2025年8月3日日曜日

平和のためにできること

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「平和のためにできること」

マタイによる福音書 8章 5~13節

関口 康

「そして、百人隊長に言われた。『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」(13節)

説教題を「平和のためにできること」としたのは、毎年8月第一主日が日本基督教団の定める「平和聖日」だからです。今日をその日にすることを1962年の教団総会で決議しました。

そして、1967年には鈴木正久教団議長名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)を公表しました。その趣旨は次の通り。

①日本基督教団は、大日本帝国政府が戦争遂行の必要から諸宗教団体の統合と戦争への協力を国策として要請したことを契機に成立した。

②「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきでなく、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対して正しい判断をなすべきだった。

③しかし、我々は教団の名においてあの戦争を是認し、支持し、勝利のために祈り努めることを内外にむかって声明することによって、「見張り」の使命をないがしろにする罪を犯した。

④我々は心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、特にアジアの諸国とその教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞に心からのゆるしを請う。

この文章に基づいて「平和のためにできることは何か」の答えを探すとすれば、「見張りの使命を怠らないこと」です。「見張り」と言っても諜報活動ではありません。公開されている情報をよく見ることです。それだけでもかなりのことが分かります。

自衛隊の海外派遣は現時点ですでに行われていることです。憲法上問題ないと裁判所が判断しています。問題はその先です。

自衛隊を「日本防衛軍」、自衛官を「軍人」、陸上・海上・航空各自衛隊を「陸軍、海軍、空軍」、幕僚長を「参謀長」、護衛艦を「駆逐艦」等にするという名称変更案を外務省発行の外交専門誌『外交』16号(2012年)で公表したのは、私の中学の同級生です。2022年に再会して話す機会がありました。

いま私が申し上げたいのは「準備はすべて整っている」ということです。だからこそ、日本国の戦争への直接参加には、絶対に反対しなくてはなりません。

戦争は、必然でも運命でもなく、人間が意志をもって実行することです。戦争の全責任は人間にあります。しかし、ほとんどの人は巻き込まれただけです。戦争で利益を得る可能性があるのは、ごく少数の権力者だけです。ほとんどの人が犠牲になります。そのことを先の戦争の体験者がたはよくご存じのはずです。

どうしても私は、複数の学校(小中高)で聖書の授業をすることが許された、トータルで6年間の日々を思い起こします。授業の中で何度も言ったのは「日本が戦争に巻き込まれたら、戦地に行くのは君たちであって私ではない。『教え子を戦地に送らない』という言葉を教室の授業の中で言わなくてはならない状況にしてしまったことを申し訳なく思う」ということでした。

今日の聖書の箇所は、日本基督教団聖書日課の今日の箇所です。今年5月9日(金)信濃町教会での「東京教区東支区・北支区合同連合祈祷会」で私が奨励を担当したときに取り上げたのと同じ箇所です。奨励の内容は教会ブログで公開しました。もしよろしければ併せてお読みください。

これは、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムで、ローマ軍の「百人隊長」が自分の「僕」の病気を治してほしいと主イエスに懇願し、主イエスがその「僕」をおいやしになった物語です。

並行記事はマルコ以外の2つの福音書にあります(ルカ7章1~10節、ヨハネ4章43~54節)。比較すると違いが分かります。マタイとヨハネは百人隊長自身が主イエスのもとを訪ねたことを記していますが、ルカはそうではなく、百人隊長自身は主イエスを訪ねず、使いの者を送っています(ルカ7章3節、6節、10節)。

この物語の理解のポイントは、この「百人隊長」と「僕」をどうとらえるかです。「百人隊長」はローマ軍の職名ですが、ローマ人だったことを必ずしも意味しません。カファルナウムは北の国境に近く、外国からの流入者が多かったため警戒視されて軍隊が配置されました。この「百人隊長」はシリア人の傭兵だったのではないかと考えられています。

しかし、この人は確かにローマ軍の兵士でした。いち兵卒から登り詰めて「百人隊長」の地位を得た人であり、ルカによると「ユダヤ人のために会堂(シナゴーグ)を建ててくれた人」として尊敬されています(ルカ7章5節参照)。明らかに資産家です。

このように、地位も名誉も資産も体力もあり、ユダヤを支配する側のローマ軍にいたこの人が、ユダヤ人として生涯を送られた主イエスに助けを求めたこと自体が驚くべきです。

この物語を理解するもうひとつのポイントは「僕」です。マタイはこの人を、通常の「奴隷」を意味するドゥーロス(δοῦλος)ではなく、「自分の子どものように愛する僕」を意味するパイス(παῖς)と呼んでいます。

この「パイス」について、5月9日(金)連合祈祷会で司会を担当された尊敬する先輩牧師が教えてくださったことを聞いて、ひっくり返りました。

最近の解釈によると、この「パイス」は軍人にあてがわれた性的奴隷であると考えられていて、その点からこの箇所を読み直すと、当時の感覚では使い捨てとされていたパイスが病気になったことを悲しみ、彼の助けを求めた百人隊長のその願いに主イエスがお応えになったと理解できるということでした。

初めて耳にする解釈で驚きましたが、可能性は十分あるでしょう。戦争が生み出す闇です。

ところで、主イエスは百人隊長から「ひと言おっしゃってください」(8節)と求められて、どんな「ひと言」をおっしゃったでしょうか。マタイとヨハネで共通しているのは「帰りなさい」(マタイ8章13節、ヨハネ4章50節)だけです。つまり「帰りなさい」が「ひと言」です。

しかし、「どこ」に帰るのでしょうか。原文には「どこ」は明記されていません。近年の解釈によれば「家」です。1989年の英語聖書Revised English Bible(REB)と、1972年のオランダ語新共同訳聖書(Groot Nieuws Bijbel)が「家に帰りなさい」(Go home; Ga naar huis)です。

REBの訳はカッコいいです。〝Go home; as you have believed, so let it be.〟ビートルズです。

地元を離れて傭兵生活をしていた百人隊長にとって「家に帰りなさい」という言葉は二重の意味を持ったはずです。病気の僕(パイス)と住む家だけではなく、家族が住む地元の家が重なって見えたのではないでしょうか。「あなたを必要としている人のもとに帰りなさい」と言われた気がしたのではないでしょうか。

戦争は、身近な人、大切な人との絆を破壊します。人を人とせず、効率と生産性と利益の追求がすべてであるかのように教育し、不利益になるものを容赦なく叩き壊します。

「平和のためにできること」の最適解は「家に帰ること」(Go home)です。愛し合う「家」に、いやしがあります。

(2025年8月3日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年7月27日日曜日

人生の土台

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「人生の土台」

マタイによる福音書 7章15~29節

関口 康

「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(24節)

今日の箇所は、主イエスの「山上の説教」(マタイ5~7章)の最後の部分です。

「偽預言者(英語 false prophet)への警戒」(15節)というテーマは、旧約聖書にも新約聖書にもありますし、聖書外文書、特に『十二使徒の教訓(ディダケー)』にも出てきます。

旧約

イザヤ914

イザヤ287

エレミヤ613

810

エレミヤ2311

エゼキエル133

「偽りを教える預言者」

「濃いぶどう酒を飲んでよろめき迷う預言者」

「利を貪り、人を欺く預言者」

 

「汚れた預言者」

「自分の霊の赴くまま歩む愚かな預言者」

新約

マタイ241124

使徒言行録136

使徒言行録2029

ローマ1617

Ⅱテモテ35

Ⅱペトロ21

Ⅰヨハネ41

黙示1613節、1920節、2010

「偽預言者」

「バルイエスという預言者」

「群れを荒らす残忍な狼ども」

「学んだ教えに反して不和やつまずきをもたらす人々」

「信心を装いながら信心の力を否定しようとする人々」

「異端を持ち込み贖い主を拒否する偽教師」

「偽預言者」

「偽預言者」

十二使徒の教訓(ディダケー)11712

下記参照


「羊の皮をまとった狼」というイメージは旧約聖書にもラビの教えにも見られません。しかし、ユダヤ人が羊の群れのように牧されているイメージは旧約聖書に由来しており(詩編100編3節、エゼキエル書34章23節など)、「貪欲な狼」というイメージも同様です(イザヤ書11章6節、65章25節、エレミヤ書5章6節、特にエゼキエル書22章27節)。

気になる問題は、「狼」は教会の外から来るのか、はじめから教会の中にいるか、です。どちらとも言えそうです。

「あなたがたのところに来る」と言われていますので、外部からの侵入者のようでもあります。しかし、「羊の皮をまとう」と言われると、内部の人を装っているようでもあります。「貪欲な」という形容詞は、教会に分裂をもたらす私利私欲を指している可能性があります。

この人々は、目の前の問題を徹底的に分析し、預言者であることを装いながら「独自の」意図を突きつけてきます。

『十二使徒の教訓(ディダケー)』11章5~12節(佐竹明訳、使徒教父文書、聖書の世界、別巻4、新約Ⅱ、講談社、1974年、25頁)に興味深い記述があります。

「偽預言者」かどうかを見破ることができる「特徴」があるというのです。それは次の通りです(*通し番号は関口による)。

①滞在は1日、長くて2日であるべきなのに、3日滞在する(5節)

②パン以外は何も要求すべきでないのに、金銭を要求する(6節)

③食事を注文して食べる(9節)

④真理を人々に教えるが、自分は実行しない(10節)

⑤金銭あるいは他の何かを要求する(12節)


『十二使徒の教訓(ディダケー)』が書かれたのが、西暦1世紀末から2世紀初頭までの間です。キリスト教会の歴史の最初から「偽預言者」がいたことが分かります。

「預言者」とは「神の言葉を預かり、民に伝える者」です。現代の牧師・説教者たちにとって、決して他人事ではありません。

「あなたがたはその実で彼らを見分ける」(16節b)というのが、主イエスのお考えです。茨からぶどうが採れることはないし、あざみからいちじくが採れることもありません(16節b)。良い木が悪い実を結ぶことはないし、悪い木が良い実を結ぶこともありません(17節)。その人の行いと言葉の結果によって正体が暴かれます。

厳しい言葉が続いていますが、あくまで「偽預言者」の見分け方に関することだと理解する必要があります。教師の責任は重いです。これを一般論にして、だれかれ構わず当てはめていくと、息苦しくなる人が続出するでしょう。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(21節)。

「主よ、主よ」と2回言うのはユダヤの慣習で、名前を二重に唱えることを、相手に対する敬意の表現としていました。しかし、主イエスが求めておられるのは、ご自身がちやほやされることではなく、ご自身の教えを聴く人々が神の御心を行うことです。

山上の説教は、全く守らなくても何の問題もないと言ってよいような教えではありません。途方もなく難しい教えが続いているのは確かです。しかし、「この誰にも守ることができない教えを守れないこの弱いわたしたちの身代わりに、主は十字架の上で死んでくださいました。だから、わたしたちは山上の説教の教えを守る必要はありません」と教えるのは間違いです。

山上の説教の教えを完璧に守れる人はいないでしょう。主イエスは完璧を求めておられません。1ミリでも、1秒でも、守ろうとする思いを求めておられます。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台にしていたからである」(24~25節)。

「これらの言葉」が指しているのは、主イエスの「山上の説教」全体です。「人生の嵐」の比喩だと理解すべきです。この嵐の中で倒れずにいられるのは「土台」(または基礎 foundation, basis)がしっかりしているかどうかにかかっているという教えです。

「人生の土台は無くてもいい」でしょうか。「土台など無ければ無いで、流されるまま、壊れるまま。人生などそんなものだ」と悟られている方もおられるでしょう。「少なくとも宗教が土台になると思えない」と感じておられる方は多いかもしれません。

「宗教こそ人生の土台になる」と考える方がもし多ければ、教会にもっと多くの人が集まるでしょう。「土台にならない」と思っておられるから、教会の存在に意味を見出せない方が多いのでしょう。教会の責任を痛感します。

「人生の土台」があるということを主イエスが教えておられます。しかし、「人生の土台」なるものをわたしたちがどのようにして知ることができるかという問いの中で、「偽預言者」が教会史の過去・現在・将来を通して存在し続けてきたことの意味を考えることが大切です。

わたしたちに求められるのは「真偽・真贋を見分ける力」です。

(2025年7月27日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年7月20日日曜日

狭い門から入りなさい

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「狭い門から入りなさい」

マタイによる福音書 7章1~14節

関口 康

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者は多い」(13節)

今日も先週に引き続き「山上の説教」の一節です。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(1a節)

裁判制度を否定する言葉ではありません。マタイによる福音書において「裁く」(クリネイン κρίνειν)(クリナイ κρίναιの現在形不定詞)の意味は、「悪意をもって非難する、酷評する、批判する」です。

他人への非難を禁じる理由は「あなたがたも裁かれないようにするため」(1b節)です。「あなたがたは自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(2節)。互いに裁き合わないようにすることは、主イエスが教えてくださった新しい生き方です。

学校や会社や社会の中で厳しいことを言わなくてはならない場面があることは否定できません。しかし、費用対効果(コストパフォーマンス)のために、生産性のために、成績のために、効率と成果を求められ、結果が出ないと非難され、疲れてメンタルが壊れて生きるのがつらくなっている方々を多く見かけます。

人の心を壊して得る利益で、だれが得するのでしょうか。もっと人にやさしい社会を目指せないものでしょうか。

人が裁き合う姿の愚かさについて、主イエスは、独特のユーモアと皮肉をこめて次のようにおっしゃいました。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(4~5節)

互いに裁き合わないようにする件は、神と人間の出会いはどのようにして起こるかをどのように理解するかの問題にかかわります。

主イエスにとって「神との出会い」とは、人間や地上的事物とは無関係に空中に浮かんだスピリチュアルな存在のようなものとの接触ではなく、常に隣人との出会いにおいて起こることです。神との出会いは隣人との出会いにおいて起こります。あなたが隣人とどのように付き合うかが、神があなたとどう付き合うかと関係します。

主の祈りの第5の願いは「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(6章12節)です。私たちが隣人の罪(負い目)を赦すとき、神が私たちの罪(負い目)を赦してくださいます。

「神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」(6節)

この箇所は説明しづらいです。明らかな差別語・不快語が含まれているからです。しかし、語り手である主イエスの真意をお伝えしたいので取り上げます。

「犬」と「豚」は、西暦1世紀のパレスティナのユダヤ人の軽蔑の対象でした。ただし、飼い犬は大事にされました。軽蔑されたのは野犬です。豚は、汚れた動物とされていました。

問題は、「犬」と「豚」が特定の人々の比喩として持ち出されていることです。犬のような人。豚のような人。こういう言い方を私は我慢して聞いていられません。

しかも、この言葉が教会の歴史の中でどのように用いられてきたかを知る例として、西暦1世紀末から2世紀初頭までの間に書かれた『十二使徒の教訓(ディダケー)』(佐竹明訳、使徒教父文書、聖書の世界、別巻4、新約Ⅱ、講談社、1974年)に「聖餐式」との関係で引用されている箇所があります。

「主の名をもって洗礼を授けられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。主がこの点についても、『聖なるものを犬に与えるな』と述べておられるからである」(ディダケー9章5節、同上書、24頁)。

私たちはこういう言葉から目をそらすことはできません。教会は「洗礼を受けていない人」を「犬」呼ばわりしていました。ディダケーは正典(canon)としての旧新約聖書と同等ではありませんが、教会の重要な文書です。

しかし、重要なことをまだ言えていません。主イエスがそのような人たちに「神聖なるもの」や「真珠」を投げ与えてはならないと言われた意味です。

それは、強制してはいけない、ということです。自分にとってどれほど大切なものであっても、それを嫌がっている相手に押し付けてはいけない、ということです。

多くの言葉で相手を説き伏せるよりも、黙るほうがよい場合があります。伝わらない思いを無理に伝えようとしなくてもよい場合があります。

信じてもらいたい人に信じてもらえないとき、大切なことを伝えることは不可能だと思えば、他の人に任せればよいし、神に委ねればよいのです。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)

この三つの文は祈りが聞き届けられることについて語っています。

求める(ask)、探す(seek)、門をたたくこと(knock)の頭文字を集めると、ask(求める)になります。

特にノックは、祈りのイメージとして重要です。門を叩くことで門が開き、祈ることで与えられます。

「パンを欲しがる自分の子供に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(9~10節)

これは疑問文になっていて、答えが隠されています。こういうひどいことをする悪い親がいないことが前提になっています。現実の親子関係はもっと深刻ではないでしょうか。

しかし、この言葉は、たとえひどい親の元で育てられても、神はその人の真の親であることを教える言葉であると読むこともできます。

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(12節)

これは黄金律(Golden Rule)と呼ばれます。類似している教えは、ギリシアにもローマにもユダヤにもありましたが、どれも否定形です。

「あなたが憎むことを誰にもしてはならない」

「隣人にして欲しくないことを隣人にもしてはならない」

「あなたの欲しないことを隣人にしてはならない」

否定形の教えならば、万国共通だれでも理解できる普遍的な真理になります。しかし、主イエスの教えのように肯定形で言うと、難しい教えになります。なぜでしょうか。

他者の状況に個人的に共感する必要性がより強調されるからです。

この個人的な共感こそ、主イエスが教えてくださった新しい人間関係の土台です。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者は多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」(13~14節)

2つの道のイメージは旧約聖書からあります。申命記11章26節以下、同30章15節以下、エレミヤ記21章8節。

モーセは「祝福の道か、呪いの道か」を民に問いました。エレミヤは「命の道か、死の道か」を民に問いました。中間はありません。どちらかを選ばなくてはなりません。

主イエスの「狭い門か、広い門か」の問いかけも趣旨は同じです。これは一般論ではありません。関係あるのは「わたしに従いなさい」という主イエスの呼びかけだけです。

わたしの道は、狭い門から入り、細い道を通るので、「通る者は少ない(少数者である)」と言われています。

広い道と広い門は、わざわざ選んで入ったり通ったりするものではなく、そこにあります。そこを通るために労苦も犠牲も不要ですし、「通って」いるのかどうか分かりません。

「道」や「門」と呼ぶ必要すらありません。それはどこにも通じていないし、過程(プロセス)も終点(ゴール)もないからです。

(2025年7月20日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年7月15日火曜日

イエスとピラト

日本基督教団富士見町教会(東京都千代田区富士見町2-10-1)

釈義「イエスとピラト」

ヨハネによる福音書19章1~7節

日本基督教団東京教区東支区教師会での発題

関口 康

(1節)この直前までピラトはイエスについて「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(Ἐγὼ οὐδεμίαν εὑρίσκω ἐν αὐτῷ αἰτίαν. 18章38節b)と言っていますが、イエスを捕らえて兵士たちに鞭で打たせました。

それはイエスを釈放するためのピラトの戦略でした。鞭打ち刑は十字架刑の代案(alternative)でした。十字架刑に付随するもの(accompaniment)ではありませんでした(G. R. Beasley-Murray, John, WBC, 1987, p.334)。

しかし、この鞭打ちが致命的なダメージを及ぼした可能性があります。

ローマの鞭打ち刑には3種類の拷問具がありました。①自由民(freemen)に対しては数本を束にした木製の笞(sticks)、②軍隊内では棍棒(rods)、③奴隷に対しては多くの釘(spikes)を先端に付けた皮の鞭(scourges)、または多くの骨片や鉛玉を鎖状につないだ鞭(whips)が使われました。イエスの鞭打ち刑は③でした。

ローマ法はユダヤ法と異なり、鞭打ち回数の最高限度がありませんでした。鞭打ち刑だけで(内臓や骨が飛び出して)死亡する例がしばしばありました(ブリンツラー『イエスの裁判』大貫隆、善野碩之助訳、新教出版社、1988年、332~333頁参照)。

鞭打ちの苦しみが、イエスが処刑場まで十字架を担ぐことができず、十字架刑後すぐに亡くなった理由であると主張する米国医師会雑誌(JAMA)255号(1986年)の記事があるそうです(Beasley-Murray, ibid., p. 336)。

(2~3節)「兵士たち」はローマ軍の異邦人です。ユダヤ人と違い、イエスは憎しみの対象ではなかったはずです。その彼らがしたのが「茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来て、『ユダヤ人の王、万歳』と言って平手で打つ」ことでした。

これは「悪ふざけ」「ごっこ遊び」「ジョーク」「パロディ」「パントマイム」であろうと複数の註解者が記しています。動機は不明ですが、考えうる可能性は軍隊生活のうさ晴らしです。

彼らはイエスをローマ皇帝に模した姿にしました。「茨の冠」は月桂冠のパロディでしょう。容易に入手できたナツメヤシ(palm)の大きなトゲで作られたと考えられています(Beasley-Murray, ibid.)。

「紫の服」も皇帝の正装のパロディでしょう。マタイ27章28節は「赤い外套」、マルコ15章20節は「紫の服」、ルカ23章11節は「派手な衣」です。元々は赤い一般軍人のマントが(血や泥で?)紫へと変色したものをイエスに着せたのではないでしょうか。

イエスをこの姿にしたうえでローマ式敬礼をし、平手で打ったのですから、彼らの恨みの真の対象はローマ皇帝だったと言えないでしょうか。

(4節)「ピラトはまた出て来て」は、イエスが侮辱されている間、ピラトがユダヤ人の前から身を隠していた可能性を示唆しています。芝居かもしれません。再び出て来て、「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」と言いました。

(5~7節)ブルトマンによると、「ピラトの目的はイエスの存在(Person)をユダヤ人に滑稽で無害なもの(lächerlich und harmlos) に見せることで彼らに告発を取り下げさせることであり、そのためにイエスが王の戯画(Karrikatur)として現れ、ピラトが『それがこの人だ!この哀れな姿を見よ!』(Ἰδοὺ ὁ ἄνθρωπος; ecce homo; Das ist der Mensch! Da seht die Jammergestalt!)と紹介しなくてはなりませんでした。

この逆説(Paradoxie)が、福音書記者の心の中で壮大な絵となり、『言は肉となった』〔1章14節〕が究極の結末において可視化されました」('Das ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο ist in seiner extremsten Konsequenz sichtbar geworden'. R. Bultmann, Das Evangelium des Johannes, 1941, 1962 (17. Aufl.), S.510)。

(2025年7月15日、日本基督教団東京教区東支区教師会、日本基督教団富士見町教会)

2025年7月13日日曜日

空の鳥を見なさい

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「空の鳥を見なさい」

マタイによる福音書 6章25~34節

関口 康

「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)

先週まで10週連続で「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」を行いました。教理説教には、2千年の教会の物語としての側面があります。そろそろイエスさまにご登場いただきたいです。今日は主イエスの「山上の説教」の一節を取り上げます。

説教原稿をブログで公開すると、各記事のアクセス数が分かります。教理説教の「教会論」の回のアクセス数が一向に増えません。最も多いのが「贖罪論」で、次が「三位一体論」。キリスト教についての関心はあることが分かります。しかし、「教会」は人気がありません。汚名を返上したいです。私が生きている間は無理かもしれません。

今日の箇所の中心聖句は「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)です。核心は「思い悩むな」です。そして、そのための解決策として主イエスが教えておられることが、今日の説教題の「空の鳥を見なさい」です。新共同訳聖書どおりだと「空の鳥を〝よく〟見なさい」です。

私の話ですみません。私は今、牧師館でひとり暮らしをしています。基本的に自炊です。外食やコンビニ食に頼る日もありますが、そればかりだと生活が成り立ちません。自炊は錬金術なので、工夫次第でどうにでもなります。教会の皆さんの献金だけで生活を支えていただいている身です。不満を言いたいのではありません。しかし、余裕があるとは言えません。

そういう私でも、衣食住について「思い悩むな」と言われると考え込んでしまいます。「自炊は錬金術です」だとか言えるのは、ひとり暮らしだからです。「もうどうなってもいいや」と思っているからです。扶養すべき家族がいる方や、自分が経営している、または勤務している学校や施設やNPO等で食事を提供する立場にいる方は反発するでしょう。いくらなんでも無責任すぎるでしょう。

しかし、ここで言われている「思い悩む」(μεριμνᾶω メリムナオー)とは、否定的な思考が恒常化し、肯定的な思考の余地を失っている状態です。悪い結末しかありえないような未来予想の証拠ばかりがあふれるほどあって、否定的な情報でメモリがいっぱいでフリーズしている状態、と言えば伝わるでしょうか。

そういうとき、主イエスは「空の鳥をよく見なさい」(26節a)とおっしゃいます。ただ「見る」だけでなく「よく見る」(ἐμβλέπω エンブレポー)。その意味は「凝視する、観察する、考察する」です。鳥をよく見ると何が分かるのかというと、「鳥は種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」のに「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(26節b)という事実です。

しかも、ここでマタイが記しているのは一般的な「鳥(とり)」ですが、ルカの並行記事(12章24節)には「烏(からす)」と記されています(*J. M. ロビンソンのQ資料研究書『イエスの福音』(加山久夫、中野実訳、新教出版社、2020年、92頁)でも「烏(からす)」です)。

加えて、ルカが用いている言葉は、普通のカラス(crow クロウ)ではなくワタリガラス(raven レイヴン)です。

カラス(crow)はゴミ置き場荒らしをするので現代人には嫌われがちです。ワタリガラス(raven)はユダヤ人にとって汚れた動物です(レビ記11章15節、申命記14章14節)。マタイによる福音書がユダヤ教徒とユダヤ人キリスト者に向けて書かれたため、普通のカラス(crow)にしているという解説があります。

可能性の高さを比較すると、主イエスが「よく見ること」を勧めておられる鳥(とり)は、おそらくワタリガラス(raven)です。

「野の花」(28a節)についても「注意して見る」ことが勧められています。この「花」はユリ(lily)を意味する言葉ですが、「野の」(野生の)が付いているので、雑草化しているものです。

それを見ると何が分かるかというと、「野の花」は「働きもせず、紡ぎもしない」のに美しく、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」(28b~29節)ことが分かるというわけです。

主イエスが勧めておられるのは、好きなもの、自分の側にいると思えるもの、味方してくれそうな相手ではなく、自分が苦手なもの、多くの人から嫌われているもの、踏みつけられたり軽んじられたりしている側のものを見てごらん、ということです。

そちらの存在にも神の創造のみわざが働き、大空を自由に羽ばたいたり、美しく咲きほこったりしているのだから、あなたがたも同じだし、それ以上に神がなんとかしてくださるので、希望をもって生きて行こうではないか、という励ましの言葉です。

素直な気持ちになれないときにこの言葉を読むと、鳥や花と比較されて、あの子たちより人間はましだろうと言われてもちっともうれしくないし、そもそも比較の対象がおかしいと、反発しか感じないかもしれません。

しかし、目の前が真っ暗になるような絶望的な状況の中で、それまでと同じことを繰り返すのではなく、視点や見るものや見方を変えてみることが打開策になることはありうるでしょう。

そして、目指すべき目標は「何よりもまず、神の国と神の義を求めること」であると主イエスは言われます。「そうすれば他のものは(おまけのように)ついてくる」と。

ご参考までに、33節の英訳を3種類並べます。

King James Version (1611)

But seek ye first the kingdom of God, and his righteousness; and all these things shall be added unto you.

Revised Standard Version (1952)

But seek first his kingdom and his righteousness, and all these things shall be yours as well.

Revised English Bible (1989)

Set your mind on God’s kingdom and his justice before everything else, and all the rest will come to you as well.


もっと新しい訳がありそうですが、1989年のREBの「セット・ユア・マインド」という訳には現代的な印象があります。「マインドセット」は、近年のビジネス用語としてよく見かけます。文字通りマインドをセットすることです。心の置き場をカチッと決めることです。

思い悩んでいるときであっても、なんらかの目標が定まれば、心が落ち着き、未来予想の解像度が上がり、不安や恐怖が和らぎます。

私がいま、この話をどういう顔で申し上げているかをお見せしたいです。あきらめ顔でしょうか、おどし顔でしょうか、解放の喜びを味わっている顔でしょうか。

日曜日の礼拝に来ていただきたいのは、文字や動画では伝えきれない「におい」のようなものがあるからです。教会の私たちは、たくさん失敗を重ね、今も思い悩みながら、主イエスに従って生きています。ぜひ教会に来ていただきたいです。

(2025年7月13日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)