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| 教会学校のみんなでかき氷を楽しみました(2026年8月23日) |
説教「野生のオリーブとはだれのことか」
ローマの信徒への手紙11章11~24節
関口 康
「もしあなたが、自然のままの野生のオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、良いオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう」(24節)
先週は夏季休暇を取らせていただきました。五反田教会の礼拝に出席して山口隆康先生の説教を拝聴しました。山口先生は、東京神学大学で直接神学を教わった、地上でまだお会いできる最後の先生です。いろいろ考える良い機会となりました。ありがとうございます。
牧師が日曜日に教会を不在にすると、皆さんと半月もお会いしない状態になります。「ご無沙汰しています」と言いたくなります。半月も空くと、これまで何を話したかを忘れてしまいます。しかし、聖書は不思議な書物です。これまでの内容を覚えていなければ続きが分からないような書物ではありません。
「では尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたのは、倒れるためであったのか。決してそうではない」(11節)と記されています。
この言葉の意味は、「つまずくこと」と「倒れること」を区別してくださいということです。
相撲のことを考えれば分かる話です。土俵の縁は「徳俵」または「勝負俵」と呼ばれます。徳俵に力士の足が引っかかって「おっとっと」になっているのが「つまずく」です。しかし足はまだ土俵の外に出ていない。勝負がついていない。それが「倒れていない」です。
パウロが述べているのは、ユダヤ人と神との関係の問題です。ユダヤ人は、イエス・キリストを受け入れない。神に「つまずいている」。しかしまだ「倒れていない」。勝負はついていません。「のこったのこった」です。
そこから先の内容に、私たちは驚くべきです。この箇所を繰り返し読んでこられた方には、何度でも驚いていただきたいです。とんでもないことが書かれています。
「かえって、彼らの過ちによって、救いが異邦人に及びました。それは、彼らに妬みを起こさせるためです。彼らの過ちが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」(11~12節)。
何を言っているでしょうか。これは私たちにとって意外なほど分かりやすい話です。なぜなら、これは教会の話だからです。その場合の「教会」は、人の集まりとしての教会です。土地や建物を持ち、私たちが自分の体を運んでこの場所に集まって来ている、この教会です。
教会の私たちにとって「妬み」の問題は、避けて通ることができません。他の教会との比較や、教会の中で自分と他人の比較が始まるからです。うちの教会は小さい。あの教会は大きい。うちの牧師はこうだ。あの教会の牧師はこうだ。個人の比較も始まります。私はこうだ。あの人はこうだ。比較があるかぎり「妬み」は起こります。優劣の差があるからです。
しかし、ほとんどの場合、優劣の差は主観的です。他人のものは自分のものより良く見える。「隣の芝は青い」(The grass is always greener on the other side of the fence)です。
パウロが言っているのは、妬むのをやめなさい、ということではありません。その正反対です。人の「妬み」を神が用いる、と言っています。ユダヤ人が「つまずいた」のは、彼らが受け入れない救いの恵みを神が異邦人に先に与えて、自らの救いを喜ぶ異邦人を見てユダヤ人が「妬み」を抱いて発奮するためだというのです。ユダヤ人が「倒れていない」のは、異邦人の救いの後に、彼らが救われるからです。まだ勝負はついていないのです。
ありていに言えば、パウロの目から見ても、当時のユダヤ人たちの自覚においても、ユダヤ教の神殿やシナゴーグに集まる人々の中に閉塞感があったのです。礼拝の説教や讃美歌やお祈りの儀式はマンネリ化している。「祭司長」「律法学者」「長老」「会堂長」などの肩書きや役職がある人たちの占有物になっている。それ以外の人たちにとっては居心地の悪い、窮屈な集まりでした。
しかし、イエス・キリストの教会はそうではないと、パウロは言おうとしています。人がねたむほど開放的で自由な私たちの教会を見て、発奮する人々が現れるだろうと言っています。
9月13日に創立73周年を迎える足立梅田教会が、80周年、90周年、100周年、もっと先まで進んで行けるかどうかは、今日の箇所でパウロが驚くほど率直に取り上げている「妬み」の問題から逃げ出さず、向き合うことができるかどうかにかかっていると言っても過言ではありません。
恐ろしい話になってきました。
今日の説教題に触れずに終わるわけにはいきません。私の父の思い出と結びついています。
以前お話ししたように、私の父は、出身は群馬の前橋ですが、戦後新制になったばかりの千葉大学園芸学部(千葉県松戸市)を卒業しました。卒業後、岡山県の複数の農業高校で園芸科教員をしました。植物の知識があり、道端の雑草の名前を全部言える人でした。父のそういうところを私は全く受け継げず、バラとツツジの違いすら分かりません。
その父とたしか20年ほど前に電話で話していたとき、父が激怒していることが分かりました。私に対してではなく、父が通っていた教会の牧師に対して腹を立てていました。何があったのかと尋ねたら、今日の箇所でした。
父いわく、パウロが書いている「自然のままの野生のオリーブを良い木に接ぎ木する」ことは園芸学的に絶対にありえない。それなのに、牧師に知識が無さ過ぎて、何の疑問も持たずに書いてある通りに話して終わらせた、と。
野生の木のほうが、生命力が強いに決まっているので、そんなものを接ぎ木したら良い木が全滅してしまうというわけです。父に言わせると、パウロの言っていることはメチャクチャです。
その後、私もいくつかの註解書を読みましたが、その通りのことが書かれていました。「使徒が接ぎ木のたとえを用いる方法が正しいかどうかという問題に多くの注目が集まっている。確かに庭師は、野生の果樹に良い枝を接ぎ木するのであって、その逆ではない」。
私は「父の言い分が正しい」と言いたいわけではないのです。父自身も、聖書にはでたらめなことが書いてあると言いたかったわけではなさそうでした。そうではなく、園芸学的に絶対にありえないことを、牧師が平然と言いのけたことが我慢できなかったようでした。
私は、いつも参考にしている註解書を支持します。次のように書かれています。
「この箇所でパウロは確かに、良い木に野生の枝を接ぎ木することについて語っており、これが庭師の慣習に反することを私は認識しています。しかし、神の恵みの世界では、物事が自然界とは異なる形で進むと想定しているとも考えることができます」。
つまり、パウロは逆説的なことを書いているという可能性です。父の教会の牧師がこういうふうに語っていたら、父があれほど激怒することもなかったかもしれません。
「野生のオリーブ」が「異邦人キリスト者」を指していることは文脈的に明らかです。ユダヤ人の血統をルーツとしない。幼少期からの聖書教育など受けたことがない、割礼を受けていない、礼拝に通ったことが無い。しかし、求めるところがあって教会の仲間に加わった人たちです。
その人たちは元気なので、うかうかしていると昔ながらの教会員がマンネリに甘んじているわけに行かなくなるぞと、はっぱをかけている可能性があります。若い命、新しい風を積極的に受け入れて、教会が変わっていく必要があると言っているかもしれません。
