2024年12月22日日曜日

言は肉となった

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「言は肉となった」

ヨハネによる福音書1章1~18節

関口 康

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)

ご承知のとおり、新約聖書にはイエス・キリストの生涯を描く「福音書」と呼ばれる書物が4巻あります。前から順にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。

これらのうちで、主イエスのご降誕を描いているのがマルコ以外の3巻です。ヨハネによる福音書にもしっかり記されています。「どこに?」と思われるでしょうか。今日の朗読箇所です。

その描き方において他の福音書と違いがありすぎることは明白です。だいたい出てくる感想は「難しい」「哲学的」「抽象的」「意味不明」。そう言われれば、おっしゃるとおりと認めざるを得ないところがあります。

たとえば、今日の箇所に基づいてキリスト聖誕劇(ページェント)の台本を書けるでしょうか。至難の業であることは確実です。面白くない(=自分と関係ない)し、不適切であると感じる人は多いでしょう。

マタイやルカに描かれている物語にも、未確認生命体というべき「天使」が登場したり、結婚前のマリアが妊娠したりと、謎めいた内容が記されています。しかし、演劇として成立する豊かな内容があります。

一昨日(12月20日)私は、当教会と関係が深い保育園で子どもさんがたが演じるページェントを初めて拝見しました。みんなかわいかったです。

ヨセフとマリア、ベツレヘムの羊飼いと羊、宿屋、東方の3博士(カスパール、メルキオール、バルタザールという名前がついた伝説がある)、ローマ兵、天使と星が、飼い葉桶の主イエスを囲んで大団円。このような「人間らしい」聖誕劇なら、わたしたち自身の誕生と無関係ではない描き方ができるでしょう。

しかし、ヨハネによる福音書に基づいてどんな劇ができるでしょうか。登場人物が「ヨハネ」(6節)以外に出て来ません。このヨハネは主イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネです。主イエスがお生まれになったとき、このヨハネも小さな子どもです。

ヨハネによる福音書のキリスト降誕物語の主人公は「神」です。人間の視点からではなく、神の視点から描かれています。人間の理解の限度を超えるものがあります。しかし、そのほうがいいでしょう。人間のプライドが傷つきます。だからこそ、人間の心の砦(とりで)が破られ、回心の機会が訪れるでしょう。

わたしたちが理解できるかどうかはともかく、ヨハネによる福音書がとにかく言っているのは、「神」(テオス)の「言(ことば)」(ロゴス)が「肉」(サルクス)となったのが主イエスである、ということです。

そして、その「肉となった神」であるイエス・キリストとの出会いは、父なる「神」との出会いに等しいということであり、さらに主イエスご自身が「神」であるということです。

もし主イエスが「神」ではないならば、キリスト者の祈りの言葉である「主イエス・キリストによって祈ります」という表現は成立しません。主イエスは、神でもなければ人間でもない、両方から責め立てられる、中間管理職のような存在ではありません。イエス・キリストは「神の右に座しておられる」という信仰表現もあるほど「神と等しい方」であり、つまり「神」です。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)と記されています。こういう正直な文章が私は好きです。神を見たことがある人は人類史上ひとりもいません。「神を見た」と思っている人は神以外の何かを見た可能性が高いです。私も「見た」ことがないです。だからこそ「信じて」います。

このような信仰を軽蔑する人がいます。今日のクリスマス礼拝の案内をインターネットで見てくださった方の中にいました。その方自身は仏教の特定の宗派に所属していることを教えてくださいました。「神が人類を造ったというなら、その神を連れて来てみろ。できないだろう。それができないキリスト教は邪教である」の一点張りでした。

「私も神を見たことがありません。見たことがないからこそ信じております」と返事したら、「そんな愚かな宗教はやめてしまえ」と返って来ました。そこで私はやりとりを終了しました。ご自身が信じる道をお進みになればよろしい。それ以上、私から申し上げることはありません。

私の話はどうでもいいです。教会の立場については、みんなで考える必要があります。ヨハネによる福音書の成立年代は、西暦1世紀の終わり頃(90年代前後)です。それが意味することは、紀元30年ごろ十字架にかけられて地上の生涯を終えられる前の主イエスと直接的な交流を持ったことがある人々が残っていた可能性がきわめて低い時期に書かれた、ということです。

なぜ成立年代の話をするかといえば、「父のふところにいる独り子である神」(18節)としての主イエスを「見た」(同上節)と書かれていることの意味は何かを考える必要があると申し上げたいからです。この「見る」に物理的な肉眼で目視したこと以上の意味があるのは明白です。

そうしますと、ヨハネによる福音書が書かれた時代(紀元1世紀末)の人々と今のわたしたちは立場が同じであることが分かります。わたしたちが主イエスを「見る」方法は聖書を学ぶこと以外にありません。さらに、演劇があると助かります。舞台でもテレビドラマでも映画でも大丈夫です。登場人物の言葉や動作の意味を理解でき、共感できます。苦しみや痛みを共有できます。心が通います。

最後に怖い話をしていいですか。とても怖い話です。

「初めに言(ことば)があった」(1節)の「初め」は、天地創造以前、すなわち世界も人間も誕生する前を指しています。神以外の何も存在していない、「無」(Nothing)と神が向き合っておられる状態です。「時間」(クロノス)も神が創造したものなので、その点を厳密にとらえれば「時間以前」であると言うべきです。

さて問題です。「初め」に「言(ことば)」があり、「言(ことば)」が「神」であったという場合、その「言(ことば)」は、だれに向かって発せられたものでしょうか。神には話し相手がまだいないはずなのに。

この問題の答えは聖書に記されていません。しかし、可能性は2つです。

第1の可能性は、神はひたすら沈黙されていた、ということです。

第2の可能性は、神はずっと独り言を言い続けておられた、ということです。

私は前者を選びます。神は天地創造の前は、ひたすら沈黙しておられました。

しかし、神は沈黙を破られました。神は「言(ことば)」をもって「無」(Nothing)から「有」(Being)を、そして「すべて」(Everything)を呼び起こされました。神が「光あれ」と言われ、光が創造されました(創世記1章3節)。

そして神は、ご自身が創造された世界と人間を愛してくださいました。神は「愛」をわたしたち人間に告白してくださるために「肉」をお摂りになり、人間としてお生まれになりました。

生きる意味も理由も見失いがちなわたしたちに神が「わたしはあなたを愛している」と告白してくださり、「あなたは愛されるために生まれた」と教えてくださるために、イエス・キリストはお生まれになりました。

(2024年12月22日 日本基督教団足立梅田教会 クリスマス礼拝)

2024年12月6日金曜日

ザカリヤの預言 北村慈郎牧師

農村伝道神学校(東京都町田市野津田町2024)

説教「ザカリヤの預言」

ルカによる福音書1章68~79節

北村慈郎牧師

於・農村伝道神学校 礼拝堂

私は、一昨日12月4日で満83歳になりました。

今年1月と9月に、牧会経験のある二つの教会の創立記念礼拝の説教を頼まれました。その時、これが最後の私の説教になると思いますと言って、説教をしました。農伝でもおそらく私の説教する機会は、これが最後ではないかと思います。

そこで、最後にこれから牧師になられる農伝の学生の方々に、何を語ったらよいのかを思いめぐらし、やはりイエス・キリストの福音とは何かという、教職にとっても信徒にとっても、キリスト者として何を信じて生きているのか、その根源についてお話しすべきではないかと思いました。そのことを短い時間ですので、簡潔にお話しさせてもらいたいと思います。

最近出版された鈴木道也著『違いがありつつ、ひとつ~試論「十全のイエス・キリスト」へ』には、私の日本基督教団における戒規免職の背後には、信仰理解の相違があり、教団は神学的対話をしないで、私を免職にしたことは問題であると述べています。

信仰理解の相違とは、簡単に言えば、信仰告白のキリスト像とイエスの歴史的生の違いと言えます。教団の中で「信仰告白と教憲教規」を教会の基準にしている人たちは前者「信仰告白のキリスト像」に立つ人たちと言えます。聖餐を福音書の5,000人、4,000人の供食物語を一つの起源に考えて、「開かれた聖餐」をしている人たちは後者「イエスの歴史的生」を教会の基準にしていると言えます。私は、イエス・キリストの福音の根底には「イエスの歴史的生」があると思っています。

この相違は、キリスト者とは、教会とは、をどのように考えるかの違いにもなっています。

以下『イエスと出会う~福音書を読む~』という本からの引用になりますが、この本の著者はカトリックの人ですので、ちょっと違和感のあるところもありますが、その点お含みおきください。

「キリスト教徒のしるし」として、「十字架を身につけ、熱心に祈り、儀式(礼拝)に参列していれば、キリスト教徒と言えるだろうか」。この著者がこう問うているということは、そのように考えるキリスト教徒がいるということです。それに対してこの著者は、「そうではなく、人々を分け隔てなく迎え入れることがキリスト教徒であることの何よりのしるしとなる。様々な価値観を受け入れ、国籍が違っても互いに尊重しあい、一人ひとりを大切にし、共につくりあげていく喜びをわかちあおうとするのが、キリスト教徒だ。『ここでは敵とも言葉を交わしている。これがイエスの友達のしるしだ!』と人々は言うであろう」と述べています。

前者は「礼拝共同体」としての教会、後者は「交わりとしての教会共同体」と言えるかと思います。この本の著者は、後者「「交わりとしての教会共同体」を「イエスの友達」とか「イエスのチーム」と呼んでいます。

そしてこの本の「山上の説教」の解説では、「イエスの友達」「イエスのチーム」であるキリスト者はこの世の中に「幸せをもたらす人々」であると言うのです。「山上の説教」の解説では「幸せ」「幸せをさまたげる」「幸せをもたらす人々」と、三つのテーマについて短く記されています。

それを読ませてもらいます。

「幸せ」

毎日ご飯が食べられ、住む家があり、生きていくのに必要なだけのお金があって、自分の場所と呼べるところがあるとき幸せだ。つらいときに慰めが得られ、喜びを味わうことができ、正義が保証されているとき幸せだ。愛する人、愛してくれる人、惜しみなく与える人、信頼できる人に囲まれているとき幸せだ。また爆弾や戦車が存在しない平和な世界で子供を育て、なにかを生み出して行くことができるとき、自由に考え、行動し、発言できる権利があるとき、幸せだ。そして、追われたり、軽蔑されることなく神を信じ、神を知ることができるとき、それから……まだまだある。これらの幸せを、神はすべての人にお望みになっている。

「幸せをさまたげる」

地球上に貧しい人はたくさんいる。国全体が貧しいこともある。食料がなく、耕す土地もなく、仕事もなければ、利用できる資源もない。彼らは、多くの場合、周囲から、そのまま放っておかれている。富のある人は、ときに、自分の財産を楽しんだり、増やすことばかり考えていて、なにももたない人の犠牲のうえに今の生活が成り立っているということをまったく考えない。貧しさが原因でどれだけ不幸が生み出されていることだろう。信仰や思想が理由で、あるいは単に国の指導者たちにとって不都合な存在だったりするがために、迫害されている人は大勢いる。暴力による犠牲者の数も多い。戦争や国外追放、反乱、家宅侵入、離散した家族。人が人の幸せを破壊することもよくある。他人が幸せになるのがゆるせなかったり、すべてを独占しないと気のすまない人たちによる行為だ。

「幸せをもたらす人々」

他者に心を開いている人は、地球上のどこにいても、神が人々に望まれる幸せを実現しようと立ち上がる。腕を組んでただ待っているようなことはしない。平和をもたらし、正義を実践し、一人ひとりの尊厳を大切にし、良心に耳を傾け、誠実な行動をとり、飢餓と戦い、人々の権利を守り、喜びを富に見いださず、互いに大切にしあう世界をつくろうとする。彼らは、“幸い”な人々だ。“幸い”なとき、神への愛とイエスへの信仰を実践している。

ザカリヤの預言の中にも、マリアから生まれるイエスは、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」と言われています。また「マリアの賛歌」では「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えている人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1:51-53)と言われています。

そういうイエスの歴史的生が福音なのです。私は、「イエスの歴史的生」を排除して、頑なに「信仰告白と教憲教規」を主張する教会は、戦時下教団の教会のように戦争協力に巻き込まれるように思えてなりません。

最後に、この農伝を卒業して牧師になって、みなさんが遣わされる教会は多かれ少なかれ「信仰告白のキリスト像」の優位な教会が多いと思います。「イエスの歴史的生」を大切にしようとしても、すんなりとそれを共有してくれる教会は少ないと思います。ですから、既成の教会に遣わされても、根気強く開拓伝道をするつもりで働いてもらいたいと思います。一人でも二人でも時間をかけて忍耐強く理解者になってもらう努力をしながら、「イエスの友達」「イエスのチーム」としての教会共同体を「礼拝共同体」と共に建てていっていただきたいと思います。

主がそのようにみなさんを導いて下さいますように!


祈ります。

神さま、今年も主の降誕を喜ぶ時が近づいています。

あなたがこの世に遣わされたナザレのイエスが生きられたその生涯の中に

私たちすべてに対するあなたの贈物があることを信じます。

どうか私たち一人一人を、そのあなたの贈物によって、全ての

人と共に生きる道を歩ませて下さい。

主の名によってお祈りいたします。   アーメン。

2024年11月23日土曜日

神の計画の確かさ

愛恵まちづくり記念館(東京都足立区関原1-21-9)

(※以下は、当教会と歴史的に深い関係にある「愛恵学園」(1930-1990)の関係者の集い(2024年11月23日、愛恵まちづくり記念館にて開催)の開会礼拝での説教(要旨)です)


説教「神の計画の確かさ」

ローマの信徒への手紙8章26~30節

関口 康

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)

開会礼拝のために選ばせていただきました聖書の箇所は、使徒パウロのローマの信徒への手紙8章26節から30節までです。

「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)。

この「霊」は聖霊です。西暦1世紀に「三位一体」という言葉はありませんでした。しかし、西暦1世紀には「聖霊」はまだ神ではなかったということではありません。26節の意味は、「神が弱いわたしたちを助けてくださる」ということです。

そして「わたしたち」は人間です。パウロによると、わたしたち人間の弱さは「どう祈るべきかを知らない」ことにあります。しかしこれは、人間は祈る言葉を全く知らないとか、祈ることは不可能であるとか、祈りは無意味であるということではありません。

そのようなことよりも、「言葉がない」という日本語表現のほうに近いです。私も牧師の末席を汚しています。教会員のご家族の不幸。教会員ご自身の事故や病気。大規模な自然災害。人為的な犯罪や破壊行為。そして戦争。何か言わなければ、言葉にしなければ、と思いながら「言葉がない」。祈る言葉も見つからない。神に何を言えばいいか分からない。

そのようなとき「霊(なる神)がわたしたちを助けてくださる」とパウロは言います。しかし、そのとき神は「あなた、どうせ何も言えないんでしょ。それなら黙っていなさいよ。私が代わりにしゃべってあげるわよ」という調子で、神ひとりが饒舌にお語りになるわけではありません。むしろ神も沈黙されます。なぜでしょうか。

わたしたちが「言葉がない」とうつむくのは、傷つき苦しむ当事者のことを「知っているふりをしたくない」からでしょう。その人に苦しみの意味を説明してあげて、解決方法まで教えてあげれば事が足りるなどとはとても思えないから「言葉がない」わけでしょう。

神はそのようなわたしたちの気持ちに寄り添ってくださる仕方で沈黙なさるのです。わたしたちと一緒にうめいてくださるのです。神もまた「知っているふり」をなさらないのです。説明もなさいません。

この「わたしたちはどう祈るべきかを知らない」(26節)について、16世紀のドイツの宗教改革者マルティン・ルターが『ローマ書講義』(1515年 / 1516年)で次のように解説しています(松尾喜代司訳。英語版はAmerican Edition)。

「たとい、一見われわれの祈願に反することが生じても、それは決して悪いしるしではなく、むしろ最もよいしるしである。それは、われわれの祈願に対して、すべてが全くねがいどおりに与えられたならば、決してよいしるしではないのと同様である」

“It is not a bad sign, but a very good one, if things seem to turn out contrary to our request. Just as it is not a good sign if everything turns out favorably for our request.”

その意味は、「神の計画とご意志は人間の計画と意志をはるかに超えたものである」ということです。ルターは次のように続けています。

「神は、その賜物を賜う前に、まずわれわれのうちに有るものを破砕し・撃滅するのが神の性質である」

“It is the nature of God first to destroy and tear down whatever is in us before He gives us His good things.”

ルターの言うとおりです。もしすべてがわたしたちの祈りどおり、わたしたちのリクエストどおりになるというなら、その祈りは魔法使いの魔法杖です。その杖を振れば、どんな夢でも叶えられる。

ルターによると、わたしたちのリクエストどおりになることはバッドサインであり、リクエストどおりにならないほうがベリーグッドサインであり、そもそも祈る前にわたしたちが抱いているリクエストそのものを神はデストロイなさるというわけです。

ルターはずいぶん激しいことを言います。しかし、説得力があります。

それでパウロは言います。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。

ここで「わたしたちは知っています」とパウロが書いていることの意味は、ユダヤ教の伝統や初期キリスト教の教えと合致しているということです。だれでも知っている普遍的真理であるとか一般論ではありません。パウロはあくまで「神を愛する者たち」に語りかけています。

しかも、前後の文脈を考えれば、パウロが言う「万事が益となる」の「万事」の内容の大半は「苦しみ」です。「言葉がない」と音を上げるほどの苦しみの日々が、パウロの言う「万事」です。世の中で、社会の中で、人生そのものの中で、「楽しい」と感じることはほとんどなく、「苦しいことだらけだ」と絶望しかけている信仰者にとっての「万事」です。

しかし、その苦しみもまた、いや、その苦しみこそをわたしたちの「益」にしてくださるのが、わたしたちの神であり、神の計画である、ということをパウロが記しています。

「お前が言うな」と、どうかお怒りにならないでください。大先輩の皆さまはきっと、「パウロの言うとおりだ」と受けとめてくださると思います。

「日本の教会がピンチである」と多くの人が嘆きます。そういう言葉をよく聞くでしょう。しかし、私は全く同意できません。

ルターの言うとおりです。わたしたちのリクエストどおりにならないことのほうがベリーグッドサインです。「日本の教会がピンチである」と言う人たちは、自分のリクエスト通りにならないことに苛立っているだけです。わたしたちのリクエストは神がデストロイなさるのです。

しかし、気を付けなくてはならないことがあります。26節に戻りますが、「霊が弱いわたしたちを助けてくださる」と言われている場合の、神がわたしたちを助けてくださる方法は、《神が100%働いてくださって、人間の働きは0%になる》のではありません。

「言葉が無い」だの「どう祈るべきかを知らない」だのと言い訳ばかりして役に立たない人間はクビにして「お前はもう黙っていろ。何もするな。わたしが全部するから見ているだけでいい。わたしの邪魔をするな」と、人間の代わりに神がすべてしてくださるわけではありません。

あるいはまた、《人間が99%働いて、神が1%付け加えてくださる》というのでもありません。

教団とか教派とかの文脈に身を置くと、イヤな話を繰り返し耳にします。「自立できないような小さな教会を維持したがるのは人間の願望にすぎない。そういう教会は解散するほうが神の御心である。一般企業と同じように、教会においても『選択と集中』を推し進めるべきである」などと言い出す人たちがいます。ひどいと思いませんか。

私は足立梅田教会に来させていただいたことを幸せに思っています。皆さん「やる気満々」ですから。わたしたちの神は「やる気満々」の人々を見捨てる神でしょうか。そんなことありえないですよ。

「聖霊なる神」が弱いわたしたちを助けてくださる方法は《神100%、人間100%》です。どんなことがあっても心が折れず、希望を捨てない人々を、神は決して見捨てません。

今日お集まりの皆さんの教会も同じです。「小さな教会を畳むことが神の御心である」などと、どうかおっしゃらないでください。心が折れそうなときは足立梅田教会を思い出してください。私もぜひ、皆様のお仲間に加えていただきたくお願いいたします。

(2024年11月23日 野比の会(愛恵学園の会)開会礼拝、於 愛恵まちづくり記念館)

2024年11月17日日曜日

敵を愛しなさい

 

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「敵を愛しなさい」

マタイによる福音書5章38~48節

関口 康

「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(44節)

今日の箇所は主イエスの「山上の説教」に含まれる言葉です。「山上の説教」はマタイ福音書の5章から7章までにあります。

「山上の」を付けるのは、マタイ福音書5章1節に「イエスはこの群衆を見て山に登られた」と書かれているからです。ルカ福音書6章20節以下に平行記事がありますが、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らなところにお立ちになった」(ルカ6章17節)と書かれているので、マタイと内容は重複していますが「地上の説教」や「平地の説教」と呼ばれて区別されます。

今日の箇所に「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」(38節)とあります。この言葉は旧約聖書(ユダヤ教聖書の『トーラー(律法)』)に3か所あります(出エジプト記21章24節、レビ記24章20節、申命記19章21節)。

これは「同害報復(talio タリオ)」と呼ばれる法思想です。「同害報復」について詳しく論じられているのは、加藤恵司氏の「同害報復の法思想」という論文です(2009年、聖学院大学論叢22(1)、ウェブ版、1-18頁を参照)。

同様の規定が「ハムラビ法典」に出てくることは比較的よく知られています。「ハムラビ法典」とは、前1800年から前1700年頃、バビロン第一王朝6代目の王の時代にアッカド語で書かれたもので、「古代シュメール法」の影響を受けています。

「古代シュメール法」とは、20世紀になって徐々に発掘され、解読されて来た3文書の総称です。3文書とは「ウル・ナンム法書」(前2100年頃)、「リピト・イシュタール法書」(前1900年代初頭)、「エシュヌンナ法書」(前1920年代説とハムラビ法典に近い時期説あり)を指します。

加藤氏によれば、古代シュメール法には同害報復の思想を見出すことができず、ハムラビ法典と古代イスラエル法の「同害報復刑」は古代における新しい思想です。

そして加藤氏によれば、「同害報復」は第一に「犯罪に対する平等の思想」、第二に「人権尊重の思想」、第三に「正義の思想」であると特徴づけることができます(前掲書、15~16頁)。

私はこの説に同意します。同害報復の趣旨が、行き過ぎた私的復讐(プライベートリベンジ)の禁止であることは明白だからです。

たとえば創世記4章24節でカインの子孫のレメクが「カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍」と言っています。半沢直樹の「倍返し」どころではありません。復讐しないかぎり事態が収拾しないというなら、「倍返し」でも「77倍返し」でもなく、「されたことをする」だけにしなさいというのが「同害報復」の基本思想です。

「目には目を、歯には歯を」の意味は「目に物見せてやる」の正反対です。被害者が加害者への怒りに燃えて復讐の鬼になるのを抑えること、すなわち復讐の限定と抑制を意味します。

しかし、主イエスは、同害報復(タリオ)についてのそのような解釈の問題には巻き込まれません。みんなの頭上をひょいと飛び越えて「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(39節)とおっしゃいます。主イエスによると、悪人には一切抵抗してはいけないのです。

この主イエスの言葉にいろんな解釈があります。最も安易なトリックだと私には思えてならない解釈は、「この教えを守ることは人間には不可能なのであります。わたしたちの復讐心を抑えることは絶対にできません。この教えを決して守ることができない罪深いこのわたしたちのために、主イエスは十字架にかかって死んでくださったのであります。アーメン」というものです。

今やや早口でからかうような言い方をしてすみません。しかし私の正直な気持ちです。そのようなことを主イエスは教えられたでしょうか。はなからだれにも守らせる気のない言いつけをする主イエスの存在を想定しなくてはならないでしょうか。私には受け入れることができません。

わたしたちも、主イエスが「~しなさい」とか「~してはならない」とおっしゃっていることを、はなから無視するのではなく、従おうとするほうがいいです。

主イエスの教えを守るという線から導き出される「悪人に手向かってはならない」の意味は「悪は悪である。あなたまでも悪人と同じ姿になって同じことをしてはならない」ということです。これは私の自説を唱えているのではなく、こういう解釈があるのをご紹介しています。

「敵を愛しなさい」(44節)も同じ理屈です。「敵は敵である」ということです。神の義の基準は変更されません。黒いものを白いと言い張り、天地を逆転させ、悪が悪ではないかのように、敵が敵ではないかのようにすり替えて誤魔化すことと主イエスの教えを混同してはいけません。

そして大事なことは、復讐心の本質としての怒りや憎しみのコントロールの問題です。怒りに任せ、復讐心に燃えて、暴れ回って相手を攻撃しているときの自分の姿を鏡に映して見てごらんなさい、相手と同じではないですか、そんなふうに成り下がってはいけません、ということです。

「下着と上着」(40節)や「1ミリオンと2ミリオン」(44節)の話は当時のユダヤの社会状況とのかかわりがあります。

この「上着」は外套(マント)です。「下着」は借金の担保にとられる可能性がありましたが、貧困生活者の寝床になる「上着」(外套)を担保として取ることは禁止されていました。しかし、主イエスは、上着を求める人にはプレゼントすればよいと教えます。自分の権利を主張するよりも、だれかのために自分の外套を脱ぐほうが、人間関係の新しい可能性が広がるでしょう。

「ミリオン」は約1480メートルです。「行くように強いる」(41節)は強制労働です。想像できる状況は、強制労働者はひとりではないということです。同じ立場の人が大勢います。そうであるときに、「私は1ミリオンも強制的に歩かされた」と恨むのか、それとも「私は仕事仲間と一緒に2ミリオンも歩くことができた」と感謝するのかで、大きな差があるでしょう。

行き詰まった状況を打破し、硬直した人間関係を緩めるために必要なのは、個人的な取り組みです。この箇所の主イエスの教えに基づいて、国の法律や行政の条例や団体のルールを作ることは不可能です。また、そうする意味はありません。

主イエスがなさっているのは、個人レベルの話です。集団や団体でできないことを、個人がするのです。団体は法とルールに縛られています。個人は団体より自由で楽しいです。

教会も例外ではありません。今日の箇所の教えも、「山上の説教」全体も、これを団体としての教会のルールにすることはできません。

「あなたは右の頬を打たれたときに左の頬を向けませんでした。あなたはイエスの教えに反していますので、あなたを真のキリスト者であると認めることができません」などと排除の論理に悪用してはいけません。主イエスの教えは他人を切り裂く刃物ではありません。

「敵を愛しなさい」という教えは、わたしたちの人生に新しい可能性を与えます。

「どう生きることがカッコいいか」という問題は無関係かもしれませんが、関係あるかもしれません。

(2024年11月17日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2024年11月14日木曜日

教会学校のお知らせ

 

「教会学校のお知らせ」

すっかり秋ですね!朝夕は寒いと感じます。皆さんの健康と勉強の日々が守られますように、お祈りしています。

11月24日(日)、教会の「収穫感謝日」の午前9時より、子ども向けの「教会学校」を行います! 

聖書のお話、讃美歌、お祈り、おやつ、ゲームがあります。ぜひ出席してください。歓迎します!

日本キリスト教団 足立梅田教会

〒123-0851 足立区梅田5-28-9 TEL 03-3887-4010

adachiumedachurch@gmail.com    www.adachiumeda.church