)の「聖霊」に関する表現が一致していません。
西暦325年のニケア公会議で制定された当初の表現は「聖霊は父から出て」だったのに、西暦 9 世紀のローマ・カトリック教会が「子から」(フィリオクェ Filioque)を追加して「聖霊は父と子から出て」にしました。そのことを東方教会(オーソドックス)が決して認めず、東西教会の決定的な分裂の原因になっています。
しかし、西原先生によると、最近の世界教会の傾向としては、「子から」(フィリオクェ)を括弧(かっこ)に入れることで、読んでも読まなくてもよいとする流れに落ち着きつつあるとのことです。
「子から」(フィリオクェ)を削除することに反対している人々の主な理由は、聖霊とイエス・キリストの関係が離れてしまうこと、あるいはイエス・キリストとは無関係な、または関係性が不明な「神」について語られることへの警戒心です。
宗教間対話の観点からすれば、「子から」(フィリオクェ)があるかぎりイエス・キリストを抜きにした議論はありえませんので、キリスト教と他の宗教との壁は高くなります。しかし、その壁がないとキリスト教を守れないと考える人々もいます。
どのように考えるにせよ、神の救いは普遍的であることを忘れないようにしましょう。
そのことが、全世界のすべての人の心の支えになります。
互いの壁を乗り越えて、平和のために人類が一致できるように、共に祈りましょう。
