2024年6月16日日曜日

天の国籍

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「天の国籍」

ヘブライ人への手紙12章18~29節

関口 康

「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう」(28節)

今日の説教題「天の国籍」は、直接的にはフィリピの信徒への手紙3章20節にある「しかし、わたしたちの本国は天にあります」(口語訳「わたしたちの国籍は天にある」)と結びつきます。私の知るかぎり「わたしたちの国籍は天にある」は、しばしば厭世(えんせい)的な意味で理解され、使用されてきました。だからこそ、この言葉は使い方に気を付ける必要があります。

「厭世的」とはこの世界が嫌なものであり、わたしたちの人生は価値なきものであると感じることを意味します。「わたしたちの国籍は天にある」のだから、という理由で、自分の人生を早く終わらせたい、一日も長く生きていたくないという思いを呼び起こし、希死念慮を助長する言葉に事実上なってきました。

いま申し上げたのと同じ趣旨で、「偽りの世に別れを告げ、罪と汚れを打ち退け、ただひたすらに我は慕う、永遠(とわ)に変わらぬあまつ国を」という讃美歌(334番)も、受け止め方次第で危険な歌になります。

しかし、「わたしたちの国籍は天にある」という言葉には続きがあります。「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(口語訳「そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」)。天から地上へと戻る矢印(ベクトル)が表現されています。

先週ある方から、使徒信条でイエス・キリストが「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」とある中の「神の右」が「我々から見て右」だとしたら「神の左」になるでしょうかとご質問をいただきました。

調べてみました。「神は右手を持ってはおられないし、神には右側さえありません」(A. ファン・リューラー『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信条』近藤勝彦・相賀昇訳、教文館、2000年、220ページ)という身も蓋もない説明しか見当たりませんでした。

とはいえ、これは旧約聖書的背景を持つ言葉だと思われますので、おそらく右手です。族長や祭司や王が権限の継承をする際の油注ぎや按手は右手で行われました。つまり、わたしたちから見た左側が「神の右」。あくまでたとえです。神と等しいお立場であることを意味するだけです。

しかし、使徒信条にも続きがあります。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」。これも天国から地上へと戻る矢印(ベクトル)です。主イエスは天国の神の右の座にどっかり座りこんでふんぞり返っておられません。もう一度、何度でも、わたしたちへと、人と世界へと近づいてくださる方です。じっとしているのではなく、動き回る方です。

わたしたちも、天国でおやすみなさいで終わるのではなく、もう一度地上に戻って来る、元通りの世界に戻る、というのが、キリスト教的な意味での「復活」のイメージです。

復活の説明も難しいです。「さんざん苦労させられて、また人生やり直しですか、もう勘弁してください。復活はごめんです」と言われることが実際にあります。

天国のイメージの問題です。福祉関係者にはきっとご理解いただけるはずです。高齢の方々が最も安心できる場所は「これまでどおり」です。これまでとは違う別世界に移されると、不安になります。聖書の「天国」は、人っ子ひとりいない、真空で透明で冷たいところではありません。そこにひとがいるし、長く親しんだ家や街があるし、色もある、カラフルな世界がそこにある、というのが聖書の「天国」のイメージです。

今日開いていただいたのはヘブライ人への手紙です。難解な書物です。著者の思考回路を理解するのが特に難しい。それと、「手紙」といいましたが、差出人も受取人も記載されていないので手紙ではありません。手紙というよりは説教の性格を持っていると考えられています。

著者の居場所を予想するための情報は、13章24節の「イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています」だけです。著者がイタリアおそらくローマにいて、この地域外の教会に書き送っている可能性があります。しかし、逆もありえます。著者がイタリアではないところから彼の出身国の教会へ「イタリア出身の人たちからよろしく」と書いているかもしれません。

「手紙ではない」と言いながら、便宜的に「手紙」と呼ばせていただきます。この手紙の送り先の教会は、創設後すぐ迫害を受けました。10章32節以下の「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください」から始まる箇所に、この教会の初期の苦労が描かれています。「あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり」(33節)。「財産を奪われた」(34節)。

この教会が苦しんだ創設期については、2章3節に「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され」とあることから、まずイエスが語り、それをイエスの弟子たちが伝え、さらに著者の世代を通じて、読者の世代へと伝えられたことが分かります。これはイエスからこの教会までの間に「2世代」があったことを意味します。

この手紙の執筆目的は 6章1~2節に記されています。「基本的なことを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して歩みましょう」。

「成熟」の意味は大人になることです。勉強したことを知識で終わらせず、教えに基づいて生きているかどうか、つまり、知識よりも実践が大切であることが強調されています。

「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神の素晴らしい言葉と来たるべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」(6章6節)と、恐ろしいことが書かれています。

一度救われた人が堕落したら二度と救われない、という意味です。これは原理原則にしないほうがいいと思います。「わたしたちは何度でも救われる。何度でも悔い改めができる」と言うほうがいいと思います。しかし、ここに書いてあることにも独特のリアリティがあります。

この手紙の送り先の教会は、パレスティナではない地域のユダヤ教の教会にいったん参加した後に、キリスト教の説教に触れるようになった元異教徒で構成されていました。彼らはユダヤ教的に解釈された旧約聖書の知識を持っていました。

著者が最初から最後まで読者に訴えているのは、ユダヤ教的に解釈された旧約聖書の教えよりも、キリスト教のほうが「より良いもの」であり、「より優れているもの」である、ということです。

このような語り方には注意が必要です。自分たちの優位性を示すために他をおとしめるような話し方になってしまうからです。しかし、ケースによってはこのような語り方が必要になることもあります。今までいた教会(他宗教含む)に疑問を感じたり傷ついたりした人々に対して二度と元に戻らないように説得することが必要な場合があります。

今日の箇所で著者は、シナイ山とシオン山の比較を始めます(22節)。シナイという名前や山という言葉さえも言及していませんが、それが分かるように記されています。ユダヤ人にとって、シナイ山は文字通りの恐怖の場でした。モーセも例外ではありません。戒律ずくめの宗教は恐怖の場です。

しかし、あなたがたは「シオンの山」に近づいたと言われています。「シナイ」がモーセが律法をいただいた山であるのに対し、「シオン」はエルサレム神殿が建てられた山です。そして、この手紙の著者にとって「シオン」は、大祭司イエス・キリストがおられる場です。

今日の聖書箇所の趣旨は、ユダヤ教とキリスト教の対比であり、ユダヤ教をやめてキリスト教に入信した人たちを説得する言葉です。戒律ずくめの宗教で人は救われない。イエス・キリストへの信仰のみで救われる宗教にこそ救いがあることを教えようとしています。

(2024年6月16日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)