2026年9月14日月曜日

思いを一つに 足立梅田教会創立73周年記念礼拝

前列右から 3 人目が藤村靖一牧師(初代・第 3 代牧師)
後列左から 2 人目が北村慈郎牧師(第 2 代牧師)

説教「思いを一つに」

ローマの信徒への手紙12章 9 ~21節

足立梅田教会創立73周年記念礼拝

関口 康

「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってはなりません」(16節)

今日は当教会の創立73周年記念礼拝です。おめでとうございます。

しかし、そのお祝いの日に水をかけたいわけではありませんが、「73」はキリが悪い数字です。たぶんそうだろうと予測してAIジェミニに確認してもらったら、「あなたのおっしゃるとおり、73は素数です」と返してくれました。

素数とは「 1 とそれ自体の数以外では割り切れない数字」です。孤立している感じがあります。73周年で満足できるでしょうか。キリの良い80周年、90周年、100周年を目指したいでしょう。「75でもいいか」と思うかどうかは考え方次第です。

今日の説教題にこだわりはありません。「愛」のほうがふさわしいかもしれません。今日の箇所は最初から最後まで「愛とは何か」を教えています。しかし「愛」を言い出せば、毎週の説教題が「愛」です。「愛」という言葉は、聖書の中に数え切れないほど登場します。すべての教えの土台が「愛」です。

しかし「愛」の意味の説明は容易ではありません。愛し合う前に「愛の定義」を知りたがる男女のようです。「悪」と「善」の意味も同様です。しかし、何かを語らなければなりません。「愛」について語ることは、教会創立73周年記念礼拝にふさわしいことです。なぜなら、今日の箇所に記されている「愛」は「キリスト者の実践」との関係において各自が行うべきことだからです。

ある程度の確かさをもって聖書的・キリスト教的な「愛」を定義するなら、それは他者の幸福と尊厳を思い、他者を喜び、自分を他者と分かち合おうと努めることです。また「神は愛です」。「愛」は神の本質です。そして「愛」は日常生活のあらゆる関係の土台です。

その愛に偽りがあってはなりません( 9 節、Ⅱコリント 6 章 6 節、Ⅰペトロ 1 章22節)。完璧な愛は求められていません。しかし、うそでないこと、大言壮語でないこと、誠実さ(ピスティス)は求められています。

ピスティスとは、自分が立てた誓いを自分で取り下げないこと、約束した自分を自分で裏切らないこと、です。

同時に聖書において「愛」の実践は「悪」との関係を考える機会になります。戦後のオランダで活躍した神学者レッケルケルカー(A. F. N. Lekkerkerker [1913-1972])が『ローマ書注解・下』(オランダ語版、1965年、118頁)に記したことによれば、戦時中ナチス・ドイツに蹂躙されていたオランダ人にとって「愛しなさい」という戒めは「ドイツ人を愛さなければならないこと」を意味するかどうかの問題でした。

レッケルケルカーは結論的に「彼らが福音に反する世界観の代表者かつ実行者であるかぎり、『悪を退けなさい』という戒めのほうに該当した」と述べています。

悪とは、存在を害し、生命を損ない、人に不幸と破滅をもたらし、道徳的に非難されるべきものであり、究極的には神の意志に反するものです。

パウロは、私たちが悪を憎むべきであることを教えています。「悪を退け」と訳されていますが、ギリシャ語の訳としては弱すぎます。神は創造物と人間をとても愛しておられるので、罪を憎み、悪を無くしたいと願っておられます。

10~13節は兄弟愛(フィラデルフィア)で始まり、もてなし(フィロクセニア)で終わります。どちらの言葉も、古代ギリシャ・ローマ文化の中で「慈善の実践」において重要な意味を持っていました。パウロは、同じ家族内の兄弟間の愛情を意味するフィラデルフィアを、教会員同士の関係に当てはめました。「もてなし」は、見知らぬ人や旅人に対して実践されるべき美徳ですが、この言葉もパウロは教会内の関係に当てはめています。

第二の勧告では、ある賜物を受けた者が自分を他人よりも優れていると考える誘惑に反対しています。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」(フィリピ 2 章 3 節)。しかも、愛は教会の外なる人々にも向けられるべきことを主張しています(14節)。キリスト者は教会の中だけでなく、世の中にも生きているからです。

教会員同士の家族のような関係は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くこと」(15節)を意味します。これは容易なことではありません。「喜ぶ者と共に喜ぶこと」は「泣く者と共に泣くこと」よりも難しいです。なぜなら人は、隣人の幸福、他人の喜びを見ると、嫉妬してしまうからです(A. A.ファン・ルーラー「喜びを人に分かつと喜びは二倍になる」(関口康訳はこちら)『使徒の権威において』、聖書黙想集、オランダ語版、1971年、118頁)。

「あらゆる喜びに共に喜ぶべきではない」と指摘する人(オリゲネス)もいます。商売が奇跡的に成功して莫大な資産を得て喜んでいる人と共に喜ばなくていいでしょう。この喜びは束の間のものだからです。同じように、隣人のあらゆる悲しみ、たとえば一時的に多額の財産を失った人の悲しみに付き合わなくていいでしょう。それも束の間のことです。簡単に割り切れないかもしれませんが、大事なことは、真の喜びと真の悲しみがどこにあるかを区別することです。

パウロは多くの箇所で教会に一致を促しています。「互いに思いを一つにし」(16節)は、先ほど引用したフィリピ 2 章 3 節と趣旨が同じです。この聖句は「謙遜な人々と交わる」という意味で理解すべきです。教会は「高い目標」、すなわち特別な賜物によって他の人よりも「上」を目指そうとする危険にさらされています。パウロは謙遜で小さな者の中に加わるよう勧めています。

パウロが17~19節に述べているのは主観的で感情的な「復讐」をすすめる言葉ではありません。主観的な「復讐」と、正当な罰としての客観的な「報復」を区別することは今日の箇所を正しく理解するために必要です。

パウロは、人が衝動に駆られて「復讐」を行うことを戒めています。その根拠として、神は悪に正当に報復し、犯罪者を罰する方であることを示しています。報復できるのは神のみです。神の罰としての「報復」は人間の「復讐」とは無関係です。

「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(20節。箴言25章21~22節)の意味は謎です。分かりません。敵への拷問でしょうか。それとも、愛によって悔い改めと回心へと導くことでしょうか。拷問のほうではないと思いたいです。

教会の存在理由と目標を知ることは、私たちが教会につらなる意義と価値を知ることにつながります。教会は「他者のために生きること」と「悪と戦うこと」のために存在します。「悪と戦う」とは「悪人を善人に変えること」です。それがいちばん難しいことです。その最も難しい課題に、教会は取り組んでいます。

キリの良い「80周年」までと言われるとつらいでしょう。まずは来年の「74周年」まで、みんな元気に過ごしましょう。一歩一歩、地味に地道に着実に歩みを進めていこうではありませんか。

(2026年 9 月13日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年9月5日土曜日

2026年10月の予定

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


10月 4 日(日)

説教「隣人愛」

ローマの信徒への手紙13章8~14節

10月11日(日)

説教「他者のために生きる」

ローマの信徒への手紙14章1~12節

10月18日(日)

説教「互いを築き上げる」

ローマの信徒への手紙14章13~23節

10月25日(日)

説教「相手を受け入れる」

ローマの信徒への手紙15章1~13節

2026年8月30日日曜日

信仰とは信頼である

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「信仰とは信頼である」

ローマの信徒への手紙11章25~36節

関口 康

「神の賜物と招きは取り消されることがない」(29節)

今日の箇所でパウロは「秘義」(μυστήριον ミュステリオン)を告げています。新約聖書の中で用いられる場合の「秘義」の意味は、終末における神の定めです。たとえば、コリントの信徒への手紙一15章51節をご覧ください。イエス・キリストがまた来てくださる未来が「秘義」として描かれています。

終末は、現在の私たちにとっても未来です。未来を自分の目で見たことがある人はいません。「秘義」を告げているパウロは、自分でも見たことが無い未来をなぜか知っている霊能者のようです。

しかしパウロは、何の根拠もなく未来を言い当てようとしているわけではありません。

第一の根拠は、「旧約聖書」です。パウロはユダヤ教のラビになるための教育を受けた人です。律法(トーラー)、預言者(ネビイーム)、諸書(ケトゥビーム)を学んでいます。テキストに基づいて考えることができる人です。

第二の根拠は、パウロ自身が直接的にかかわった教会や個人、そして彼自身の経験です。今日の箇所で語られている「秘義」の内容は、終末における神の定めにおいては、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストの教会において救われるということです。つまりこれはイエス・キリストと教会の関係についての「秘義」です。

そう言ってよいなら、私たちも「秘義」を理解することができます。私たちが教会だからです。私たち教会とイエス・キリストの関係は「秘義」です。私はなぜここにいるのでしょうか。なぜ教会の礼拝に出席しているのでしょうか。その理由を完全に説明できる人はいません。自分自身ですらその全体像を把握しきれない「ミステリー」なのです。

今日の箇所の「イスラエル」が民族としてのイスラエルを意味することは明白です。「異邦人」と対比されているからです。秘義を裏付けるためにパウロが引用している聖書箇所も特定の場所(シオン)、特定の民(ヤコブ)について述べています。

そうなるとどうしても避けて通れなくなるのは、現在進行中のイスラエルの戦争のことです。「イスラエル」という言葉を聞く今の人は、必ずそのことを考えるでしょう。

しかし、第二次世界大戦後のパレスティナの領土問題と今日の箇所を直接結びつけるのはやめましょう。何らかの結論を出すこと自体がどちらか一方への加担を意味するからです。日本は絶対に戦争に巻き込まれてはなりません。どちらかを支援することすら加担です。ローマの信徒への手紙の解釈いかんで、戦争の状況が変わるわけでもありません。イスラエルの戦争については、私たちは判断を停止すべきです。

そういうことではなく、私たちにできそうなのは、今日の箇所に記されていることを自分自身に当てはめてみることです。

教会の説教は、自分の話をすることではないので、私の話をするのはなるべく避けたいのですが、ここは言わせてください。

繰り返し申し上げているとおり、私は60歳で60年、教会に通ってきた人間です。私が生まれる前から両親がキリスト者となり、兄と私は生まれたときから教会に連れていかれました。

そして私は、小学校入学前の 6 歳の教会のクリスマス礼拝(1971年12月26日)で、自分の明確な意志を言い表わして、成人洗礼を授けてもらいました。風邪を引いたとき以外は、日曜日の礼拝に休まず通いました。高校からストレートで東京神学大学に入り、卒業後24歳から現在60歳まで牧師を続けてきました。

60歳の私が60年、教会を離れずにいられたことが、ミステリーです。はっきり言えるのは、私の信仰は深くもなければ強くもない、ということです。教会の皆さんにはとっくにばれています。そうであることを恥ずかしいと思っていないので、隠したことがありません。

私がなぜ教会から離れないでいられるのかの理由は、はっきり分かりますし、説明もできます。

それはこのたび私たちの教会の礼拝で正式に導入した「聖書協会共同訳」の最大の魅力である、ギリシア語ピスティスを文脈によって「①神の真実」と「②人間の信仰」とに訳し分けることと関係あることです。

「①神の真実」としてのピスティスの意味が、29節にまさに記されています。「神の賜物と招きは取り消されることがない」。

その意味は、神は約束を絶対に守るかたであるということです。いったん発した約束を、神の側から取り下げることはありません。人間の側の事情や都合が変われば、それに応じて、約束など初めから無かったことにして、態度を変える方ではありません。

それが「①神の真実」(ピスティス)の意味であり、だからこそ、イスラエルは「つまずいた」が「倒れていない」とパウロは言うのです。異邦人が先に救われ、救いの恵みにあずかって喜びに輝く異邦人の姿にユダヤ人がねたみを抱き、それによって奮起して、あとから救われるというパウロが描く壮大な「秘義」の根拠は「①神の真実」(ピスティス)です。

しかし、だからといってピスティスから「②人間の信仰」という意味が無くなったわけではありません。そもそも約束というものは、ひとりで成立するものではありません。相手が必要です。相手がいない約束など無意味です。

そして人間も、いったん約束したことに対する「真実、誠実、忠実」(ピスティス)が求められないはずがありません。約束を守らない人は信用されません。自分でも、うそつきになりたくはないでしょう。

私がそうでした。中学生のころ、日曜日の朝「今日は教会に行きたくない」とグズグズしていたとき、母から「自分で洗礼を受けたいと言ったでしょう」と言われて、返す言葉が無くて教会に行ったことを覚えています。

私は、神を信じる信仰は強くもなければ深くもありません。しかし、自分が立てた約束を自分で破りたくないという思いが非常に強いです。洗礼を受けたとき決心し、約束した自分を、自分で裏切ることができません。

だから私は教会から離れることができないし、離れたくありません。自分で自分を裏切ることになるからです。その意味では、私は自己愛が強いだけかもしれません。

神に対して私にできるのは、イエス・キリストを通して明らかにされた「真実な」神を、ただ「信頼」することだけです。その「信頼」によって私たちは救われます。

(2026年 8 月31日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年8月23日日曜日

野生のオリーブとはだれのことか

教会学校のみんなでかき氷を楽しみました(2026年8月23日)

説教「野生のオリーブとはだれのことか」

ローマの信徒への手紙11章11~24節

関口 康

「もしあなたが、自然のままの野生のオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、良いオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう」(24節)

先週は夏季休暇を取らせていただきました。五反田教会の礼拝に出席して山口隆康先生の説教を拝聴しました。山口先生は、東京神学大学で直接神学を教わった、地上でまだお会いできる最後の先生です。いろいろ考える良い機会となりました。ありがとうございます。

牧師が日曜日に教会を不在にすると、皆さんと半月もお会いしない状態になります。「ご無沙汰しています」と言いたくなります。半月も空くと、これまで何を話したかを忘れてしまいます。しかし、聖書は不思議な書物です。これまでの内容を覚えていなければ続きが分からないような書物ではありません。

「では尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたのは、倒れるためであったのか。決してそうではない」(11節)と記されています。

この言葉の意味は、「つまずくこと」と「倒れること」を区別してくださいということです。

相撲のことを考えれば分かる話です。土俵の縁は「徳俵」または「勝負俵」と呼ばれます。徳俵に力士の足が引っかかって「おっとっと」になっているのが「つまずく」です。しかし足はまだ土俵の外に出ていない。勝負がついていない。それが「倒れていない」です。

パウロが述べているのは、ユダヤ人と神との関係の問題です。ユダヤ人は、イエス・キリストを受け入れない。神に「つまずいている」。しかしまだ「倒れていない」。勝負はついていません。「のこったのこった」です。

そこから先の内容に、私たちは驚くべきです。この箇所を繰り返し読んでこられた方には、何度でも驚いていただきたいです。とんでもないことが書かれています。

「かえって、彼らの過ちによって、救いが異邦人に及びました。それは、彼らに妬みを起こさせるためです。彼らの過ちが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」(11~12節)。

何を言っているでしょうか。これは私たちにとって意外なほど分かりやすい話です。なぜなら、これは教会の話だからです。その場合の「教会」は、人の集まりとしての教会です。土地や建物を持ち、私たちが自分の体を運んでこの場所に集まって来ている、この教会です。

教会の私たちにとって「妬み」の問題は、避けて通ることができません。他の教会との比較や、教会の中で自分と他人の比較が始まるからです。うちの教会は小さい。あの教会は大きい。うちの牧師はこうだ。あの教会の牧師はこうだ。個人の比較も始まります。私はこうだ。あの人はこうだ。比較があるかぎり「妬み」は起こります。優劣の差があるからです。

しかし、ほとんどの場合、優劣の差は主観的です。他人のものは自分のものより良く見える。「隣の芝は青い」(The grass is always greener on the other side of the fence)です。

パウロが言っているのは、妬むのをやめなさい、ということではありません。その正反対です。人の「妬み」を神が用いる、と言っています。ユダヤ人が「つまずいた」のは、彼らが受け入れない救いの恵みを神が異邦人に先に与えて、自らの救いを喜ぶ異邦人を見てユダヤ人が「妬み」を抱いて発奮するためだというのです。ユダヤ人が「倒れていない」のは、異邦人の救いの後に、彼らが救われるからです。まだ勝負はついていないのです。

ありていに言えば、パウロの目から見ても、当時のユダヤ人たちの自覚においても、ユダヤ教の神殿やシナゴーグに集まる人々の中に閉塞感があったのです。礼拝の説教や讃美歌やお祈りの儀式はマンネリ化している。「祭司長」「律法学者」「長老」「会堂長」などの肩書きや役職がある人たちの占有物になっている。それ以外の人たちにとっては居心地の悪い、窮屈な集まりでした。

しかし、イエス・キリストの教会はそうではないと、パウロは言おうとしています。人がねたむほど開放的で自由な私たちの教会を見て、発奮する人々が現れるだろうと言っています。

9月13日に創立73周年を迎える足立梅田教会が、80周年、90周年、100周年、もっと先まで進んで行けるかどうかは、今日の箇所でパウロが驚くほど率直に取り上げている「妬み」の問題から逃げ出さず、向き合うことができるかどうかにかかっていると言っても過言ではありません。

恐ろしい話になってきました。

今日の説教題に触れずに終わるわけにはいきません。私の父の思い出と結びついています。

以前お話ししたように、私の父は、出身は群馬の前橋ですが、戦後新制になったばかりの千葉大学園芸学部(千葉県松戸市)を卒業しました。卒業後、岡山県の複数の農業高校で園芸科教員をしました。植物の知識があり、道端の雑草の名前を全部言える人でした。父のそういうところを私は全く受け継げず、バラとツツジの違いすら分かりません。

その父とたしか20年ほど前に電話で話していたとき、父が激怒していることが分かりました。私に対してではなく、父が通っていた教会の牧師に対して腹を立てていました。何があったのかと尋ねたら、今日の箇所でした。

父いわく、パウロが書いている「自然のままの野生のオリーブを良い木に接ぎ木する」ことは園芸学的に絶対にありえない。それなのに、牧師に知識が無さ過ぎて、何の疑問も持たずに書いてある通りに話して終わらせた、と。

野生の木のほうが、生命力が強いに決まっているので、そんなものを接ぎ木したら良い木が全滅してしまうというわけです。父に言わせると、パウロの言っていることはメチャクチャです。

その後、私もいくつかの註解書を読みましたが、その通りのことが書かれていました。「使徒が接ぎ木のたとえを用いる方法が正しいかどうかという問題に多くの注目が集まっている。確かに庭師は、野生の果樹に良い枝を接ぎ木するのであって、その逆ではない」。

私は「父の言い分が正しい」と言いたいわけではないのです。父自身も、聖書にはでたらめなことが書いてあると言いたかったわけではなさそうでした。そうではなく、園芸学的に絶対にありえないことを、牧師が平然と言いのけたことが我慢できなかったようでした。

私は、いつも参考にしている註解書を支持します。次のように書かれています。

「この箇所でパウロは確かに、良い木に野生の枝を接ぎ木することについて語っており、これが庭師の慣習に反することを私は認識しています。しかし、神の恵みの世界では、物事が自然界とは異なる形で進むと想定しているとも考えることができます」。

つまり、パウロは逆説的なことを書いているという可能性です。父の教会の牧師がこういうふうに語っていたら、父があれほど激怒することもなかったかもしれません。

「野生のオリーブ」が「異邦人キリスト者」を指していることは文脈的に明らかです。ユダヤ人の血統をルーツとしない。幼少期からの聖書教育など受けたことがない、割礼を受けていない、礼拝に通ったことが無い。しかし、求めるところがあって教会の仲間に加わった人たちです。

その人たちは元気なので、うかうかしていると昔ながらの教会員がマンネリに甘んじているわけに行かなくなるぞと、はっぱをかけている可能性があります。若い命、新しい風を積極的に受け入れて、教会が変わっていく必要があると言っているかもしれません。

(2026年8月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年8月13日木曜日

2026年 9 月の予定

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

 9 月 6 日(日)

説教「心を新たに」

聖書 ローマの信徒への手紙12章 1 ~ 8 節

 9 月13日(日)教会創立73周年記念礼拝

説教「思いを一つに」

聖書 ローマの信徒への手紙12章 9 ~20節

 9 月20日(日)

説教「共に生きる」

聖書 ローマの信徒への手紙13章 1 ~ 7 節

 9 月27日(日)東京教区東支区講壇交換

説教「御子による神の国の到来」森 容子牧師(水元教会牧師)

聖書 イザヤ書 9 章 1 節、5 ~ 6 節