2024年6月23日日曜日

広く大きな救い

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「広く大きな救い」

エフェソの信徒への手紙2章11~22節

関口 康

「〔キリストは〕二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(14-15節)

先週日曜日の午後に東武線とつくばエクスプレスを乗り継いで浅草教会に行きました。私以外に足立梅田教会から3名の方。教会に落語家を招いて寄席をするという。わたしたちはいちばん前に座りました。

もうひとかた、足立梅田教会の元会員の方がお見えになりました。その5人で寄席の帰りに浅草で作戦会議。楽しく過ごしました。

落語家さんは、牧師館に戻ってネットで調べたら、1953年6月、群馬の前橋生まれ、71歳。私の父も前橋生まれなので親近感がわきました。私の血の半分は群馬産です。

落語そのものは「面白くないことはない」ぐらいでしたが、「第2部」だという余興で始めたのが「懐かしのスーパーヒーローに早変わり」という演目。何を始めるのかと思えば、重ね着した服を一枚ずつ脱いでいく。最初が星飛雄馬、次がエイトマン、最後が月光仮面。

落語の内容は、あとで調べたら「鮫講釈(さめこうしゃく)」という演題の古典落語。

伊勢神宮(現在の三重県)に全国から人が集まってお参りする。熱田(現在の名古屋)から伊勢まで行く渡し船が、桑名の沖で多くの鮫に囲まれて動かなくなった。

船の中にひとりの講釈師がいた。その講釈師が「今生の名残に一席やらせてほしい」と涙ながらに訴えた。最期だからいろんな講話をいっぺんにしたいと「五目講釈」をすると言い出す。赤穂浪士の大石内蔵助と、大岡越前と、牛若丸(源義経)と、武蔵坊弁慶が同時に出てくる、筋書きがめちゃくちゃな話を、扇子を船べり(落語では膝)にバタバタ叩きつけて話す。

すると鮫が逃げて行った。海の中で鮫同士が会話する。「なぜ講釈師ごときが怖くて逃げたのか」と尋ねる鮫がいた。「講釈師だったのか。船べりをあんまりバタバタ叩くので、かまぼこ屋かと思った」で終わる。

鮫はかまぼこの原料。かまぼこ屋が怖い。若い人たちは分からないオチかもしれません。

先週の報告のつもりでお話ししています。とにかく思ったのは、わたしたちも浅草教会さんを見習って、落語家を教会にお招きするようなことを本格的にしなくてはならないかもしれないなということです。

落語家さんがたも特にコロナ後たいへんなのだそうで。かなり自虐的に「週休5日制です」とか、「かつては北は北海道、南は沖縄で仕事をさせていただいたものですが、今では、北は北千住、南は南千住です」とおっしゃっていました。「仕事ください」と携帯電話の番号までみんなに教えてくださいました。そういう必死なところも見習わなくてはと思いました。

落語家を教会に招いて寄席を開く浅草教会さんに見習う。当然です。でも、それだけではない。プライドを捨てて「仕事ください」と言い出し、星飛雄馬にもエイトマンにも月光仮面にも変身する落語家さんにも見習う。そうでなくてはいけないなと思わされました。

今日の聖書のお話もしっかりしますので、ご安心ください。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり」(11節)と記されています。

聖書はユダヤ人でない人のことを「異邦人」と呼びます。ユダヤ人かどうかの外見上のしるしは、割礼を受けているかどうかでした。割礼とは、要するに包茎手術です。そんなことを真顔で求められるのがユダヤ教だというわけです。

これもおかしな話で、女性に割礼は求められません。女性である時点でユダヤ人男性からは異邦人を見る目で見られるかもしれません。逆に、割礼を受ければ元異邦人でもユダヤ人になれる。その場合のユダヤ人はユダヤ教団の信徒を意味します。

なので、割礼を受けていない男性、割礼を受けるも受けないも関係ない女性は、神から遠いとみなされました。「しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(13節)の中で「遠い」とか「近い」とか言われているのは、神との関係です。

「体の一部を切り取る手術を受けた者は神に近づくことができるが、その手術を受けない者は神から遠いままである」というような言い方をすれば、ずいぶんとおかしな話だと多くの現代人が気づくでしょう。「指を詰める」という話と大差ありません。

私はユダヤ教徒を差別するつもりはありません。ヒトラーがしたことです。しかし、彼らの教えに問題が無いとは思いません。もし問題が無いのであれば、わたしたちも割礼を受けないかぎり神に近づくことはできません。女性は割礼を受けることができないわけですが。

エフェソの信徒への手紙を使徒パウロの真筆であることを認めない聖書学者が増えています。私が東京神学大学の神学生だった頃の新約聖書の教授の竹森眞佐一教授が講義の中でその問題を取り上げておっしゃった言葉を忘れられません。

「エペソ書の思想は、他のパウロ書簡と似ているということを否定する学者はいないんですよ。似てるんでしょ?だったら『パウロが書いた』でいいんですよ」とおっしゃいました。私もその線で「パウロが書いた」と言います。

パウロは異邦人伝道を生涯の仕事にした人です。そのパウロが今日の箇所に書いているのは、「我々は神に近い」とか「あの人たちは神から遠い」とか言って、結局のところ、人を宗教的に見下げるようなことをする人間の愚かさをご存じの神が、愛する独り子イエス・キリストを世に遣わしてくださり、イエスさまは十字架の上で血を流して死んでくださった、そのおかげで教会内で対立していた人々を、神が和解させたという話です。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(14~15節)。

これはユダヤ教団とキリスト教会の対立の話ではなく、キリスト教会内部の話です。元ユダヤ教徒で割礼を受けた後キリスト教の洗礼を受けた人たちと、元異教徒で割礼を受けたことがないままでキリスト教の洗礼を受けた人たちとで、神からの距離に差があるという議論が教会内部で起こったので、パウロはそんな愚かな話はないと、口を酸っぱくして言い続けたのです。

しかし、今の日本の教会で、割礼を受けるべきかどうかという議論が起こることはまず無いし、少なくとも私は寡聞にして知りません。なので、もう少し別の文脈で考えないと今日の聖書箇所の意味が私たちには理解できません。

キリスト教も戒律ずくめの形で教え込まれる可能性があります。学校を悪く言うつもりはありません。しかし、学校式の教え方にはどうしても命令の要素が加わります。遅刻してはいけない、おしゃべりしてはいけない、居眠りしてはいけない、無断欠席はいけない。ルールを守れないと減点。罰則主義。

熱心な信徒が自分の子どもに信仰を伝えるときも、命令的になりがちです。私も子どもたちにはずいぶん命令しました。自分は命令されるのが誰よりも嫌いなのに。

子どもたちは反発します。おとなだって反発します。命令を正当化する宗教があるなら、その宗教の神に敵意を抱く。反逆する。必然的な帰結です。しかし、その敵意を罰するのではなく、神の御子の肉体で受け止め、抱きしめ、敵意を無効化して愛するためのキリストの十字架なのだとパウロは言います。何とも言えない気持ちにさせられます。

神の救いは広くて大きいのです。教会が「伝道しましょう、多くの人に教会に来て欲しいです」と言いながらやたら高い壁を作って、これを乗り越えることができた人だけ仲間に入れてあげると言っているかのようなのは矛盾です。

「こうでなければキリスト者でない、こうでなければ教会でない」と、決めごとが多くないほうがいいです。なるべく自由でありたい。

壁をぶっ壊そうではありませんか。牧師が月光仮面になってバイクで駆け回るぐらいで、ちょうどいいのです。

(2024年6月23日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)