2025年10月6日月曜日

世にある教会 北村慈郎牧師

北村慈郎牧師
2024年9月8日 当教会創立70周年記念礼拝

説教「世にある教会」

聖書 出エジプト記19章 1 ~ 6 節、ヨハネによる福音書17章 6 ~19節

講師 北村慈郎牧師

日時 2025年10月12日(日)午前10時30分~

特別礼拝・講演会のお知らせ(2025年8月1日)

講演「これからの教会と日本基督教団」

講師 北村慈郎牧師

日時 2025年10月12日(日)礼拝後(10分程度の休憩後ただちに開始します)

場所 日本基督教団足立梅田教会 東京都足立区梅田5-28-9


後援 北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会

2025年10月5日日曜日

愛の内に歩みなさい

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「愛の内に歩みなさい」

エフェソの信徒への手紙 5 章 1 ~ 5 節

関口 康

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」( 2 節)

先週は東京教区東支区の講壇交換日でした。当教会に亀戸教会の堀川樹牧師をお迎えしました。私は大島元村教会と波浮教会の合同礼拝で説教しました。私は昨年 6 月に伊豆大島に初めて行きましたが、日曜日ではありませんでした。教会の方々とお会いするのは、先週が初めてでした。



ジェット船で東京竹芝から大島岡田港へ(2025年 9 月27日)

加えて先週、と言っても昨日ですが、私にとっての「人生初」が 2 つありました。大島での説教を合わせると「 3 つ」。来月60歳の私にとって、 1 週間で「人生初 3 つ」は刺激的でした。

昨日の 1 つめの「人生初」は、カトリック教会の司祭(神父)の説教を初めて聞いたことです。カトリック松戸教会(千葉県松戸市)で毎月行われている「松戸朝祷会」に、私は松戸の改革派教会の牧師だった頃、出席していました。足立に来てから出席を再開しました。プロテスタントの牧師たちの奨励は聴きましたが、カトリックの司祭の奨励は聴いたことがありませんでした。しかし、ついに昨日、高瀬典之司祭の奨励を初めて聴きました。

カトリック松戸教会(千葉県松戸市松戸1126)

特に印象に残ったのは、「10月 3 日」がアッシジのフランシスコ(フランチェスコ)(1182-1226)が亡くなった日で、昨日「10月 4 日」がカトリック教会の「聖フランシスコの日」であると教えていただいたことです。

そして高瀬司祭は、フランシスコの名前と伝統的に結び付けられて来た「平和の祈り」の中の「絶望のあるところに希望を」という祈りと、ローマの信徒への手紙 5 章 5 節「希望はわたしたちを欺くことがありません」を結び付けて、希望に満ちたメッセージを語ってくださいました。

平和の祈り


司会者 平和の祈りを致しましょう!

司会者 主よ!わたしをあなたの平和の道具としてください。


一同 憎しみのあるところに、愛を

   争いのあるところに、許しを

   分裂のあるところに、一致を

   疑いのあるところに、信仰を

   誤りのあるところに、真理を

   絶望のあるところに、希望を

   悲しみのあるところに、喜びを

   闇には、光をもたらす者としてください。

 

司会者 主よ!慰められるよりも、慰めることを

 

一同 理解されるよりも、理解することを

   愛されるよりも、愛することを、わたしが求めますように。

   わたしたちは与えることによって、受け、

   許すことによって、赦され、

   自分を捨て死ぬことによって、

   永遠の命を頂くことができるからです。アーメン

(朝祷会賛美選集『希望Ⅱ』より転載)

昨日のもう 1 つの「人生初」は、私の母校・岡山朝日高校の京浜地区同窓会主催の講演会に初めて出席したことです。私の高校の先輩にあたる、東京大学名誉教授で地震予知総合研究振興会の副主席主任研究員の榎原雅治先生の講演をうかがいました。テーマは「過去の災害を知る――諸学の連携で解明する歴史地震」でした。

講演「過去の災害を知る」榎原正治教授
(2025年10月 4 日、岡山朝日高校京浜同窓会)

特に印象に残ったのは、「何年何月何日にどこでどんな地震が起きる」というレベルの地震予知は不可能だが、地震には周期性があるので、過去の地震の記録を歴史学的見地から調べる必要があるということ。

しかし、記録として残っているのは豊臣以後のものであり、それ以前の資料は、幕府が滅亡したため、後代に受け継がれていないこと。かろうじて残っているのは貴族の日記や詩、民間に残る何らかの記録、そして地層。漢文や百人一首についての勉強が地震予知につながることを教えていただき、とても驚きました。

百人一首と地震予知の関係は何か

その中で、「明応南海地震」(16世紀)の発生年代については「寺社造営件数」によって証明したということを、榎原教授が教えてくださいました。なぜ「寺社」なのかといえば、民間の記録は何も残っていないからとのこと。「寺社」すなわち「宗教」が歴史の記録係としての役割を果たせたようだと分かり、私はとても励まされました。

今日の聖書の箇所に「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者になりなさい」(1節)と記されています。パウロの他の手紙の中に「神に」ではなく「わたしに倣う者になりなさい」と記されている箇所が複数あります。それはコリントの信徒への手紙一 4 章16節、同11章 1 節、フィリピの信徒への手紙 3 章17節、テサロニケの信徒への手紙 1 章6節、同 2 章14節です。

「わたしに倣う者になりなさい」と言われると反発を感じる方がおられるのではないでしょうか。しかし、パウロには躊躇がありません。これは理解できない話ではありません。

たとえば、学校の教師が生徒の前で模範的でない言動を繰り返したら必ず批判されるでしょう。それと同じです。説教者が「私はキリストに従いませんが、皆さんは従ってください」と言うと「そんな話には説得力がありません」と必ず返ってくるでしょう。

先ほど挙げた第一コリント11章 1 節「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」が重要です。それが今日の「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(2節)につながります。

「キリストに倣う」とは、今ここにいる私たちに十字架にかけられて死ぬことが求められているわけではありません。そうではなく、「キリストに倣う」とは、イエス・キリストが十字架の上で示してくださった「神の愛のあり方」に倣うことです。

この点を私が強調するのは、私が主イエスの「山上の説教」や「たとえ話」について説教すると、決まって「イエスさまが出てこない」と言い出す人たちが現れるからです。鼻先3センチの距離にイエスさまがおられるのに、「イエスさまが出てこない」などとどうして言われなくてはならないのでしょうか。

その批判の意味は、「関口の説教には主イエスの十字架と復活による赦しの教えがない」ということでしょう。実際にそう言われました。

しかし、主イエスは「山上の説教」や「たとえ話」の中で、厳しい戒めや裁きをお語りになっています。それらはすべて、私たちに従うことを求めています。主イエスの十字架と復活が、主イエスの厳しい戒めを無効化するわけではありません。主イエスは、復活前も、復活後も、同じひとりの方です。

パウロが今日の箇所の3節以下に記しているのは、2節の「愛によって歩みなさい」という教えの具体的な事例です。

「あなたがたの間では、聖なる者たちにふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい」( 3 ~ 4 節)。

私は説教の中で「性」に関する事柄を取り上げるのがとても苦手です。完全に逃げ腰であることをお許しください。言葉の辞書的な意味を述べることで勘弁してください。

「みだらなことやいろいろの汚れたこと」とは、売春・買春のことです。ユダヤ教の律法学者の解釈によれば、律法で必ずしも明確に禁じられていない売春・買春は、ユダヤ教では許容されていました。パウロはそのような解釈に真っ向から反対しています。

「貪欲なこと」とは、金銭を愛することです。パウロは貪欲(金銭への愛)をモーセの十戒の第十戒「隣人の家を欲してはならない」への違反だけでなく、第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」への違反(偶像礼拝)とも見なしています( 5 節)。

「卑わいな言葉」(モロロギア)は古代ギリシアの喜劇と関係あります。そういう話が好きな人々が笑って楽しむ言葉です。「愚かな話」(エウトラペリア)は「ほのめかし」や「におわせ」です。セクシャル・ハラスメントです。

当時のギリシア人にとっては「卑わいな言葉」(モロロギア)も「愚かな話」(エウトラペリア)も、楽しい仲間づくりのための手段でした。しかし、パウロにとっては、どちらも厳しく非難すべき対象でした。これは私の感覚と完全に合致します。

すぐにお分かりいただけることです。もし仮に私が説教の中で「卑わいな言葉」(モロロギア)や「愚かな話」(エウトラペリア)を用いて受けを狙うようなことをしたらどうなるかを考えてみていただくと分かります。とんでもない結果になることが目に見えています。

「礼拝感覚」が身についてくると、調子に乗って面白おかしく卑猥な話をするようなことはできなくなります。

このように考えると、今日の箇所の「愛」の意味は、ほとんど「デリカシー」のことであることが分かってきます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)という主イエスの呼びかけに応えて集まる先は教会です。教会に集まる人々は、みんな疲れています。重荷を負っています。休みたくて教会に来ています。

極端な考えの人が総理になることが決まり、政治の絶望感がいよいよ深まりました。地震災害の不安は尽きません。

不安定で不安な時代の中で、教会こそが、想像力を働かせて、相手の状況をおもんぱかり、互いに労わり合うことが求められています。

(2025年10月 5 日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)