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| 前列右から 3 人目が藤村靖一牧師(初代・第 3 代牧師) 後列左から 2 人目が北村慈郎牧師(第 2 代牧師) |
説教「思いを一つに」
ローマの信徒への手紙12章 9 ~21節
足立梅田教会創立73周年記念礼拝
関口 康
「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってはなりません」(16節)
今日は当教会の創立73周年記念礼拝です。おめでとうございます。
しかし、そのお祝いの日に水をかけたいわけではありませんが、「73」はキリが悪い数字です。たぶんそうだろうと予測してAIジェミニに確認してもらったら、「あなたのおっしゃるとおり、73は素数です」と返してくれました。
素数とは「 1 とそれ自体の数以外では割り切れない数字」です。孤立している感じがあります。73周年で満足できるでしょうか。キリの良い80周年、90周年、100周年を目指したいでしょう。「75でもいいか」と思うかどうかは考え方次第です。
今日の説教題にこだわりはありません。「愛」のほうがふさわしいかもしれません。今日の箇所は最初から最後まで「愛とは何か」を教えています。しかし「愛」を言い出せば、毎週の説教題が「愛」です。「愛」という言葉は、聖書の中に数え切れないほど登場します。すべての教えの土台が「愛」です。
しかし「愛」の意味の説明は容易ではありません。愛し合う前に「愛の定義」を知りたがる男女のようです。「悪」と「善」の意味も同様です。しかし、何かを語らなければなりません。「愛」について語ることは、教会創立73周年記念礼拝にふさわしいことです。なぜなら、今日の箇所に記されている「愛」は「キリスト者の実践」との関係において各自が行うべきことだからです。
ある程度の確かさをもって聖書的・キリスト教的な「愛」を定義するなら、それは他者の幸福と尊厳を思い、他者を喜び、自分を他者と分かち合おうと努めることです。また「神は愛です」。「愛」は神の本質です。そして「愛」は日常生活のあらゆる関係の土台です。
その愛に偽りがあってはなりません( 9 節、Ⅱコリント 6 章 6 節、Ⅰペトロ 1 章22節)。完璧な愛は求められていません。しかし、うそでないこと、大言壮語でないこと、誠実さ(ピスティス)は求められています。
ピスティスとは、自分が立てた誓いを自分で取り下げないこと、約束した自分を自分で裏切らないこと、です。
同時に聖書において「愛」の実践は「悪」との関係を考える機会になります。戦後のオランダで活躍した神学者レッケルケルカー(A. F. N. Lekkerkerker [1913-1972])が『ローマ書注解・下』(オランダ語版、1965年、118頁)に記したことによれば、戦時中ナチス・ドイツに蹂躙されていたオランダ人にとって「愛しなさい」という戒めは「ドイツ人を愛さなければならないこと」を意味するかどうかの問題でした。
レッケルケルカーは結論的に「彼らが福音に反する世界観の代表者かつ実行者であるかぎり、『悪を退けなさい』という戒めのほうに該当した」と述べています。
悪とは、存在を害し、生命を損ない、人に不幸と破滅をもたらし、道徳的に非難されるべきものであり、究極的には神の意志に反するものです。
パウロは、私たちが悪を憎むべきであることを教えています。「悪を退け」と訳されていますが、ギリシャ語の訳としては弱すぎます。神は創造物と人間をとても愛しておられるので、罪を憎み、悪を無くしたいと願っておられます。
10~13節は兄弟愛(フィラデルフィア)で始まり、もてなし(フィロクセニア)で終わります。どちらの言葉も、古代ギリシャ・ローマ文化の中で「慈善の実践」において重要な意味を持っていました。パウロは、同じ家族内の兄弟間の愛情を意味するフィラデルフィアを、教会員同士の関係に当てはめました。「もてなし」は、見知らぬ人や旅人に対して実践されるべき美徳ですが、この言葉もパウロは教会内の関係に当てはめています。
第二の勧告では、ある賜物を受けた者が自分を他人よりも優れていると考える誘惑に反対しています。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」(フィリピ 2 章 3 節)。しかも、愛は教会の外なる人々にも向けられるべきことを主張しています(14節)。キリスト者は教会の中だけでなく、世の中にも生きているからです。
教会員同士の家族のような関係は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くこと」(15節)を意味します。これは容易なことではありません。「喜ぶ者と共に喜ぶこと」は「泣く者と共に泣くこと」よりも難しいです。なぜなら人は、隣人の幸福、他人の喜びを見ると、嫉妬してしまうからです(A. A.ファン・ルーラー「喜びを人に分かつと喜びは二倍になる」(関口康訳はこちら)『使徒の権威において』、聖書黙想集、オランダ語版、1971年、118頁)。
「あらゆる喜びに共に喜ぶべきではない」と指摘する人(オリゲネス)もいます。商売が奇跡的に成功して莫大な資産を得て喜んでいる人と共に喜ばなくていいでしょう。この喜びは束の間のものだからです。同じように、隣人のあらゆる悲しみ、たとえば一時的に多額の財産を失った人の悲しみに付き合わなくていいでしょう。それも束の間のことです。簡単に割り切れないかもしれませんが、大事なことは、真の喜びと真の悲しみがどこにあるかを区別することです。
パウロは多くの箇所で教会に一致を促しています。「互いに思いを一つにし」(16節)は、先ほど引用したフィリピ 2 章 3 節と趣旨が同じです。この聖句は「謙遜な人々と交わる」という意味で理解すべきです。教会は「高い目標」、すなわち特別な賜物によって他の人よりも「上」を目指そうとする危険にさらされています。パウロは謙遜で小さな者の中に加わるよう勧めています。
パウロが17~19節に述べているのは主観的で感情的な「復讐」をすすめる言葉ではありません。主観的な「復讐」と、正当な罰としての客観的な「報復」を区別することは今日の箇所を正しく理解するために必要です。
パウロは、人が衝動に駆られて「復讐」を行うことを戒めています。その根拠として、神は悪に正当に報復し、犯罪者を罰する方であることを示しています。報復できるのは神のみです。神の罰としての「報復」は人間の「復讐」とは無関係です。
「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(20節。箴言25章21~22節)の意味は謎です。分かりません。敵への拷問でしょうか。それとも、愛によって悔い改めと回心へと導くことでしょうか。拷問のほうではないと思いたいです。
教会の存在理由と目標を知ることは、私たちが教会につらなる意義と価値を知ることにつながります。教会は「他者のために生きること」と「悪と戦うこと」のために存在します。「悪と戦う」とは「悪人を善人に変えること」です。それがいちばん難しいことです。その最も難しい課題に、教会は取り組んでいます。
キリの良い「80周年」までと言われるとつらいでしょう。まずは来年の「74周年」まで、みんな元気に過ごしましょう。一歩一歩、地味に地道に着実に歩みを進めていこうではありませんか。
(2026年 9 月13日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)
