2025年7月15日火曜日

イエスとピラト

日本基督教団富士見町教会(東京都千代田区富士見町2-10-1)

釈義「イエスとピラト」

ヨハネによる福音書19章1~7節

日本基督教団東京教区東支区教師会での発題

関口 康

(1節)この直前までピラトはイエスについて「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(Ἐγὼ οὐδεμίαν εὑρίσκω ἐν αὐτῷ αἰτίαν. 18章38節b)と言っていますが、イエスを捕らえて兵士たちに鞭で打たせました。

それはイエスを釈放するためのピラトの戦略でした。鞭打ち刑は十字架刑の代案(alternative)でした。十字架刑に付随するもの(accompaniment)ではありませんでした(G. R. Beasley-Murray, John, WBC, 1987, p.334)。

しかし、この鞭打ちが致命的なダメージを及ぼした可能性があります。

ローマの鞭打ち刑には3種類の拷問具がありました。①自由民(freemen)に対しては数本を束にした木製の笞(sticks)、②軍隊内では棍棒(rods)、③奴隷に対しては多くの釘(spikes)を先端に付けた皮の鞭(scourges)、または多くの骨片や鉛玉を鎖状につないだ鞭(whips)が使われました。イエスの鞭打ち刑は③でした。

ローマ法はユダヤ法と異なり、鞭打ち回数の最高限度がありませんでした。鞭打ち刑だけで(内臓や骨が飛び出して)死亡する例がしばしばありました(ブリンツラー『イエスの裁判』大貫隆、善野碩之助訳、新教出版社、1988年、332~333頁参照)。

鞭打ちの苦しみが、イエスが処刑場まで十字架を担ぐことができず、十字架刑後すぐに亡くなった理由であると主張する米国医師会雑誌(JAMA)255号(1986年)の記事があるそうです(Beasley-Murray, ibid., p. 336)。

(2~3節)「兵士たち」はローマ軍の異邦人です。ユダヤ人と違い、イエスは憎しみの対象ではなかったはずです。その彼らがしたのが「茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来て、『ユダヤ人の王、万歳』と言って平手で打つ」ことでした。

これは「悪ふざけ」「ごっこ遊び」「ジョーク」「パロディ」「パントマイム」であろうと複数の註解者が記しています。動機は不明ですが、考えうる可能性は軍隊生活のうさ晴らしです。

彼らはイエスをローマ皇帝に模した姿にしました。「茨の冠」は月桂冠のパロディでしょう。容易に入手できたナツメヤシ(palm)の大きなトゲで作られたと考えられています(Beasley-Murray, ibid.)。

「紫の服」も皇帝の正装のパロディでしょう。マタイ27章28節は「赤い外套」、マルコ15章20節は「紫の服」、ルカ23章11節は「派手な衣」です。元々は赤い一般軍人のマントが(血や泥で?)紫へと変色したものをイエスに着せたのではないでしょうか。

イエスをこの姿にしたうえでローマ式敬礼をし、平手で打ったのですから、彼らの恨みの真の対象はローマ皇帝だったと言えないでしょうか。

(4節)「ピラトはまた出て来て」は、イエスが侮辱されている間、ピラトがユダヤ人の前から身を隠していた可能性を示唆しています。芝居かもしれません。再び出て来て、「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」と言いました。

(5~7節)ブルトマンによると、「ピラトの目的はイエスの存在(Person)をユダヤ人に滑稽で無害なもの(lächerlich und harmlos) に見せることで彼らに告発を取り下げさせることであり、そのためにイエスが王の戯画(Karrikatur)として現れ、ピラトが『それがこの人だ!この哀れな姿を見よ!』(Ἰδοὺ ὁ ἄνθρωπος; ecce homo; Das ist der Mensch! Da seht die Jammergestalt!)と紹介しなくてはなりませんでした。

この逆説(Paradoxie)が、福音書記者の心の中で壮大な絵となり、『言は肉となった』〔1章14節〕が究極の結末において可視化されました」('Das ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο ist in seiner extremsten Konsequenz sichtbar geworden'. R. Bultmann, Das Evangelium des Johannes, 1941, 1962 (17. Aufl.), S.510)。

(2025年7月15日、日本基督教団東京教区東支区教師会、日本基督教団富士見町教会)

2025年7月13日日曜日

空の鳥を見なさい

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「空の鳥を見なさい」

マタイによる福音書 6章25~34節

関口 康

「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)

先週まで10週連続で「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」を行いました。教理説教には、2千年の教会の物語としての側面があります。そろそろイエスさまにご登場いただきたいです。今日は主イエスの「山上の説教」の一節を取り上げます。

説教原稿をブログで公開すると、各記事のアクセス数が分かります。教理説教の「教会論」の回のアクセス数が一向に増えません。最も多いのが「贖罪論」で、次が「三位一体論」。キリスト教についての関心はあることが分かります。しかし、「教会」は人気がありません。汚名を返上したいです。私が生きている間は無理かもしれません。

今日の箇所の中心聖句は「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)です。核心は「思い悩むな」です。そして、そのための解決策として主イエスが教えておられることが、今日の説教題の「空の鳥を見なさい」です。新共同訳聖書どおりだと「空の鳥を〝よく〟見なさい」です。

私の話ですみません。私は今、牧師館でひとり暮らしをしています。基本的に自炊です。外食やコンビニ食に頼る日もありますが、そればかりだと生活が成り立ちません。自炊は錬金術なので、工夫次第でどうにでもなります。教会の皆さんの献金だけで生活を支えていただいている身です。不満を言いたいのではありません。しかし、余裕があるとは言えません。

そういう私でも、衣食住について「思い悩むな」と言われると考え込んでしまいます。「自炊は錬金術です」だとか言えるのは、ひとり暮らしだからです。「もうどうなってもいいや」と思っているからです。扶養すべき家族がいる方や、自分が経営している、または勤務している学校や施設やNPO等で食事を提供する立場にいる方は反発するでしょう。いくらなんでも無責任すぎるでしょう。

しかし、ここで言われている「思い悩む」(μεριμνᾶω メリムナオー)とは、否定的な思考が恒常化し、肯定的な思考の余地を失っている状態です。悪い結末しかありえないような未来予想の証拠ばかりがあふれるほどあって、否定的な情報でメモリがいっぱいでフリーズしている状態、と言えば伝わるでしょうか。

そういうとき、主イエスは「空の鳥をよく見なさい」(26節a)とおっしゃいます。ただ「見る」だけでなく「よく見る」(ἐμβλέπω エンブレポー)。その意味は「凝視する、観察する、考察する」です。鳥をよく見ると何が分かるのかというと、「鳥は種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」のに「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(26節b)という事実です。

しかも、ここでマタイが記しているのは一般的な「鳥(とり)」ですが、ルカの並行記事(12章24節)には「烏(からす)」と記されています(*J. M. ロビンソンのQ資料研究書『イエスの福音』(加山久夫、中野実訳、新教出版社、2020年、92頁)でも「烏(からす)」です)。

加えて、ルカが用いている言葉は、普通のカラス(crow クロウ)ではなくワタリガラス(raven レイヴン)です。

カラス(crow)はゴミ置き場荒らしをするので現代人には嫌われがちです。ワタリガラス(raven)はユダヤ人にとって汚れた動物です(レビ記11章15節、申命記14章14節)。マタイによる福音書がユダヤ教徒とユダヤ人キリスト者に向けて書かれたため、普通のカラス(crow)にしているという解説があります。

可能性の高さを比較すると、主イエスが「よく見ること」を勧めておられる鳥(とり)は、おそらくワタリガラス(raven)です。

「野の花」(28a節)についても「注意して見る」ことが勧められています。この「花」はユリ(lily)を意味する言葉ですが、「野の」(野生の)が付いているので、雑草化しているものです。

それを見ると何が分かるかというと、「野の花」は「働きもせず、紡ぎもしない」のに美しく、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」(28b~29節)ことが分かるというわけです。

主イエスが勧めておられるのは、好きなもの、自分の側にいると思えるもの、味方してくれそうな相手ではなく、自分が苦手なもの、多くの人から嫌われているもの、踏みつけられたり軽んじられたりしている側のものを見てごらん、ということです。

そちらの存在にも神の創造のみわざが働き、大空を自由に羽ばたいたり、美しく咲きほこったりしているのだから、あなたがたも同じだし、それ以上に神がなんとかしてくださるので、希望をもって生きて行こうではないか、という励ましの言葉です。

素直な気持ちになれないときにこの言葉を読むと、鳥や花と比較されて、あの子たちより人間はましだろうと言われてもちっともうれしくないし、そもそも比較の対象がおかしいと、反発しか感じないかもしれません。

しかし、目の前が真っ暗になるような絶望的な状況の中で、それまでと同じことを繰り返すのではなく、視点や見るものや見方を変えてみることが打開策になることはありうるでしょう。

そして、目指すべき目標は「何よりもまず、神の国と神の義を求めること」であると主イエスは言われます。「そうすれば他のものは(おまけのように)ついてくる」と。

ご参考までに、33節の英訳を3種類並べます。

King James Version (1611)

But seek ye first the kingdom of God, and his righteousness; and all these things shall be added unto you.

Revised Standard Version (1952)

But seek first his kingdom and his righteousness, and all these things shall be yours as well.

Revised English Bible (1989)

Set your mind on God’s kingdom and his justice before everything else, and all the rest will come to you as well.


もっと新しい訳がありそうですが、1989年のREBの「セット・ユア・マインド」という訳には現代的な印象があります。「マインドセット」は、近年のビジネス用語としてよく見かけます。文字通りマインドをセットすることです。心の置き場をカチッと決めることです。

思い悩んでいるときであっても、なんらかの目標が定まれば、心が落ち着き、未来予想の解像度が上がり、不安や恐怖が和らぎます。

私がいま、この話をどういう顔で申し上げているかをお見せしたいです。あきらめ顔でしょうか、おどし顔でしょうか、解放の喜びを味わっている顔でしょうか。

日曜日の礼拝に来ていただきたいのは、文字や動画では伝えきれない「におい」のようなものがあるからです。教会の私たちは、たくさん失敗を重ね、今も思い悩みながら、主イエスに従って生きています。ぜひ教会に来ていただきたいです。

(2025年7月13日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年7月6日日曜日

信仰・希望・愛

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「信仰・希望・愛」

コリントの信徒への手紙一13章8~13節

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教⑩(最終回)

関口 康

「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(13節)

「愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」(日本基督教団信仰告白)

「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」は今日で最終回です。

厳密に言えば、使徒信条は日本基督教団信仰告白に含まれます。間髪入れず「使徒信条に基づく教理説教」を始めることも考えました。しかし、いったん休止します。

そもそも教理説教というスタイルに馴染みがない方は、同じ調子の説教が続くとお疲れになるでしょう。マンネリ化は逆効果です。

日本基督教団信仰告白の今日の箇所は「愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」です。最後に厳しいことを言います。皆さんにではなく、教団に言いたいことです。

日本基督教団信仰告白は、『日本基督教団教憲教規および諸規則』という冊子の中に印刷されています。表紙をめくると、タイトル、目次。本文の最初に「信仰告白」、次に「教憲」全12条。そして「生活綱領」「日本基督教団成立の沿革」「教規」の順に印刷されています。

日本基督教団事務局編
『日本基督教団教憲教規および諸規則』

なぜ印刷の話をするのかといえば、「信仰告白」と「教憲」が外見上区別されていることを確認したいからです。それは信仰告白が教憲の中に含まれるかどうかについて議論の余地があることを意味しています。

(1)日本基督教団教憲の第1条に「本教団はイエス・キリストを首(かしら)と仰ぐ公同教会であって、本教団の定める信仰告白を奉じ、教憲および教規の定めるところにしたがって、主の体たる公同教会の権能を行使し、その存立の使命を達成することをもって本旨とする」と記されています。この線に沿うとしたら、信仰告白と教憲は別ものです。

(2)しかし、たとえば外国教会の規則を翻訳して用いることから出発した日本キリスト改革派教会は「教会の憲法(*「教憲」と同義)は信仰規準・教会規程の二部から成る。信仰規準は日本キリスト改革派教会信仰規準の前文を付したウェストミンスター信仰告白・大教理問答書・小教理問答書から成る」と規定しています。この立場に立てば、信仰告白は教憲です。

「憲法」と聞くと「日本国憲法」を思い浮かべる方が多いでしょう。憲法改正の議論の中で繰り返し聞くのは、「憲法は権力者の側を縛るものであり、権力を制限することによって国民の権利を保障するためにある」という主張です。私はもちろん、そのとおりだと思っています。

同じことが日本基督教団の教憲にも当てはまります。「信仰告白は教憲と同等の権威を有する」という理解をもし日本基督教団が否定しないとすれば、信仰告白が制限しているのは教団執行部の権限です。信仰告白に最も拘束されるべきは教団執行部です。

私がいま申し上げたことを踏まえていただいたうえで日本基督教団信仰告白の今日の箇所をご覧になると、「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む」という一文の主語である「教会」の第一義は「日本基督教団」でなければならないことがお分かりになるでしょう。

ここから先が、今日の問題です。

「日本基督教団が愛のわざに励む」とは、具体的に何を意味するのでしょうか。日本基督教団はどのような「愛のわざ」に励んでいるでしょうか。

私が知っている1960年代から90年代前半までの日本基督教団は、社会活動の面で今よりはるかに熱心で活発でした。しかしその後、日本基督教団は社会活動関連の委員会や組織をあからさまに解体したり縮小したりしはじめました。

それとも「愛のわざに励みつつ」だけは別扱いなのでしょうか。「愛のわざはあくまで個人的なものです」とか「それは各個教会の取り組みであって教団単位ですることではありません」とか言って、個人や各個教会に責任をなすりつけたいのでしょうか。

「愛のわざに励まない日本基督教団」だとしたら信仰告白違反です。

「教憲」の前文に「信仰告白」の文章を書き写したような内容が記されています。「この教会は(中略)代々主の恩寵と真理とを継承して、福音を宣べ伝え、聖礼典を守って、主の来たりたもうことを待ち望み、その聖旨をなし遂げることを志すものである」とあります。

「愛のわざに励みつつ」は、無意識か意識的かは分かりませんが、なぜか除外されています。

日本基督教団信仰告白の中に「愛のわざに励みつつ」という一文を加えたのがどなたなのかを私は知りませんが、とても素晴らしい仕事をなさったと絶賛したいです。

この一文を日本基督教団がどのように定義しているかを調べるために、1959年改訂版の日本基督教団信仰職制委員会編『日本基督教団信仰問答』を確認しました。

日本基督教団信仰職制委員会編
『日本基督教団信仰問答』(1959年改訂版)

「愛」という字がかろうじて見つかる説明は、問39「教会とは何であるか」の答えの中の「教会は(中略)共に礼拝を守り、互に愛の交わりをなすべきものである」だけでした。

「(教会内の)愛の交わり」と「(教会の)愛のわざ」(公式英語版 works of love)は、明らかに別の概念です。『日本基督教団信仰問答』(1959年改訂版)は日本基督教団信仰告白の「愛のわざに励みつつ」については説明していません。

教会が励むべき「愛のわざ」とは、教会の内から外へと向かう方向性を持つ、信仰のあるなしにかかわらず広く人類において共有されうる愛に基づく社会貢献のことです。

私は昨年3月の足立梅田教会への赴任以来、副業先を見つけることができていません。教会から世の中へと出ていく方向の「愛のわざ」について体験的に語る資格は今の私にはありません。

しかし、その働きがあるときにこそ不思議な出会いがあることを、2018年度の1年間アマゾンの倉庫で肉体労働をしたときにも、2019年度からの5年間学校で非常勤講師をしていたときにも、体験しました。

教会に来てくれそうな人を探して勧誘するために働いたわけではありません。そういうのはすぐに見抜かれるでしょう。職場での私の態度や働きを見て信頼してくださった方々が友達になり、結果的に教会にも来てくれました。いまだに連絡関係があります。

私たちは、夫婦や親子の中に信仰を持つ者と信仰を持たない者がいる場合、おこづかいの金額やごはんの盛りつけなどで差別するでしょうか。

私たちは、会社や学校や社会の中で教会に来てくれそうな人とだけ友達になり、そうでなさそうな人とは友達にならない、というようなことをするでしょうか。

そういうのをカルト宗教というのです。もし仮にそのようなことをした場合、それがどのような悪い結果を生み出すかを、私たちは知っているはずです。

今日の聖書箇所で使徒パウロが「信仰・希望・愛」の3つを並べて、この中の「最大」は「愛」であると書いています(13節)。

このときパウロは「信仰よりも希望よりも愛が大切である」と比較級で考えていなかったと言い切れるでしょうか。教会の中で「信仰よりも大事なものがある」と言い出すことには勇気が必要です。パウロはそのことを大胆に言っています。

「(教会が)愛のわざに励む」とは、教会自身が教会の外部の人々に対する活動へと献身することです。しかし、日本基督教団の「教憲」も「信仰問答」も、このことから腰が引けているようにしか見えません。日本基督教団の最初期から「愛のわざに励むこと」に消極的な人々がいたのかもしれないと思えてきます。

日本基督教団の最近の執行部に近い人たちの文章を読むと、「ヒューマニズム」を敵視する言葉がやたら目立ちます。ヒューマニズムは「人間中心主義」なので「神中心主義」であるべき我々としては受け容れることができない、というような単純な三段論法でヒューマニズムを否定するようなことを言ったり書いたりします。この場合のヒューマニズムは博愛主義の意味です。

はたして、ヒューマニズムはキリスト教の敵でしょうか。私はそうは思いません。丸腰の一個人としてのキリスト者が日常生活を営むために、すべての人と良好な関係を築くことができる有効な土台はヒューマニズムです。

(2025年7月6日、日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

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