2024年12月24日火曜日

救い主の星

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「救い主の星」

マタイによる福音書2章1~12節

関口 康

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(9-10節)

今夜はクリスマスイブキャンドルサービスにお集まりいただき、ありがとうございます。

私は今年3月からこの教会の牧師になりました。まだ1年経っていません。コロナの関係等で何年も中止していたイブ礼拝を再開しました。いろいろ手探りで準備しました。以前と違う点があるようでしたらお許しください。

ところで、みなさんは「クリぼっち」という言葉をご存じでしょうか。

この言葉を私が最初に見かけたのは、8年前の2016年です。なぜ時期を覚えているかと言えば、2016年度の1年間、千葉県八千代市にある千葉英和高等学校で聖書科の常勤講師だったとき、私と同期で採用された聖書科の若い女性の非常勤の先生が、生徒向けの学校礼拝で「みなさんは『クリぼっち』という言葉をご存じでしょうか」と切り出したのを忘れられないからです。

言葉の意味は単純です。「クリスマスにひとりぼっちでいること」です。今年もインターネットで「クリぼっち」という言葉が飛び交っているのを見かけました。いまだに死語になっていないと分かりました。

教会のわたしたちはそういう話を不思議に思います。教会のわたしたちにとって「クリスマス」はイエス・キリストのご降誕をお祝いする日です。ですから、わたしたちはつい「クリスマスにひとりぼっちが寂しいなら、ぜひ教会に来てください。クリスマス礼拝があります。クリスマスイブ礼拝もあります。食事もケーキもお茶もあります」と言いたくなります。

しかし、それは別の話であると認識されるというのが現代人の基礎知識です。「クリぼっち」の意味が「独りでいることが寂しい」というだけでなく「恋人が欲しい」ということであるのも、私は理解しているつもりです。イエス・キリストも教会も関係なくクリスマスが祝われることをとがめる気持ちは、私にはありません。

先ほど朗読した聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストがお生まれになったユダヤのベツレヘムに「東の方」から占星術の学者たちがやって来たという物語です。

地名は記されていませんが、明らかにバビロニアです。今のイラクがある地です。チグリス川とユーフラテス川にはさまれて豊かな自然に恵まれ、栄華を極めたメソポタミアの中心地。そこにあったのはユダヤ人の文化や聖書の教えとは異なるものであり、ユダヤ人とは何百年も対立してきた敵国です。

しかし、その東の国の学者たちが、自分たちの文化の中で、聖書の教えとは全く異なる考え方や方法でたどり着いた結論が「ユダヤに救い主が生まれる」ということであり、その結論に基づいて遠路はるばる砂漠の中を旅してきたことが記されています。

それが「クリぼっち」の話とどのように関係するのかを申し上げねばなりません。すぐ分かる話です。イエス・キリストも教会も関係なく盛り上がるクリスマスの季節に寂しい思いを抱え込む「クリぼっち」の方々と、聖書の教えとは別の発想と方法で「救い主の星」を見つけ、「ユダヤのベツレヘム」を目指す旅に出かけた東の国の学者たちは、同じであると申し上げたいのです。

ですから、もし今夜「教会に初めて来ました」という方がおられましたら大歓迎いたします。「神を信じるつもりはない」という方でも「居場所を求めていない」という方でも大丈夫です。

今夜の聖書の箇所に描かれているのは「最初のクリスマス礼拝」の様子です。集まったみんなで主イエスを拝んでいるので「礼拝」です。星が見える時間帯の話ですので「夜」です。その場所に「あなたは来てもいい」とか「あなたには来る資格がない」とか、そのような差別は全くありませんでした。

東の国の学者たちは「黄金、入香、没薬」を贈り物として主イエスに献げました。今夜はそれもなしです。イブ礼拝で献金を募るかどうかを役員会で相談しましたが、今回はしないことにしました。「教会に行くと取られる」とか「無くなる」というイメージが広がるのは困ります。東の国の学者たちは、あくまで自分の意志で主イエスに贈り物を献げたのであって、強制されたわけではありません。

人生も少し長くなると「ひとりの寂しさ」の意味が変わってくることを実感している今日この頃です。「恋人が欲しい」「話し相手が欲しい」「居場所が欲しい」という寂しさも分かります。しかし、私は来年で60歳です。この歳になってやっと、これまでずっといつも前を歩いてくれて背中で人生を教えてくれていた両親や恩師たちがいなくなる寂しさが分かるようになりました。

寂しさの中身は何であれ、「クリぼっち」の方々は、クリスマスでなくても、ぜひ教会においでください。「救い主の星」のもとに集まり、讃美歌を歌い、聖書を学び、祈りをささげ、楽しく過ごしましょう。心からお待ちしております。

(2024年12月24日 日本基督教団足立梅田教会 クリスマスイブキャンドルサービス)

2024年12月22日日曜日

言は肉となった

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「言は肉となった」

ヨハネによる福音書1章1~18節

関口 康

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)

ご承知のとおり、新約聖書にはイエス・キリストの生涯を描く「福音書」と呼ばれる書物が4巻あります。前から順にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。

これらのうちで、主イエスのご降誕を描いているのがマルコ以外の3巻です。ヨハネによる福音書にもしっかり記されています。「どこに?」と思われるでしょうか。今日の朗読箇所です。

その描き方において他の福音書と違いがありすぎることは明白です。だいたい出てくる感想は「難しい」「哲学的」「抽象的」「意味不明」。そう言われれば、おっしゃるとおりと認めざるを得ないところがあります。

たとえば、今日の箇所に基づいてキリスト聖誕劇(ページェント)の台本を書けるでしょうか。至難の業であることは確実です。面白くない(=自分と関係ない)し、不適切であると感じる人は多いでしょう。

マタイやルカに描かれている物語にも、未確認生命体というべき「天使」が登場したり、結婚前のマリアが妊娠したりと、謎めいた内容が記されています。しかし、演劇として成立する豊かな内容があります。

一昨日(12月20日)私は、当教会と関係が深い保育園で子どもさんがたが演じるページェントを初めて拝見しました。みんなかわいかったです。

ヨセフとマリア、ベツレヘムの羊飼いと羊、宿屋、東方の3博士(カスパール、メルキオール、バルタザールという名前がついた伝説がある)、ローマ兵、天使と星が、飼い葉桶の主イエスを囲んで大団円。このような「人間らしい」聖誕劇なら、わたしたち自身の誕生と無関係ではない描き方ができるでしょう。

しかし、ヨハネによる福音書に基づいてどんな劇ができるでしょうか。登場人物が「ヨハネ」(6節)以外に出て来ません。このヨハネは主イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネです。主イエスがお生まれになったとき、このヨハネも小さな子どもです。

ヨハネによる福音書のキリスト降誕物語の主人公は「神」です。人間の視点からではなく、神の視点から描かれています。人間の理解の限度を超えるものがあります。しかし、そのほうがいいでしょう。人間のプライドが傷つきます。だからこそ、人間の心の砦(とりで)が破られ、回心の機会が訪れるでしょう。

わたしたちが理解できるかどうかはともかく、ヨハネによる福音書がとにかく言っているのは、「神」(テオス)の「言(ことば)」(ロゴス)が「肉」(サルクス)となったのが主イエスである、ということです。

そして、その「肉となった神」であるイエス・キリストとの出会いは、父なる「神」との出会いに等しいということであり、さらに主イエスご自身が「神」であるということです。

もし主イエスが「神」ではないならば、キリスト者の祈りの言葉である「主イエス・キリストによって祈ります」という表現は成立しません。主イエスは、神でもなければ人間でもない、両方から責め立てられる、中間管理職のような存在ではありません。イエス・キリストは「神の右に座しておられる」という信仰表現もあるほど「神と等しい方」であり、つまり「神」です。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)と記されています。こういう正直な文章が私は好きです。神を見たことがある人は人類史上ひとりもいません。「神を見た」と思っている人は神以外の何かを見た可能性が高いです。私も「見た」ことがないです。だからこそ「信じて」います。

このような信仰を軽蔑する人がいます。今日のクリスマス礼拝の案内をインターネットで見てくださった方の中にいました。その方自身は仏教の特定の宗派に所属していることを教えてくださいました。「神が人類を造ったというなら、その神を連れて来てみろ。できないだろう。それができないキリスト教は邪教である」の一点張りでした。

「私も神を見たことがありません。見たことがないからこそ信じております」と返事したら、「そんな愚かな宗教はやめてしまえ」と返って来ました。そこで私はやりとりを終了しました。ご自身が信じる道をお進みになればよろしい。それ以上、私から申し上げることはありません。

私の話はどうでもいいです。教会の立場については、みんなで考える必要があります。ヨハネによる福音書の成立年代は、西暦1世紀の終わり頃(90年代前後)です。それが意味することは、紀元30年ごろ十字架にかけられて地上の生涯を終えられる前の主イエスと直接的な交流を持ったことがある人々が残っていた可能性がきわめて低い時期に書かれた、ということです。

なぜ成立年代の話をするかといえば、「父のふところにいる独り子である神」(18節)としての主イエスを「見た」(同上節)と書かれていることの意味は何かを考える必要があると申し上げたいからです。この「見る」に物理的な肉眼で目視したこと以上の意味があるのは明白です。

そうしますと、ヨハネによる福音書が書かれた時代(紀元1世紀末)の人々と今のわたしたちは立場が同じであることが分かります。わたしたちが主イエスを「見る」方法は聖書を学ぶこと以外にありません。さらに、演劇があると助かります。舞台でもテレビドラマでも映画でも大丈夫です。登場人物の言葉や動作の意味を理解でき、共感できます。苦しみや痛みを共有できます。心が通います。

最後に怖い話をしていいですか。とても怖い話です。

「初めに言(ことば)があった」(1節)の「初め」は、天地創造以前、すなわち世界も人間も誕生する前を指しています。神以外の何も存在していない、「無」(Nothing)と神が向き合っておられる状態です。「時間」(クロノス)も神が創造したものなので、その点を厳密にとらえれば「時間以前」であると言うべきです。

さて問題です。「初め」に「言(ことば)」があり、「言(ことば)」が「神」であったという場合、その「言(ことば)」は、だれに向かって発せられたものでしょうか。神には話し相手がまだいないはずなのに。

この問題の答えは聖書に記されていません。しかし、可能性は2つです。

第1の可能性は、神はひたすら沈黙されていた、ということです。

第2の可能性は、神はずっと独り言を言い続けておられた、ということです。

私は前者を選びます。神は天地創造の前は、ひたすら沈黙しておられました。

しかし、神は沈黙を破られました。神は「言(ことば)」をもって「無」(Nothing)から「有」(Being)を、そして「すべて」(Everything)を呼び起こされました。神が「光あれ」と言われ、光が創造されました(創世記1章3節)。

そして神は、ご自身が創造された世界と人間を愛してくださいました。神は「愛」をわたしたち人間に告白してくださるために「肉」をお摂りになり、人間としてお生まれになりました。

生きる意味も理由も見失いがちなわたしたちに神が「わたしはあなたを愛している」と告白してくださり、「あなたは愛されるために生まれた」と教えてくださるために、イエス・キリストはお生まれになりました。

(2024年12月22日 日本基督教団足立梅田教会 クリスマス礼拝)