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日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
マタイによる福音書13章24~33節
関口 康
「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けばどんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(31-32節)
今日は足立梅田教会の創立72周年記念礼拝です。今週土曜( 9 月13日)が記念日です。来週 9 月14日のほうが記念日に近い日曜日ですが、良いことをするのは早いほうがよいと思いました。
説教題が大げさでしょうか。私たちの心が少しも折れていないことを表現したいと思いました。この「教会」は「足立梅田教会」です。足立梅田教会の歴史はこれからも続きます。そのことを公に宣言いたします。
聖書の話を先にします。今日の朗読箇所は創立記念礼拝向けに特別に選んだ箇所ではなく、日本基督教団聖書日課『日毎の糧』の今日の箇所です。しかし、今日の礼拝にふさわしい内容であることが分かりました。
31節以下は「からし種のたとえ」です。からし種は小さな粒です。 1 グラムあたり725~760粒もあります。しかし、完全に成長すると、どの野菜よりも大きくなります。大きな木になり、その枝に鳥が巣を作れるほどになります。2.5から 3 メートルの高さにまで成長します。
しかし、このたとえ話の要点は、「神の国」または「教会」は必ず《拡大》していく、ということではありません。このたとえ話の要点は、蒔かれたからし種は「神の国」または「教会」の《始まり》である、ということです。
大きくなるかどうかは問題ではありません。「始めること」と「続けること」が大事です。そのことを教えるたとえ話です。
足立梅田教会は「持続可能な教会」(Sustainable Development Church)であると私は確信しています。SDGs(エスディージーズ)をもじりました。「持続可能」だけであれば、sustainableで十分です。しかし、「発展、展開、開発」などを意味するdevelopmentを残したいと思いました。「成長」の意味もありますが、「拡大」や「増加」を強調したいのではありません。
当教会が「持続可能」な理由は、初代牧師の藤村靖一牧師の基本方針がすべてです。創立36周年に当教会が発行した『足立梅田教会の歩み』(1989年)に記されています。
「私たちの歩みは、ゆっくりゆっくりが最初からの特色であり、伝統です。私の教会運営の基本方針は 3 つでした。1. 集会をできるだけ少なくする。2. 受洗者は、年にひとりでよい。しかし、最後まで脱落しないように祈っていく。3. 藤村の生活は自分で支えていく」(50頁)。
別の頁にも、同じ趣旨の言葉があります。こちらのほうが詳しいです。
「この時点(*1954年)での私の方針は、第 1 は、みんな多忙なので集会はできるだけ少なくすること。第 2 は、礼拝で培われた信仰を各自の家庭、職場、社会において力強く実践すること。さらに、急がないで進むこと。受洗者は年にひとりでよい。しかし、ひとり残らず最後まで脱落者を出さないこと。そのように祈ること。もうひとつは、教会の中で困っている人がいたら、相互に助け合っていけるような体制を作ること。けれども、それらは思うようには行きませんでした。それから、幸いに私は青山学院に勤めておりますので、自分の生活は自分で支えて行けました」(14頁)。
これは素晴らしい方針です。「ゆっくりゆっくり」を忠実に受け継いだ先に足立梅田教会の将来があります。
「ゆっくりゆっくり」は、サボることではありません。ウサギとカメの童話をご存じでしょう。イソップ童話です。明治時代の国語の初等科教科書に「油断大敵」というタイトルで掲載されていたそうです。それはウサギの視点でしょう。カメの視点で考えれば、一歩一歩着実に歩んだ先にゴールがあることを教える童話です。足立梅田教会はカメです。悪い意味ではありません。
牧師の生活については、現時点の私は教会のみなさまに助けていただいていますが、理想的には藤村先生のおっしゃるとおりです。なんとか自活を目指します。
足立梅田教会が「持続可能」である理由はまだあります。それは「教会堂に拡張性が無いこと」です。皮肉や逆説で言っていません。礼拝堂の広さは学校の 1 教室分です。この建物の中に礼拝堂も集会室も牧師館も駐車場も備わっています。コンパクトですがオールインワンです。牧師は大型バイクです。21世紀の理想的な教会です。
この建物の「サイズ」が、元々ここが藤村靖一先生の私邸だったことで決定された面があるのは承知しています。しかし、それだけではありません。
藤村先生の人生最大の恩師、浅野順一先生が「1936年 1 月10日」の日付でお書きになった文章に次のくだりがあるのを見つけました。
「近ごろ、日本でも立派な会堂を建築することが一種の流行のようである。それを一概に悪いと言うのではないが、もし容れ物は堂々たるものになったが、中身がかえって空疎、貧弱になったというのであれば、それは本末転倒という外はない。
もし牧師の成功の一つが大会堂建築にありとする思い違いがあるならば、これは正に言語道断と考えるが、どうであろうか。
私は決して瘦せ我慢でこういう憎まれ口を言っているのではないつもりである。今日の日本の教会はそれどころではあるまい。固定した古いものがドンドン破られて、新しいものに向かって進んで行かなければならない時であろう。
もちろん、新しければ何でも良いなどと乱暴なことを言うのではないが、古きはすでに死し、それが新しい生命に生き返るということが福音の根本精神だとすれば、古いものを温存するその容れ物は、場合によっては打ち壊すとか投げ棄てることも必要かもしれない」
(『浅野順一著作集』第11巻、創文社、1984年、125~126頁)
89年前に書かれた文章と思えないほど、今の日本の教会の状況に符号する内容です。
この文章が書かれた1936年1月に、浅野順一先生(36歳)は美竹教会の牧師に就任されました。同じ1936年12月に藤村靖一先生(21歳)が知人の紹介で浅野先生の門を初めて叩かれました。翌1937年藤村先生は住友海上火災に就職され、同時に美竹教会に通いはじめられました。藤村靖一先生の教会堂のサイズについての思想は浅野順一先生から受け継がれた可能性が高いです。
足立梅田教会の最初の「からし種」は次の方々です。1951年 8 月、黒岩さんが富士見町教会で受洗後、1953年 9 月、当教会へ転入会。1952年12月、関口さん、樅山(もみやま)さん、杉田さんが受洗。1953年 4 月、酒井さん、木内(若林)さん、大石さん、谷古宇(やこう)さん、坪野(福岡)さん、押山さん、佐藤(柴田)さんが受洗。
1953年 9 月13日、「美竹教会梅田伝道所」開所式(当教会の創立記念日)。
1953年 9 月29日、梅田伝道所第 1 回委員会。初代委員:関口さん(23歳)、樅山さん(年齢未確認)、酒井さん(22歳)、木内(若林)さん(20歳)、佐藤(柴田)さん(17歳)。藤村靖一先生は38歳のお誕生日( 9 月28日)の翌日。みなさんお若い!
72年前に72年後の今の教会の姿を想像していた方がおられたでしょうか。これからどうなるかは、だれにも分かりません。知る必要がないことです。
神が72年、この教会の歴史を続けてくださいました。これからも神が、この教会の歴史を続けてくださいます。この教会の歴史が続いていくことが「神の存在証明」です。
(2025年 9 月 7 日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)