2025年1月26日日曜日

イエスの最初の弟子たち

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「イエスの最初の弟子たち」

マタイによる福音書4章18~22節

関口 康

「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」(19節)

今日の聖書箇所は先週の続きです。主イエスがガリラヤ湖畔の漁師の町カファルナウムを最初の拠点として宣教を開始されました。その地で最も早い時期に取り組まれたことが、ご自身と共に働く仲間たちを集めることでした。

主イエスの仲間たちを「弟子たち」(ギリシア語:マテーテースの複数形マテータイ)と聖書は呼んでいます。これはユダヤ教の伝統が関係しています。主イエスは客観的に見ればユダヤ教のラビ(先生)でした。ラビには「弟子」がいます。ここで大事なことは、「弟子」という日本語の意味をよく考えることです。誤解している可能性があるかもしれません。

なぜこの問題が大事なのかといえば、教会の伝統によると、洗礼を受けてキリスト者になった人はすべて「主イエスの弟子」だからです。これは私たちに直接かかわる問題なのです。

わたしたちは、説教者の弟子ではありません。説教者も主イエスの弟子です。説教者は聖書から主イエスの言葉を聞いてみんなと共有しているのです。

今日の聖書の箇所は多くの方によく知られていますので、言葉の辞書的な意味の説明のようなことを詳しく申し上げる必要はないと思います。その代わり、雑談ではありませんが、私の個人的な体験に基づく話をさせていただきます。

「会社における上司と部下の関係」を私自身が近年体験したのは、前任教会に赴任した初年度の1年間(2018年4月から2019年3月まで)、教会の牧師として働きながら、アマゾンの倉庫で週30時間の肉体労働をしたときです。当時の時給は1000円でした。

今の私はアマゾンの宣伝をする立場にありませんが、いい会社でした。アマゾンを悪く言う人が多いことは知っています。肉体労働は過酷でした。しかし、人間関係は比較的良好でした。

私は肉体作業員でしたので、アマゾン側の「上司」と話すことはなく日本のパートナー企業側の「上司」に使われる立場でした。パートナー企業側の「上司」が作業員相手に暴言を吐いたり、ワーカー同士でトラブルが起こったりしたときには、アマゾン側の「上司」が迅速に動いて問題を解決してくれました。トラブルへの介入に躊躇がなく迅速で、公平性を重んじてくれました。

感動すら覚えたのは、作業時間内のトイレについてでした。最初のオリエンテーションのときに「トイレは人権問題なので完全に自由です。作業時間中だろうといつでも大丈夫です。わざわざ上長に許可を取る必要はありません」と宣言され、事あるたびに言い聞かされました。

アマゾンでは1年しか働きませんでしたので、深いところは分かりません。主イエスと「弟子」の関係との「違い」を言うとしたら、会社の場合は、給料と人事という強い権力を持つ上司と、使用される部下の関係ですが、主イエスと「弟子」の関係はそういうものではありません。

「学校における教師と生徒の関係」を私が体験したのは、アマゾンで働いた年の翌年(2019年4月)から昨年(2024年3月)までの5年間です。5年の間に3つの学校の聖書科非常勤講師として働きました。高校でも中学でも小学校でも働きました。

複数の学校だったことを強調する意図は、これから申し上げることの中に苦言の要素が含まれるからです。「どこの学校のことか」「だれのことか」と詮索しないでもらいたいからです。

学校というところは、驚くほど、昔と変わっていませんでした。私が高校生だった40年前と同じ空気が漂っていました。比較的若い世代の先生たちの中にそういうタイプの方々が多かった気がしますが、「生徒になめられてはいけない」と思っておられるのでしょうか、先生が生徒に強烈な威圧感を示そうとなさっているのが印象的でした。

私も他人(ひと)のことは言えません。私も何度か授業中に生徒を大きな声で叱りました。授業開始のチャイムが鳴っても、廊下にいる、教室内で立っている、しゃべっている、弁当や菓子を食べている、踊っている、などのときぐらいでしたが。

学校の教師と生徒の関係と、主イエスと「弟子」の関係の違いのほうも言うとすれば、果たして主イエスは弟子たち相手に「威圧」を示すような方だったかどうかをご想像いただけば分かることだと思います。

主イエスの最初の弟子たちは、今日の箇所に登場するペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人でした。4人が同時だったという点は重要です。「ペトロは一番弟子でした」とよく言われますが、「最初のひとり」が強調されはじめると個人崇拝の危険性が生じます。

この4人は2人兄弟が2組。ツーペアです。彼らは漁師として海に網を投げていました(18節)。その彼らに、主イエスが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました(19節)。すると、ペトロとアンデレはすぐに「網を捨てて」従いました(20節)。主イエスは、ヤコブとヨハネもお呼びになりました(21節)。彼らもすぐに「舟と父親を残して」イエスに従いました(22節)。

新共同訳聖書では、ペトロとアンデレは「網を捨て」ましたが、ヤコブとヨハネは「舟と父親とを残した」と訳されています。「捨てる」と「残す」が訳し分けられていますが、原文では同じ言葉(ギリシア語:アフェンテス)が使われています。

同じ言葉が別の訳語で訳し分けられている理由は不明です。「網」なら捨ててもいいが、「舟」はともかく「父親」を捨てていいわけがない、と訳者が考えたのでしょうか。文語訳聖書(1887年)でも、一方は「かれら直ちに網をすてて従ふ」、他方は「直ちに舟と父とを置きて従ふ」と、「捨てて」と「置きて」で訳し分けられています。しかし、原文は同じ言葉ですので、「網」も「舟」も「父親」も「捨てる」で統一するか、あるいは「残す」で統一したとしても問題ありません。

「問題ない」というのは「父親を捨てても問題ない」という意味ではありません。「舟と父親」という語順が大切であると記された註解書を読みました。納得できる解説でした。「舟と父親」という語順に表れた著者の意図は、この物語は「ヤコブとヨハネは子どものころからお父さんのことが大嫌いでした。いつか捨ててやると企んでいました。やっとチャンスが訪れました。その勢いで舟まで捨ててしまいました」という話ではない、ということです。

現代社会に「世襲」がどれほど生きているかは私には分かりませんが、その話です。先祖代々の家業を受け継いでいくこと。彼らはその世襲の定めから離れ、「家業を捨てて」主イエスの弟子になったという意味です。父親に対する憎しみがあったかどうかの問題は無関係です。

誤解のないように。「イエス・キリストの弟子」になるときは必ず「家業」を捨てなければならないという意味ではありません。

とはいえ、「世襲」を今でも重んじておられるご家庭では、親の側から切って捨てられるかもしれません。そういうことを覚悟しなくてはならない方がおられないとは言えません。まさに真剣勝負です。

そこから先は、ご本人と主イエスとの関係にかかっています。誰も手出しできません。

主イエスについていくか、ついていかないかは、あなた次第です。

(2025年1月25日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年1月19日日曜日

宣教の開始

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「宣教の開始」

マタイによる福音書4章12~17節

関口 康

「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(15-16節)

今日の箇所には、主イエスがガリラヤで伝道をお始めになったことが記されています。

「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)と記されています。ヨハネが逮捕されたので怖くなってガリラヤの潜伏先に逃げ込んだという意味ではありません。正反対です。逃げるどころか、公然と宣教を開始されました。

ヨハネが捕らえられたことと主イエスがガリラヤに行かれたこととの関係は、ヨハネについて「捕らえられた」と訳されている言葉(ギリシア語:パラディドーミ)に表れています。礼拝でこの言葉を繰り返し聞くのは聖餐式です。「主イエスは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き…」(コリント一11章23節)の「引き渡される」が「捕らえられた」と同じパラディドーミです。

同じ言葉を用いることによって、著者マタイが、ヨハネの逮捕と主イエスの引き渡しを意図的に結び付けていると解説している註解書を読みました。主イエスの十字架に神の御心が働いていたように、ヨハネの逮捕にも、わたしたち人間には知りえない神の深い御心が働いているというのです。

そして主イエスは「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれ」ました(13節)。この箇所に「ゼブルンとナフタリ」という地名が記されていることが重要な意味を持っています。それは15節に引用されたイザヤ書8章23節で「ゼブルンの地とナフタリの地」が「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていることと関係あります。

「ゼブルンとナフタリ」はガリラヤの東部地域を指します。そこが「異邦人のガリラヤ」となぜ呼ばれたかといえば、その地域がかつてエルサレム周辺とは別の国だった時代があるからです。それはイスラエル王国第3代国王ソロモンの子らの世代から始まる「南北王国時代」です。

新共同訳聖書の巻末付録「聖書地図」5をご覧になれば、北イスラエル王国と南ユダ王国の境界線が分かります。

南北分裂は前922年。サマリアが北王国の首都になったのが前9世紀ごろ(800年代)。

北王国がアッシリアのサルゴン2世に滅ぼされるのが前722年。

アッシリアをバビロニアが滅ぼすのが前609年初夏(山田重郎『アッシリア 人類最古の帝国』ちくま新書、2024年、309頁)。

バビロニアが南ユダ王国を滅ぼしたのが前597年です(各年号には諸説あります)。

イザヤ書8章23節を記したのは、前8世紀に活動した(第一)イザヤです。イザヤ書1章から39章までの著者です。このイザヤは「ガリラヤ」が北王国に属していた頃を経験的に知っています。

この時代の北王国の様子は列王記に記されています。「ガリラヤ」を含む北の歴代の王が、北の初代王ヤロブアム1世の名がついた「ヤロブアムの罪」と特に列王記が呼ぶ行為を続けた結果、モーセの律法の線を厳格に守る線から離れた、異邦人と大差ない生活様式で過ごすようになったと、保守的な人々の側から見えたようです。

イザヤが「異邦人のガリラヤ」と書いているのは、そのことです。エルサレム周辺に住む、神の戒めに忠実なユダヤ人からすると「異邦人のガリラヤ」は、軽蔑すべき対象でした。

「ヤロブアムの罪」とは、ヤロブアム1世が自国の求心力を生み出すためにベテルとダンに各1体「金の子牛」を置いて国民に礼拝させたこと、つまり偶像礼拝でした(列王記上12章参照)。

「ヤロブアムの罪」こそ北王国の滅亡の原因であるという立場で列王記は一貫しています。それに加えて、北王国は諸外国の宗教的な慣習や習俗を取り入れるようになりました。

北王国を含む地中海東岸地域へと、メソポタミアでバビロニアと勢力争いをしていたアッシリアが攻めて来ました。アッシリア最盛期の王、ティグラト・ピレセル3世(前745年から727年まで在位)によって北王国が滅ぼされました。そのことが、イザヤ書8章23節の「辱めを受けた」という短い言葉に込められています。

しかし、イザヤがその続きに、「後には海沿いの地、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」と記しています。その意味は、屈辱の地ガリラヤの名誉を神が回復してくださるときが必ず来る、という希望のメッセージです。

今日、詳しい年号を挙げて説明させていただいたのは、これらの年号をすべて覚えてくださいと言いたいのではありません。細かいことはすべて忘れてくださって構いません。そうではなく、イスラエルの南北王国時代や、北王国滅亡が起こった時代は、主イエスが活動された紀元1世紀の人々からすれば、約900年前から700年前であるということをご理解いただきたいだけです。

わたしたちに当てはめて考えてみます。

今年は「2025年」です。900年引くと「1125年」です。700年引くと「1325年」です。それは紀元12世紀から14世紀までです。日本の歴史でいうと「平安時代末期から鎌倉時代まで」です。

足立区のホームページに「区の歴史」があります。その中の「鎌倉幕府と足立氏」のページに、次のように記されています。

「平安時代の終わりごろ、武蔵国各地で武士団が活躍し、足立軍には足立氏一族が勢力を持ちました。治承4(1180)年、源頼朝が平氏打倒のため立ち上がると、足立遠元も下総を経て武蔵に入る頼朝のもとに参じ、軍勢に加わりました。」

また、いつの時代のことかは不明ですが、これも足立区のホームページに「あだち」という名の由来が記されていました。

「足立区の周辺に葦(あし)が多く生えていて、『葦立(あしだち)』と言われたのが『足立』になったという説もあります。」

私が申し上げたいのは、千年以上も前の「あだち」と今の「足立区」との間に、何の関係があるでしょうか、ということです。

歴史ロマンとしてはたいへん興味深いものがあります。しかし、今の足立区はどこからどう見ても、葦(あし)しか生えていない原野ではありえませんし、「足立軍と源頼朝の関係」なども、今の足立区の存在とは無関係であるとしか言いようがありません。

主イエスの時代に「ガリラヤ」を差別していた人たちがしていたことは、今申し上げたのと同じようなことだと私は言いたいのです。何百年も前の歴史を引き合いに出して、相手をおとしめるようなことをしていただけです。

もうひとつ、エルサレム周辺の人は、「ガリラヤの方言」を聞き分けることができました。そのことは、主イエスが逮捕された夜、ペトロが主イエスのことを3度も「知らない」と否定した記事から分かります(マタイ26章73節、マルコ14章70節、ルカ22章59節)。しかし、方言差別などは最低の部類でしょう。

しかしまた、そう考えると、「ガリラヤ」を主イエスが福音宣教の出発点になさったことの意味がはっきり分かります。

「そんなくだらないことで、あなたがたは私たちを差別するのですか」と言いたくなるようなことで悩み苦しんでいる人々の側に毅然として立ち、その人々の心と体の痛みを受け止め、慰め、助けてくださるために、主イエスは「ガリラヤ」から宣教をお始めになったのです。

(2025年1月19日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年1月15日水曜日

2025年の特別な行事

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


「2025年の特別な行事」

現時点で分かっている、当教会の「2025年の特別な行事」をお知らせいたします。

(変更する可能性があります)

【2025年】

 3 月30日(日)10時30分より 特別礼拝・講演会(当教会)小海 基 牧師

※小海 基(こかい もとい)先生は日本基督教団荻窪教会牧師。 

「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、 ひらかれた合同教会をつくる会」会長。

礼拝後、講演会「北村慈郎牧師支援会の活動内容と趣旨について」(仮題)

 4 月 6 日(日) 9 時00分より 教会学校(当教会)

※2025年度第1回。コロナで休会していた教会学校を、年4回を目標に再開中。

 4 月20日(日)10時30分より イースター礼拝・愛餐会(当教会)

 6 月 8 日(日)10時30分より ペンテコステ礼拝(当教会)

 9 月 7 日(日)10時30分より 足立梅田教会創立記念礼拝(創立72周年)(当教会)

11月 2 日(日)10時30分より 永眠者記念礼拝(当教会)

11月 3 日(月)11時00分より 墓前礼拝(教会墓地前、埼玉県越生町「地産霊園」内)

12月21日(日)10時30分より クリスマス礼拝・愛餐会(当教会)

12月24日(水)18時30分より クリスマスイブ・キャンドルサービス(当教会)

以上は現時点で決定している行事です。

もっと増えます。ご期待ください。

2025年1月12日日曜日

イエスの洗礼

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「イエスの洗礼」

マタイによる福音書3章13~17節

関口 康

「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(13節)

今日の箇所に記されているのは、主イエスが洗礼者ヨハネから受洗なさったという歴史的事実です。なぜ「歴史的事実」かについては、エドゥアルト・シュヴァイツァー先生(Eduard Schweizer [1913-2006])の説明が興味深いです(日本語版あり)。

シュヴァイツァー先生によると、ヨハネのグループとイエスの弟子集団ならびにキリスト教会との関係は、一方が他方を吸収したわけではなく並存関係だったため、イエスがヨハネから洗礼を受けたということがキリスト教会にとって不利に働く可能性があったにもかかわらず、そのことが記録されているのは歴史的事実だったからだろう、というのです。深く納得できました。

しかし、史実かどうかの問題よりも大事なのは、主イエスが「なぜ」ヨハネから洗礼をお受けになったのかを考えることです。主イエスご自身は、だれにも洗礼をお授けになりませんでした。しかし、主イエスの死後キリスト教会は洗礼を授けるようになりました。その関係がどうなっているかを、わたしたちはよく考える必要があります。

もうひとつ、今日の聖書の箇所とは必ずしも直接的な関係にはありませんが、さりとて無関係とも言えない問題を、今日取り上げさせていただきます。

今年3月30日(日)に荻窪教会の小海基先生に礼拝説教と講演をしていただきます。そのことを役員会で決めました。講演のテーマは、小海先生が現在会長になっておられる「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、 ひらかれた合同教会をつくる会」の活動紹介と趣旨説明です。

先週の1月定例役員会で考えたのは、当教会の中には北村先生をご存じの方もご存じでない方もおられるので、なぜ小海先生をお迎えするのかについて事前に説明しておく必要があるだろうということです。その説明をいつするかは役員会では決めませんでしたが、「善は急げ」で、今日することにしました。

日本基督教団では、現時点では「洗礼」と「聖餐」の2つが「聖礼典(サクラメント)」です。ローマ・カトリック教会の「7つの秘跡(サクラメント)」(洗礼、ゆるし、ご聖体、堅信、叙階、結婚、病者の塗油)の中から、聖書的根拠があると16世紀の宗教改革者たちが認めた2つ(洗礼と聖餐)を残した形を、日本基督教団は採用しています。

私がいま申し上げたことで大事な点は、「どれをサクラメントとみなすか」については教会的な判断が必ず加わっているということです。自動的に決定されていることではなく、教会が考えて決めたことです。多くの議論があり、みんなで意見を出し合って、取捨選択してきたという歴史があることを忘れてはいけません。

北村慈郎先生による問題提起の内容は「洗礼と聖餐の関係」に関することですので、今日の箇所の「洗礼」というテーマと関係があります。「洗礼」も「聖餐」も「聖礼典(サクラメント)」であるという共通点があるからです。しかし、その話は最後にします。順を追って説明します。

ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」でした。ヨハネが明言しています。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けている」(3章13節)。そのヨハネのもとにヨルダン川沿いの地方一体から人々が来て罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました(6節)。

だからこそ、主イエスがヨハネに洗礼を授けてほしいと志願なさったとき、ヨハネはそのことを「思いとどまらせようと」(14節)しました。立場が逆であるとヨハネは考えました。しかし、主イエスは「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは我々にふさわしいことです」(15節)と言われ、そのお言葉にヨハネは従いました。

ヨハネと主イエスのやりとりの意味をよく考えなくてはなりません。特に誤解してはならないのは、ヨハネは会社の上下関係や学校の師弟関係のようなことを考えているわけではないということです。「イエスさま、もしあなたが私から洗礼を受けたら、あなたが私の弟子であるということになってしまいますが、それでもよろしいでしょうか」という意味ではありません。

そうではなく、ヨハネが問題にしたのは、彼が授けている洗礼の趣旨が「悔い改め」であることとの関係です。「イエスさま、罪のないあなたは悔い改める必要がありません。私が授けている洗礼をあなたがお受けになるのは趣旨が違います」とヨハネは言っているのです。

ある人が他の人から洗礼を受けるとある人は他の人の「弟子」になるという理解が、教会の歴史の中で全く無かったとは言えません。あるいは、聖礼典(サクラメント)の執行者たる教職(牧師、司祭)の「資質」が聖礼典の効力を左右するかどうかについての大論争もありました。いわゆる「人効説」(ex opere operantis)か「事効説」(ex opere operato)かの問題です。

日本基督教団は概ね「事効説」に立っていると言えます。しかし、不確定要素があります。たとえば「問題ある牧師」が執行した聖礼典は有効でしょうか。「あんな牧師からは洗礼を受けたくない」という感情を封印できるでしょうか。意識的か無意識か、牧師に対する「格付け」をしない教会があるでしょうか。それを「人効説」と呼ぶかどうかはともかく、聖礼典の効力が執行者と何らかの関係にあるという考え方には説得力も魅力もあるので、議論は終わりません。

しかし、主イエスはすべての事情をお受入れになったうえで、ヨハネからあえて洗礼をお受けになりました。それはなぜでしょうか。この問題に取り組んだ代表的な文献を私も学生時代に読まされました。オスカー・クルマン先生(Oscar Cullman [1902-1999])の『新約聖書の洗礼論』(日本語版あり)です。

クルマン先生によると、キリスト教の洗礼は罪の赦しを得させる洗礼でもあるが、単純にヨハネの洗礼に戻ったのではなく「ヨハネの洗礼の成就」です。「イエスの洗礼は、生涯の頂点である十字架を指し示している。イエスの十字架において、すべての者の洗礼は初めて成就を見る。十字架において、イエスは総代洗礼(Genaraltaufe)をお受けになる。それに至る命令を、ヨルダン川での洗礼に際してかれは受けられた」(同上、106頁)。

3月30日に小海基先生をお迎えいたします。特に午後の講演では、北村慈郎先生の支援会の活動について教えていただきます。2010年に日本基督教団が北村慈郎先生の教師籍を剥奪する免職の戒規を執行しました。それは北村先生が紅葉坂教会の教会総会の賛同を得て「未受洗者陪餐」を行うことをお決めになったことへの処分として教団がしたことですが、この処分は不当であると北村先生と支援会の皆さんが主張し続けておられます。

支援会のみなさんがおっしゃっているのは、「聖礼典」とは何かについての一致した見解が日本基督教団の中にあるとは言えず、世界的にも議論の最中である問題について、北村先生ひとりが狙い撃ちされたことに納得できないということです。その点は私にもよく分かる話です。

今日お話ししたとおり、「聖礼典(サクラメント)」の議論は終わっていません。みんなが悩んでいます。みんなが悩んで考えている最中に、一方の論者を問答無用で追放するという見せしめをするのはアンフェアです。真相を知る必要があるとわたしたちは考え、小海先生をお招きすることにしました。

北村慈郎先生が教師免職の戒規をお受けになった2010年時点の私は日本キリスト改革派教会の教師で、完全に部外者でしたので日本基督教団の問題にタッチできる立場にありませんでした。私も学ばせていただきたいです。よろしくお願いいたします。

(2025年1月12日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年1月5日日曜日

エジプトのイエス

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「エジプトのイエス」

マタイによる福音書2章13~23節

関口 康

「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから』」(17-18節)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

しかし、新年が「おめでたい」かどうかは難しい問題です。昨年の元日に能登半島を中心に巨大地震が襲いました。ご実家が倒壊して父親を失った方が「元旦はすごく嫌い」と遺族代表としてお話しになったという記事を私も読みました。言葉がありません。

お祝いごとは一切すべきでないとまで言う必要はないでしょう。私たちにできそうなことは、たとえお祝いの日であっても、わたしたちのすぐそばに悲しみや苦しみを抱えている方々が必ずおられることに思いを寄せて、騒ぎすぎないことぐらいです。

今日の聖書の箇所は先週の続きです。内容は、イエス・キリストのご降誕の物語です。東の国の学者たちの夢に現れたのと同じ天使が今度はヨセフの夢に現れて、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」(13節)と命じたという話です。

ヨセフとマリアがそのとおりにしたら、ヘロデが「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(16節)というとんでもない事件が起こりました。そのためヨセフとマリアは、ヘロデが死ぬまでエジプトにとどまりました。

そしてその後、ヨセフとマリアと主イエスはガリラヤのナザレに移りました。主イエスは大人になるまでナザレにおられ、「ナザレ人」と呼ばれるようになりました。

ナザレとナザレ人は、ヨハネによる福音書1章46節でナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と見下げる言い方をしているように軽蔑対象でした。神は天使を通してヨセフとマリアを、主イエスが「ナザレ人」と呼ばれるようになる地へと導くことによって、主イエスが見下げられる人々の側に立つ救い主であることを示されました。このような説明が可能です。

しかし、今申し上げたことは、今日の箇所の中心テーマとまでは言えません。それでは何が中心テーマでしょうか。ひとつに絞りたいところですが、2つあります。

今日の箇所の第1のテーマは、主イエスの存在とモーセの存在が重ねられていることと関係しています。その意味は、主イエスはモーセの再来であり、モーセ以上であるということです。

モーセの頃のエジプトのファラオはラメセス2世です。ヨセフの活躍によってカナン地方からエジプトへと移住したユダヤ人の人口が数百年を経て増大しました。そのことを恐れたファラオが、ユダヤ人の家庭に生まれる男の子を皆殺しにせよと命じました。そのエジプトのファラオの姿が、今日の箇所でベツレヘムの幼児を殺す命令を下すヘロデの姿と重ね合わされています。

第2のテーマは、バビロン捕囚との関係です。バビロン捕囚と主イエスの誕生との関係はマタイによる福音書冒頭の「イエス・キリストの系図」の中でも繰り返し強調されています(1章12節、17節)。両者の関係をとらえるための重要なカギは、18節で引用されているエレミヤ31章16節の言葉です。

「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」(新共同訳・旧約1235ページ)。

この「ラケル」は第3代族長ヤコブの妻ラケルです。初代族長アブラハムの子であるイサクに、エサウとヤコブという双子が生まれます。エサウは父イサクに愛され、ヤコブは母リベカに愛されます。リベカはヤコブと結託して、本来はエサウが得るべき長子の特権と祝福を奪う工作を実行しました。だまされたと知ったエサウはヤコブに殺意を抱き、ヤコブは逃亡しました。

ヤコブの逃亡先は、リベカの兄ラバンの家でした。その家に2人の娘がいました。姉はレア、妹はラケル。このラケルが、今日の箇所の「ラケル」です。

ヤコブはラケルにひとめぼれし、結婚したいと願います。しかし、ラバンは姉レアのほうを先に結婚させたかったので、ヤコブを姉レアと結婚させます。しかし、ヤコブはラケルをあきらめられず、レアと結婚しながらラケルへの求愛を続けます。結局ヤコブはラケルとも結婚します。

ヤコブの妻は2人になりましたが、子どもが生まれるのはレアのほうばかり。ラケルはレアに嫉妬し、ヤコブに「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければわたしは死にます」とまで言い、ヤコブは激しく怒って「わたしが神に代われると言うのか」と返事します(創世記30章1~2節)。

結局レアの子どもが計6人、ラケルの召し使いビルハから2人の子ども、レアの召し使いジルパから2人の子どもが生まれましたが、ラケルからは子どもが生まれず、彼女は苦悩します。

その後ラケルから生まれた念願の子どもがヨセフとベニヤミンでした。ところが、第一子ヨセフは10人の兄の妬みを買い、エジプトへ下る奴隷商人に銀20枚で売り飛ばされました。ラケルに知らされたのは「ヨセフは死んだ」という虚偽の情報でした。第二子ベニヤミンは難産で、産後まもなくラケルが亡くなってしまいました(創世記35章16節以下)。

創世記35章19節に「ラケルはエフラタ、すなわち今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られた」と記されています。このラケルが葬られた場所が「ラマ」であるとする伝説があります。その伝説が今日の箇所を理解するための前提です。「ラマ」はエルサレムの北8キロ、バビロンへ通じる道沿いにあります。

愛する子どもたちを失った「ラケルの泣き声」が「ラマ」に響いている!

その後「ラマ」は、ユダヤ人の重要な軍事拠点となります。エルサレムへの侵入を妨害するための要塞にされたり(列王記上15章17~22節、歴代誌下16章1~6節)、要塞が取り壊された廃材が防衛強化のために使用されたりします(列王記上 15章22節、歴代誌下 16章6節)。バビロン捕囚(前597年)のときには、ユダヤ人はいったんラマに集められてから、バビロンへと連行されました(エレミヤ書 40章1節)。こうして「ラマ」は屈辱の地になりました。

「ラマ」に響き続ける「ラケルの泣き声」は、ヨセフとベニヤミンを失った悲しみだけでなく、「バビロン捕囚」(イスラエル王国の滅亡)によって全ユダヤ人を失った悲しみに泣く声であることをエレミヤが示し(エレミヤ書31章15節)、それが今日の箇所で、ヘロデに子どもたちを殺されたベツレヘムの母たちの泣き声へと重ね合わされています。

つまり、今日の箇所が言おうとしているのは、ユダヤの王ヘロデは、エジプト王ラメセス2世とも、バビロニア王ネブカドネツァルともそっくりだ、ということです。両者ともユダヤ人の最大の敵です。しかし、その敵の姿とヘロデは瓜二つであると今日の箇所は言おうとしています。

主イエスが「敵を愛しなさい」とお教えになりました(マタイ5章44節、ルカ6章27節)。

「敵を愛することなど絶対に不可能である」と誰もが言います。しかし、わたしたちは敵の姿と自分の姿を見比べてみる必要があります。憎らしい敵と自分の姿との間にもし類似点や共通点が見つかれば、そこに理解と和解の道が切り開かれるでしょう。

わたしたちの2025年が「和解」の年となりますように、お祈りいたします。

(2025年1月5日 日本基督教団足立梅田教会 新年礼拝)

2024年12月24日火曜日

救い主の星

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「救い主の星」

マタイによる福音書2章1~12節

関口 康

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(9-10節)

今夜はクリスマスイブキャンドルサービスにお集まりいただき、ありがとうございます。

私は今年3月からこの教会の牧師になりました。まだ1年経っていません。コロナの関係等で何年も中止していたイブ礼拝を再開しました。いろいろ手探りで準備しました。以前と違う点があるようでしたらお許しください。

ところで、みなさんは「クリぼっち」という言葉をご存じでしょうか。

この言葉を私が最初に見かけたのは、8年前の2016年です。なぜ時期を覚えているかと言えば、2016年度の1年間、千葉県八千代市にある千葉英和高等学校で聖書科の常勤講師だったとき、私と同期で採用された聖書科の若い女性の非常勤の先生が、生徒向けの学校礼拝で「みなさんは『クリぼっち』という言葉をご存じでしょうか」と切り出したのを忘れられないからです。

言葉の意味は単純です。「クリスマスにひとりぼっちでいること」です。今年もインターネットで「クリぼっち」という言葉が飛び交っているのを見かけました。いまだに死語になっていないと分かりました。

教会のわたしたちはそういう話を不思議に思います。教会のわたしたちにとって「クリスマス」はイエス・キリストのご降誕をお祝いする日です。ですから、わたしたちはつい「クリスマスにひとりぼっちが寂しいなら、ぜひ教会に来てください。クリスマス礼拝があります。クリスマスイブ礼拝もあります。食事もケーキもお茶もあります」と言いたくなります。

しかし、それは別の話であると認識されるというのが現代人の基礎知識です。「クリぼっち」の意味が「独りでいることが寂しい」というだけでなく「恋人が欲しい」ということであるのも、私は理解しているつもりです。イエス・キリストも教会も関係なくクリスマスが祝われることをとがめる気持ちは、私にはありません。

先ほど朗読した聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストがお生まれになったユダヤのベツレヘムに「東の方」から占星術の学者たちがやって来たという物語です。

地名は記されていませんが、明らかにバビロニアです。今のイラクがある地です。チグリス川とユーフラテス川にはさまれて豊かな自然に恵まれ、栄華を極めたメソポタミアの中心地。そこにあったのはユダヤ人の文化や聖書の教えとは異なるものであり、ユダヤ人とは何百年も対立してきた敵国です。

しかし、その東の国の学者たちが、自分たちの文化の中で、聖書の教えとは全く異なる考え方や方法でたどり着いた結論が「ユダヤに救い主が生まれる」ということであり、その結論に基づいて遠路はるばる砂漠の中を旅してきたことが記されています。

それが「クリぼっち」の話とどのように関係するのかを申し上げねばなりません。すぐ分かる話です。イエス・キリストも教会も関係なく盛り上がるクリスマスの季節に寂しい思いを抱え込む「クリぼっち」の方々と、聖書の教えとは別の発想と方法で「救い主の星」を見つけ、「ユダヤのベツレヘム」を目指す旅に出かけた東の国の学者たちは、同じであると申し上げたいのです。

ですから、もし今夜「教会に初めて来ました」という方がおられましたら大歓迎いたします。「神を信じるつもりはない」という方でも「居場所を求めていない」という方でも大丈夫です。

今夜の聖書の箇所に描かれているのは「最初のクリスマス礼拝」の様子です。集まったみんなで主イエスを拝んでいるので「礼拝」です。星が見える時間帯の話ですので「夜」です。その場所に「あなたは来てもいい」とか「あなたには来る資格がない」とか、そのような差別は全くありませんでした。

東の国の学者たちは「黄金、入香、没薬」を贈り物として主イエスに献げました。今夜はそれもなしです。イブ礼拝で献金を募るかどうかを役員会で相談しましたが、今回はしないことにしました。「教会に行くと取られる」とか「無くなる」というイメージが広がるのは困ります。東の国の学者たちは、あくまで自分の意志で主イエスに贈り物を献げたのであって、強制されたわけではありません。

人生も少し長くなると「ひとりの寂しさ」の意味が変わってくることを実感している今日この頃です。「恋人が欲しい」「話し相手が欲しい」「居場所が欲しい」という寂しさも分かります。しかし、私は来年で60歳です。この歳になってやっと、これまでずっといつも前を歩いてくれて背中で人生を教えてくれていた両親や恩師たちがいなくなる寂しさが分かるようになりました。

寂しさの中身は何であれ、「クリぼっち」の方々は、クリスマスでなくても、ぜひ教会においでください。「救い主の星」のもとに集まり、讃美歌を歌い、聖書を学び、祈りをささげ、楽しく過ごしましょう。心からお待ちしております。

(2024年12月24日 日本基督教団足立梅田教会 クリスマスイブキャンドルサービス)

2024年12月22日日曜日

言は肉となった

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「言は肉となった」

ヨハネによる福音書1章1~18節

関口 康

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)

ご承知のとおり、新約聖書にはイエス・キリストの生涯を描く「福音書」と呼ばれる書物が4巻あります。前から順にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。

これらのうちで、主イエスのご降誕を描いているのがマルコ以外の3巻です。ヨハネによる福音書にもしっかり記されています。「どこに?」と思われるでしょうか。今日の朗読箇所です。

その描き方において他の福音書と違いがありすぎることは明白です。だいたい出てくる感想は「難しい」「哲学的」「抽象的」「意味不明」。そう言われれば、おっしゃるとおりと認めざるを得ないところがあります。

たとえば、今日の箇所に基づいてキリスト聖誕劇(ページェント)の台本を書けるでしょうか。至難の業であることは確実です。面白くない(=自分と関係ない)し、不適切であると感じる人は多いでしょう。

マタイやルカに描かれている物語にも、未確認生命体というべき「天使」が登場したり、結婚前のマリアが妊娠したりと、謎めいた内容が記されています。しかし、演劇として成立する豊かな内容があります。

一昨日(12月20日)私は、当教会と関係が深い保育園で子どもさんがたが演じるページェントを初めて拝見しました。みんなかわいかったです。

ヨセフとマリア、ベツレヘムの羊飼いと羊、宿屋、東方の3博士(カスパール、メルキオール、バルタザールという名前がついた伝説がある)、ローマ兵、天使と星が、飼い葉桶の主イエスを囲んで大団円。このような「人間らしい」聖誕劇なら、わたしたち自身の誕生と無関係ではない描き方ができるでしょう。

しかし、ヨハネによる福音書に基づいてどんな劇ができるでしょうか。登場人物が「ヨハネ」(6節)以外に出て来ません。このヨハネは主イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネです。主イエスがお生まれになったとき、このヨハネも小さな子どもです。

ヨハネによる福音書のキリスト降誕物語の主人公は「神」です。人間の視点からではなく、神の視点から描かれています。人間の理解の限度を超えるものがあります。しかし、そのほうがいいでしょう。人間のプライドが傷つきます。だからこそ、人間の心の砦(とりで)が破られ、回心の機会が訪れるでしょう。

わたしたちが理解できるかどうかはともかく、ヨハネによる福音書がとにかく言っているのは、「神」(テオス)の「言(ことば)」(ロゴス)が「肉」(サルクス)となったのが主イエスである、ということです。

そして、その「肉となった神」であるイエス・キリストとの出会いは、父なる「神」との出会いに等しいということであり、さらに主イエスご自身が「神」であるということです。

もし主イエスが「神」ではないならば、キリスト者の祈りの言葉である「主イエス・キリストによって祈ります」という表現は成立しません。主イエスは、神でもなければ人間でもない、両方から責め立てられる、中間管理職のような存在ではありません。イエス・キリストは「神の右に座しておられる」という信仰表現もあるほど「神と等しい方」であり、つまり「神」です。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)と記されています。こういう正直な文章が私は好きです。神を見たことがある人は人類史上ひとりもいません。「神を見た」と思っている人は神以外の何かを見た可能性が高いです。私も「見た」ことがないです。だからこそ「信じて」います。

このような信仰を軽蔑する人がいます。今日のクリスマス礼拝の案内をインターネットで見てくださった方の中にいました。その方自身は仏教の特定の宗派に所属していることを教えてくださいました。「神が人類を造ったというなら、その神を連れて来てみろ。できないだろう。それができないキリスト教は邪教である」の一点張りでした。

「私も神を見たことがありません。見たことがないからこそ信じております」と返事したら、「そんな愚かな宗教はやめてしまえ」と返って来ました。そこで私はやりとりを終了しました。ご自身が信じる道をお進みになればよろしい。それ以上、私から申し上げることはありません。

私の話はどうでもいいです。教会の立場については、みんなで考える必要があります。ヨハネによる福音書の成立年代は、西暦1世紀の終わり頃(90年代前後)です。それが意味することは、紀元30年ごろ十字架にかけられて地上の生涯を終えられる前の主イエスと直接的な交流を持ったことがある人々が残っていた可能性がきわめて低い時期に書かれた、ということです。

なぜ成立年代の話をするかといえば、「父のふところにいる独り子である神」(18節)としての主イエスを「見た」(同上節)と書かれていることの意味は何かを考える必要があると申し上げたいからです。この「見る」に物理的な肉眼で目視したこと以上の意味があるのは明白です。

そうしますと、ヨハネによる福音書が書かれた時代(紀元1世紀末)の人々と今のわたしたちは立場が同じであることが分かります。わたしたちが主イエスを「見る」方法は聖書を学ぶこと以外にありません。さらに、演劇があると助かります。舞台でもテレビドラマでも映画でも大丈夫です。登場人物の言葉や動作の意味を理解でき、共感できます。苦しみや痛みを共有できます。心が通います。

最後に怖い話をしていいですか。とても怖い話です。

「初めに言(ことば)があった」(1節)の「初め」は、天地創造以前、すなわち世界も人間も誕生する前を指しています。神以外の何も存在していない、「無」(Nothing)と神が向き合っておられる状態です。「時間」(クロノス)も神が創造したものなので、その点を厳密にとらえれば「時間以前」であると言うべきです。

さて問題です。「初め」に「言(ことば)」があり、「言(ことば)」が「神」であったという場合、その「言(ことば)」は、だれに向かって発せられたものでしょうか。神には話し相手がまだいないはずなのに。

この問題の答えは聖書に記されていません。しかし、可能性は2つです。

第1の可能性は、神はひたすら沈黙されていた、ということです。

第2の可能性は、神はずっと独り言を言い続けておられた、ということです。

私は前者を選びます。神は天地創造の前は、ひたすら沈黙しておられました。

しかし、神は沈黙を破られました。神は「言(ことば)」をもって「無」(Nothing)から「有」(Being)を、そして「すべて」(Everything)を呼び起こされました。神が「光あれ」と言われ、光が創造されました(創世記1章3節)。

そして神は、ご自身が創造された世界と人間を愛してくださいました。神は「愛」をわたしたち人間に告白してくださるために「肉」をお摂りになり、人間としてお生まれになりました。

生きる意味も理由も見失いがちなわたしたちに神が「わたしはあなたを愛している」と告白してくださり、「あなたは愛されるために生まれた」と教えてくださるために、イエス・キリストはお生まれになりました。

(2024年12月22日 日本基督教団足立梅田教会 クリスマス礼拝)

2024年11月23日土曜日

神の計画の確かさ

愛恵まちづくり記念館(東京都足立区関原1-21-9)

(※以下は、当教会と歴史的に深い関係にある「愛恵学園」(1930-1990)の関係者の集い(2024年11月23日、愛恵まちづくり記念館にて開催)の開会礼拝での説教(要旨)です)


説教「神の計画の確かさ」

ローマの信徒への手紙8章26~30節

関口 康

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)

開会礼拝のために選ばせていただきました聖書の箇所は、使徒パウロのローマの信徒への手紙8章26節から30節までです。

「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)。

この「霊」は聖霊です。西暦1世紀に「三位一体」という言葉はありませんでした。しかし、西暦1世紀には「聖霊」はまだ神ではなかったということではありません。26節の意味は、「神が弱いわたしたちを助けてくださる」ということです。

そして「わたしたち」は人間です。パウロによると、わたしたち人間の弱さは「どう祈るべきかを知らない」ことにあります。しかしこれは、人間は祈る言葉を全く知らないとか、祈ることは不可能であるとか、祈りは無意味であるということではありません。

そのようなことよりも、「言葉がない」という日本語表現のほうに近いです。私も牧師の末席を汚しています。教会員のご家族の不幸。教会員ご自身の事故や病気。大規模な自然災害。人為的な犯罪や破壊行為。そして戦争。何か言わなければ、言葉にしなければ、と思いながら「言葉がない」。祈る言葉も見つからない。神に何を言えばいいか分からない。

そのようなとき「霊(なる神)がわたしたちを助けてくださる」とパウロは言います。しかし、そのとき神は「あなた、どうせ何も言えないんでしょ。それなら黙っていなさいよ。私が代わりにしゃべってあげるわよ」という調子で、神ひとりが饒舌にお語りになるわけではありません。むしろ神も沈黙されます。なぜでしょうか。

わたしたちが「言葉がない」とうつむくのは、傷つき苦しむ当事者のことを「知っているふりをしたくない」からでしょう。その人に苦しみの意味を説明してあげて、解決方法まで教えてあげれば事が足りるなどとはとても思えないから「言葉がない」わけでしょう。

神はそのようなわたしたちの気持ちに寄り添ってくださる仕方で沈黙なさるのです。わたしたちと一緒にうめいてくださるのです。神もまた「知っているふり」をなさらないのです。説明もなさいません。

この「わたしたちはどう祈るべきかを知らない」(26節)について、16世紀のドイツの宗教改革者マルティン・ルターが『ローマ書講義』(1515年 / 1516年)で次のように解説しています(松尾喜代司訳。英語版はAmerican Edition)。

「たとい、一見われわれの祈願に反することが生じても、それは決して悪いしるしではなく、むしろ最もよいしるしである。それは、われわれの祈願に対して、すべてが全くねがいどおりに与えられたならば、決してよいしるしではないのと同様である」

“It is not a bad sign, but a very good one, if things seem to turn out contrary to our request. Just as it is not a good sign if everything turns out favorably for our request.”

その意味は、「神の計画とご意志は人間の計画と意志をはるかに超えたものである」ということです。ルターは次のように続けています。

「神は、その賜物を賜う前に、まずわれわれのうちに有るものを破砕し・撃滅するのが神の性質である」

“It is the nature of God first to destroy and tear down whatever is in us before He gives us His good things.”

ルターの言うとおりです。もしすべてがわたしたちの祈りどおり、わたしたちのリクエストどおりになるというなら、その祈りは魔法使いの魔法杖です。その杖を振れば、どんな夢でも叶えられる。

ルターによると、わたしたちのリクエストどおりになることはバッドサインであり、リクエストどおりにならないほうがベリーグッドサインであり、そもそも祈る前にわたしたちが抱いているリクエストそのものを神はデストロイなさるというわけです。

ルターはずいぶん激しいことを言います。しかし、説得力があります。

それでパウロは言います。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。

ここで「わたしたちは知っています」とパウロが書いていることの意味は、ユダヤ教の伝統や初期キリスト教の教えと合致しているということです。だれでも知っている普遍的真理であるとか一般論ではありません。パウロはあくまで「神を愛する者たち」に語りかけています。

しかも、前後の文脈を考えれば、パウロが言う「万事が益となる」の「万事」の内容の大半は「苦しみ」です。「言葉がない」と音を上げるほどの苦しみの日々が、パウロの言う「万事」です。世の中で、社会の中で、人生そのものの中で、「楽しい」と感じることはほとんどなく、「苦しいことだらけだ」と絶望しかけている信仰者にとっての「万事」です。

しかし、その苦しみもまた、いや、その苦しみこそをわたしたちの「益」にしてくださるのが、わたしたちの神であり、神の計画である、ということをパウロが記しています。

「お前が言うな」と、どうかお怒りにならないでください。大先輩の皆さまはきっと、「パウロの言うとおりだ」と受けとめてくださると思います。

「日本の教会がピンチである」と多くの人が嘆きます。そういう言葉をよく聞くでしょう。しかし、私は全く同意できません。

ルターの言うとおりです。わたしたちのリクエストどおりにならないことのほうがベリーグッドサインです。「日本の教会がピンチである」と言う人たちは、自分のリクエスト通りにならないことに苛立っているだけです。わたしたちのリクエストは神がデストロイなさるのです。

しかし、気を付けなくてはならないことがあります。26節に戻りますが、「霊が弱いわたしたちを助けてくださる」と言われている場合の、神がわたしたちを助けてくださる方法は、《神が100%働いてくださって、人間の働きは0%になる》のではありません。

「言葉が無い」だの「どう祈るべきかを知らない」だのと言い訳ばかりして役に立たない人間はクビにして「お前はもう黙っていろ。何もするな。わたしが全部するから見ているだけでいい。わたしの邪魔をするな」と、人間の代わりに神がすべてしてくださるわけではありません。

あるいはまた、《人間が99%働いて、神が1%付け加えてくださる》というのでもありません。

教団とか教派とかの文脈に身を置くと、イヤな話を繰り返し耳にします。「自立できないような小さな教会を維持したがるのは人間の願望にすぎない。そういう教会は解散するほうが神の御心である。一般企業と同じように、教会においても『選択と集中』を推し進めるべきである」などと言い出す人たちがいます。ひどいと思いませんか。

私は足立梅田教会に来させていただいたことを幸せに思っています。皆さん「やる気満々」ですから。わたしたちの神は「やる気満々」の人々を見捨てる神でしょうか。そんなことありえないですよ。

「聖霊なる神」が弱いわたしたちを助けてくださる方法は《神100%、人間100%》です。どんなことがあっても心が折れず、希望を捨てない人々を、神は決して見捨てません。

今日お集まりの皆さんの教会も同じです。「小さな教会を畳むことが神の御心である」などと、どうかおっしゃらないでください。心が折れそうなときは足立梅田教会を思い出してください。私もぜひ、皆様のお仲間に加えていただきたくお願いいたします。

(2024年11月23日 野比の会(愛恵学園の会)開会礼拝、於 愛恵まちづくり記念館)