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2025年8月24日(日)午前9時より、子ども向けの「教会学校」を行いました。
礼拝もおやつタイムも楽しかったです。
ご協力くださった皆様に感謝いたします。
次回の「教会学校」は11月23日(日)午前9時からです。
収穫感謝会として行います。ぜひ出席してください。
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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「使徒派遣」
マタイによる福音書10章5~15節
関口 康
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8節)
今日の箇所に描かれているのは、イエス・キリストが多くの弟子の中から12人の弟子をお呼びになり、彼らに「使徒」と名付け、「権能」を与え、宣教の働きへと派遣なさった場面です。
イエスが12人の弟子に与えた「権能」(ギリシア語ἐξουσία エクソウシア)は、英語のauthority(オーソリティ)です。「権能」の定義は難しいです。主イエスと同じステージに立って同じことができるようになるための許認可のようなことです。
「同じことができる」の意味は、働きのスタートラインにつかせていただくことです。主イエスと同等の能力がすでに備わり、同等の結果を出すことができるということではありません。
12人の弟子に主イエスが「使徒」(英語Apostle アポッスル)と名付けられました。「十二使徒」(δώδεκα ἀποστόλων ドーデカ・アポストーロン)の名簿は、マタイ(10章2~3節)、マルコ(3章16~19節)、ルカ(6章14~16節)の各福音書にあります。この名簿に「徴税人マタイ」や「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」の名前があります。
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| 「12人の使徒」作画・関口 康 |
「使徒」と呼ばれる存在は、この12人と、イスカリオテのユダの後任として選ばれたマティア、そして後に使徒となったパウロだけです。しかし、主イエスから使徒に与えられた「権能」は、彼らの代で終了したわけでありません。
使徒の働きの本質は「宣教」、すなわち福音をあまねく宣べ伝え、神のみわざを地上で行うことです。その「権能」を継承するための制度化が、キリスト教会の歴史の中で行われました。
それは、たとえば日本基督教団の教師検定制度のようなものになりました。旧約聖書・新約聖書の語学や解釈、2000年のキリスト教会の歴史、キリスト教の現代的な理解や様々な議論、説教やカウンセリングなどの試験に合格すれば、「権能」が授けられるようになりました。
もうひとつ大事なことは「12」という数字です。なぜ使徒は「12人」でしょうか。間違いなく、古代イスラエル王国が「12部族」で構成されていたことと関係あります。アブラハム、イサク、ヤコブと3代続く族長の3代目のヤコブに、神が「イスラエル」という名を与え、ヤコブの12人の子どもたち(創世記35章23~26節など)が、イスラエル12部族の祖先になりました。
使徒の時代にはユダ族とベニヤミン族の2部族だけが残存していて、ユダヤ地方を形成していました。しかし、ユダヤ人たちの自己理解においては、あくまで自分たちはモーセとダビデの時代から続く12部族の連合体としてのイスラエル王国を受け継ぐ存在であると信じていました。
5節以下の主イエスの言葉の中に「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」とあります。この「失われた羊」は「ユダ族とベニヤミン族を除く10部族」だけを指すと狭く受け取るべきではありません。しかし、イスラエルには多くの「失われた羊」がいるという事実を、彼ら自身が強く自覚していたと考えることは可能です。
ところで、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」という主イエスの教えの意味は何でしょうか。ユダヤ人は神を信じる民です。その人々に福音を宣べ伝えるというのは、すでに神を信じている人々に「神を信じてください」と言っているのと同じです。
それは、私たちの文脈に置き換えて言えば、かつて教会生活を熱心になさっていた方々や、他の教会でつまずいて教会生活ができなくなっておられる方々へのアプローチから取り組みなさいと言われているのと同じです。かつて熱心だったことがあるからこそ、「二度と信じまい、二度と教会に足を踏み入れまい」と心に誓っておられる方々がおられるかもしれません。
主イエスは「異邦人の道に行ってはならない。またサマリア人の町に入ってはならない」(5節)とも言われています。異邦人とサマリア人は当時のユダヤ人にとって軽蔑と差別の対象でした。主イエスは差別主義者なのでしょうか。そのように誤解されそうな危険な発言です。
しかし、この件は冷静に考えることが大切です。使徒たちの働きに「範囲」や「限界」が設けられたと考えることができないでしょうか。
どんな仕事にも役割分担があり、仕事の範囲があります。使徒は人間です。時間と空間の枠の中で生き、体力にも気力にも限界があります。限界を超えると過労死の原因になります。使徒たちにはユダヤ人伝道という働きがあり、他の人々には異なる働きがあるのです。
8節以下に具体的な指示が細かく記されていますが、大事なことはひとつです。それは、使徒たちの働きは「無償」であるということです。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8節)というのが至上命令です。
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| 「使徒派遣」作画・関口 康 |
これは今日の教会にも当てはまります。教会の教師と役員の働きは「無償」です。これは理想主義ではありません。有償にするとたちまち格付けランキング競争が始まるでしょう。この牧師の説教の日の入場料はいくら。あの牧師よりも上か下か。座る席まで変わって来るでしょう。礼拝堂の前から順に「S席、A席、B席」。
毎週日曜の礼拝で「席上献金」をどのタイミングで行うかの議論で「説教後にすると金額が変動するので説教前のほうがいい」という意見があるのをご存じでしょうか。おひねりの感覚なら、そうなるでしょう。教会がそんなふうになってよいでしょうか。
そもそも牧師の給与は「説教の回数×〇〇円」ではありません。講演料をいただいているのではありません。特別礼拝の講師に謝礼を支払うこととそれは意味が違います。
「無牧(=定住牧師がいないこと)の教会は、他の教会から来てくださるいろんな牧師の説教を週替わりで聞けて、定住牧師とその家族の生活を支える必要がないので安上がりである」と言う人々に出会ったことがあります。反論したことはありませんが、私はいちいち傷ついています。定住牧師の存在が本当に必要かどうかは、自分自身で証明するしかなさそうです。
「神の言葉は無償である」という点はユダヤ教も同じ考えでした。律法学者がトーラーの知識を私利私欲に用いるのは間違っている。トーラーは土を掘るスコップではないし、金銭を得る手段ではないと、ラビ文書に記されています。
それでは、使徒、律法学者、牧師は、どのようにして生きていけばよいのでしょうか。主イエスの教えは次のとおりです。
「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には、袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(9~10節)。
この教えの趣旨は、禁欲や苦行のすすめではありません。任務遂行に遅れをとらないようにするために「何も持たないこと」が求められています。旅に必要な最低限の物資があれば、それで十分です。旅の食料は供給されます。
牧師の給与の話にしてしまいますと、その趣旨は「食費」であるということです。食費以上を要求する人は「偽預言者」であると『十二使徒の教訓(ディダケー)』11章6節に記されています(説教「人生の土台」2025年7月27日参照)。
飢え死にしない程度で大丈夫です。最終的には、神が天からマナを降らしてくださるでしょう(出エジプト記16章)。
(2025年8月16日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)
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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「孤独な人々と生きる」
マタイによる福音書 9 章 9 ~13節
関口 康
「ファリサイ派の人々はこれを見て弟子たちに『なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である』」(11-12節)
10月12日(日)に北村慈郎牧師をお迎えして「特別礼拝・講演会」を行うことになりました。主題は「これからの教会と日本基督教団」でお願いしますとお伝えして、快諾を得ました。
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| 画像をクリックすると特別礼拝のページにジャンプします |
このテーマについては、ご著書『自立と共生の場としての教会』(新教出版社、2009年)の中にほぼ記していますと北村先生が教えてくださいました。古書店に注文し、一昨日届きました。
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| 北村慈郎著 『自立と共生の場としての教会』 (新教出版社、2009年) |
「今年も皆さんに暑中見舞いをお送りします」と言いながらまだ送れていないことを申し訳なく思っています。10月12日特別礼拝の案内をどうしても書きたかったので遅くなりました。立秋を過ぎましたので「残暑見舞い」になります。ご理解いただけますと幸いです。
北村先生の『自立と共生の場としての教会』(2009年)の内容については著者ご自身からお話を伺える運びになりましたので、私が先回りして取り上げるのはやめておきます。しかし、予習のためにヒントを出します。
第 1 章の冒頭に、北村先生が目指してこられた「教会のあり方」について 3 つのポイントが挙げられています(21~23頁)。穴埋め問題の答えは10月12日(日)に発表します。
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Ⅰ 共に生きる場としての教会の担い手は(① )であること。 Ⅱ 牧師は本質的には(② )が、現実的には(③ )であること。 Ⅲ 教会員ひとりひとりが(④ )していく(⑤ )が大切であること。 |
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a. 主イエスが食事された「家」(10節)はマタイの家。宴会に大勢招けるほど資産家だった。 b. 「徴税人」はギリシア語の知識が不可欠。「徴税人マタイ」はギリシア語使い。 c. 「マタイ」は「神からの賜物」を意味するヘブライ語「Mattatjah」または「Mattatjahoe」の略語Mattai、Matja、Matjah等に由来し、ユダヤ地方出身者であることを示している。 d. マタイ福音書の著者は、ヘブライ語、アラム語、律法、預言者、ユダヤの伝統に精通している。 |
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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「平和のためにできること」
マタイによる福音書 8章 5~13節
関口 康
「そして、百人隊長に言われた。『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」(13節)
説教題を「平和のためにできること」としたのは、毎年8月第一主日が日本基督教団の定める「平和聖日」だからです。今日をその日にすることを1962年の教団総会で決議しました。
そして、1967年には鈴木正久教団議長名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)を公表しました。その趣旨は次の通り。
①日本基督教団は、大日本帝国政府が戦争遂行の必要から諸宗教団体の統合と戦争への協力を国策として要請したことを契機に成立した。
②「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきでなく、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対して正しい判断をなすべきだった。
③しかし、我々は教団の名においてあの戦争を是認し、支持し、勝利のために祈り努めることを内外にむかって声明することによって、「見張り」の使命をないがしろにする罪を犯した。
④我々は心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、特にアジアの諸国とその教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞に心からのゆるしを請う。
この文章に基づいて「平和のためにできることは何か」の答えを探すとすれば、「見張りの使命を怠らないこと」です。「見張り」と言っても諜報活動ではありません。公開されている情報をよく見ることです。それだけでもかなりのことが分かります。
自衛隊の海外派遣は現時点ですでに行われていることです。憲法上問題ないと裁判所が判断しています。問題はその先です。
自衛隊を「日本防衛軍」、自衛官を「軍人」、陸上・海上・航空各自衛隊を「陸軍、海軍、空軍」、幕僚長を「参謀長」、護衛艦を「駆逐艦」等にするという名称変更案を外務省発行の外交専門誌『外交』16号(2012年)で公表したのは、私の中学の同級生です。2022年に再会して話す機会がありました。
いま私が申し上げたいのは「準備はすべて整っている」ということです。だからこそ、日本国の戦争への直接参加には、絶対に反対しなくてはなりません。
戦争は、必然でも運命でもなく、人間が意志をもって実行することです。戦争の全責任は人間にあります。しかし、ほとんどの人は巻き込まれただけです。戦争で利益を得る可能性があるのは、ごく少数の権力者だけです。ほとんどの人が犠牲になります。そのことを先の戦争の体験者がたはよくご存じのはずです。
どうしても私は、複数の学校(小中高)で聖書の授業をすることが許された、トータルで6年間の日々を思い起こします。授業の中で何度も言ったのは「日本が戦争に巻き込まれたら、戦地に行くのは君たちであって私ではない。『教え子を戦地に送らない』という言葉を教室の授業の中で言わなくてはならない状況にしてしまったことを申し訳なく思う」ということでした。
今日の聖書の箇所は、日本基督教団聖書日課の今日の箇所です。今年5月9日(金)信濃町教会での「東京教区東支区・北支区合同連合祈祷会」で私が奨励を担当したときに取り上げたのと同じ箇所です。奨励の内容は教会ブログで公開しました。もしよろしければ併せてお読みください。
これは、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムで、ローマ軍の「百人隊長」が自分の「僕」の病気を治してほしいと主イエスに懇願し、主イエスがその「僕」をおいやしになった物語です。
並行記事はマルコ以外の2つの福音書にあります(ルカ7章1~10節、ヨハネ4章43~54節)。比較すると違いが分かります。マタイとヨハネは百人隊長自身が主イエスのもとを訪ねたことを記していますが、ルカはそうではなく、百人隊長自身は主イエスを訪ねず、使いの者を送っています(ルカ7章3節、6節、10節)。
この物語の理解のポイントは、この「百人隊長」と「僕」をどうとらえるかです。「百人隊長」はローマ軍の職名ですが、ローマ人だったことを必ずしも意味しません。カファルナウムは北の国境に近く、外国からの流入者が多かったため警戒視されて軍隊が配置されました。この「百人隊長」はシリア人の傭兵だったのではないかと考えられています。
しかし、この人は確かにローマ軍の兵士でした。いち兵卒から登り詰めて「百人隊長」の地位を得た人であり、ルカによると「ユダヤ人のために会堂(シナゴーグ)を建ててくれた人」として尊敬されています(ルカ7章5節参照)。明らかに資産家です。
このように、地位も名誉も資産も体力もあり、ユダヤを支配する側のローマ軍にいたこの人が、ユダヤ人として生涯を送られた主イエスに助けを求めたこと自体が驚くべきです。
この物語を理解するもうひとつのポイントは「僕」です。マタイはこの人を、通常の「奴隷」を意味するドゥーロス(δοῦλος)ではなく、「自分の子どものように愛する僕」を意味するパイス(παῖς)と呼んでいます。
この「パイス」について、5月9日(金)連合祈祷会で司会を担当された尊敬する先輩牧師が教えてくださったことを聞いて、ひっくり返りました。
最近の解釈によると、この「パイス」は軍人にあてがわれた性的奴隷であると考えられていて、その点からこの箇所を読み直すと、当時の感覚では使い捨てとされていたパイスが病気になったことを悲しみ、彼の助けを求めた百人隊長のその願いに主イエスがお応えになったと理解できるということでした。
初めて耳にする解釈で驚きましたが、可能性は十分あるでしょう。戦争が生み出す闇です。
ところで、主イエスは百人隊長から「ひと言おっしゃってください」(8節)と求められて、どんな「ひと言」をおっしゃったでしょうか。マタイとヨハネで共通しているのは「帰りなさい」(マタイ8章13節、ヨハネ4章50節)だけです。つまり「帰りなさい」が「ひと言」です。
しかし、「どこ」に帰るのでしょうか。原文には「どこ」は明記されていません。近年の解釈によれば「家」です。1989年の英語聖書Revised English Bible(REB)と、1972年のオランダ語新共同訳聖書(Groot Nieuws Bijbel)が「家に帰りなさい」(Go home; Ga naar huis)です。
REBの訳はカッコいいです。〝Go home; as you have believed, so let it be.〟ビートルズです。
地元を離れて傭兵生活をしていた百人隊長にとって「家に帰りなさい」という言葉は二重の意味を持ったはずです。病気の僕(パイス)と住む家だけではなく、家族が住む地元の家が重なって見えたのではないでしょうか。「あなたを必要としている人のもとに帰りなさい」と言われた気がしたのではないでしょうか。
戦争は、身近な人、大切な人との絆を破壊します。人を人とせず、効率と生産性と利益の追求がすべてであるかのように教育し、不利益になるものを容赦なく叩き壊します。
「平和のためにできること」の最適解は「家に帰ること」(Go home)です。愛し合う「家」に、いやしがあります。
(2025年8月3日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)
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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
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旧約 |
イザヤ9章14節 イザヤ28章7節 エレミヤ6章13節 8章10節 エレミヤ23章11節 エゼキエル13章3節 |
「偽りを教える預言者」 「濃いぶどう酒を飲んでよろめき迷う預言者」 「利を貪り、人を欺く預言者」
「汚れた預言者」 「自分の霊の赴くまま歩む愚かな預言者」 |
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新約 |
マタイ24章11、24節 使徒言行録13章6節 使徒言行録20章29節 ローマ16章17節 Ⅱテモテ3章5節 Ⅱペトロ2章1節 Ⅰヨハネ4章1節 黙示16章13節、19章20節、20章10節 |
「偽預言者」 「バルイエスという預言者」 「群れを荒らす残忍な狼ども」 「学んだ教えに反して不和やつまずきをもたらす人々」 「信心を装いながら信心の力を否定しようとする人々」 「異端を持ち込み贖い主を拒否する偽教師」 「偽預言者」 「偽預言者」 |
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他 |
十二使徒の教訓(ディダケー)11章7~12節 |
下記参照 |
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①滞在は1日、長くて2日であるべきなのに、3日滞在する(5節) ②パン以外は何も要求すべきでないのに、金銭を要求する(6節) ③食事を注文して食べる(9節) ④真理を人々に教えるが、自分は実行しない(10節) ⑤金銭あるいは他の何かを要求する(12節) |