2025年12月24日水曜日
きよしこのよる クリスマスイヴ礼拝
2025年12月21日日曜日
もろびとこぞりて クリスマス礼拝
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| クリスマス礼拝看板 |
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| クリスマスツリー |
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| クリスマス礼拝プログラム |
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| アドベントキャンドル |
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| クリスマス礼拝 |
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| クリスマス愛餐会 |
ルカによる福音書 2 章 1 ~14節
関口 康
「彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(6-7節)
クリスマスおめでとうございます!
アドベントに入ってから毎週同じことを言っていますが、「毎年同じ聖書の箇所」です。
「聖書の解説が説教なのであれば、過去の説教原稿を使い回せばよいではないか」という誘惑が襲いかかってきます。「サタンよ、退け!」と言わなくてはなりません。
同じ話になりっこない方法があります。それは、今起こっていることや、最近見たこと聞いたことをお話しすることです。
しかし、テレビや新聞やインターネットの情報の受け売りは面白くありません。教会よりはるかに正確で幅広い知識に基づいて、多くの人の心に届く魅力的な伝え方ができる人の話を聴きたいと、だれでも思うでしょう。
私にできるのは個人的な近況報告です。個人的なことを説教で語ってよいかどうかに議論があることは承知しています。しかし、自分のことは自分にしか語れません。近況報告ならば毎年同じ話になりようがありません。それは唯一無二の可能性です。いくつかあります。
第一の報告は、お詫びです。
先週の説教で、12月12日(金)に日本福音ルーテル東京教会(新宿区大久保)で開催された「世界教会協議会(WCC)信仰職制会議報告会」(講師 西原廉太氏)のお話をしました。
そのとき私が黒板に書いたことが、ひどい間違いでした。WCCをWorld Church Counsilと書いてしまいました。正しくはWorld Council of Churchesです。
ブログでは何事も無かったかのように正しい綴りで書きましたが、今日のブログで白状して自戒としたいと思います。申し訳ありません。
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| WCC信仰職制会議報告会(2025年12月12日 日本福音ルーテル東京教会) |
第二の報告は、今日のクリスマス愛餐会のためにシュトーレンを10個作ったことです。
初めて作りました。レシピをネットで見つけ、タニタのデジタル計量器で正確に計りましたので大丈夫、と言いたいところですが、そうは行かなかったことをこれも白状します。
ドライフルーツをラム酒に漬けたところまではレシピどおりでした。しかし、このラム酒をどうするかが書かれていなかったので、捨てるものと思い、ざるで受けて流してしまいました。
そのやり方で 4 つ作ったところで、ラム酒ごと生地に入れるらしいと気づきました。それでラム酒をしっかり入れたのを新たに 4 つ作りました。
「失敗作」の 4 つは、責任を取ってすべて自分で食べるつもりでした。しかし、役員会の皆様が「それは失敗作とは言えない」と励ましてくださいました。
そういうわけで、アルコールが強いのと弱いのと 2 種類になりました。ノンアルコール版も作りましたので、全部で 3 種類です。ぜひ食べ比べてみてください。
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| 手順① マジパン、発酵種、小麦粉、ドライフルーツ、ナッツ、溶かしバター、粉糖 |
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| 手順② 生地にドライフルーツとミックスナッツを混ぜ入れる |
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| 手順③ 焼きたての熱いうちに溶かしバターとグラニュー糖をまぶす |
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| 手順④ 粉糖をまぶしてラップとホイルで包んで熟成 |
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| 手順⑤ シュトーレン完成! |
石川先生は1927(S 2 )年生まれの方で、98歳でした。1915(T 4 )年生まれの藤村靖一先生の12歳年下です。25歳のとき、当時の昭和町(しょうわまち)(現在の昭島市)でキリスト者 2 家族(阿佐ヶ谷教会員と淀橋教会員)の協力を得て「昭和町伝道所」を開設されました。その後73年間ずっと昭島教会で牧師をされました。昭島幼稚園の理事長・園長をされました。
一度は牧師を隠退なさり、別の牧師に教会を任せられた時期もありましたが復帰なさり、93歳になられた2020年 3 月まで主任牧師として働かれてから名誉牧師になられました。その後、私が2024年 2 月まで主任牧師でした。
石川先生の98年間のご生涯と73年間の昭島伝道をご紹介するには多くの時間が必要ですので、別の機会にします。
昭島教会の秋場治憲牧師による葬儀説教が、とても強く印象に残りました。「 5 つのパンと 2 匹の魚が多くの人を養ったように、石川先生ご夫妻によって最初に蒔かれた小さな種が今や多くの人を養っている」と語られました。教会とはそういうものだと、胸に沁みました。
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| 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市) |
足立梅田教会に昨年 3 月に来たばかりで今年60歳の私が73年おらせていただけば、132歳です。それぐらい腰を据えれば「小さな種が大きく育った」と言ってもらえる日が来るかもしれないと思いました。シュトーレンを自分で作ってみて、パン種が膨らむ仕組みがやっと分かりました。
毎年アドベントとクリスマスのたびに開く聖書の箇所に記されているのは「イエス・キリストの誕生の次第」です。
しかし、マタイにせよ、ルカにせよ、ヨハネにせよ、歴史上の偉大な人物の誕生を描こうとしていません。福音書記者たちが描いているのは「キリスト教の歴史」の始まりです。
「教会の歴史」と言うほうがよいかもしれませんが、教会が教会の外なる世界に及ぼした様々な影響の歴史を無視できません。すべての福音書記者がそのことを意識しています。「キリスト教の歴史」と言うほうが適切です。
イエス・キリストは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(本名オクタウィアヌス)の時代にお生まれになりました。「ローマ帝国」は、地中海を「自分の」内海とし、北はイングランドの奥地、南はアフリカやアラビアまで勢力を拡大していました。
それほど巨大な国の頂点に立った皇帝アウグストゥスは、ローマ帝国の内戦を終結させ、周辺諸国との国境に平和をもたらした偉大な平和推進者とみなされ、「人類の救い主」と呼ばれ、「神」として崇拝されました。いま生きていればノーベル平和賞の候補者です。
その時代にイエス・キリストはお生まれになりました。アウグストゥスとは完全に対照的な存在として、家畜小屋の飼い葉桶に寝かされた幼子として、お生まれになりました。
「最初のクリスマス礼拝」の出席者はヨセフとマリア、バビロニアのマギ(占星術師)たちと、ベツレヘムで夜通し羊の群れの番をするために野宿していた羊飼いたちでした。ページェント(聖誕劇)では、この人々に加えて、羊たちと、星たちと、天使たちがお祝いに来てくれます。しかし、いま加えた 3 者は人間ではありません。
皆さんは「ドラえもん」をご存じでしょう。のび太の部屋でドラえもんとのび太がしゃべる様子を冷静に考えると、ドラえもんは人間ではないので、のび太は孤独であるとも言えます。人工知能(エーアイ)としゃべっているだけなので。スマホひとつ持って独りで引きこもっているのと同じです。
羊たちと星たちと天使たちは「人間ではない」という意味でドラえもんと同じです。西暦 1 世紀の「最初のクリスマス礼拝」には人間も来てくれましたが、多くは人間ではない存在でした。
問題は、それを「寂しい」(?)と言うかどうかです。
教会はどうでしょうか。今日はとても多くの方々が出席してくださっていますが、ふだんは今日の半分です。牧師の私は単身赴任でひとり暮らしです。「寂しい」(?)でしょうか。
ここに羊はいません。星がなくなることはありません。天使はもちろんいてくれます。私たちの教会の多くの先輩たちは必ずいてくれて、私たちを全力で応援してくれています。だって教会が大好きな人たちだったのですから、応援してくれているに決まっています。
「もろびとこぞりて」の意味は「みんなで一緒に」です。「もろびとこぞりて迎えまつれ」は「みんなで主イエスをお迎えしましょう」です。
今日、世界中で、世界教会協議会(World Council of Churches)の加盟教会で、それ以外の教会で、教会ではないところで、キリスト者たちが、キリスト者ではない方々が、羊たちが、星たちが、天使たちが、先輩たちが、クリスマスをお祝いしています。主イエス・キリストのご降誕をお祝いしています。
だから私たちは寂しくありません。家族的な愛を互いに感じ合える教会は温かいです。
(2025年12月21日 日本基督教団足立梅田教会クリスマス礼拝)
2025年12月15日月曜日
2026年 1 月の予定
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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
1 月の礼拝の予定は以下のとおりです。ぜひおいでください。
礼拝は毎週日曜日午前10時30分からです。
地図はここをクリックしてください。
1 月 4 日(日)新年礼拝
説教「イエスにまなぶ」関口康牧師
聖書 テサロニケの信徒への手紙一 1 章 5 ~ 7 節
1 月11日(日)降誕節第 3 主日礼拝
説教「信頼をえるために」関口康牧師
聖書 テサロニケの信徒への手紙一 2 章 1 ~ 4 節
1 月18日(日)降誕節第 4 主日礼拝
説教「協力して道をひらく」関口康牧師
聖書 テサロニケの信徒への手紙一 3 章 6 ~10節
1 月18日(日)地域合同祈祷会(14時30分~竹の塚ルーテル教会)
説教「一致を求めて」関口康牧師
聖書 エフェソの信徒への手紙 4 章 1 ~13節
1 月25日(日)降誕節第 5 主日礼拝
説教「聖なる生活とは」関口康牧師
聖書 テサロニケの信徒への手紙一 4 章 1 ~ 8 節
2025年12月14日日曜日
心の支えは同じ
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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「心の支えは同じ」
マタイによる福音書 2 章 1 ~12節
関口 康
「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」( 9 -10節)
今日の箇所も待降節(アドベント)や降誕節(クリスマス)のたびに読まれ、説教されます。
毎年同じ話をするのは申し訳ないという気持ちがあるのですが、「年末は『忠臣蔵』を観ないと落ち着かない」という方もおられるようですので、どうかお許しください。
今日の箇所に記されているのは、以下のことです。
①イエス・キリストは、ユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。ベツレヘムは「都会」のエルサレムとは対極の「田舎」です。
②それはユダヤの王がヘロデだった頃の「紀元前37年から紀元前 4 年までの間」でした。これが主イエスの誕生年の「紀元前 4 年説」の根拠です。ヘロデは西暦元年まで生きていません。
③ユダヤから見て「東」のバビロニアの占星術師(マギ)たちが、メシアが生まれたことを示す「星」が出現したと結論づけ、ユダヤまで表敬訪問に来ました。
④ヘロデ王は猜疑心が強い人だったので、メシア誕生の知らせに恐怖心を抱き、自分のところに来たマギたちにメシアを探させて居場所を突き止め、メシアを殺害しようとしました。
⑤マギたちはメシアのもとにたどり着き、崇拝の儀礼を行いましたが、「ヘロデのところへ帰るな」と告げる天使の声に従い、ヘロデに報告せずに、バビロニアに帰りました。
ヘロデの残忍性については、複数の記録があります。歴史家ヨセフスによると、ヘロデによって殺害された人々のリストの中に義兄弟アリストブロス、妻マリアムネ、その母アレクサンドラ、息子のアリストブロス、アレクサンドロス、アンティパトロス、その他大勢の名があります。
歴史家マクロビウスによると、ヘロデが自分の子どもたちまで殺したことを耳にしたローマ皇帝アウグストゥスが「ヘロデの豚(ヒュス ὗς)になるほうが彼の息子(ヒュイオス υιός)になるよりましだ」と言いました。ヘロデは豚肉を食べなかったからです。
バビロニアの占星術は、当時の価値観に照らせば、高度な学問でした。マギのユダヤ来訪は天文マニアの個人的な趣味や探検レベルの事柄ではなく、国と国との関係、国際外交の一環でした。だからこそ彼らはヘロデ王と直接話すことができました。
バビロニアのマギがなぜメシアの誕生を知りえたかについては、バビロニア捕囚(紀元前597年~538年)の後も多くのユダヤ人がバビロニアに留まったことで、ユダヤ教がバビロニアに影響を与えたことから説明できます。メソポタミアにおけるユダヤ教の影響力の強さは、西暦50年にバビロニア王がユダヤ教徒に改宗したことから明らかです。
東方の君主がローマ皇帝に捧げた敬意の例としては、アルメニア王ティリダテスを挙げることができます。
ティリダテスは、妻、息子たち、3000人の騎兵、大勢の従者を率いて、西暦66年、皇帝ネロに敬意を表すため、ユーフラテス川からローマまで行進しました。ティリダテスはネロを「主」と呼び、地にひれ伏して、跪(ひざまず)きました。
ネロが自分のティアラ(王冠)を外し、ティリダテスの頭に置きました。ティリダテスはネロに「主よ、私は私の神であるあなたを拝みに参りました」と語りかけました。
ネロの返答は「私はあなたがアルメニア王となることを宣言する。私が王国を奪いもし、与えもする力を持っていることを、あなたと他の人々に知らせるためである」というものでした。
先日公開された米国大統領の横で日本の総理大臣が飛び跳ねた映像は、現在の日米の上下関係をよくあらわしています。
バビロニアのマギたちはメシアの生誕地は当然王都エルサレムだろうと予測しましたが、それは間違いでした。最高法院(サンヘドリン)の祭司長たちと律法学者たちがヘロデから依頼されて捜索を始めました。しかし、目標にたどり着いたのはバビロニアのマギたちが先でした。なんと驚くべきことに、それは王都エルサレムではなく、片田舎のベツレヘムでした。
彼らは幼子を見つけてひれ伏し、黄金、乳香、没薬を贈りました。贈り物が 3 つであることが「三賢者」とされる理由です。 3 人だったかどうかの根拠は聖書にはありませんが、聖書外資料の中に「カスパール、メルキオール、バルタザール」という名前がついた伝説があります。黄金と乳香は王への贈り物です(詩編72編 9 ~15節、イザヤ60章 6 節)。没薬は古代の香水です。
今日の箇所が教えているのは、「異教徒」こそがイエス・キリストを最初に崇拝したということ、そして「ヘロデのところへ帰るな」という神の警告に最初に耳を傾けたということです。
その意味は「神の救いは普遍的である」ということです。救いの恵みは、宗教の壁を越えます。宗教間対話の可能性は初めから開かれています。
毎年同じ話だとつまらないので、最新情報を仕入れてきました。
私は一昨日12月12日(金)日本福音ルーテル東京教会(新宿区大久保)で開催された「ニケア公会議1700年記念・世界教会協議会(World Council of Churches (WCC))第 6 回信仰職制会議報告会」に出席しました。
WCCはプロテスタント、カトリック、オーソドックス(正教会)の違いを超えてキリスト教会の一致を目指す世界会議です。一昨日の報告者は西原廉太先生(立教大学総長)でした。
なぜ今この話を持ち出すのかと言えば、宗教間対話を行うためには、まずはキリスト教の一致を目指すべきなのに、いまだに一致できていないことについての認識を共有したいからです。
西原先生によると、キリスト教会の一致を妨げている大きな壁が 2 つ残っています。
そのどちらも、ちょうど1700年前の西暦325年にニケア(ニカイア、ニケヤとも表記)(現在のトルコ・イズニック)で行われた「ニケア公会議」の決定事項と関係しています。
第 1 に、イースターの日取りが一致していません。
西方教会(カトリック、プロテスタント)はニケア公会議で定めた「春分の次の満月の後の最初の日曜日」を守っていますが、東方教会(オーソドックス)は違います。
第 2 に、ニケア信条(富士見町教会HP「ニカイア信条」参照)の「聖霊」に関する表現が一致していません。
西暦325年のニケア公会議で制定された当初の表現は「聖霊は父から出て」だったのに、西暦 9 世紀のローマ・カトリック教会が「子から」(フィリオクェ Filioque)を追加して「聖霊は父と子から出て」にしました。そのことを東方教会(オーソドックス)が決して認めず、東西教会の決定的な分裂の原因になっています。
しかし、西原先生によると、最近の世界教会の傾向としては、「子から」(フィリオクェ)を括弧(かっこ)に入れることで、読んでも読まなくてもよいとする流れに落ち着きつつあるとのことです。
「子から」(フィリオクェ)を削除することに反対している人々の主な理由は、聖霊とイエス・キリストの関係が離れてしまうこと、あるいはイエス・キリストとは無関係な、または関係性が不明な「神」について語られることへの警戒心です。
宗教間対話の観点からすれば、「子から」(フィリオクェ)があるかぎりイエス・キリストを抜きにした議論はありえませんので、キリスト教と他の宗教との壁は高くなります。しかし、その壁がないとキリスト教を守れないと考える人々もいます。
どのように考えるにせよ、神の救いは普遍的であることを忘れないようにしましょう。
そのことが、全世界のすべての人の心の支えになります。
互いの壁を乗り越えて、平和のために人類が一致できるように、共に祈りましょう。
2025年12月7日日曜日
再び信じる決心を
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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「再び信じる決心を」
マタイによる福音書 1 章18~25節
関口 康
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿った』」(19-20節)
待降節(アドベント)第 2 主日を迎えました。今日の聖書の箇所は昨年と同じです。みなさんの中には80回ぐらい同じ話をお聴きになった方がおられます。私も50回以上聴きました。
この箇所に記されているのは「イエス・キリストの誕生の次第」(18節)です。マリアとヨセフが婚約していたのに、 2 人が一緒になる前にマリアが身ごもりました。ヨセフはマリアとの縁を切ることを決心しましたが、天使が夢に現れて「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの子は聖霊によって宿ったのである」(20節)とヨセフに告げたのでマリアを迎え入れました。
昨年「私は天使が苦手です」と言いました。「天使が怖い」とか「気持ち悪い」という意味ではありません。説教者として、自分はまだ見たことも触ったこともない存在について説明するのが難しいという意味です。
しかし、今年の私はひと味違います。日々進化する牧師です。昨年までは見えにくかったことが見えるようになりました。
年齢と関係ありそうです。ちょうど60歳になりました。昨年よりはっきり見えるようになったのは自分の人生の終わりです。悪い意味は全くありません。人生の終わりを意識すると人生の全体像が客観的に見えるようになる、ということが実感として分かるようになりました。
そうした中で、「天使」の役割の意味がだんだん分かってきました。天使にしか決して語ることができない言葉があることが分かってきました。
私たちの人生で、どこまで行っても結局さっぱり分からなかったと感じるものがあるとしたら、それは他者の心です。夫婦だろうと、親子だろうと、兄弟だろうと、友人だろうと、各自の自由に属する領域について完全に理解するのは不可能です。知る必要がないことです。
お互いがどこで何をしているかを完全に知る必要があるでしょうか。GPSを付けますか。24時間くっついていますか。束縛したいですか。つきまといますか。そういうのをストーカーと言うと思います。
結婚前のマリアが身ごもりました。ヨセフはマリアとの縁を切ろうと決心したというのですが、その理由が「夫ヨセフは正しい人であった」からとか「マリアのことを表ざたにするのを望まなかった」(19節)と、はなからマリアが悪人扱いです。ヨセフが「正しい人」なら、マリアは「正しくない人」でしょうか。
「表ざたにする」は、世間の評判にさらすことを指します。それは自分のことがかわいそうで、自分のプライドを守りたくて、世間に暴露して騒ぎにするかどうかを迷ったということでしょうか。一方的すぎて、奇妙な話です。
「そこは問題ではないのではないですか」と、「マリアのことを表ざたにするのを望まない」と考えている時点のヨセフに訊きたいです。「縁を切っても、どうせ納得できないでしょう。いっそ犯人を探して復讐しますか」と言いたいです。
言うまでもなく、DNA鑑定もGPSも西暦 1 世紀には存在しませんでした。それでは、マリアが身ごもっていることがヨセフにどうして分かったのでしょうか。それは間違いなくマリア自身が打ち明けたからでしょう。それとも、マリアの周囲の人がリークしたでしょうか、その可能性がゼロでないとしても、本人が黙っていれば分かりっこないことでしょう。
マリアはヨセフに事実を伝えたのです。「私には身に覚えのないことだ」と(ルカ 1 章34節参照)。ヨセフに残された唯一の選択肢は、“マリアを再び信じる”かどうかだけです。
もしこの箇所のすべてがでたらめな作り話だと私たちが考えるのでなければ、同じ問いが私たちにも投げられています。それは「マリアは聖霊によって身ごもった」という天使の言葉を信じるかどうか、です。
同じことが、私たちにとって決して完全には理解できない他人の心とどのように向き合うか、という問いにも当てはまります。
夫婦や親子や兄弟や友人は“神”ではないので、信じる対象ではないとお感じになるでしょうか。それもごもっともですが、“あたかも神を信じるようにあなたのパートナーを信じること”以外になすすべがないとも言えます。それとも、つきまとって監視しますか。
マタイ 1 章冒頭の「イエス・キリストの系図」( 1 節)は、カタカナの名前がたくさん出てくるので読むのがつらいとお感じになる方が多い箇所です。「系図」と訳されているギリシア語(Βίβλος γενέσεως)はヘブライ語の「創世記」(トレドト)と同じ言葉です。これは「イエス・キリストの創世記」と訳すことが可能です。
ユダヤ人男性が神殿奉仕者になるとき、ユダヤ人であることの血統の証明書の提出が求められました。自分の系図を作成し、最高法院(サンヘドリン)で正統性を検証してもらう必要がありました。彼らが作成していた系図は男性のみの家系でした。
「イエス・キリストの系図」に女性が 4 人登場するのは、ユダヤ人の伝統と対比すれば、極めて異例なことでした。「タマル」( 3 節)、「ラハブ」( 5 節)、「ルツ」( 5 節)、「ウリヤの妻」( 6 節)が女性の名前です。 4 人目は名前を伏せられていますが、イスラエル第 2 代国王ダビデとの間に第 3 代国王となるソロモンを産んだ「バト・シェバ」(サムエル記下11章参照)です。
「この女性たちは悪名高い罪人でした」と説明する説教を過去に何度か聴きました。女性たちを罪人呼ばわりしたうえで「罪ある女性を含む家系の中に救い主はお生まれになることによって、人類の罪を背負い、罪人の身代わりに死んでくださったのです」とつなげていく説教です。
同様の解釈がヨーロッパの教会にもあるようで、私がいつも頼りにしているオランダ語の註解書が「4 人の女性が『悪名高い罪人たち』(notoire zondaressen)であるというのは事実だろうか」と記して、その解釈に抗議しています(Vlg. J. T. Nielsen, Het evangelie naar Mattheüs I, Prediking van het Nieuwe Testament, 1971, p. 29)。
「タマルとユダの罪〔創世記38章参照〕も、ダビデとバト・シェバの罪〔サムエル記下11章参照〕も、『罪』は女性ではなく男性にある」し、「ルツ〔ルツ記参照〕はモアブ人だが、決して否定的な意味ではない」し、「ラハブは旧約聖書〔ヨシュア記 2 章 1 節など〕で『遊女』と呼ばれているが、ユダヤ人に対するラハブの奉仕は高く評価されている」と記しています(Ibid.)。信頼できる註解書に出会えてよかったです。
イエス・キリストの系図についても、イエス・キリストの誕生の次第についても、女性を悪者にして片づけようとする間違った解釈があることは否定できません。異なる読み方が必要です。
マリアを再び信じ、「すべての事情を天使に教えてもらいました。それで十分です。私はあなたを信じます。結婚してください。アイ・ラブ・ユー」と告白することができたヨセフの姿を今日の箇所は描いています。勇気が必要な生き方かもしれません。「男らしい」とは絶対言いません。
こうして私はやっと「天使」が好きになりました。「私には身に覚えがない」と訴えるマリアを、すべての疑惑から天使が守っています。それ以上のことをだれも問うべきではありません。
(2025年12月 7 日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)



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