2026年10月12日月曜日

2026年11月の予定

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

11月 1 日(日)永眠者記念礼拝

説教「人生の目標を定める」

ローマの信徒への手紙15章14~21節

11月 3 日(火)墓前礼拝(午前11時 地産霊園教会墓地)

説教「天国の色」

ヨハネの黙示録22章 1 ~ 5 節

11月 8 日(日)

説教「惜しみなく支援する」

ローマの信徒への手紙15章22~33節

11月15日(日)

説教「個人を尊重する」

ローマの信徒への手紙16章 1 ~16節

11月22日(日)

説教「夢をあきらめない」

ローマの信徒への手紙16章17~27節

教会学校(午前9時)

11月29日(日)待降節第 1 主日

説教「クリスマスの足音」

マタイによる福音書 1 章18~25節

祈祷会(礼拝後)

2026年10月11日日曜日

他者のために生きる

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「他者のために生きる」

ローマの信徒への手紙14章 1 ~12節

関口 康

「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(8節)

今日の箇所から15章 6 節までの箇所で、パウロは教会を「信仰の強い人」と「信仰の弱い人」に分けています。「強い人」という表現自体は15章 1 節で初めて登場しますが、同じ話題の続きですし、「強い」と「弱い」は対義語ですので、14章から用いても問題ありません。

具体例は 2 つです。第 1 は飲食の問題です。第 2 は日にちの問題です。この 2 点は、他の教会に書き送った手紙にも出てきます。

ガラテヤの信徒には、ユダヤ人のように「日、月、定められた時、年」を守ることで福音の自由から古い束縛に逆戻りした人々がいたため、反論しています(ガラテヤ 4 章)。

コリントの信徒には、偶像に捧げられた犠牲の肉を食べてよいかどうかの問題がありましたが、パウロは「議論の余地のある事柄」として扱っています(Ⅰコリント 8 章)。

コロサイの信徒には、偽教師たちが食物や飲み物、新月祭や安息日の遵守に関して律法主義的な見解で混乱が起きていたため、批判しています(コロサイ 2 章)。

今日の箇所を理解するために当時のギリシャ・ローマ社会の哲学者や宗教の間で禁欲主義が普及していたことを覚える必要があります。ピタゴラス派、オルフェウス教、ディオニュソス教などが菜食主義者でした。

オルフェウス教の人々が肉食を控えた理由は、生き物を怒らせる恐れがあるからでした。ぶどう酒を控えた理由は、知性を損ない、神々との交わりを妨げるからでした。他の運動や宗派では、ぶどう酒を完全に断ち、時には結婚を断つところもありました。その影響が教会にも及び、あるキリスト教のグループ(エンクラタイ派)では、聖餐式で水を飲みました。

しかし、「信仰の弱い人」という呼び方には大いに議論の余地があります。この人々は本当に「信仰が弱い」と言われなければならないでしょうか。

預言者ダニエルは、試練に遭ったとき、「三週間喪に服し……三週間が終わるまで、私は美食を断ち、肉もぶどう酒も口にせず、香油も塗らなかった」(ダニエル書10章 3 節)と記しています。ダニエルは「信仰が弱い」人でしょうか。

聖餐式でアルコールを用いない教会はどうでしょうか。足立梅田教会は創立以来、聖餐式でアルコールを用いていません。私たちは「信仰が弱い」でしょうか。そんなことを言われても困ると感じるに違いません。

パウロ自身にも矛盾がないわけではありません。自分を指さして「私たち強い者」(15章 1 節)と明言し、肉を食べることに異議を唱えず、特別なことでもないかぎり断食の日を守りません。しかしその一方で、結婚を避けること(コリント一  7 章)を勧めています。

コリントの信徒については、肉が偶像の神殿でしか手に入らなかったために「汚れたもの」とみなし、肉断ちしたかもしれないという可能性が指摘されています。キリスト者は毎日酒びたりで大丈夫でしょうか。

カール・バルトが、キリスト者の生活には「手すり」が必要であると記しています(川名勇訳「ローマ書新解」『カール・バルト著作集』第15巻、新教出版社、546頁以下)。この「手すり」は、山岳地帯の断崖絶壁沿いに設置されるゲレンデ(Geländer)です。体力に自信のない観光客が安全に旅行するために設けられます。

よほどの特殊訓練でも受けないかぎり、ゲレンデなしに登れる人は少数です。バルトがキリスト教信仰におけるゲレンデの必要性を訴えた意図は、パウロが「信仰の弱い人」と呼んでいる側の人々を擁護することでした。私も同意します。

しかし、表現の問題はともかく、飲食の問題と日にちの問題において教会の中で差が起きることがありうることは、よく分かります。

パウロがそう呼んでいる「信仰の弱い人」は、肉を食べてはならないことや、断食の日を守らなければならないことを確信し、キリスト教的に良いことであるとして、他の人にも同じようにしてもらいたいと期待します。異教の宗教的な祝日や、縁起の悪い日・良い日なども、ある程度まで、または全面的に受け入れ、重んじます。

そのような人の姿は「信仰の強い人」から見ると、あらゆる種類の束縛に縛られているという印象を与えます。

「信仰の強い人」が陥る罠は、「信仰の弱い人」が自由を欠いていると見えるため、その人たちを軽蔑することです( 3 節)。

「信仰の弱い人」が陥る罠は、自分たちの確信を揺るがされてなるものかと「信仰の強い人」を攻撃することです。

その対立が西暦 1 世紀の教会からすでにあり、今日まで続いています。

パウロが訴えているのは、飲食の問題と日にちの問題はキリスト教信仰の根幹にかかわることではないので、けんかをやめて、お互いの立場をノーコメントで受け入れなさいということです。どちらの人も神に受け入れられ、神の家族に迎え入れられているので、互いを受け入れなければならない、ということです。

飲食の問題や日にちの問題というような実際的で相対的な問題は、教会の教義や信仰告白などの絶対的な問題よりも価値が低いので、どうでもいいという意味ではありません。それは誤解です。

異端は毅然と拒否しなくてはなりません。しかし、飲食や日にちの問題は、教会を割らなければならないような問題ではありません。

私のことを言わせていただけば、パウロと同じです。飲食に制限を設けていません。盆暮れ正月すら無関係な人生を送ってきました。しかし、家族や親せきや地域社会、あるいは会社や仕事との関係の中で、それほど単純に事が運ばない方々の状況をよく知っていますし、軽蔑したことはありません。

日曜日はどうでしょうか。パウロの言う「どの日も同じ」という教えにおいては、「日曜日」も例外ではありません。なぜなら、キリスト者は何世紀にもわたってローマ帝国内で奴隷や労働者の階級に置かれ、日曜日は仕事をしなくてはならなかったからです。パウロの時代も、日曜日は「休んで教会に行く日」ではなく、せいぜい夜しか集まることができませんでした。

その続きに「私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません」( 7 節)と記されています。

古代の人々も、人は自分のためだけに生き、死ぬことはできないことを知っていました。パウロと同時代のギリシアの思想家プルタルコス(西暦46年頃-119年頃)は「自分のためだけに生き、死ぬのは恥ずべきことである」(『クレオメネス伝』第31節)と言いました。

プルタルコスの意図は、人は「国家のために」生きて死ぬべきであるということです。これは極めて恐ろしい思想です。今日の説教題「他者のために生きる」は、その意味ではありません。

「自分のためだけに生き、死ぬこと」で満足すべきでないことは私も理解できます。自己中心的な生き方には限界があります。

パウロが教えているのは、キリスト者にとっての「他者」はイエス・キリストであるということです。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(8~9節)と述べています。

(2026年10月11日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年9月13日日曜日

思いを一つに 足立梅田教会創立73周年記念礼拝

前列右から 3 人目が藤村靖一牧師(初代・第 3 代牧師)
後列左から 2 人目が北村慈郎牧師(第 2 代牧師)

説教「思いを一つに」

ローマの信徒への手紙12章 9 ~21節

足立梅田教会創立73周年記念礼拝

関口 康

「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってはなりません」(16節)

今日は当教会の創立73周年記念礼拝です。おめでとうございます。

しかし、そのお祝いの日に水をかけたいわけではありませんが、「73」はキリが悪い数字です。たぶんそうだろうと予測してAIジェミニに確認してもらったら、「あなたのおっしゃるとおり、73は素数です」と返してくれました。

素数とは「 1 とそれ自体の数以外では割り切れない数字」です。孤立している感じがあります。73周年で満足できるでしょうか。キリの良い80周年、90周年、100周年を目指したいでしょう。「75でもいいか」と思うかどうかは考え方次第です。

今日の説教題にこだわりはありません。「愛」のほうがふさわしいかもしれません。今日の箇所は最初から最後まで「愛とは何か」を教えています。しかし「愛」を言い出せば、毎週の説教題が「愛」です。「愛」という言葉は、聖書の中に数え切れないほど登場します。すべての教えの土台が「愛」です。

しかし「愛」の意味の説明は容易ではありません。愛し合う前に「愛の定義」を知りたがる男女のようです。「悪」と「善」の意味も同様です。しかし、何かを語らなければなりません。「愛」について語ることは、教会創立73周年記念礼拝にふさわしいことです。なぜなら、今日の箇所に記されている「愛」は「キリスト者の実践」との関係において各自が行うべきことだからです。

ある程度の確かさをもって聖書的・キリスト教的な「愛」を定義するなら、それは他者の幸福と尊厳を思い、他者を喜び、自分を他者と分かち合おうと努めることです。また「神は愛です」。「愛」は神の本質です。そして「愛」は日常生活のあらゆる関係の土台です。

その愛に偽りがあってはなりません( 9 節、Ⅱコリント 6 章 6 節、Ⅰペトロ 1 章22節)。完璧な愛は求められていません。しかし、うそでないこと、大言壮語でないこと、誠実さ(ピスティス)は求められています。

ピスティスとは、自分が立てた誓いを自分で取り下げないこと、約束した自分を自分で裏切らないこと、です。

同時に聖書において「愛」の実践は「悪」との関係を考える機会になります。戦後のオランダで活躍した神学者レッケルケルカー(A. F. N. Lekkerkerker [1913-1972])が『ローマ書注解・下』(オランダ語版、1965年、118頁)に記したことによれば、戦時中ナチス・ドイツに蹂躙されていたオランダ人にとって「愛しなさい」という戒めは「ドイツ人を愛さなければならないこと」を意味するかどうかの問題でした。

レッケルケルカーは結論的に「彼らが福音に反する世界観の代表者かつ実行者であるかぎり、『悪を退けなさい』という戒めのほうに該当した」と述べています。

悪とは、存在を害し、生命を損ない、人に不幸と破滅をもたらし、道徳的に非難されるべきものであり、究極的には神の意志に反するものです。

パウロは、私たちが悪を憎むべきであることを教えています。「悪を退け」と訳されていますが、ギリシャ語の訳としては弱すぎます。神は被造物と人間をとても愛しておられるので、罪を憎み、悪を無くしたいと願っておられます。

10~13節は兄弟愛(フィラデルフィア)で始まり、もてなし(フィロクセニア)で終わります。どちらの言葉も、古代ギリシャ・ローマ文化の中で「慈善の実践」において重要な意味を持っていました。パウロは、同じ家族内の兄弟間の愛情を意味するフィラデルフィアを、教会員同士の関係に当てはめました。「もてなし」は、見知らぬ人や旅人に対して実践されるべき美徳ですが、この言葉もパウロは教会内の関係に当てはめています。

第二の勧告では、ある賜物を受けた者が自分を他人よりも優れていると考える誘惑に反対しています。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」(フィリピ 2 章 3 節)。しかも、愛は教会の外なる人々にも向けられるべきことを主張しています(14節)。キリスト者は教会の中だけでなく、世の中にも生きているからです。

教会員同士の家族のような関係は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くこと」(15節)を意味します。これは容易なことではありません。「喜ぶ者と共に喜ぶこと」は「泣く者と共に泣くこと」よりも難しいです。なぜなら人は、隣人の幸福、他人の喜びを見ると、嫉妬してしまうからです(A. A.ファン・ルーラー「喜びを人に分かつと喜びは二倍になる」(関口康訳はこちら)『使徒の権威において』、聖書黙想集、オランダ語版、1971年、118頁)。

「あらゆる喜びに共に喜ぶべきではない」と指摘する人(オリゲネス)もいます。商売が奇跡的に成功して莫大な資産を得て喜んでいる人と共に喜ばなくていいでしょう。この喜びは束の間のものだからです。同じように、隣人のあらゆる悲しみ、たとえば一時的に多額の財産を失った人の悲しみに付き合わなくていいでしょう。それも束の間のことです。簡単に割り切れないかもしれませんが、大事なことは、真の喜びと真の悲しみがどこにあるかを識別することです。

パウロは多くの箇所で教会に一致を促しています。「互いに思いを一つにし」(16節)は、先ほど引用したフィリピ 2 章 3 節と趣旨が同じです。この聖句は「謙遜な人々と交わる」という意味で理解すべきです。教会は「高い目標」、すなわち特別な賜物によって他の人よりも「上」を目指そうとする危険にさらされています。パウロは謙遜で小さな者の中に加わるよう勧めています。

パウロが17~19節に述べているのは主観的で感情的な「復讐」をすすめる言葉ではありません。主観的な「復讐」と、正当な罰としての客観的な「報復」を区別することは今日の箇所を正しく理解するために必要です。

パウロは、人が衝動に駆られて「復讐」を行うことを戒めています。その根拠として、神は悪に正当に報復し、犯罪者を罰する方であることを示しています。報復できるのは神のみです。神の罰としての「報復」は人間の「復讐」とは無関係です。

「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(20節。箴言25章21~22節)の意味は謎です。分かりません。敵への拷問でしょうか。それとも、愛によって悔い改めと回心へと導くことでしょうか。拷問のほうではないと思いたいです。

教会の存在理由と目標を知ることは、私たちが教会につらなる意義と価値を知ることにつながります。教会は「他者のために生きること」と「悪と戦うこと」のために存在します。「悪と戦う」とは「悪人を善人に変えること」です。それがいちばん難しいことです。その最も難しい課題に、教会は取り組んでいます。

キリの良い「80周年」までと言われるとつらいでしょう。まずは来年の「74周年」まで、みんな元気に過ごしましょう。一歩一歩、地味に地道に着実に歩みを進めていこうではありませんか。

(2026年 9 月13日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年9月5日土曜日

2026年10月の予定

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


10月 4 日(日)

説教「隣人愛」

ローマの信徒への手紙13章8~14節

10月11日(日)

説教「他者のために生きる」

ローマの信徒への手紙14章1~12節

10月18日(日)

説教「互いを築き上げる」

ローマの信徒への手紙14章13~23節

10月25日(日)

説教「相手を受け入れる」

ローマの信徒への手紙15章1~13節

2026年8月30日日曜日

信仰とは信頼である

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「信仰とは信頼である」

ローマの信徒への手紙11章25~36節

関口 康

「神の賜物と招きは取り消されることがない」(29節)

今日の箇所でパウロは「秘義」(μυστήριον ミュステリオン)を告げています。新約聖書の中で用いられる場合の「秘義」の意味は、終末における神の定めです。たとえば、コリントの信徒への手紙一15章51節をご覧ください。イエス・キリストがまた来てくださる未来が「秘義」として描かれています。

終末は、現在の私たちにとっても未来です。未来を自分の目で見たことがある人はいません。「秘義」を告げているパウロは、自分でも見たことが無い未来をなぜか知っている霊能者のようです。

しかしパウロは、何の根拠もなく未来を言い当てようとしているわけではありません。

第一の根拠は、「旧約聖書」です。パウロはユダヤ教のラビになるための教育を受けた人です。律法(トーラー)、預言者(ネビイーム)、諸書(ケトゥビーム)を学んでいます。テキストに基づいて考えることができる人です。

第二の根拠は、パウロ自身が直接的にかかわった教会や個人、そして彼自身の経験です。今日の箇所で語られている「秘義」の内容は、終末における神の定めにおいては、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストの教会において救われるということです。つまりこれはイエス・キリストと教会の関係についての「秘義」です。

そう言ってよいなら、私たちも「秘義」を理解することができます。私たちが教会だからです。私たち教会とイエス・キリストの関係は「秘義」です。私はなぜここにいるのでしょうか。なぜ教会の礼拝に出席しているのでしょうか。その理由を完全に説明できる人はいません。自分自身ですらその全体像を把握しきれない「ミステリー」なのです。

今日の箇所の「イスラエル」が民族としてのイスラエルを意味することは明白です。「異邦人」と対比されているからです。秘義を裏付けるためにパウロが引用している聖書箇所も特定の場所(シオン)、特定の民(ヤコブ)について述べています。

そうなるとどうしても避けて通れなくなるのは、現在進行中のイスラエルの戦争のことです。「イスラエル」という言葉を聞く今の人は、必ずそのことを考えるでしょう。

しかし、第二次世界大戦後のパレスティナの領土問題と今日の箇所を直接結びつけるのはやめましょう。何らかの結論を出すこと自体がどちらか一方への加担を意味するからです。日本は絶対に戦争に巻き込まれてはなりません。どちらかを支援することすら加担です。ローマの信徒への手紙の解釈いかんで、戦争の状況が変わるわけでもありません。イスラエルの戦争については、私たちは判断を停止すべきです。

そういうことではなく、私たちにできそうなのは、今日の箇所に記されていることを自分自身に当てはめてみることです。

教会の説教は、自分の話をすることではないので、私の話をするのはなるべく避けたいのですが、ここは言わせてください。

繰り返し申し上げているとおり、私は60歳で60年、教会に通ってきた人間です。私が生まれる前から両親がキリスト者となり、兄と私は生まれたときから教会に連れていかれました。

そして私は、小学校入学前の 6 歳の教会のクリスマス礼拝(1971年12月26日)で、自分の明確な意志を言い表わして、成人洗礼を授けてもらいました。風邪を引いたとき以外は、日曜日の礼拝に休まず通いました。高校からストレートで東京神学大学に入り、卒業後24歳から現在60歳まで牧師を続けてきました。

60歳の私が60年、教会を離れずにいられたことが、ミステリーです。はっきり言えるのは、私の信仰は深くもなければ強くもない、ということです。教会の皆さんにはとっくにばれています。そうであることを恥ずかしいと思っていないので、隠したことがありません。

私がなぜ教会から離れないでいられるのかの理由は、はっきり分かりますし、説明もできます。

それはこのたび私たちの教会の礼拝で正式に導入した「聖書協会共同訳」の最大の魅力である、ギリシア語ピスティスを文脈によって「①神の真実」と「②人間の信仰」とに訳し分けることと関係あることです。

「①神の真実」としてのピスティスの意味が、29節にまさに記されています。「神の賜物と招きは取り消されることがない」。

その意味は、神は約束を絶対に守るかたであるということです。いったん発した約束を、神の側から取り下げることはありません。人間の側の事情や都合が変われば、それに応じて、約束など初めから無かったことにして、態度を変える方ではありません。

それが「①神の真実」(ピスティス)の意味であり、だからこそ、イスラエルは「つまずいた」が「倒れていない」とパウロは言うのです。異邦人が先に救われ、救いの恵みにあずかって喜びに輝く異邦人の姿にユダヤ人がねたみを抱き、それによって奮起して、あとから救われるというパウロが描く壮大な「秘義」の根拠は「①神の真実」(ピスティス)です。

しかし、だからといってピスティスから「②人間の信仰」という意味が無くなったわけではありません。そもそも約束というものは、ひとりで成立するものではありません。相手が必要です。相手がいない約束など無意味です。

そして人間も、いったん約束したことに対する「真実、誠実、忠実」(ピスティス)が求められないはずがありません。約束を守らない人は信用されません。自分でも、うそつきになりたくはないでしょう。

私がそうでした。中学生のころ、日曜日の朝「今日は教会に行きたくない」とグズグズしていたとき、母から「自分で洗礼を受けたいと言ったでしょう」と言われて、返す言葉が無くて教会に行ったことを覚えています。

私は、神を信じる信仰は強くもなければ深くもありません。しかし、自分が立てた約束を自分で破りたくないという思いが非常に強いです。洗礼を受けたとき決心し、約束した自分を、自分で裏切ることができません。

だから私は教会から離れることができないし、離れたくありません。自分で自分を裏切ることになるからです。その意味では、私は自己愛が強いだけかもしれません。

神に対して私にできるのは、イエス・キリストを通して明らかにされた「真実な」神を、ただ「信頼」することだけです。その「信頼」によって私たちは救われます。

(2026年 8 月31日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)