2025年10月26日日曜日

宗教改革の教会

マルティン・ルター(左)とジャン・カルヴァン(右)

説教「宗教改革の教会」

ガラテヤの信徒への手紙 2 章11~14節

関口 康

「ケファがアンティオキアに来た時、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです」(11-12節)

日本基督教団の教会暦で、毎年10月31日が「宗教改革記念日」です。近い日曜日の今日の礼拝を「宗教改革記念礼拝」としました。

なぜ毎年「10月31日」が「宗教改革記念日」なのかについては、以前もご紹介した私の高校時代の世界史教科書『詳説世界史(再訂版)』(山川出版社、1981(S56)年)に頼ることにします。そのほうが、専門書から引用するよりも、皆さんが高校時代にお習いになったことを思い出していただけるでしょう。

文部省検定済教科書『詳説 世界史(再訂版)』(山川出版社、1979年版)

「16世紀はじめ、教皇のレオ10世(*現在の教皇はレオ14世)はルネサンス文芸を愛好し、サン=ピエトロ(*聖ペトロ)大聖堂の改築資金調達のため、免罪符(贖宥状)を発売した。このころローマ教会の腐敗ははなはだしく、免罪符の販売はたんなる教会の金集めの手段となり、ことに皇帝権力の弱いドイツでは教皇庁の搾取をおさえることができないため、その弊害がはなはだしかった。そこで1517年免罪符の販売人がドイツへやってきたとき、司祭であり、ヴィッテンベルク大学の教授でもあったマルティン=ルター(Martin Luther [1483-1546])は、魂の救済はただ福音の信仰のみによるとの確信から、免罪符販売を攻撃する九十五ヶ条の論題を発表した」(同上書、166~167頁)。

「九十五ヶ条の論題」が発表された日付そのものは教科書には書かれていませんが、それが「1517年」の「10月31日」でした。それで、その日が「宗教改革記念日」になりました。

その後、ルターの宗教改革が大きく行き詰まる時が訪れました。

1524年から1525年にかけて、ルターの影響を受けた宗教改革者トーマス・ミュンツァー(Thomas Müntzer [1489-1525])がドイツ南西部の農業従事者を率いて、圧政を強いる支配者層を相手に「農民戦争」(Bauernkrieg; Peasants' War)を起こしました。

「戦争」と言っても、農民たちの武器は農具(鋤(すき)、鍬(くわ)、鎌(かま)など)を作り変えただけの貧しいものでした。日本の江戸時代の「百姓一揆」のようなものだったと考えるべきです。支配者側の抵抗により、彼らは虐殺され、鎮圧されました。

その中でルターは、高校世界史の教科書どおり、「キリスト教徒の内面的自由を主張する反面、現世の権力は神により設けられたとみる立場から、農民の暴動をはげしく非難」しました(同上書、168頁)。

ルターにとっては、「信仰義認」の教えも、キリスト教そのものも「心の中の問題」を解決する道であって、直接的な意味で個人の生活のあり方や社会や政治を問うたり変えたりする行動原理ではなかったのです。

そのため、ドイツ南西部の農民からすれば権力者側にいるとしか見えないルターとルター派は、その地域の人々から支持されなくなり、多くの人がカトリック教会にとどまりました。ルター派は、ドイツ以北のヨーロッパ諸国に広まりました。

16世紀の宗教改革者でもうひとり忘れてはならない人物が、フランス人のジャン・カルヴァン(Jean Calvin [1509-1564])です。以下も高校世界史の教科書の引用です。一般向けに書かれたものとして、よくまとまっています。

「ドイツに少しおくれてスイスにも宗教改革がおこった。ツヴィングリ(Huldrych Zwingli [1484-1531])は改革説をとなえてその先駆をなしたが、フランス人カルヴィンがジュネーヴに移って、福音主義に基づく新教をとなえて多くの信者をえた。かれは教皇の権威を否定しただけでなく、司教制を廃して信徒の代表である長老の制度を設け、奢侈(しゃし)(*ぜいたく)や浪費をいましめて勤労をすすめ、カトリックの教えと異なって勤労の結果としての営利事業や蓄財を認めた。そこでこの教えは成長しつつあった市民階級の利益に合致し、スイスの支配的宗教になるとともに、産業市民層の発達した各地にひろまった。この教派はスコットランドではプレスビテリアン(Presbyterians 長老派)、イングランドではピューリタン(Puritans 清教徒)、フランスではユグノー(Huguenots)とよばれた」(同上書、168頁)

オランダでは「ヘーゼン」(Geusen)と呼ばれました(「ゴイセン」は誤記です)。その意味は「物乞い」です。彼らもまた、ドイツの農民と同じように、圧政を強いる支配者側に搾取される側の、弱く貧しい人々でした。

カルヴァンの教えは「心の中の問題」ではなく「生活の問題」であり、「道徳や倫理の問題」であり、「社会や政治の問題」に取り組むものでした。だからこそ、社会や政治や宗教の構造の中で搾取され、貧困と弱さの中に追いやられた人々にカルヴァンの教えが支持され、国境を越えて広がっていきました。

「プレスビテリアン」も「ユグノー」も「ピューリタン」も「ヘーゼン」も、呼び名が違うだけで、すべてカルヴァンの流れの人々です。

日本に来た最初期のアメリカ人のプロテスタント宣教師たちの教えが「ピューリタン的」と評されました。横浜に来たJ. C. ヘボン宣教師が長老教会(プレスビテリアン・チャーチ)の人で、S. R. ブラウン宣教師が改革派教会(リフォームド・チャーチ)の人でした。

足立梅田教会の創立は1953年です。開設時は「美竹教会梅田伝道所」でした。美竹教会の創立者である浅野順一牧師(青山学院大学神学部教授、旧約聖書学者)は、旧日本基督教会から日本基督教団に合流した方でした。

足立梅田教会の創立者である藤村靖一牧師(青山学院高等部聖書科専任教諭)の出身教会である東北学院教会(現「仙台広瀬河畔教会」)も、戦前は旧日本基督教会でした。

このように考えると、足立梅田教会は、比較するとルターの流れよりはカルヴァンの流れ(改革派、長老派)のほうに近いと言えます。

今日の聖書箇所に使徒パウロが描いているのは、パウロ自身が使徒ペトロを面罵する場面です。ペトロの行動が、信仰義認の教理を打ち消す方向に働いていることをパウロが見抜き、そんなことをされては困ると抗議しなくてはならなくなったからです。

ルターが「ガラテヤ大講解」(講義:1531年、出版:1535年) 2 章11節に記しています。

「パウロはペテロを激しく攻撃したわけではない。彼を十分敬って扱っている。だが、ペテロの権威のゆえに義認の条項の偉大さが危うくされているのを見たので、ペテロの権威などを意に介さずに、この義認の条項を安全に保ち、守ろうとしたのである。われわれもこのように行っている」(『ルター著作集』第 2 集第11巻、ガラテヤ大講解・上、徳善義和訳、聖文舎、1985年、161頁)。

ルターの言うとおりです。たとえ使徒ペトロの権威であろうと、もし真理を重んじないならば、そのような人を恐れる思いは、「宗教改革の教会」にはありません。

(2025年10月26日 日本基督教団足立梅田教会 宗教改革記念礼拝)