2024年6月30日日曜日

いのちの重さ

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「いのちの重さ」

使徒言行録9章36~43節

関口 康

「やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた」(39節)

今日の朗読箇所は、使徒言行録9章36節から43節までです。今日の箇所の内容に入る前に、大前提の話をします。それは、使徒言行録が描く教会の歩みの「主役」はだれかと言う問題です。

「教会史の主役はイエス・キリストです」と言って済まされることがあります。反論しにくいです。しかし、そればかり言われると、弟子たちはまるで操り人形です。暴力性を帯び始めます。

現実の教会は多くの方々の献身的奉仕によって築かれたものです。ひとの働きの評価の問題を言いたいのではありません。事実として存在するひとが無視されてはならないと申しています。

使徒言行録の主役は複数います。1章から5章まではペトロ。6章から7章まではステファノ。8章はフィリポ。9章前半(1~31節)はサウロを名乗っていた頃のパウロ。9章の後半(32節)から12章までは再びペトロ。13章から28章までは回心後のパウロです。

「サウロ」はヘブライ語。イスラエル王国初代国王の名前。キリスト教への改宗後、国際的に通用するギリシア語名「パウロ」を名乗り、異邦人伝道に出かけました。

使徒言行録の「主役」は、ペトロ、ステファノ、フィリポ、パウロの4人です。この4人を2つのグループに分けることができます。ペトロとパウロは「使徒」です。現代の教会組織の中で最も近いのは「牧師/説教者」です。ステファノとフィリポは「奉仕者」です。現代で最も近いのは「役員」です。

「牧師/説教者」と「役員」を差別したいのではありません。「使徒/説教者」だけが主役ではなく、「奉仕者」が十分な意味で主役であることが、西暦1世紀においてすでに認められていたことをご紹介したいのです。

教会の歴史における最初の殉教者ステファノは「使徒」ではなく「奉仕者」でした。殉教を美化する意図はありませんが、文字通り命がけで信仰を守り、結果として死に至りました。

フィリポも大活躍しました。「外へ外へと信仰を広める働き」をした人です。フィリポはユダヤ人が忌み嫌ったサマリア人に伝道した人です。またエチオピアの女王の高官に伝道して、洗礼まで授けました。

現代のエチオピアは、人口の6割以上がキリスト者です。そのことと聖書の記述をダイレクトに結ぶのは難しいかもしれません。しかし、少なくとも最初の種をフィリポが蒔いたことが、聖書に記されているという事実が重要です。

12人の使徒以外に、ステファノとフィリポを含む7人の奉仕者が選ばれることになった経緯は、6章1~7節に記されています。西暦1世紀の教会の大切な活動として、生活困窮者を助ける働きがありました。しかし、日々の分配の問題で教会の中に紛争が起こりました。しかし、使徒たちには説教の準備があるので、分配担当の7人の奉仕者を選ぶことにしました。

しかし、これは本当に誤解されやすいので、よくよく気を付けなければなりません。使徒たちは、「説教の準備」と「生活困窮者への支援」とを天秤にかけて、前者は後者より重要なので、重要度の低い後者にはかかわりたくないと言ったわけではありません。

使徒たちの意図は、”説教”と”福祉的な働き”は、教会の中でクルマの両輪の関係にあるので、後者を決して失ってはならないという決意として、奉仕者を選ばなければならないと考えた、ということです。軽んじる意味ではなく重んじる意味だったことを、ぜひご了解いただきたいです。ここで「愛恵学園」が思い起こされて然るべきです。

今日の箇所の話をする時間が少なくなりました。今日の箇所の「主役」はペトロです。しかし、主役だけでドラマは成立しません。主役ではないけれども、きわめて重要な役割を果たす人物がいて初めてドラマ全体が輝きます。

「きわめて重要な」登場人物は、ヤッファという町にいた「タビタ(アラム語名)/ドルカス(ギリシア語名)/どちらの意味も“かもしか”」という女性です。もうひとり、直前の段落の、リダという町にいた「アイネア」という男性も重要です。

ヤッファとリダとエマオとエルサレムの関係は、巻末の聖書地図で分かります。ヤッファは、今のテルアビブ。地中海に面した港町。エルサレムからヤッファまでの直線上にリダがあります。エマオは少し南。ガザはヤッファよりずっと南です。

リダのアイネアは「中風で8年前から床についていた」(33節)。その人にペトロが「イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい」と言うと、すぐ起き上がったというのです。

アイネアがキリスト者だったかどうかは分かりません。しかし、次に登場するタビタが「婦人の弟子」と呼ばれているのに対し、アイネアはそう呼ばれていないので、アイネアはキリスト者でなかった可能性があると考える人がいます。そのほうが意義深いと私は感じます。

しかも、この「イエス・キリストがいやしてくださる」というペトロの言葉は「言葉遊び」、要は「だじゃれ」である可能性があります。

「イエスがいやす」は、ギリシア語で「イアタイ・イエスース」(ιαται [σε] Ιησους)。これが「ギリシア人の耳には同じ語源に聞こえた可能性は十分ある」というのです(※注)。

(※注 F. F. ブルース『使徒行伝』聖書図書刊行会、1958年、230頁。このブルース(Prof. Frederic Fyvie Bruce [1910-1990])の見解をオランダの権威ある註解書『新約聖書の説教』(De prediking van het Nieue Testament (PTN))の「使徒言行録」の著者、アムステルダム大学のリンディエ教授(prof. dr. Cord Hendrik Lindijer [1917-2008])が支持しています)。

日本語でもだじゃれが成立しそうです。「いえすが、いやす」。しかしこの場面でペトロが冗談を言ったと考えるのは、さすがに無理があるでしょう。私まで不謹慎なことを言っているような気持ちになります。

しかし、先ほど申し上げた「アイネアがキリスト者でなかったかもしれないという可能性」との関係を考えるとどうでしょうか。信仰を持っていない相手に信仰を強いるような言い方をペトロが“しなかった”と考えることができるとしたら。「神を信じなさい」ではなく、ユーモアをこめた言葉遊びを用いてペトロが語ったと考えることができるとしたら。

そして、最も大事な点は35節に記されています。「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」。

「ペトロを見て」でなく「アイネアを見て」であることが重要です。「アイネアは“主を信じたから”いやされた」と記されていないことも重要です。アイネアが立ち上がることは絶対にありえないと、そちら側のほうに確信を持っていた人たちの、その確信が崩されたことが重要です。それをアイネアが実現したのです。アイネアは偉い人です。

ヤッファのタビタ(ドルカス)も偉い人です。「婦人の弟子」と明記されているとおりキリスト者でした。「たくさんの善い行いや施しをしていた」とあります。ヤッファの教会の福祉的な働きを中心的に支えたひとりでした。教会のみんなから慕われ、尊敬されていたことが伺えます。

そのタビタが病気で亡くなりました。タビタの体をきれいに洗い、みんなで2階に運んで安置しました。隣町のリダにペトロがいることが分かったので、ヤッファまで来てもらって葬式をしました。すると、教会で命拾いしたやもめ(widow、寡婦、未亡人、「屋守女」説)たちが、タビタが自分たちのために作ってくれた下着や上着をペトロに見せたというのです。

このときの様子を想像すると、私は胸が苦しくなります。「下着」にすら困るという追い詰められた状況の中にいた女の子たちを見かねたタビタが、得意の裁縫で下着や上着を作ってくれた。それをみんな思い出して泣いていたというのです。

そのタビタをペトロがよみがえらせたことが記されています。復活を信じることは、現代人には難しいです。ギリギリの線で考えることを許していただけないでしょうか。

ペトロは葬式で「タビタは生きている」と説教し、そのようにみんなが信じたのです。

「教会に来ると、生活に行き詰まって苦しかった頃の私を親身になって助けてくださったあの人を思い出す」という方がおられないでしょうか。「私のいのちの恩人」が教会の中にいた。教会に来るたびにその人を思い出す。それもまた、ひとつの復活ではないでしょうか。

ペトロとパウロ(牧師/説教者)だけで、教会は成立しません。ステファノとフィリポ(役員)だけでも成立しません。アイネアとタビタ(共に生きる仲間)が必要です。3者が協力するとき「いのちの重さ」を実感できます。

(2024年6月30日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)