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日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「宣教の開始」
マタイによる福音書4章12~17節
関口 康
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(15-16節)
今日の箇所には、主イエスがガリラヤで伝道をお始めになったことが記されています。
「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)と記されています。ヨハネが逮捕されたので怖くなってガリラヤの潜伏先に逃げ込んだという意味ではありません。正反対です。逃げるどころか、公然と宣教を開始されました。
ヨハネが捕らえられたことと主イエスがガリラヤに行かれたこととの関係は、ヨハネについて「捕らえられた」と訳されている言葉(ギリシア語:パラディドーミ)に表れています。礼拝でこの言葉を繰り返し聞くのは聖餐式です。「主イエスは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き…」(コリント一11章23節)の「引き渡される」が「捕らえられた」と同じパラディドーミです。
同じ言葉を用いることによって、著者マタイが、ヨハネの逮捕と主イエスの引き渡しを意図的に結び付けていると解説している註解書を読みました。主イエスの十字架に神の御心が働いていたように、ヨハネの逮捕にも、わたしたち人間には知りえない神の深い御心が働いているというのです。
そして主イエスは「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれ」ました(13節)。この箇所に「ゼブルンとナフタリ」という地名が記されていることが重要な意味を持っています。それは15節に引用されたイザヤ書8章23節で「ゼブルンの地とナフタリの地」が「異邦人のガリラヤ」と呼ばれていることと関係あります。
「ゼブルンとナフタリ」はガリラヤの東部地域を指します。そこが「異邦人のガリラヤ」となぜ呼ばれたかといえば、その地域がかつてエルサレム周辺とは別の国だった時代があるからです。それはイスラエル王国第3代国王ソロモンの子らの世代から始まる「南北王国時代」です。
新共同訳聖書の巻末付録「聖書地図」5をご覧になれば、北イスラエル王国と南ユダ王国の境界線が分かります。
南北分裂は前922年。サマリアが北王国の首都になったのが前9世紀ごろ(800年代)。
北王国がアッシリアのサルゴン2世に滅ぼされるのが前722年。
アッシリアをバビロニアが滅ぼすのが前609年初夏(山田重郎『アッシリア 人類最古の帝国』ちくま新書、2024年、309頁)。
バビロニアが南ユダ王国を滅ぼしたのが前597年です(各年号には諸説あります)。
イザヤ書8章23節を記したのは、前8世紀に活動した(第一)イザヤです。イザヤ書1章から39章までの著者です。このイザヤは「ガリラヤ」が北王国に属していた頃を経験的に知っています。
この時代の北王国の様子は列王記に記されています。「ガリラヤ」を含む北の歴代の王が、北の初代王ヤロブアム1世の名がついた「ヤロブアムの罪」と特に列王記が呼ぶ行為を続けた結果、モーセの律法の線を厳格に守る線から離れた、異邦人と大差ない生活様式で過ごすようになったと、保守的な人々の側から見えたようです。
イザヤが「異邦人のガリラヤ」と書いているのは、そのことです。エルサレム周辺に住む、神の戒めに忠実なユダヤ人からすると「異邦人のガリラヤ」は、軽蔑すべき対象でした。
「ヤロブアムの罪」とは、ヤロブアム1世が自国の求心力を生み出すためにベテルとダンに各1体「金の子牛」を置いて国民に礼拝させたこと、つまり偶像礼拝でした(列王記上12章参照)。
「ヤロブアムの罪」こそ北王国の滅亡の原因であるという立場で列王記は一貫しています。それに加えて、北王国は諸外国の宗教的な慣習や習俗を取り入れるようになりました。
北王国を含む地中海東岸地域へと、メソポタミアでバビロニアと勢力争いをしていたアッシリアが攻めて来ました。アッシリア最盛期の王、ティグラト・ピレセル3世(前745年から727年まで在位)によって北王国が滅ぼされました。そのことが、イザヤ書8章23節の「辱めを受けた」という短い言葉に込められています。
しかし、イザヤがその続きに、「後には海沿いの地、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」と記しています。その意味は、屈辱の地ガリラヤの名誉を神が回復してくださるときが必ず来る、という希望のメッセージです。
今日、詳しい年号を挙げて説明させていただいたのは、これらの年号をすべて覚えてくださいと言いたいのではありません。細かいことはすべて忘れてくださって構いません。そうではなく、イスラエルの南北王国時代や、北王国滅亡が起こった時代は、主イエスが活動された紀元1世紀の人々からすれば、約900年前から700年前であるということをご理解いただきたいだけです。
わたしたちに当てはめて考えてみます。
今年は「2025年」です。900年引くと「1125年」です。700年引くと「1325年」です。それは紀元12世紀から14世紀までです。日本の歴史でいうと「平安時代末期から鎌倉時代まで」です。
足立区のホームページに「区の歴史」があります。その中の「鎌倉幕府と足立氏」のページに、次のように記されています。
「平安時代の終わりごろ、武蔵国各地で武士団が活躍し、足立軍には足立氏一族が勢力を持ちました。治承4(1180)年、源頼朝が平氏打倒のため立ち上がると、足立遠元も下総を経て武蔵に入る頼朝のもとに参じ、軍勢に加わりました。」
また、いつの時代のことかは不明ですが、これも足立区のホームページに「あだち」という名の由来が記されていました。
「足立区の周辺に葦(あし)が多く生えていて、『葦立(あしだち)』と言われたのが『足立』になったという説もあります。」
私が申し上げたいのは、千年以上も前の「あだち」と今の「足立区」との間に、何の関係があるでしょうか、ということです。
歴史ロマンとしてはたいへん興味深いものがあります。しかし、今の足立区はどこからどう見ても、葦(あし)しか生えていない原野ではありえませんし、「足立軍と源頼朝の関係」なども、今の足立区の存在とは無関係であるとしか言いようがありません。
主イエスの時代に「ガリラヤ」を差別していた人たちがしていたことは、今申し上げたのと同じようなことだと私は言いたいのです。何百年も前の歴史を引き合いに出して、相手をおとしめるようなことをしていただけです。
もうひとつ、エルサレム周辺の人は、「ガリラヤの方言」を聞き分けることができました。そのことは、主イエスが逮捕された夜、ペトロが主イエスのことを3度も「知らない」と否定した記事から分かります(マタイ26章73節、マルコ14章70節、ルカ22章59節)。しかし、方言差別などは最低の部類でしょう。
しかしまた、そう考えると、「ガリラヤ」を主イエスが福音宣教の出発点になさったことの意味がはっきり分かります。
「そんなくだらないことで、あなたがたは私たちを差別するのですか」と言いたくなるようなことで悩み苦しんでいる人々の側に毅然として立ち、その人々の心と体の痛みを受け止め、慰め、助けてくださるために、主イエスは「ガリラヤ」から宣教をお始めになったのです。
(2025年1月19日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)