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2026年1月18日日曜日

協力して道をひらく

つぶあんを作っています
ラップとホイルの中身は同じです

説教「協力して道をひらく」

テサロニケの信徒への手紙一 3 章 6 ~10節

関口 康

「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら今わたしたちは生きていると言えるからです」(8節)

「今日も何かあるの」と期待していただけるようになりたいです。今朝は 7 時半起きでおはぎを作りました。つぶあんです。こしあんも作りたかったのですが、こしあんとつぶあんは作り方が全く違うと分かり、こしあんはあきらめました。

今日はテサロニケの信徒への手紙一の説教の 3 回目です。3 章を取り上げます。

先週の 2 章の段階で、パウロをリーダーとする宣教チームとテサロニケ教会の人々との関係が必ずしも一筋縄で行くものではなかったらしいことが分かりました。

パウロたちのテサロニケへの滞在期間があまりに短かったため、教会の中に彼らに不信感を持つ人々が現われ、騒ぎになっているという情報をパウロが得たため、なんとかして信頼関係を取り戻したいと願って弁解することを意図する言葉が 2 章に出てきました。

しかし、「覆水盆に返らず」です。いったん壊れた信頼関係を取り戻すのは容易でない、または不可能であることを私たちは経験的に知っています。パウロがそのことを知らなかったとは言えないでしょう。

しかし、それも単純な話ではありません。ひとつの突破口は、教会が個人の所有物ではないことです。かつて働いた教職に不信感を持つ人々がいることが、必ずしもすべての教会員との信頼関係の崩壊をストレートには意味しません。

そのように考えてよいひとつの理由は、その情報がパウロの耳に届いていることです。先週も触れましたが、「テモテをそちらに派遣した」( 2 節)と明記されているのが今日の箇所です。

テモテがテサロニケ教会の人々との面会に成功しました。完全な信頼崩壊が起こっていたら、面会すら不可能になります。テモテの派遣が受け入れられたということは聞く耳を持つ方々もおられたことの証拠と言えますので、大きな前進です。

テモテの派遣に当たり、パウロはテモテに 2 つの非常に尊厳のある呼び名を与えています。

第 1 の尊称は「わたしたちの兄弟」です。これで身分や年齢の違いは消え去ります。テモテはパウロよりもはるかに年下でした。しかし、「兄弟」として、愛と責任を共有することによってパウロと結ばれています。

第 2 の尊称は「神の協力者」です。この表現で合っています。「神と人間の関係は協力関係ではありえない。協力は、まるで対等のようだ。パウロが間違って書いたか、または誤訳だろう」と考える必要はありません。

神は人間を御自身のみわざに携わらせます。人間は「神と共に」働くことができますし、働かなければなりません。神と人間は同じ水準にいません。神に不足があって、それを人間が補う関係にあるのではありません。しかし、人間は「神と共に」働きます。人間の働きには独自の位置づけを与えられています。人間は「神の協力者」となるように召されます。

神と人間の協力関係の配分は、神100%・人間 0 %ではありません。神99%・人間 1 %でもありません。神が100%働き、人間も100%働きます。そのことをオランダの神学者ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が「神律的相互関係」(theonome reciprociteit; theonomous reciprocity)という言葉で表現しました。

テモテの使命の目的は、テサロニケの教会の「牧会」です。日本の教会で、ドイツ語のSeelsorge(ゼールゾルゲ)が「牧会」と訳されてきました。Seele(ゼーレ)が「魂」でSorge(ゾルゲ)が「配慮」や「心配」を意味するので「魂の配慮」の意味になります。英語だとpastoral care(パストラルケア)で「パスター(牧師)的なケア(配慮)」です。

特にこの箇所に記されている「牧会」の具体的内容は「あなたがたを励まし、信仰を強めること」( 2 節)です。

「励ます」のほうは「教える」に近い意味の言葉です。「説教する」と言い換えても大差ありません。しかし「強める」のほうは、文字通りなら「支える」であり、比喩的に「力を与える」という意味です。「強める」は、しばしば誘惑や迫害との関連で用いられます。

言葉だけで、説教だけで、私たちの信仰生活のモチベーションを奪い去る妨害を乗りこえる力が出て来るかはひとつの大きな問題です。

「教会に通わない理由」はいくらでも思いつきます。しかし、「なぜ教会に通うのか」の理由を言葉にするのは意外と難しいものです。教職者の責任は「教会を強めること」です。「それは説教だけでない」と言わなくてはなりません。

テモテはテサロニケから戻ってきました。テモテの報告はパウロにとって喜びの知らせでした。「あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせ」( 6 節)を伝えてくれました。テサロニケ教会のみんなが信仰・希望・愛に生きた、まさに生きた証人として立ち続けていることの報告でした。

知らせを聞いたパウロが「あなたがたが主にしっかり結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言える」( 8 節)と書いています。本当に良かったと安堵し、感謝している言葉です。

(2026年 1 月18日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年1月11日日曜日

信頼をえるために

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「信頼をえるために」

テサロニケの信徒への手紙一 2 章 1 ~ 4 節

関口 康

「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」( 3 節)

先週はすみませんでした。アップルパイのことです。

レシピどおりの焼き時間にセットしたオーブンで焼いていて、時間がすぎても全体がまだ白いのに焦げ目がつき始めて、おかしいと思ったら、オーブンに入れる前に溶き卵を塗るのを忘れていました。それではパイらしい色になりません。

「足立梅田教会に行くと牧師の料理を食べなくてはならないらしい」という悪いうわさが立つと困るので、毎週押し付けないようにします。しかし、今日は先週の挽回をさせていただきたく、ミニチョコパイを作らせていただきました。

板チョコの15等分がいちばん難しかったです
半解凍した冷凍パイシートでチョコをくるみます
ブラック、ハイミルク、ミルクです
アップ

「ミルクチョコ」とミルク多めの「ハイミルクチョコ」と「ブラックチョコ」の 3 種類です。区別できるように「M」「H」「B」とパイ生地の表面に竹串の先で書きましたが、焼いて膨らんだら文字が消えてしまいました。チョコのラベルをお皿に乗せて区別しておきます。

今日もテサロニケの信徒への手紙一を開きました。今日は 2 章です。このあたりからちょっと不穏な空気が漂いはじめます。文章の調子がやや弁解がましくなります。

その理由は分かります。テサロニケ教会の中にパウロに不信感を抱いている人々がいるという情報を、パウロ自身がなんらかのルートで入手したからです。情報ルートの可能性は 2 つです。ひとつはテモテ( 3 章 6 節参照)、もうひとつはテサロニケ教会のどのかたかです。

不信感の原因ははっきりしています。パウロのテサロニケへの滞在期間が短かったことです。使徒言行録17章 2 節にはパウロがテサロニケのユダヤ人の会堂(シナゴーグ)で「 3 回の安息日にわたって聖書を引用して(ユダヤ人と)論じ合った」と記されています。しかしその後ユダヤ人が暴動を起こしてパウロの滞在先の家を襲ったので、信仰を与えられたテサロニケの人たちが「夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出し」(使徒17章10節)ました。

夜のうちに逃げたのですから「夜逃げ」です。「そんなの聞いていない!」と思った人がいたに違いありません。テサロニケの教会の中に「パウロはなぜ夜逃げしたのか」について憶測が飛び交うようになりました。

現代の牧師と教会の関係もそうです。毎日お会いしているわけではなく、基本的に週に一度お会いする関係です。お互いをよく知っているようで、あまりよく知らない。その状態で牧師がいきなり教会からいなくなった。どうやら夜逃げしたらしい。一体どうなっているのかと激怒した人たちもいたでしょう。「あの牧師はわたしたちを見捨てたのか」と不信感を持った人たちがいたと考えられます。

不信感の内容については私個人の推測ではなく、聖書学者の推測をご紹介します。私がいつも頼りにしている註解書には「テサロニケの教会の中のある人々はパウロを宗教的ペテン師(een religieuze charlatan)と見ていた」と記されています(M. H. Bolkestein, De brieven aan de Thessalonicenzen, Prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1970, p. 47)。

「宗教的ペテン師」は、宗教の隠れ蓑を着て、自分の利益だけ追求し、自己目的だけめざし、私利私欲に溺れる人です。自分のことをそこまでひどく言われていることを知るに及んで、パウロが夜逃げの弁解を始めたというわけです。

弁解というのは、すればするほど逆効果になる場合もあることを、私は知っています。言えば言うほど墓穴を掘る。しかし、そこでどうしても黙っていられないパウロでした。性格の要素が関係しているかもしれません。

パウロが最初に全力で訴えているのは、わたしたち宣教チームとテサロニケの教会の人々は、少なくとも最初の出会いの時点では親しい間柄だったでしょう?ということを思い出してもらうことです。

「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによった」( 1 章 5 節)こと、また「主の言葉があなたがたのところから出て……神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられている」( 1 章 8 節)という事実にパウロが訴えていることの趣旨は、最初の出会い、本来の関係は良かったはずだということです。

ここでお断りします。私は今日はパウロの弁護人の側に立つことをお許しいただきたいです。私自身がこれまでパウロが経験したのと同じような経験をしてきましたので。

パウロが「力」や「確信」という点を強調しているのは、自分はあなたがたに信仰を与えた力ある説教者だったと言いたいのではありません。そこは逆です。この私パウロは、肉体的にも人間としても弱い者であるということを教会の人々に理解してもらおうとしています。

「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」( 2 節)の趣旨は、パウロの力は彼自身のものではなく、神のものであるということです。自分自身は神なしには生きられない弱い人間であるということです。

パウロたちがフィリピで巻き込まれたひどい事件については、使徒言行録16章19~40節に記されていますので、ぜひお読みください。

 3 節にパウロが記している「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」の趣旨は、「宣教」とは何か、とりわけ「説教」とは何かという宣教本質論、説教本質論です。

これは、パウロの個人的確信や自己弁護としてとらえないほうがよいです。パウロに限らず、時代状況に縛られず、すべての時代のすべての教会の宣教・説教に当てはまります。私たちにももちろん当てはまります。

「① 迷い」と「② 不純な動機」と「③ ごまかし」で説教されても困ることは、それはそうだろうと納得できることだとは思いますが、パウロが書いている言葉の意味内容を正確にとらえておきたいです。

「① 迷い」は新共同訳の訳です。聖書協会共同訳も同じです。しかし、改訂英語聖書(Revised English Bible, 1989)では「デリュージョン delusion」と訳されています。delusionは「欺瞞、誤り」(アンカーコズミカ英和辞典、学習研究社、2008年)です。

オランダ語聖書(Groot Nieuws Bijbel, 1997)では「ドワーリング dwaling」と訳されています。意味は「欺瞞、誤り」です。

これは旧約聖書的背景を持つ言葉です。偽の預言、背教、偶像崇拝などを指します(ミカ 3 章 5 節、イザヤ 3 章12節、 9 章15節、30章10節、エレミヤ23章13節、17節、32節など)。

「欺瞞」とは「人目をあざむき、だますこと」(広辞苑第 4 版)。他人に対して不誠実な意図を持って行動することです。

「② 不純な動機」は、多くの箇所で「性的に不純」という意味で用いられています(ローマ 1 章24節、コリント二12章21節、ガラテヤ 5 章19節、エフェソ 5 章 3 節、コロサイ 3 章 5 節など)。

もしその意味でパウロが書いているとすれば、説教者としての立場を乱れた性的ふるまいの隠れ蓑として利用したと非難され、それを彼が打ち消していることになります。

使徒言行録17章 4 節にテサロニケの「かなりの数のおもだった婦人たちも……二人に従った」とあります。女性からの人気が高くて妬まれたでしょうか。ただし、この言葉にはもっと広い意味があります。ひとつの意味に限定しないほうが妥当です。

「③ ごまかし」は聖書協会共同訳では「策略」と訳されています。改訂英語聖書(REB 1989)では「ディスィーヴ deceive」と訳されています。その意味は「うそをついたり隠し立てをしたりすること」です。「ディスィーヴァー deceiver」が「詐欺師」です。

私は二枚舌を使っていません。イエス・キリストの使徒という本来の姿以外の何者かを装っていません。他の目的や動機を持っていません。仮面を被っていません。どうか私を信頼してくださいと、パウロは訴えています。

すべての牧師と教会は己が身を省みて、自分も本当にそう言えるかと自戒すべきです。

もちろん私自身も例外ではありません。

(2026年 1 月11日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年1月4日日曜日

イエスにまなぶ 新年礼拝

日本基督教団足立梅田教会 東京都足立区梅田5-28-9)


説教「イエスにまなぶ」新年礼拝

テサロニケの信徒への手紙一 1 章 5 ~ 7 節

関口 康

「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア洲にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」( 6 ~ 7 節)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

皆様は年末年始いかがお過ごしだったでしょうか。私はついに料理に目覚めました。クリスマス以来、料理に明け暮れていました。

お恥ずかしい話です。オーブンレンジのオーブン機能の使い方が分かるようになっただけです。オーブンを使えるようになって、世界がこれまでとは違って見えるようになりました。宝の持ち腐れでした。

教会は本来、みんなで食事することをとても大切にしてきた団体です。主イエスは弟子や友人との食事を楽しまれました。その中に当時の社会の中で弾かれ見下げられていた人々もいました。そのような開かれた食事会を主イエスは積極的に行われました。

「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と使徒パウロはローマの信徒への手紙14章17節に記しています。これは文脈がある言葉です。

当時のユダヤ教の食物規定をキリスト教会でも守るべきだと主張する人々と守らなくてもよいと主張する人々が対立して教会が壊れそうになっている中、食事がだれかをつまずかせるのであればいっそ食事をしないほうがいいし、肉も食べずぶどう酒も飲まないほうがましだと言っている文脈です。

パウロの趣旨は「食事のことでけんかになるなら何も食べるな」です。けんかしなければいい。仲良くすればいいだけです。

どことは言いません。かつて働いた複数の教会です。教会の奉仕がけんかの種でした。生け花でけんかになり、教会の看板でけんかになり、掃除でけんかになりました。なぜ「生け花」がけんかの種でしょうか。「あの人は高い花を買ってきた。あんな高いのを出されると私たちも高いのを買わなくてはならなくなるではないか」です。

私はそういうけんかには一切介入したくないのですが、黙っていると「牧師のリーダーシップが足りない」と私が叱られました。「教会の奉仕のことでけんかになるなら何もしないでください」と言いたくなるのを我慢することが多かったです。パウロの気持ちがよく分かります。

コロナ禍以前は、教会はもっと頻繁に食事会をしていたはずです。それを取り戻したいです。しかし、だれかの負担になることはしたくありません。けんかはまっぴらです。だとしたら、私が料理をすればいいではないかと思い至りました。

それで今日は、朝 6 時起床でアップルパイを作りました。好き嫌いがあると思いますので、無理強いしたくありません。もしよろしければ食べていただけますと幸いです。

①りんご

②りんごに砂糖を加えて煮る

③煮たりんごをパイシートの上に並べる

④アップルパイ完成

料理に関して私は、明確な原則を立てています。できるだけ安い食材を使うことです。高い食材が美味しいのは当たり前です。安い食材を美味しくするところに教会らしさがあると考えます。

私の料理の腕が上がったらけんかになるかもしれません。「牧師の料理が美味しすぎる。あんな美味しいのを出されると私たちも美味しいものを作らなくてはならなくなるではないか」。

今日から続けてテサロニケの信徒への手紙一を読むことにします。 1 月のすべてのテキストを、この手紙から選びました。日曜日が 4 回ありますので、 1 回 1 章で、 4 章まで読みます。 5 章は、昨年11月30日(日)の説教「終末と希望」で取り上げましたので読了済みとします。

なぜこの手紙なのかといえば、 5 章のとき申し上げたとおり、この手紙は、パウロ書簡の中でも、新約聖書の中でも「最古の」文書だからです。西暦50年代に書かれました。その新約聖書の「最古の」文書に書かれていることに基づいて、教会の信仰の「原点」は何かを確認したいと思いました。

以下、要点です。

① この手紙の共同執筆者はパウロ、シルワノ(別名シラス)、テモテです。彼らはチームです。教会の宣教活動は個人プレーではなくチームプレーです。しかし、チームリーダーは必要です。パウロはリーダーです。牽引役、まとめ役は必要です。「船頭多くして船山に上る」です。

② テサロニケは、当時のギリシアですでに大都市でした。しかし、パウロたちの関心はその都市自体にはなく、そこに住んでいたキリスト者と教会に関心がありました。「テサロニケの教会」( 1 章 1 節)の意味は「テサロニケにある(in)イエス・キリストの教会」です。

教会は「世にある教会」です。地域社会の中に・共に・下にあります。しかし、教会は地域の行政組織に吸収されるものではありません。町の中でやや浮いた存在になりがちです。しかし、だからこそ町の中で行き場を失った人々の逃げ場、受け皿になります。

③ この手紙は共同執筆者がいるなどチームプレーの産物です。しかし、そうであることは個人を無視することを意味しません。人間関係のトラブルは直接言うと角が立つことばかりです。皮肉や当てこすりは逆効果ですが、個人と個人の対立にならないように配慮することが大切です。

④ この手紙の中でパウロが自分を「使徒」と名乗る箇所はありません。それはパウロがこの教会と友好関係を築いていたからだと説明されています。パウロが自分の肩書きをかざすのは、彼の使徒性を否定する人々に抵抗しようとしているときです。テサロニケ教会に対してはそうする必要がありませんでした。この教会にとってのパウロの権威は「ちょうど母親がその子供を大事に育てるような」( 2 章 7 節)優しい権威でした。

⑤ この手紙にはテサロニケの教会に対するパウロの愛情表現が非常に多いです。 1 章 2 節から 3 章13節まで、この手紙全体の 5 分の 3 が「感謝」の言葉です。「感謝します」という言葉が 3 回出てきます( 1 章 2 節、 2 章13節、 3 章 9 節)。まるでラブレターのようです。牧師と教会の関係は仲が良いほうが健全でしょう。けんか腰でにらみ合っていることの正反対です。

⑥ パウロは教会への祈りとして「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、私たちの主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることを心に留めている」( 1 章 3 節)と記しています。

「信仰、希望、愛」の三つ巴は、本書 5 章 8 節、第一コリント13章13節、コロサイ 1 章 4 ~ 5 節にも出てきます。この三つ巴はパウロが最初ではなくもっと前からあった表現をパウロが継承していると考えられています。

「信仰、希望、愛」の 3 つは、区別されますが、切り離せません。愛と希望のない信仰は無意味です。信仰なき愛は曖昧です。希望なき信仰と愛は息切れします。

⑦ パウロはテサロニケの教会を「すべての教会の模範」と呼んでいます。この「模範」は、真似(まね)と学(まな)びをかけて「まねび」であると言われます。

14世紀から15世紀まで活躍したカトリック司祭トマス・ア・ケンピス(Thomas à Kempis [1379-1471])の主著『イミタチオ・クリスティ―キリストにならいて』(講談社学術文庫、2019年)のタイトルのラテン語「イミタチオ」(imitatio)はイミテーション(imitation)の語源です。

イミテーションといえば「模造品」ですが、それは原点に忠実であることでもあります。このイミテーションが「まねび」です。

テサロニケの教会が「模範」だったのは「多くの苦難の中で聖霊の喜びをもって御言葉を受け入れていた」からです。その人々は多くの人々にとっての「苦しみの模範」であり、苦しみの中で御言葉によって聖霊の喜びを与えられて忍耐して生きる人々の模範です。

教会の信仰の原点は、信仰・希望・愛、そして喜びです。

喜びに関するテキストを 2 か所紹介して、今日の説教を終わります。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラテヤの信徒への手紙 5 章22~23節)。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)。

(2026年 1 月 4 日 日本基督教団足立梅田教会 新年礼拝)

2025年11月30日日曜日

終末と希望

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「終末と希望」

テサロニケの信徒への手紙一 5 章 1 ~11節

関口 康

「主はわたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(10節)

説教題として最初に考えたのは「たとえ世界が滅びても」でした。近年、日本の小説やテレビや映画のタイトルやセリフに見かけるようになりました。この言葉には続きがあります。

「たとえ明日世界が滅びようとも、今日われらはなおリンゴの木を植えるだろう」(Und wenn morgen die Welt unter ginge, so wollen wir doch heute noch unser Apfelbäumchen pflanzen)

これは16世紀の宗教改革者マルティン・ルター(Martin Luther [1483-1546])の言葉として紹介されてきました。しかし、これが本当にルターの言葉かどうかに議論があります。マルティン・シュレーマンの『ルターのりんごの木』棟居洋訳、教文館、2015年)をぜひお読みください。シュレーマンの結論は「これはルターの言葉ではない」です。

シュレーマン『ルターのりんごの木』2015年

今日はテサロニケの信徒への手紙一を開きました。使徒パウロの手紙です。紀元50年ごろに書かれたもので、「現存するパウロの最古の手紙」であるだけでなく、「新約聖書の最古の文書」です(ヴィリー・マルクスセン『新約聖書緒論』(渡辺康麿訳、教文館、1984年、78頁参照)。

古文書の成立年代推定には根拠が必要です。そのひとつは「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められた」( 2 章 2 節)や「テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て」( 3 章 6 節)という描写を使徒言行録や他のパウロ書簡と比較して見えてくる結論です。

もうひとつは、パウロの教えの「初期」と「後期」に変化があることを認めて、どちらなのかを見分けることです。

 4 章13節から始まる話題は、世界の終末においてイエス・キリストが再び来られることについてです。パルーシア(παρουσία)と言い、「再臨」や「来臨」と訳されます。

パウロは、自分が生きている間にパルーシアが起こると、この手紙を書いたころは本気で信じていました。しかし、そうならないことが分かってトーンダウンし、やがて「再臨」について書かなくなります。それがパウロの変化です。

しかし、このような「聖書の歴史的批評的な読み方」に苦痛や反発を感じる方々が、現在世界24億人と言われるキリスト者の中にいます。聖書の言葉はすべて文字通りに実現すると信じている人々がこの箇所を説明するために用いる言葉が「携挙」(rapture)です。

まさに文字通り、世界の終末に信仰の先達とその時点で生きている人が空を飛び、彼方から飛んで来られる主イエスと空中で出会い、共に雲に包まれて携挙されます。まさにスペクタクル。

しかし、そのような非科学的なことが起こるはずはないと考えるキリスト者も大勢います。

先々週11月20日(木)五反田にあるゲンロンカフェで「宗教国家アメリカはどこへいく」というテーマで、新潮選書『アメリカの新右翼』の著者・井上弘貴氏と、中公新書『福音派』の著者・加藤喜之氏と、政治学者・三牧聖子氏の鼎談が開催されたので観覧しました。聖書の「終末論」がアメリカ社会を分断している、というのです。

『福音派』『アメリカの新右翼』

青土社(せいどしゃ)の雑誌『現代思想』11月号の特集が「終末論を考える」であると相生教会の本竜晋牧師から教えていただき、それも購入しました。なんと驚くべきことに、「終末論」が現代思想のトレンドであることが分かりました。

『現代思想』11月号 特集「終末論」を考える

 4 章16節以下について、ルターが「1532年 8 月22日付け」の文書で説明しています。

「これはたとえ話(verba Allegorica)です。子どもや単純な人に分かるように華々しい領主の行列にたとえています」(Martin Luther, Weimarer Ausgabe, 36, S. 268. M. H. Bolkestein, De brieven aan de Thessalonicenzen, Prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1970, p. 118からの再引用)。 

ルターが言ってくれているとおり、これは「たとえ話」(verba Allegorica)です。私たちは空を飛ばなくても大丈夫です。4 章17節は、後半に「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と記されているとおり、 5 章10節の「わたしたちが目覚めていても眠っていても主と共に生きるようになる」と趣旨が同じです。

あなたと主イエスの関係は永遠であり、生きているときも死んでからも同じように主イエスが共にいてくださるという慰めの言葉が語られていると分かれば、それで十分なのです。

マルティン・ルター

「それならば、今死んでも同じではないか。早くイエスさまにお会いしたい」と私たちは考えません。人生がつらいのは分かります。しかし、私たちは、たとえ明日世界が滅びようと、地味で地道な日常生活を営み続けます。そうする他ないではありませんか。

そして、私たちはパウロの教えに従って「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで」( 8 節)いようと思います。

「信仰、希望、愛」の組み合わせは、本書 1 章 3 節やコリントの信徒への手紙一13章13節にもあります。ここで大事なことは、私たちが身に着けることをすすめられているのは「胸当て」と「兜」、つまり自分を守るための防具だけであるということです。攻撃するための武器はありません。「信仰」や「愛」を武器にして他者を攻撃してはいけません。

さて、ここで少し話題の方向が変わります。今日は「終末と希望」についてお話ししています。「終末」が「たとえ明日世界が滅びようとも」に当たり、「希望」は「今日われらはなおりんごの木を植えるだろう」に当たると考えていただきたいです。

すべての命あるものに終わりがあるように、世界も必ず終わりを迎えます。そのとき「教会」は何をすべきでしょうか。私たちの「りんごの木」は何でしょうか。

ファン・ルーラーは「教会はそれ自体で目的でもある」(De kerk is ook doel in zichzelf)と教えました。日本で学生運動が盛んだった1960年代に、ヨーロッパの大学でも「世界同時革命」を呼びかける学生が多くいました。

そのころ流行した神学思想の中に「目標は世界の未来である。教会は手段に過ぎない」と教え、「教会」を「革命の拠点」としてとらえるものがありました。

その教えに反対するために、ファン・ルーラーが1960年に「教会はそれ自体で目的でもある」という講義をドイツで行いました(『ファン・ルーラー著作集』第5A巻、ブーケンセントルム社、2020年、232~247頁)。

『ファン・ルーラー著作集』第5A巻(2020年)・第5C巻(2023年)


その講義の趣旨は、教会が自己目的化し、内向きになるのがよろしくないことは理解できるが、それでは教会自身には目的も目標もないのかというと、そうではない、ということです。

オランダの教会も同じですが、日本のプロテスタントは「教会に行く」といえば「説教を聴きに行くこと」と同じ意味だった時代が長かったと思います。その後、聖餐式の価値が認められてきましたが、そのあたりで止まってしまいました。

ファン・ルーラーが「教会の目的」として強調しているのは「讃美歌」です。「礼拝」にみんなで集まり、共に歌い、共に祈る交わりそのものに、他に代えがたい価値があることを強調しています。私も大賛成です。

何よりファン・ルーラーにとって「宗教改革」(Reformatie)とは「大掃除」(grote schoongemaak)でした。それは「革命」ではありませんでした。

これもたとえ話ですが、「部屋の掃除をするのが面倒くさいから、家を壊して建て直す」というなら「革命」かもしれませんが、それは暴力です。「掃除」は「革命」ではありません。そこにすでにあるものを、ホコリを払って磨いて活用するだけです。それは人間に対する見方にも通じます。プロテスタント教会は「革命」を求めず「改革」を続けます。

教会だけが「目的」ではありません。神の創造のみわざの目的は、人間をキリスト者にすることではありません。教会だけが残ることが世界の目的ではありません。教会は社会との共存を求めます。科学技術の進歩の恩恵にあずかっています。

しかし、現実はどうでしょう。人工知能の進歩によって今後奪われる職種は 2 万と言われます。「超富裕層」(3000万ドルあるいは45億円以上)は30万人、世界人口の0.005パーセントです。大多数は「貧困層」です。どうしてこれほどバランスが崩れてしまったのでしょうか。科学技術は人類を幸せにしたでしょうか。

「本当の自由は何か」「善き未来とは何か」は全人類の真剣な問いです。これらの問いに真剣に取り組んでいるルドガー・ブレグマン『希望の歴史』上・下巻(野中香方子訳、文藝春秋社、2021年)と、敬愛する水島治郎先生の『オランダは、「自由の国」だったのか』(NHK出版、2025年)を推薦いたします。

『オランダは、「自由な国」だったのか』『希望の歴史』

教会は社会の問題を考える場でもあります。たとえば、もし聖書の「終末論」の間違った解釈が戦争の原因になっているとしたら、教会がそれを無視できるはずがないではありませんか。

最後にもう一度、ファン・ルーラーの言葉を紹介します。

「キリスト教の視点からすれば、いかなる否定的なことに対しても、人類は肯定的にしか立ちません。たとえ世界が滅びても、その滅亡を人類は共に乗り越えます。最後の瞬間でさえ、別の世界へ逃げません」(「聖書の未来待望と地上の視点」(Bijbelse toekomstverwachting en aards perspectief) 『ファン・ルーラー著作集』第5C巻、ブーケンセントルム社、2023年、952頁)

私もファン・ルーラーと同じ思いです。私たちは「ここではない、どこか」へ逃げても、人間が罪から逃れられないかぎり、破局の現実はどこまでも追いかけてきます。

現実に踏みとどまって、身近なところから「改革」しようではありませんか。それは「革命」ではありません。忍耐強く、部屋を片付けていくのです。そうするだけで、自由に使える生活空間が広がります。それが私たちの「希望」です。

(2025年11月30日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)