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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
ローマの信徒への手紙11章25~36節
関口 康
「神の賜物と招きは取り消されることがない」(29節)
今日の箇所でパウロは「秘義」(μυστήριον ミュステリオン)を告げています。新約聖書の中で用いられる場合の「秘義」の意味は、終末における神の定めです。たとえば、コリントの信徒への手紙一15章51節をご覧ください。イエス・キリストがまた来てくださる未来が「秘義」として描かれています。
終末は、現在の私たちにとっても未来です。未来を自分の目で見たことがある人はいません。「秘義」を告げているパウロは、自分でも見たことが無い未来をなぜか知っている霊能者のようです。
しかしパウロは、何の根拠もなく未来を言い当てようとしているわけではありません。
第一の根拠は、「旧約聖書」です。パウロはユダヤ教のラビになるための教育を受けた人です。律法(トーラー)、預言者(ネビイーム)、諸書(ケトゥビーム)を学んでいます。テキストに基づいて考えることができる人です。
第二の根拠は、パウロ自身が直接的にかかわった教会や個人、そして彼自身の経験です。今日の箇所で語られている「秘義」の内容は、終末における神の定めにおいては、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストの教会において救われるということです。つまりこれはイエス・キリストと教会の関係についての「秘義」です。
そう言ってよいなら、私たちも「秘義」を理解することができます。私たちが教会だからです。私たち教会とイエス・キリストの関係は「秘義」です。私はなぜここにいるのでしょうか。なぜ教会の礼拝に出席しているのでしょうか。その理由を完全に説明できる人はいません。自分自身ですらその全体像を把握しきれない「ミステリー」なのです。
今日の箇所の「イスラエル」が民族としてのイスラエルを意味することは明白です。「異邦人」と対比されているからです。秘義を裏付けるためにパウロが引用している聖書箇所も特定の場所(シオン)、特定の民(ヤコブ)について述べています。
そうなるとどうしても避けて通れなくなるのは、現在進行中のイスラエルの戦争のことです。「イスラエル」という言葉を聞く今の人は、必ずそのことを考えるでしょう。
しかし、第二次世界大戦後のパレスティナの領土問題と今日の箇所を直接結びつけるのはやめましょう。何らかの結論を出すこと自体がどちらか一方への加担を意味するからです。日本は絶対に戦争に巻き込まれてはなりません。どちらかを支援することすら加担です。ローマの信徒への手紙の解釈いかんで、戦争の状況が変わるわけでもありません。イスラエルの戦争については、私たちは判断を停止すべきです。
そういうことではなく、私たちにできそうなのは、今日の箇所に記されていることを自分自身に当てはめてみることです。
教会の説教は、自分の話をすることではないので、私の話をするのはなるべく避けたいのですが、ここは言わせてください。
繰り返し申し上げているとおり、私は60歳で60年、教会に通ってきた人間です。私が生まれる前から両親がキリスト者となり、兄と私は生まれたときから教会に連れていかれました。
そして私は、小学校入学前の 6 歳の教会のクリスマス礼拝(1971年12月26日)で、自分の明確な意志を言い表わして、成人洗礼を授けてもらいました。風邪を引いたとき以外は、日曜日の礼拝に休まず通いました。高校からストレートで東京神学大学に入り、卒業後24歳から現在60歳まで牧師を続けてきました。
60歳の私が60年、教会を離れずにいられたことが、ミステリーです。はっきり言えるのは、私の信仰は深くもなければ強くもない、ということです。教会の皆さんにはとっくにばれています。そうであることを恥ずかしいと思っていないので、隠したことがありません。
私がなぜ教会から離れないでいられるのかの理由は、はっきり分かりますし、説明もできます。
それはこのたび私たちの教会の礼拝で正式に導入した「聖書協会共同訳」の最大の魅力である、ギリシア語ピスティスを文脈によって「①神の真実」と「②人間の信仰」とに訳し分けることと関係あることです。
「①神の真実」としてのピスティスの意味が、29節にまさに記されています。「神の賜物と招きは取り消されることがない」。
その意味は、神は約束を絶対に守るかたであるということです。いったん発した約束を、神の側から取り下げることはありません。人間の側の事情や都合が変われば、それに応じて、約束など初めから無かったことにして、態度を変える方ではありません。
それが「①神の真実」(ピスティス)の意味であり、だからこそ、イスラエルは「つまずいた」が「倒れていない」とパウロは言うのです。異邦人が先に救われ、救いの恵みにあずかって喜びに輝く異邦人の姿にユダヤ人がねたみを抱き、それによって奮起して、あとから救われるというパウロが描く壮大な「秘義」の根拠は「①神の真実」(ピスティス)です。
しかし、だからといってピスティスから「②人間の信仰」という意味が無くなったわけではありません。そもそも約束というものは、ひとりで成立するものではありません。相手が必要です。相手がいない約束など無意味です。
そして人間も、いったん約束したことに対する「真実、誠実、忠実」(ピスティス)が求められないはずがありません。約束を守らない人は信用されません。自分でも、うそつきになりたくはないでしょう。
私がそうでした。中学生のころ、日曜日の朝「今日は教会に行きたくない」とグズグズしていたとき、母から「自分で洗礼を受けたいと言ったでしょう」と言われて、返す言葉が無くて教会に行ったことを覚えています。
私は、神を信じる信仰は強くもなければ深くもありません。しかし、自分が立てた約束を自分で破りたくないという思いが非常に強いです。洗礼を受けたとき決心し、約束した自分を、自分で裏切ることができません。
だから私は教会から離れることができないし、離れたくありません。自分で自分を裏切ることになるからです。その意味では、私は自己愛が強いだけかもしれません。
神に対して私にできるのは、イエス・キリストを通して明らかにされた「真実な」神を、ただ「信頼」することだけです。その「信頼」によって私たちは救われます。
