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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「他者のために生きる」
ローマの信徒への手紙14章 1 ~12節
関口 康
「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(8節)
今日の箇所から15章 6 節までの箇所で、パウロは教会を「信仰の強い人」と「信仰の弱い人」に分けています。「強い人」という表現自体は15章 1 節で初めて登場しますが、同じ話題の続きですし、「強い」と「弱い」は対義語ですので、14章から用いても問題ありません。
具体例は 2 つです。第 1 は飲食の問題です。第 2 は日にちの問題です。この 2 点は、他の教会に書き送った手紙にも出てきます。
ガラテヤの信徒には、ユダヤ人のように「日、月、定められた時、年」を守ることで福音の自由から古い束縛に逆戻りした人々がいたため、反論しています(ガラテヤ 4 章)。
コリントの信徒には、偶像に捧げられた犠牲の肉を食べてよいかどうかの問題がありましたが、パウロは「議論の余地のある事柄」として扱っています(Ⅰコリント 8 章)。
コロサイの信徒には、偽教師たちが食物や飲み物、新月祭や安息日の遵守に関して律法主義的な見解で混乱が起きていたため、批判しています(コロサイ 2 章)。
今日の箇所を理解するために当時のギリシャ・ローマ社会の哲学者や宗教の間で禁欲主義が普及していたことを覚える必要があります。ピタゴラス派、オルフェウス教、ディオニュソス教などが菜食主義者でした。
オルフェウス教の人々が肉食を控えた理由は、生き物を怒らせる恐れがあるからでした。ぶどう酒を控えた理由は、知性を損ない、神々との交わりを妨げるからでした。他の運動や宗派では、ぶどう酒を完全に断ち、時には結婚を断つところもありました。その影響が教会にも及び、あるキリスト教のグループ(エンクラタイ派)では、聖餐式で水を飲みました。
しかし、「信仰の弱い人」という呼び方には大いに議論の余地があります。この人々は本当に「信仰が弱い」と言われなければならないでしょうか。
預言者ダニエルは、試練に遭ったとき、「三週間喪に服し……三週間が終わるまで、私は美食を断ち、肉もぶどう酒も口にせず、香油も塗らなかった」(ダニエル書10章 3 節)と記しています。ダニエルは「信仰が弱い」人でしょうか。
聖餐式でアルコールを用いない教会はどうでしょうか。足立梅田教会は創立以来、聖餐式でアルコールを用いていません。私たちは「信仰が弱い」でしょうか。そんなことを言われても困ると感じるに違いません。
パウロ自身にも矛盾がないわけではありません。自分を指さして「私たち強い者」(15章 1 節)と明言し、肉を食べることに異議を唱えず、特別なことでもないかぎり断食の日を守りません。しかしその一方で、結婚を避けること(コリント一 7 章)を勧めています。
コリントの信徒については、肉が偶像の神殿でしか手に入らなかったために「汚れたもの」とみなし、肉断ちしたかもしれないという可能性が指摘されています。キリスト者は毎日酒びたりで大丈夫でしょうか。
カール・バルトが、キリスト者の生活には「手すり」が必要であると記しています(川名勇訳「ローマ書新解」『カール・バルト著作集』第15巻、新教出版社、546頁以下)。この「手すり」は、山岳地帯の断崖絶壁沿いに設置されるゲレンデ(Geländer)です。体力に自信のない観光客が安全に旅行するために設けられます。
よほどの特殊訓練でも受けないかぎり、ゲレンデなしに登れる人は少数です。バルトがキリスト教信仰におけるゲレンデの必要性を訴えた意図は、パウロが「信仰の弱い人」と呼んでいる側の人々を擁護することでした。私も同意します。
しかし、表現の問題はともかく、飲食の問題と日にちの問題において教会の中で差が起きることがありうることは、よく分かります。
パウロがそう呼んでいる「信仰の弱い人」は、肉を食べてはならないことや、断食の日を守らなければならないことを確信し、キリスト教的に良いことであるとして、他の人にも同じようにしてもらいたいと期待します。異教の宗教的な祝日や、縁起の悪い日・良い日なども、ある程度まで、または全面的に受け入れ、重んじます。
そのような人の姿は「信仰の強い人」から見ると、あらゆる種類の束縛に縛られているという印象を与えます。
「信仰の強い人」が陥る罠は、「信仰の弱い人」が自由を欠いていると見えるため、その人たちを軽蔑することです( 3 節)。
「信仰の弱い人」が陥る罠は、自分たちの確信を揺るがされてなるものかと「信仰の強い人」を攻撃することです。
その対立が西暦 1 世紀の教会からすでにあり、今日まで続いています。
パウロが訴えているのは、飲食の問題と日にちの問題はキリスト教信仰の根幹にかかわることではないので、けんかをやめて、お互いの立場をノーコメントで受け入れなさいということです。どちらの人も神に受け入れられ、神の家族に迎え入れられているので、互いを受け入れなければならない、ということです。
飲食の問題や日にちの問題というような実際的で相対的な問題は、教会の教義や信仰告白などの絶対的な問題よりも価値が低いので、どうでもいいという意味ではありません。それは誤解です。
異端は毅然と拒否しなくてはなりません。しかし、飲食や日にちの問題は、教会を割らなければならないような問題ではありません。
私のことを言わせていただけば、パウロと同じです。飲食に制限を設けていません。盆暮れ正月すら無関係な人生を送ってきました。しかし、家族や親せきや地域社会、あるいは会社や仕事との関係の中で、それほど単純に事が運ばない方々の状況をよく知っていますし、軽蔑したことはありません。
日曜日はどうでしょうか。パウロの言う「どの日も同じ」という教えにおいては、「日曜日」も例外ではありません。なぜなら、キリスト者は何世紀にもわたってローマ帝国内で奴隷や労働者の階級に置かれ、日曜日は仕事をしなくてはならなかったからです。パウロの時代も、日曜日は「休んで教会に行く日」ではなく、せいぜい夜しか集まることができませんでした。
その続きに「私たちは誰一人、自分のために生きる人はなく、自分のために死ぬ人もいません」( 7 節)と記されています。
古代の人々も、人は自分のためだけに生き、死ぬことはできないことを知っていました。パウロと同時代のギリシアの思想家プルタルコス(西暦46年頃-119年頃)は「自分のためだけに生き、死ぬのは恥ずべきことである」(『クレオメネス伝』第31節)と言いました。
プルタルコスの意図は、人は「国家のために」生きて死ぬべきであるということです。これは極めて恐ろしい思想です。今日の説教題「他者のために生きる」は、その意味ではありません。
「自分のためだけに生き、死ぬこと」で満足すべきでないことは私も理解できます。自己中心的な生き方には限界があります。
パウロが教えているのは、キリスト者にとっての「他者」はイエス・キリストであるということです。「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(8~9節)と述べています。
(2026年10月11日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)