2025年5月25日日曜日

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教④贖罪論

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「キリストによる贖罪」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教④

ローマの信徒への手紙3章21~26節

関口 康

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」(25節)

「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」(日本基督教団信仰告白

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」4回目のテーマは「キリストによる贖罪」です。

「贖罪(しょくざい)」に該当する英語は、意味の狭さや特殊性の強さの順で、アトンメント(atonement)、リデンプション(redemption)、サルベーション(salvation)などです。

アトンメントが「つぐない、罪滅ぼし」など色濃く宗教的な意味で用いられることが多く、リデンプションは中ぐらい、サルベーションは「社会救済」などの一般的な意味でも使われます。

贖罪の教理に関して日本基督教団信仰告白に記されていることを、若干補いながら口語的に言い直すと、次のようになります。

「三位一体の第二位格である神の御子、イエス・キリストは、わたしたち罪人の救いのために人間になり、十字架にかかり、歴史上ただ一回限り、ご自身を完全なる犠牲として父なる神へと献げ、わたしたちの贖いとなりました」。

いくつか論点を挙げていきます。

(1)「我ら罪人」の「我ら」は「全人類」を指し、「我ら罪人」は「全人類は罪人であること」を意味します。

(2)「神の御子が人となったこと」には「罪人の救いのため」という明確な目的がありました。逆に、もし人類のだれひとり罪を犯さなかったなら、御子が人となる必然性はありませんでした。

(3)人間は、自分の自由意志において神に背くことによって、罪を犯しました。神が人間の内部に罪の性質を仕込んで、人間に罪を犯させたのではありません。罪の責任は100パーセントあなたにあります。神のせいにしてはいけません。

(4)神は、罪を犯した人間を何とかして救いたいという意志を持っておられます。しかし、それと同時に神はご自身の義に忠実なお方なので、罪を犯した人間を罰せずにおきません。

(5)ユダヤ教では、動物を犠牲の供え物として焼き殺すことによって人間の罪に対する神の怒りをなだめる儀式を行います。しかし、人間の罪はあまりにも大きすぎるので、動物の犠牲の命だけでは、つぐないとしては不足しています。だからといって、人間の命を差し出すことは、人間を滅ぼすことになるので、人間の救いになりません。

(6)そこで、神は「神でもあり同時に人間でもある」ご自身の御子イエス・キリストの命を贖罪とされることによって、神ご自身の義が充足されつつ、同時に人間を救う道を開かれました。

いま申し上げたことは、西暦11世紀から12世紀初頭まで活躍したカンタベリーのアンセルムス(1033-1109)の著書である『クール・デウス・ホモ 神は何故に人間となりたまひしか』(日本語版:長沢信寿訳、岩波文庫、1948年)のアウトラインと軌を一にします。このような教えを、伝統的に「充足説」(satisfaction theory of atonement)と言います。

アンセルムス『クール・デウス・ホモ』岩波文庫版

はっきり言えることは、日本基督教団信仰告白はアンセルムスの贖罪論を受け継いでいるということです。なぜそう言えるかというと、「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り」という観点は「神はなぜ人間になったのか」という、まさにアンセルムスの問いに答えようとしているからです。別の言い方をすれば「御子の受肉の目的は何か」という問題でもあります。

しかし、このアンセルムス型の贖罪論が非常に多くの批判を浴びて来たことについては、黙っているわけには行かないと思っています。

よく言われる批判は、「人間の罪を軽視する教えである」というものです。なんだかんだ理屈をつけて、結局、人間の罪を見逃すだの赦すだのいう甘い教えである、というようなことがしばしば語られます。

もうひとつご紹介したい批判は、「刑死や殉死を美化する教えである」というものです。人類の身代わりに死んでくださったあのキリストのように、特攻隊員はお国のために我々の身代わりに命を投げ出した、というような話へのすり替えがなされることは確かにありえます。

これらの批判に対して私たちは謙虚に傾聴すべきであると私個人は考えています。そのうえで、私はアンセルムス型の充足説で満足しています。甘い人間ですので。神のみゆるしなしに生きて行けないものを感じますので。御子の贖いによって神の義が充足されたので、私たちが神に償う必要はもはやないという教えは、私にとってはありがたいです。

「イエス・キリストによる贖罪によって、わたしたちは(   )から救われる」という穴埋め問題の答えを考えることが贖罪論において重要です。救いには「救い出されること、救出されること」の意味がありますので、「何から」(From what ?)という問いが重要な意味を持ちます。

ファン・ルーラーが7つの選択肢(穴埋め問題の「語群」)を挙げています(「イエスの苦しみの意味」(1956年)、『A. A. ファン・ルーラー著作集』2011年、233-243頁)。

 ①死  ②悪魔とその力  ③律法

 ④この世  ⑤我々自身  ⑥力としての罪

 ⑦負い目(罪悪感)としての罪

ファン・ルーラーが最適解としているのは「⑦負い目(罪悪感)」(オランダ語 schuld スフルト)です。ぜひ思い出していただきたいのは、マタイ6章とルカ11章の「主の祈り」の第5の祈りが、新共同訳聖書から「負い目」と訳されるようになったことです。聖書協会共同訳も「負い目」。

「負い目」という意味は、文語訳の主の祈りで「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈っているときには認識できません。「負い目」とは「罪悪感」のことです。そのように最近の聖書で翻訳されるようになりました。

「負い目」(罪悪感)は私たちが常に感じていることです。「ああ、昨日あの人を傷つけてしまった。今日もやってしまった」と罪悪感を抱かない日は無いと思うほどの私たちです。そういうことを少しも感じずに生きることに、かえって問題を感じるほどです。

しかし、「負い目」(罪悪感)は放置していると、澱(おり)のように私たちの心と体にたまっていきます。そのうちあふれて、私たちが壊れて行きます。

私たちの「負い目」(罪悪感)を神によって取り除いていただけることも、十分な意味で「罪の赦し」であり、「贖い」です。日本基督教団信仰告白が言う「我ら罪人の救ひ」そのものです。毎週の礼拝の中で、日々の祈りと賛美と信徒の交わりの中で、「負い目」(罪悪感)からの救いが起こります。

この穴埋め問題に正解はありません。自分で答えを考えることが大切です。とはいえ、危険度が高い選択肢が含まれていることに気づく必要があります。

「④この世」と「⑤我々自身」という選択肢は危険です。「この世の中から救い出されること」が救いなら、私たちはどこへ行けばよいのでしょうか。「自分自身という罪深い存在から救い出されること」が救いなら、「私は生きていてはいけない」という考えに陥らないでしょうか。

「②悪魔とその力」という選択肢も危険です。自分に当てはめるならともかく、自分以外のだれかを「悪魔」呼ばわりして、その人が消えうせることを求める考えに陥らないでしょうか。

(2025年5月25日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

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2025年5月18日日曜日

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教③三位一体論

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「三位一体の神」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教③

ヨハネによる福音書1章14~18節

関口 康

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)

「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」(日本基督教団信仰告白

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」第3回目のテーマは「三位一体の神」です。

なぜ教会は「さんいいったい」ではなく「さんみいったい」と読むのでしょうか。その理由は、音便(おんびん)です。音便とは「発音上の便宜(べんぎ)」です。言いやすさ、読みやすさ。平安時代から「三位」は「さんみ」と読まれていたそうです。

「三位一体」は、英語でTrinity(トリニティ)。ドイツ語Trinität(トリニテート)。オランダ語Triniteit(トリニテイト)。ラテン語trinitas(トリニタス)。古典ギリシア語τριάς(トリアス)。

「三角形」(triangle)など「トリ」(tri)が「3」です。3つのものの一体性(unity)を意味するtri-unity(トリ・ユニティ)からのtrinity(トリニティ)です。

その意味は、1つの神性(one divine nature)の内部に3つの位格(three persons)があるということです。御父(おんちち)なる神、御子(みこ)イエス・キリスト、聖霊(せいれい)なる神を「三位一体の神」とするのが「正統教義」です。この教義を受け入れない人たちは「異端」とみなされてきました。それが歴史の事実です。

ご参考までにご紹介したいのは、私が岡山県立岡山朝日高等学校のたしか2年生のときに授業を受けた「世界史」の教科書、『詳説世界史(再訂版)』(山川出版社、1979(S54)年版)です。公立学校ですので聖書の授業などはありえないし、キリスト教的な要素が全くない学校でしたが、そういう学校の世界史の教科書に「三位一体論」についてかなり詳しく書かれていました。

文部省検定済教科書『詳説 世界史(再訂版)』(山川出版社、1979年版)

少し長いですが、以下引用します。

「313年、当時〔ローマ〕帝国西半部を支配していたコンスタンティヌス帝はミラノでキリスト教を公認した。さらに324年かれが帝国を統一して独裁者となると、キリスト教は全帝国の公認宗教となった。ところが当時教会には神学上の見解の対立があったから、帝は325年ニケーアに公会議(宗教会議)をひらき、のちにアタナシウス(Athanasius [295?-373])が確立した三位一体説を正統教義とし、キリストの神性を否定するアリウス派(Arius)を異端とした。その後ユリアヌス帝(Jurianus [位361-363])は古典文化と異教の復興を企て、キリスト教徒をおさえたが成功せず、392年、テオドシウス帝はついにキリスト教を国教とし、他の宗教を厳禁するにいたった」(45-46頁)

最近どうなっているかは分かりませんが、私が高校生だった45年前の日本の公立高校の生徒たちが「三位一体」について学んだのはこのような内容でした。そのイメージは「ローマ帝国の独裁者が全領土の住民に強制した宗教」です。こういう知識のある人たちは、教会の前を通るたびに首を傾(かし)げているでしょう。もう少し続きを読みます。

「ニケーアの公会議で敗れたアリウス派は北方のゲルマン人のあいだにひろまったが、その後も公会議はしばしばひらかれ、さまざまの学説が異端とされた。そのなかで5世紀にキリストの神性を十分に認めないとの理由で異端とされたネストリウス派(Nestorius)は、ペルシアをへて中国まで伝わり、唐代に景教と呼ばれた」(46頁)

歴史の説明をするだけで終わりそうなので、ここまでにします。45年前の公立高校で教えられていたキリスト教の「正統派」に対するもうひとつのイメージは、「イエス・キリストが神であることを認めない人々を異端呼ばわりして追い出す宗教」です。高校生たちはこういうのを丸暗記して共通一次試験を受けることになっていましたので必死で覚えました。

そして、ここで私が申し上げることができるのは、私たち日本基督教団は「三位一体の神」への信仰告白において「アリウス派」(ホモイウースオス派、ὁμοιούσιος)ではなく「アタナシウス派」(ホモウーシオス派、ὁμοούσιος)のほうの「正統教義」を継承していることを明らかにしている、ということです。これが歴史の事実です。

しかし、誤解なきように。「三位一体の神」はアタナシウスの発明ではありません。「三位一体」という用語は聖書の中にはありません。だからといって、聖書の中に神が三位一体であることを信じる根拠はないとは言えません。三位一体の教理の核心は「イエス・キリストは神である」という信仰告白です。それは新約聖書の核心部分です。今日の朗読箇所にもその信仰が告白されています。後の神学者たちが、聖書の教えを要約して、神を「三位一体」と呼んだにすぎません。

ヨハネによる福音書の「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1章1節)の「言(ことば)」(ロゴス)は、イエス・キリストです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1章14節)の「肉」(サルクス)は、人間を意味します。この箇所で告白されている信仰は「イエス・キリストは人間となった神である」ということです。

「人間となった神」は御子イエス・キリストであり、その方は御父と同質(ホモウーシオス)であると信じることが三位一体の教理の核心部分です。そのような信仰を、私たちは日本基督教団信仰告白において継承しています。

「神となった人間」つまり「神格化された人間」はたくさんいます。決して珍しくありません。私は先週、かなり意識的に集中して戦争映画を観ました。ひとり暮らしの暇つぶしで観たというのとは違う気持ちでした。すべてインターネットで配信されているものです。

先週観たのは「ルバング島の奇跡 陸軍中野学校」(主演:千葉真一、1974年)、「二百三高地」(主演:仲代達也、1981年)、「大日本帝国」(主演:丹波哲郎、1982年)、「ミッドウェイ」(出演:豊川悦司他、2019年)。戦後の復興期の政界を描いた「小説吉田学校」(主演:森繁久彌、1983年)も観ました。

戦争映画は嫌いです。殺し合いの映像がリアルですし、どの映画も長く、観るだけで疲れます。しかし、今日の説教の準備のために観なければならない気がしました。私は1965年生まれです。戦後の焼け跡を見たことがなく、「天皇が神とされた」日本を体験的に全く知りません。当時の人々の証言を何度聞いても、本を読んでも、写真を見ても、想像力が追い付かず、リアルな映像が浮かんできません。そのため、映画に助けてもらう必要があると思いました。

登場人物の中に日本人のクリスチャンが何人か描かれていることが分かりました。「二百三高地」(1981年)の小賀武志(あおい輝彦さん)や松尾佐知(夏目雅子さん)、「大日本帝国」(1982年)の江上孝(篠田三郎さん)や柏木京子(こちらも夏目雅子さん)。その人々が静かに抵抗しながら結局戦争に巻き込まれていく姿が描かれていることに興味を惹かれました。

イエス・キリストを「人間となった神」であると信じることは、その真逆の存在である「神格化された人間」に対する根本的な抵抗を意味します。イエス・キリストの時代のローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスもその後の皇帝たちも神格化され、皇帝礼拝の対象になりました。

「三位一体」という正統教義は「ローマ皇帝によって全領土の住民に強制された宗教」であるという面が無いとは言えない一方で、「神になりたがるすべての権力者に抵抗する宗教」である面もあります。

(2025年5月18日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

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2025年5月11日日曜日

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教②聖書と生活

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教 「聖書と生活」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教②

テモテへの手紙二4章1~8節

関口 康

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(2節)

「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」(日本基督教団信仰告白

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」の2回目です。私は1冊の本を書こうとしているわけではありません。教会ブログで公開しているのは説教原稿です。実際の礼拝では、もっと多くのことをお話ししています。礼拝に来てくださっている方々にご理解いただけば、目標達成です。ご意見があればぜひご来会ください。お待ちしております。

前回から「聖書とは何か」についてお話ししています。ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])の文章を参考にしつつ、聖書が「ユダヤ人によって書かれた書物」であることが「外部の真理」であることを意味し、聖書の教えを受け入れることが過去の歩みとは異なる方向への「転換」をもたらし、「回心」をもたらすということをお話ししました。

今日は前回の続きです。今日取り上げるのは「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」という条文です。聖書の霊感(れいかん)の教理と言います。

証拠聖句はテモテへの手紙二3章16節「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」です。「霊感」と聞くと「霊感商法」を連想する人が多い時代になりました。しかし「霊感」とはインスパイア(inspire)のことです。名詞形はインスピレーション(inspiration)です。ごく普通の文脈で用いられています。

聖書が「神の霊感によって成った」とは「神の霊」すなわち「聖霊」の導きの下に100パーセント人間によって書かれたことを意味します。それ以外の意味はありません。

「神の霊は、神ご自身ではない」と考えられることもありますが、それは誤解です。神の中から噴き出した気体(?)や、流れ出た液体(?)のようなものを想像するのは間違いです。

次回は三位一体の神について学びます。「神の霊」は「父、子、聖霊なる三位一体の神」としての「聖霊」ですので、端的に「神」(God)です。聖書の霊感の教理も、「聖書は〝聖霊なる神〟の導きによって(人間によって)書かれた」と言っているだけです。

ですから、この教えは決して難しい話ではありません。むしろ、すっきりした気持ちになれるほど、聖書は100パーセント人間によって書かれた書物であると、何の躊躇もなく説明することができます。そこに魔術の要素はありません。

「その説明で大丈夫ですか。我々が今まで教えられてきたことと違うのですが」とお思いの方がおられるでしょうか。「聖書は神さまが書いたものであって、人間が書いたものではない」でしょうか。この「聖書は人間によって書かれたものではない」という考え方は、私は最も危険だと考えています。

ある朝、マタイは目を覚ましました。すると、机の上にイエス・キリストの生涯を描く福音書が置いてありました。パウロも目を覚ましたら、同じように、いろんな教会や個人に宛てた手紙が机の上に置いてありました。しかし、彼らにはそれを書いた記憶がありません。彼らが寝ている間に、意識を失っている間に、聖書のすべてが書かれましたというようなことは起こりませんでした。それはオカルトの世界です。

聖霊なる神は、人間の中で、人間と共に、人間を活かし用いて、働いてくださいます。人間の理性も感情も判断力も、人間の真・善・美も、活かされたままです。聖霊はわたしたちの身代わりに死んでくださることはないし、私たちの身代わりに聖書を書いてくださったりもしません。聖霊が働いてくださっている間、人間は眠っているわけではないし、気絶しているわけでもないし、サボっているわけでもないのです。その点を間違うと、全キリスト教がオカルト化します。

そういうことではなく、聖書の霊感の教理は、(三位一体の)聖霊なる神ご自身が私たち人間に接触し、私たち人間へと影響・感化を及ぼし、浸透し(沁みていき)、私たち人間に感銘・感動を与えてくださる過程を経て「インスパイア」された人間が聖書を記した、と言っています。

しかし、そこでストップです。神は聖書の著者の人間性も歴史性も排除しません。そこでもし人間性の排除が起こるなら、それを「洗脳」というのです。私たちが聖書を読むときに、当時の歴史について調べたり考えたりする必要があるのは、聖書は100パーセント人間が書いた書物だからです。

日本基督教団信仰告白が聖書について書いている「誤りなき規範」の「誤りなき」の意味は、「無謬性」(インフォーリビリティ:Infallibility)のことだと考えるのが妥当です。「無謬性」は「無誤性」(インエランシー:inerrancy)との比較で考えるのが理解しやすいです。

インフォーリビリティ(無謬であること)は「フォール(堕落)していない」という意味です。インエランシーは「エラー(誤記)がない」という意味です。日本基督教団信仰告白が肯定しているのは前者(「聖書は堕落していない」)のほうであって、後者(「聖書は誤記がない」)のほうではありません。

聖書に「誤記」はあります。しかし、「堕落していない」とは「神のみこころにかなっている」ということです。その意味は、聖書に記された言葉を読んで、その教えを信じたとしても、その教えに基づいて生活したとしても、それによって罪を犯すことにはならないので大丈夫です、ということです。

だからこそ、聖書は「信仰と生活の誤りなき規準」なのです。

(2025年5月11日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

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2025年5月4日日曜日

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教①聖書と教会

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「聖書と教会」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教①

テモテへの手紙二3章10~17節

関口 康

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)

「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」(日本基督教団信仰告白

今日から「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」を始めます。全10回の予定です。

私は昨年3月より足立梅田教会にいます。これまでは基本的に「教会暦説教」をしてきました。聖書箇所も日本基督教団聖書日課『日毎の糧』から選んできました。

「教会暦説教」には長所と短所があります。長所はクリスマス、イースター、ペンテコステなどの行事に合わせた説教ができることです。短所は毎年同じ話になりがちなことです。出口がない円をぐるぐる回っている感じです。

「教理説教」には出口があります。聖書の教えを歴史的な順序で説明しますので、「初め」も「終わり」もあるからです。ただし、それは現代的な意味の「歴史」とは異なります。私たちの場合は「天地創造」(創造論)から「神の国の完成」(終末論)までを描く「神のみわざの歴史」です。

「抽象論だ」「おとぎ話だ」と日本に限らず世界中で嘲笑を受けて来ました。このことについては実際の説教を聞いていただかないかぎり理解してもらえませんので、これ以上は言いません。

日本基督教団信仰告白が「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は」から始まり、「聖書とは何か」という問いに答えることから出発しているのは、わたしたちがかくかくしかじかのことを信じると言っているのは、そのように聖書に書かれているからであると述べようとしています。

「あなたたちは聖書に書かれていることを全部信じるというのか。たくさん間違いがあることは学問的に証明されている」と言われます。おっしゃるとおりと思いますが、問題は何をもって「間違い」と言うかです。現代の科学技術を駆使した歴史学や考古学の観点から矛盾や間違いを指摘されるのはありがたいことです。だからといって信じることをやめるかどうかはダイレクトに結びつきません。

日本基督教団信仰告白の「旧新約聖書は(中略)教会の拠るべき唯一の正典なり」の「正典」は、一般的に言えば「経典」ですが、わざわざ「正典」と呼ぶのはCanonという決まった用語の翻訳だからです。Canonは「はかり、物差し、規準」などの意味です。

したがって、この条文の意味は、日本基督教団は「聖書というはかり」に収まる範囲のキリスト教信仰を共有しているということです。この「はかり」を超えて主張されることになれば、異端または別の宗教であると判定せざるをえないということです。

20世紀オランダのプロテスタント神学者ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が聖書について述べた複数の文章が『ファン・ルーラー著作集』第2巻(原著オランダ語版、2008年)に収録されていることが分かりました。「聖書の権威と信仰の確かさ」(1935年)、「信仰の土台としての聖書」(1941年頃)、「聖書の権威と教会」(1968年)、「聖書の扱い方」(1970年)など。

これらのファン・ルーラーの文章すべてに一貫していたのが「私たちは聖書に書かれていることだから信じている」という主張の線です。また「聖書の権威」と「信仰の確かさ」は両方あって初めて成り立つ、ということも繰り返し主張されていました。

たとえば、創世記3章にエバと蛇が会話する場面が出てきます。民数記22章にはバラムがロバと会話する場面が出てきます。こういう箇所を読んで「蛇やロバが人間と会話できるはずがない。聖書に書かれていることはウソばかりだ」と言い出すのは聖書の本質が分かっていないからだとファン・ルーラーは言います。「聖書」には、歴史、文学、書簡、詩歌など、さまざまな文学形式で記されている文書が収められています。

また、ファン・ルーラーが書いていることの中でこのたび私が最も感銘を受けたのは、〝聖書がユダヤ人によって書かれたものであることは、私たちゲルマン人にとって、自分たちの内側には真理が無かったことを意味する〟と彼が主張しているくだりです。

以下、ファン・ルーラーの説明を要約してご紹介いたします。

本など他にもたくさんあるのに、聖書を「本の中の本」と呼ぶのはなぜだろう。古い本を読んで我々ゲルマン人の魂の本質を知りたいだけなら、ヴァイキング時代を描いた北欧神話『エッダ』に手を伸ばすほうがよいのではないかと思うのに、そうしないで聖書を読もうとすることに、我々はもっと違和感を抱くべきであるとファン・ルーラーは言います。あまりに慣れすぎて我々はその違和感を認識できないのだ、と。

我々ゲルマン人が「外部からもたらされた救い」によって「改宗」したのは「クローヴィス」の頃だと書いています。それはフランク国王クローヴィス1世(西暦466~511年)が、妻のひとりがキリスト者だったことで自分自身も西暦496年にキリスト教に改宗したことを指しています。

その「クローヴィスの改宗」こそ、ゲルマン人にとっての「転換」であり、最も深い自己意識と決別したことを意味する。それは「いまだに完全には癒えていない我々の魂の傷」であり、だからこそ「国家社会主義〔ナチス〕はその転換を覆そうとしたし、現代の西洋社会はその転換を超克したいと望んでいる」とファン・ルーラーが書いています(「聖書の扱い方」1970年参照)。

ファン・ルーラーの文章を読んで私が考えさせられたのは、1549年フランシスコ・ザビエル来日から476年、ベッテルハイム宣教師の沖縄伝道開始1846年から179年、ヘボン、ブラウン両宣教師の横浜到着1859年から166年を経ても日本の大半の人々に「転換」が起こらないのは、「外部の真理」によって転換させられることを恐れているからだ、ということです。

今申し上げたことは、日本基督教団信仰告白に明記されていません。しかし「聖書」は「日本にとっての外部の真理」であるという点が勘案されるべきです。そのことが認識されないかぎり「改宗」が起こることはありません。私の父も母も戦後に洗礼を受けてキリスト者になりました。1945年の敗戦という事実を突きつけられて「我々の内側には真理は無かった」と思い知らされたからだと思います。

「外部から持ち込まれた真理」によって、まず自分自身が変えられ、それを広く宣べ伝えるのが「教会」ですから、「身内で固まりたい人たち」や「民族主義的な人たち」からは嫌われます。違和感を示されることが多いです。

だからこそ逆に、教会は「身内で固まりたい人たち」や「民族主義的な人たち」から排除された人たちにとっての「避けどころ」(シェルター)や「出口」になり、そこに新しい共同体が生まれます。「日本人」という概念の今日的な意味は、少なくとも私には明確には分かりません。

「キリスト教は敵国の宗教だ」と言われた時期が長かったと思います。しかし、キリスト教の起源は、アメリカでもヨーロッパでもなく、アジアです。

オランダ人のファン・ルーラーが1970年の時点で「聖書」は「外部の真理」だと言っているのですから、私が申していることも「今この瞬間に日本列島に在住している私たち」にとってだけ「外部」だという意味ではありません。実はユダヤ人にとっても「外部」でした。究極的には神ご自身が人間にとっての「外部」です。「改宗」のために「外部の真理」が必要なのです。

(2025年5月4日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

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