2025年6月15日日曜日

教会の使命

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「教会の使命」

コリントの信徒への手紙一12章12~26節

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教⑦

関口 康

「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(26節)

「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり」(日本基督教団信仰告白

日本基督教団信仰告白は「使徒信条」の部分を含みます。私たちが今学んでいる部分は「前文」と呼ばれることがあります。「前文」と言うにはあまりに濃い内容なのですが。

今日の箇所から「我らはかく信じ、代々(よよ)の聖徒と共に使徒信条を告白す」の直前までが「教会の教理」(Doctrine of the Church)または「教会論」(Ecclesiology)です。

内容は教会内部の事柄です。教会の外部、たとえば社会や政治や国や文化の問題に日本基督教団信仰告白は触れていません。もっぱら教会の形式(forms)と手段(means)を描いています。

教会の信仰告白は「教会の自己主張」なので、これで問題ありません。信仰告白に外部の事柄を記すことの必然性はありません(*ファン・ルーラー「教会の自己主張」(De pretentie van de kerk)1958年、『著作集』第5A巻(2020年)、180~195頁参照)。

教会の「内」と「外」の区別には不快感があるかもしれません。しかし、線引きをやめると日本の教会は一瞬で消し飛びます。世界人口約81億人の3分の1(約23億人)がキリスト者である中、日本のキリスト教人口は1パーセントです。私たちには「教会を護る」責任があります。

日本基督教団信仰告白の今日の箇所は「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり」です。すべてを私たちに当てはめて考えることが大切です。

「教会」は足立梅田教会です。足立梅田教会は「キリストの体」であり「恵みによって召された者の集い」です。具体的な教会をイメージできないような信仰告白は空虚です。コヘレトと共に「すべては空しい」と言わなくてはなりません(コヘレトの言葉1章2節)。

教会を「キリストの体」と呼んでいる、またはその意味のことが記されているのは、ローマの信徒への手紙12章5節、コリントの信徒への手紙一12章12~27節、エフェソの信徒への手紙1章23節、コロサイの信徒への手紙1章18節です。この中で最も詳しい説明があるのは、今日の朗読箇所の第一コリント12章12節以下です。

これは比喩です。たとえ話です。文学表現です。SFホラー映画のような不気味なイメージを持ち込まないでください。そういうのよりもはるかにリアルに、教会の現実を描いています。

たとえられているのは人間の体です。「体は、ひとつの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」(コリント一12章14節以下)と、「足、耳、目、鼻、手」などを持つ存在が想定されています。

私が気になるのは、足や耳がしゃべりはじめるという、コミカルとさえ言える非現実的な表現をパウロが用いていることの意味です。明らかに非現実的なのに不思議なリアリティがあります。

自分の体の一部または全部が気に入らないと思っている人がおられるでしょう。私がそうです。「もう少し鼻が高ければ、もう少し足が長ければ」と言い出せばキリがありません。

足や耳はしゃべらないかもしれませんが、わたしたちの脳は全力で自分の姿かたちを呪っているかもしれません。足と手、耳と目はけんかしないかもしれませんが、人間の心が、体の一部または全部を呪い、変身したがっているかもしれません。

そのように私たちが心の中で自分の体の〝部分の切り捨て〟を求める思いが、教会の現実にそのまま当てはまります。教会の内部分裂の問題です。「あの人がいるから教会に行けなくなった」「あの人は要らない」「牧師が気に食わない」等々。

そのとき頭(かしら)としてのイエス・キリストが来てくださいます。「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」(第一コリント12章27節)。この教えと「キリストは教会の頭(かしら)です」(エフェソ1章22節、コロサイ1章18節)という教えが一対(いっつい)の関係です。キリストは教会の頭(かしら)であり、教会はキリストの体です。

「第一コリント12章12節以下に『教会はひとつの体であり、多くの肢体を持つ』と〝書かれていない〟ことが注目に値する」と書かれた註解を読みました(F. J. Pop, De eerste brief van Paulus aan de Corinthiërs, De prediking van het Nieuwe Testament, 1965)。

そのとおりだと思います。パウロが書いているのは「教会はキリストの体であり、一人一人はその部分である」ということです。キリストがいなくなるとすべてがバラバラです。一致も統制もありません。それで問題ありません。統制など大の苦手です。

教会は、同じ服を着、同じ言葉をしゃべり、同じことをする人たちの集団ではありません。唯一の一致点はキリストです。それ以外は自由人です。それが「教会」です。

信仰告白の今日の箇所でもうひとつの重要な教えは「(教会は)恵みにより召されたる者の集ひなり」です。

これは「召命」が前回までに学んだ「予定、義認、聖化」に並ぶ「恩恵論」の一部であることを教えています。「救済の順序」(オルド・サルティス)の中で「召命」の位置は「予定」と「義認と聖化」の間ぐらいです。

「召命」(しょうめい)は「命(いのち)を召(め)す」。「使命(しめい)」は「命(いのち)を使(つか)う」。似ている言葉ですが、主語が変わります。「召命」の主語は「神」です。「使命」の主語は「人間」です。

注意すべきことは、「召命」(英語Calling、ドイツ語Beruf、ラテン語vocatio)を狭すぎる意味でとらえるのをやめることです。「教職者になること」だけを指すと思われがちです。それは日本基督教団信仰告白の教えに反します。「恩恵による召命」を受けて「教会」のメンバーになったのは全キリスト者です。

「召命」とは、人が救われるために用いられるすべての形式と手段を指します(*「召命とは、それを通して救いの適用が起こる形式と手段である」(De vocatio is de vorm, het middel, waardoor de applicatio salutis geschiedt)、ファン・ルーラー「召命論(De vocatione)」(1961~1970年)『著作集』第4B巻、2011年、312頁)。

この広い意味の「召命」の中に「公の礼拝」も「福音の宣べ伝え」も「洗礼と聖餐の聖礼典」も「愛のわざ」もすべて含まれます。神がこれらの形式と手段を用いて、わたしたちに救いの恵みをもたらしてくださるのです。

西暦3世紀のラテン教父キプリアヌス(Cyprianus [200頃-259頃])が「教会の外に救いなし」(quia salus extra ecclesiam non est)という言葉を遺しました(*キプリアヌス『書簡』73. 21. 2。ファン・ルーラー「教会の自己主張」、同上書、182頁、191頁からの引用)。

「なんと傲慢な!」と反発を招きやすい言葉です。しかし、真理を言い当てています。神が人を救うための恵みの手段は「教会」という形を採るからです。神の声は教会を通して聴こえます。

(2025年6月15日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」目次に戻る

2025年6月8日日曜日

聖霊の働き

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「聖霊の働き」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教⑥

ローマの信徒への手紙12章1~8節

関口 康

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(1節)

「この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」(日本基督教団信仰告白

今日は「ペンテコステ(聖霊降臨日)」の礼拝です。キリスト教会の歴史的出発をお祝いする日です。

新約聖書によると、死者の中から復活された主イエス・キリストが天に昇られた後、主イエスの弟子たちがひとつの部屋に集まっているところに、父なる神とイエス・キリストのもとから聖霊が降り、弟子たちにとどまりました(使徒言行録1~2章参照)。

「炎のような舌」(使徒言行録2章3節)が弟子たちの上にとどまるなど、聖書に描写されている情景が「ホラー映画のようだ」と感じる向きがあるかもしれません。しかし、それは聖書の読み方の問題です。明らかに文学的表現が用いられています。

「炎のような舌」は、神の御言葉を炎のように熱い思いで力強く宣べ伝える教会がそのとき生み出された、と言いたいだけです。そのように考えながら読めば、意外なほど安心できる当たり前の情景が描かれていることが分かります。

5月4日(日)から「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」を続けています。偶然の一致ですが、「聖霊の働き」について記されている箇所がペンテコステ礼拝の日に巡って来ました。まさにふさわしいテーマですので、両者の要素を掛け合わせてお話しいたします。

日本基督教団信仰告白の今日の箇所も、「この変らざる恵みのうちに」と記されているとおり、「神の恵みの教理」(恩恵論)です。人間の努力や功績によらず、神から一方的に与えられる「賜物」(ギフト)としての「神の恵み」です。

日本基督教団信仰告白では、神の恵みの教理(恩恵論)の中に、最初に選びの教理(予定論)と信仰義認の教理(義認論)が配置され、その次に「聖化論」(Doctrine of Sanctification)が配置されています。「聖化論」の内容は以下のとおり。

日本基督教団信仰告白

英訳(公式)

試訳(暫定訳)

この変らざる恵みのうちに

In this unchangeable grace

この二度と取り消されることのない神の恵みの中で

聖霊は我らを潔めて

(The Holy Spirit accomplishes His work) by sanctifying us

聖霊(なる神)は私たちを聖化し

義の果を結ばしめ

causing us to bear fruits of righteousness

義の実を結ばせ

その御業を成就したまふ

The Holy Spirit accomplishes His work

(聖霊なる神ご自身の)御業を成し遂げてくださいます


この文章の主語は「聖霊」です。三位一体の第三位格としての「聖霊」は、端的に「神」です。聖霊なる神ご自身がお選びになった人に信仰を与え、その人は罪人のままなのに、あたかも罪が無い人であるかのようにみなしてくださること(=義認)までが先週の箇所です。それに続く、その人を「潔め、義の実を結ばしめる」部分が「聖化論」です。

「義認」は「みなし」なので法廷的(forensic)概念であり、「聖化」は実体変化を意味するので実質的(substantial)概念であるなどと言われます。

「義の果」の内容は、日本基督教団信仰告白の文面だけでは不明です。しかし、「聖霊の結ぶ実」は「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とガラテヤの信徒への手紙5章22節に記されています。

これは「キリスト教倫理」と呼べる内容です。神の御心にかなう善き行いを指します。最初は「個人」において実現します。それが「キリストの体なる教会」という形態を獲得し、「社会」や「国」や「世界」へと広がります。キリスト教の二千年の歴史がその事実を物語っています。

しかし、私はこのあたりで話を止めて、考え直す必要があると感じます。「予定、義認、聖化」を「人間の努力や功績の結果」ではなく「神の恵み」としてとらえることは間違っていません。しかし、この論理は人間を要らないものにしている気がしませんか。わたしたちの働きは無視ですか。人間の努力は無用ですか。

聖霊の働きを正確に理解する必要があります。聖霊なる神は、私たち「の代わりに」(instead of)働いてくださる方ではなく、私たち「の中で」(in)、私たち「と共に」(with)、私たち「と一緒に」(together)働いてくださいます。私たちの理性も意志も感情も排除されません。

聖霊なる神は、わたしたちをパートナーにしてくださいます。信仰は「与えられるもの」ですが、信じるのは私たちです。「義の実を結ばせる」のは神ですが、義の実を味わって生きるのは私たちです。

今日朗読していただいた聖書箇所は、ローマの信徒への手紙12章1節から8節までです。この箇所で最も大事な言葉は、最初の「こういうわけで」(1節)であると言われることがあります。どうしてそういうことになるのでしょうか。

ローマの信徒への手紙は、大別すると3部に分かれます。次の通りです。

18

信仰義認の教理
(義認論)

911

選びの教理
(予定論)

1216

君たちはどう生きるか
(キリスト教倫理)


このように見ると分かるのは、ローマの信徒への手紙は、1章から11章までが「神の恵みの教理」で構成され、つまり「神のわざ」で埋め尽くされているのに、12章に入った途端、「人間のわざ」の話になる、ということです。

もう少し噛み砕いていえば、1章から11章まで「人間は何もしないで救われる」と言ってくれていて、「ありがたいお話だ」と思いながら読んでいたら、12章になると「君たちはどう生きるか」の話に切り替わって、「ナニ、結局、人間の努力が求められちゃうわけ?なんだ、つまらない」と、がっかりする人はがっかりする(がっかりしない人もいる)展開になっているのが、ローマの信徒への手紙の全体構造だったりします。

なかには「ローマの信徒への手紙は、1章から8章までだけでいい。9章以下は要らない(予定論が嫌いだから)。12章以下は論外だ(道徳的なことは興味ない)」と言い出す人までいます。実際に出会ったことがあります。

しかし、そんなことを言われても困るわけです。ローマの信徒への手紙の1章から11章までの「恩恵論」(義認論+予定論)と、12章から16章までの「君たちはどう生きるか」を問うてくる「キリスト教倫理」をつなぐ重要な蝶番(ちょうつがい)が、12章1節の「こういうわけで」である、というわけです。

これで私が何を言いたいかというと、「人が救われるのは努力や功績によらない」という教えと「神の御心にかなう生活をめざすこと」は両立する、ということです。

神の恵みによって救われた人たちは、その恵みにふさわしい「義の果(ぎのみ)」(fruits of righteousness)を結びながら、潔められた(=聖化された)生活を営みます。

(2025年6月8日 日本基督教団足立梅田教会 ペンテコステ礼拝)

2025年6月1日日曜日

神の恵み

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「神の恵み」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教⑤

ローマの信徒への手紙5章1~11節

関口 康

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(1-2節)

「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」(日本基督教団信仰告白

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」5回目のテーマは「神の恵み」です。

日本基督教団信仰告白の今日の箇所に記されていることは、大きく分けると2つあります。

第1は、「神は恵みをもて我らを選び」の部分に関することです。これは「選びの教理」(Doctrine of Election)または「予定論」(Doctrine of Predestination)と呼ばれます。

第2は、「ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」の部分に関することです。これは「信仰義認論」(Doctrine of Justification by Faith)ないし「義認論」(Doctrine of Justification)と呼ばれます。

「予定論」と「義認論」を包括する、もっと大きな枠組みが「神の恵みの教理」(Doctrine of God’s grace)です。「恩恵(おんけい)論」または「恩寵(おんちょう)論」と記される場合もありますが、意味は同じです。

「恵み」(Grace)は、16世紀の日本人クリスチャン(キリシタン)の細川ガラシャさんの名前の由来です。スペイン語グラシア(gracia)で「ガラシャ」。意味は「めぐみ」さんです。ラテン語グラティア(gratia)。ドイツ語グナーデ(Gnade)、オランダ語ヘナーデ(genade)。

聖書と教会の教えの中で「神の恵み」は、決して軽い意味ではありません。私たち人間の救いにかかわるすべては神からの「賜物」(ギフト gift)すなわち「いただきもの」であり、人間の努力や功績で得るものではないという教えです。「信仰」すらも「神のプレゼント(いただきもの)」です。私たちが「信じる努力をする」というようなことではありません。

恩恵論に含まれるのは、予定論と義認論だけではありません。来週のペンテコステ礼拝の説教で取り上げる「聖霊の働き」に関する条文の「この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」も恩恵論に含まれます。「聖霊の潔めの教理」を「聖化論」(Doctrine of Sanctification)と言います。しかし、今日は「聖化論」は扱いません。

いま申し上げていることは「難しい話である」という印象になっていそうな気がしますが、少しも難しくありません。使徒パウロのローマの信徒への手紙8章30節に書かれていることそのものです。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ローマ8章30節)。

これは教会の長い伝統の中で「救いの順序」(オルド・サルティス ordo salutis)と呼ばれてきました。あらかじめ定められた(=予定)者が召し出され(=召命)、義とされ(=義認)、潔められ(=聖化)、栄光を与えられる(=栄光化)のは、すべて神のみわざであって、人間の努力の成果ではないことを訴える教えです。「順序」(英語オーダー order)と言っても、時間の順序(chronological order)ではなく、事柄の順序(logical order)です。

この教えは人間に、徹底した謙遜を要求します。なぜなら、自分の努力や功績を交換条件として差し出して「これだけがんばったのだから、私は救われて当然である」と言い出す人間の主張を、神が完全に拒否するからです。

若くて元気で活発に活動できる頃は、この教えに不満を感じるかもしれません。しかし、加齢や病気で、体も心も思うように動かない。礼拝や教会活動に参加できない。自分は忘れられた存在ではないか、不要な存在ではないかと感じる。それでも「私は救われている」と確信できる根拠があるとすれば、それは「神は恵みをもて我らを選び」というこの教えの他にありません。

しかし、今申し上げている「選びの教理」の取り扱いは、慎重でなければなりません。扱い方を間違えると、ものすごく危険な教理になります。なぜ危険なのかといえば、「神に選ばれた人」がいるということは「神がお選びにならなかった人」もいるという、反面の真理を必ず持つからです(昔のLPレコードの「B面」)。

日本基督教団信仰告白の中に「選ばれていない人もいます」という文字が書かれているわけではありません。しかし、人間の想像力は自分以外のだれにも止めることができません。「神は我らを選び」と書かれているではないか。「選ばれた人」がいるということは「選ばれていない人」もいることを意味しているに違いない、と考える人が当然います。

そのように考えてはいけないわけでもありません。なぜなら、聖書にそのとおりのことが書かれているからです。それはローマの信徒への手紙9章18節です。「神は御自分が憐みたいと思う者を憐れみ、かたくなにされたいと思う者をかたくなにされる」。

「神は独裁者なのか」とお感じの方がおられるかもしれません。ある意味で、そのとおりです。すべては神の自由です。だれを選ぶか、だれを選ばないかは人間が決めることではありません。

今回もファン・ルーラーが何を言っているかを調べました(*A. A. ファン・ルーラー「選びの教理」1941年、「選びの教理」1942年、「予定論の危険性と批判」1945年、「神の選び」1958年。すべて『ファン・ルーラー著作集』4a巻(2011年)の中に収録されています。1941年の「選びの教理」のオリジナルテキストは、なんと全495頁の手書きノート。『著作集』では全250頁(本文184頁+校註66頁))。

『ファン・ルーラー著作集』4a巻(2011年)

ファン・ルーラーによると、選びの教理(予定論)に忠実だった偉人は、キリスト教会の歴史の中で3人しかいません。それはアウグスティヌス(354-430)、トマス・アクィナス(1225-1274)、カルヴァン(1509-1564)の3人だけです(ファン・ルーラー、同上書、743頁)。

なぜこんなに少ないかというと、選びの教理(予定論)は、それを言った人が嫌われる仕組みになっているからです。「神によって選ばれた人がいるということは、神がお選びにならなかった人もいるという意味だろう。なんでそんなひどいことを言うのか」と、それを言った人が責められます。決まってそういう反応が返ってきます。

それで、多くの教師が選びの教理(予定論)を口にすること自体を避けるのです。言ったその人が責められるからです。言うのに勇気が必要です。勇気だけの問題ではない気がしますが、言えない雰囲気にされてしまいます。

予定論は、厳密に言えば、二重予定論(double predestination; praedestinatio gemina)です。「選び」(election)と「棄却(または遺棄)」(reprobation)の両面があります。

「棄却(遺棄)の教理はこの世の悪の問題を非常に深く考え抜いたものである」とファン・ルーラーが述べています(拙訳「神の選び」1958年参照)。具体例を挙げていませんが、おそらく戦争犯罪者の問題です。

かのナチスの独裁者も洗礼を受けたキリスト者でした。彼もまた「救いへと選ばれた人」であることに変わりないでしょうか。「すべての人が救われる」でしょうか。これは戦後のヨーロッパの教会において深刻な問題でした。

神は愛に満ちたお方です。しかし、同時にご自身の義に対して忠実で厳しいお方です。白いものを黒と言ったり、善悪の基準を逆転させたりしない方です。「この世の悪の問題」は、あいまいに片づけられてはなりません。

(2025年6月1日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」目次に戻る

2025年5月25日日曜日

キリストによる贖罪

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「キリストによる贖罪」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教④

ローマの信徒への手紙3章21~26節

関口 康

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」(25節)

「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」(日本基督教団信仰告白

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」4回目のテーマは「キリストによる贖罪」です。

「贖罪(しょくざい)」に該当する英語は、意味の狭さや特殊性の強さの順で、アトンメント(atonement)、リデンプション(redemption)、サルベーション(salvation)などです。

アトンメントが「つぐない、罪滅ぼし」など色濃く宗教的な意味で用いられることが多く、リデンプションは中ぐらい、サルベーションは「社会救済」などの一般的な意味でも使われます。

贖罪の教理に関して日本基督教団信仰告白に記されていることを、若干補いながら口語的に言い直すと、次のようになります。

「三位一体の第二位格である神の御子、イエス・キリストは、わたしたち罪人の救いのために人間になり、十字架にかかり、歴史上ただ一回限り、ご自身を完全なる犠牲として父なる神へと献げ、わたしたちの贖いとなりました」。

いくつか論点を挙げていきます。

(1)「我ら罪人」の「我ら」は「全人類」を指し、「我ら罪人」は「全人類は罪人であること」を意味します。

(2)「神の御子が人となったこと」には「罪人の救いのため」という明確な目的がありました。逆に、もし人類のだれひとり罪を犯さなかったなら、御子が人となる必然性はありませんでした。

(3)人間は、自分の自由意志において神に背くことによって、罪を犯しました。神が人間の内部に罪の性質を仕込んで、人間に罪を犯させたのではありません。罪の責任は100パーセントあなたにあります。神のせいにしてはいけません。

(4)神は、罪を犯した人間を何とかして救いたいという意志を持っておられます。しかし、それと同時に神はご自身の義に忠実なお方なので、罪を犯した人間を罰せずにおきません。

(5)ユダヤ教では、動物を犠牲の供え物として焼き殺すことによって人間の罪に対する神の怒りをなだめる儀式を行います。しかし、人間の罪はあまりにも大きすぎるので、動物の犠牲の命だけでは、つぐないとしては不足しています。だからといって、人間の命を差し出すことは、人間を滅ぼすことになるので、人間の救いになりません。

(6)そこで、神は「神でもあり同時に人間でもある」ご自身の御子イエス・キリストの命を贖罪とされることによって、神ご自身の義が充足されつつ、同時に人間を救う道を開かれました。

いま申し上げたことは、西暦11世紀から12世紀初頭まで活躍したカンタベリーのアンセルムス(1033-1109)の著書である『クール・デウス・ホモ 神は何故に人間となりたまひしか』(日本語版:長沢信寿訳、岩波文庫、1948年)のアウトラインと軌を一にします。このような教えを、伝統的に「充足説」(satisfaction theory of atonement)と言います。

アンセルムス『クール・デウス・ホモ』岩波文庫版

はっきり言えることは、日本基督教団信仰告白はアンセルムスの贖罪論を受け継いでいるということです。なぜそう言えるかというと、「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り」という観点は「神はなぜ人間になったのか」という、まさにアンセルムスの問いに答えようとしているからです。別の言い方をすれば「御子の受肉の目的は何か」という問題でもあります。

しかし、このアンセルムス型の贖罪論が非常に多くの批判を浴びて来たことについては、黙っているわけには行かないと思っています。

よく言われる批判は、「人間の罪を軽視する教えである」というものです。なんだかんだ理屈をつけて、結局、人間の罪を見逃すだの赦すだのいう甘い教えである、というようなことがしばしば語られます。

もうひとつご紹介したい批判は、「刑死や殉死を美化する教えである」というものです。人類の身代わりに死んでくださったあのキリストのように、特攻隊員はお国のために我々の身代わりに命を投げ出した、というような話へのすり替えがなされることは確かにありえます。

これらの批判に対して私たちは謙虚に傾聴すべきであると私個人は考えています。そのうえで、私はアンセルムス型の充足説で満足しています。甘い人間ですので。神のみゆるしなしに生きて行けないものを感じますので。御子の贖いによって神の義が充足されたので、私たちが神に償う必要はもはやないという教えは、私にとってはありがたいです。

「イエス・キリストによる贖罪によって、わたしたちは(   )から救われる」という穴埋め問題の答えを考えることが贖罪論において重要です。救いには「救い出されること、救出されること」の意味がありますので、「何から」(From what ?)という問いが重要な意味を持ちます。

ファン・ルーラーが7つの選択肢(穴埋め問題の「語群」)を挙げています(「イエスの苦しみの意味」(1956年)、『A. A. ファン・ルーラー著作集』2011年、233-243頁)。

 ①死  ②悪魔とその力  ③律法

 ④この世  ⑤我々自身  ⑥力としての罪

 ⑦負い目(罪悪感)としての罪

ファン・ルーラーが最適解としているのは「⑦負い目(罪悪感)」(オランダ語 schuld スフルト)です。ぜひ思い出していただきたいのは、マタイ6章とルカ11章の「主の祈り」の第5の祈りが、新共同訳聖書から「負い目」と訳されるようになったことです。聖書協会共同訳も「負い目」。

「負い目」という意味は、文語訳の主の祈りで「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈っているときには認識できません。「負い目」とは「罪悪感」のことです。そのように最近の聖書で翻訳されるようになりました。

「負い目」(罪悪感)は私たちが常に感じていることです。「ああ、昨日あの人を傷つけてしまった。今日もやってしまった」と罪悪感を抱かない日は無いと思うほどの私たちです。そういうことを少しも感じずに生きることに、かえって問題を感じるほどです。

しかし、「負い目」(罪悪感)は放置していると、澱(おり)のように私たちの心と体にたまっていきます。そのうちあふれて、私たちが壊れて行きます。

私たちの「負い目」(罪悪感)を神によって取り除いていただけることも、十分な意味で「罪の赦し」であり、「贖い」です。日本基督教団信仰告白が言う「我ら罪人の救ひ」そのものです。毎週の礼拝の中で、日々の祈りと賛美と信徒の交わりの中で、「負い目」(罪悪感)からの救いが起こります。

この穴埋め問題に正解はありません。自分で答えを考えることが大切です。とはいえ、危険度が高い選択肢が含まれていることに気づく必要があります。

「④この世」と「⑤我々自身」という選択肢は危険です。「この世の中から救い出されること」が救いなら、私たちはどこへ行けばよいのでしょうか。「自分自身という罪深い存在から救い出されること」が救いなら、「私は生きていてはいけない」という考えに陥らないでしょうか。

「②悪魔とその力」という選択肢も危険です。自分に当てはめるならともかく、自分以外のだれかを「悪魔」呼ばわりして、その人が消えうせることを求める考えに陥らないでしょうか。

(2025年5月25日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」目次に戻る

2025年5月18日日曜日

三位一体の神

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「三位一体の神」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教③

ヨハネによる福音書1章14~18節

関口 康

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)

「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」(日本基督教団信仰告白

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」第3回目のテーマは「三位一体の神」です。

なぜ教会は「さんいいったい」ではなく「さんみいったい」と読むのでしょうか。その理由は、音便(おんびん)です。音便とは「発音上の便宜(べんぎ)」です。言いやすさ、読みやすさ。平安時代から「三位」は「さんみ」と読まれていたそうです。

「三位一体」は、英語でTrinity(トリニティ)。ドイツ語Trinität(トリニテート)。オランダ語Triniteit(トリニテイト)。ラテン語trinitas(トリニタス)。古典ギリシア語τριάς(トリアス)。

「三角形」(triangle)など「トリ」(tri)が「3」です。3つのものの一体性(unity)を意味するtri-unity(トリ・ユニティ)からのtrinity(トリニティ)です。

その意味は、1つの神性(one divine nature)の内部に3つの位格(three persons)があるということです。御父(おんちち)なる神、御子(みこ)イエス・キリスト、聖霊(せいれい)なる神を「三位一体の神」とするのが「正統教義」です。この教義を受け入れない人たちは「異端」とみなされてきました。それが歴史の事実です。

ご参考までにご紹介したいのは、私が岡山県立岡山朝日高等学校のたしか2年生のときに授業を受けた「世界史」の教科書、『詳説世界史(再訂版)』(山川出版社、1979(S54)年版)です。公立学校ですので聖書の授業などはありえないし、キリスト教的な要素が全くない学校でしたが、そういう学校の世界史の教科書に「三位一体論」についてかなり詳しく書かれていました。

文部省検定済教科書『詳説 世界史(再訂版)』(山川出版社、1979年版)

少し長いですが、以下引用します。

「313年、当時〔ローマ〕帝国西半部を支配していたコンスタンティヌス帝はミラノでキリスト教を公認した。さらに324年かれが帝国を統一して独裁者となると、キリスト教は全帝国の公認宗教となった。ところが当時教会には神学上の見解の対立があったから、帝は325年ニケーアに公会議(宗教会議)をひらき、のちにアタナシウス(Athanasius [295?-373])が確立した三位一体説を正統教義とし、キリストの神性を否定するアリウス派(Arius)を異端とした。その後ユリアヌス帝(Jurianus [位361-363])は古典文化と異教の復興を企て、キリスト教徒をおさえたが成功せず、392年、テオドシウス帝はついにキリスト教を国教とし、他の宗教を厳禁するにいたった」(45-46頁)

最近どうなっているかは分かりませんが、私が高校生だった45年前の日本の公立高校の生徒たちが「三位一体」について学んだのはこのような内容でした。そのイメージは「ローマ帝国の独裁者が全領土の住民に強制した宗教」です。こういう知識のある人たちは、教会の前を通るたびに首を傾(かし)げているでしょう。もう少し続きを読みます。

「ニケーアの公会議で敗れたアリウス派は北方のゲルマン人のあいだにひろまったが、その後も公会議はしばしばひらかれ、さまざまの学説が異端とされた。そのなかで5世紀にキリストの神性を十分に認めないとの理由で異端とされたネストリウス派(Nestorius)は、ペルシアをへて中国まで伝わり、唐代に景教と呼ばれた」(46頁)

歴史の説明をするだけで終わりそうなので、ここまでにします。45年前の公立高校で教えられていたキリスト教の「正統派」に対するもうひとつのイメージは、「イエス・キリストが神であることを認めない人々を異端呼ばわりして追い出す宗教」です。高校生たちはこういうのを丸暗記して共通一次試験を受けることになっていましたので必死で覚えました。

そして、ここで私が申し上げることができるのは、私たち日本基督教団は「三位一体の神」への信仰告白において「アリウス派」(ホモイウースオス派、ὁμοιούσιος)ではなく「アタナシウス派」(ホモウーシオス派、ὁμοούσιος)のほうの「正統教義」を継承していることを明らかにしている、ということです。これが歴史の事実です。

しかし、誤解なきように。「三位一体の神」はアタナシウスの発明ではありません。「三位一体」という用語は聖書の中にはありません。だからといって、聖書の中に神が三位一体であることを信じる根拠はないとは言えません。三位一体の教理の核心は「イエス・キリストは神である」という信仰告白です。それは新約聖書の核心部分です。今日の朗読箇所にもその信仰が告白されています。後の神学者たちが、聖書の教えを要約して、神を「三位一体」と呼んだにすぎません。

ヨハネによる福音書の「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1章1節)の「言(ことば)」(ロゴス)は、イエス・キリストです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1章14節)の「肉」(サルクス)は、人間を意味します。この箇所で告白されている信仰は「イエス・キリストは人間となった神である」ということです。

「人間となった神」は御子イエス・キリストであり、その方は御父と同質(ホモウーシオス)であると信じることが三位一体の教理の核心部分です。そのような信仰を、私たちは日本基督教団信仰告白において継承しています。

「神となった人間」つまり「神格化された人間」はたくさんいます。決して珍しくありません。私は先週、かなり意識的に集中して戦争映画を観ました。ひとり暮らしの暇つぶしで観たというのとは違う気持ちでした。すべてインターネットで配信されているものです。

先週観たのは「ルバング島の奇跡 陸軍中野学校」(主演:千葉真一、1974年)、「二百三高地」(主演:仲代達也、1981年)、「大日本帝国」(主演:丹波哲郎、1982年)、「ミッドウェイ」(出演:豊川悦司他、2019年)。戦後の復興期の政界を描いた「小説吉田学校」(主演:森繁久彌、1983年)も観ました。

戦争映画は嫌いです。殺し合いの映像がリアルですし、どの映画も長く、観るだけで疲れます。しかし、今日の説教の準備のために観なければならない気がしました。私は1965年生まれです。戦後の焼け跡を見たことがなく、「天皇が神とされた」日本を体験的に全く知りません。当時の人々の証言を何度聞いても、本を読んでも、写真を見ても、想像力が追い付かず、リアルな映像が浮かんできません。そのため、映画に助けてもらう必要があると思いました。

登場人物の中に日本人のクリスチャンが何人か描かれていることが分かりました。「二百三高地」(1981年)の小賀武志(あおい輝彦さん)や松尾佐知(夏目雅子さん)、「大日本帝国」(1982年)の江上孝(篠田三郎さん)や柏木京子(こちらも夏目雅子さん)。その人々が静かに抵抗しながら結局戦争に巻き込まれていく姿が描かれていることに興味を惹かれました。

イエス・キリストを「人間となった神」であると信じることは、その真逆の存在である「神格化された人間」に対する根本的な抵抗を意味します。イエス・キリストの時代のローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスもその後の皇帝たちも神格化され、皇帝礼拝の対象になりました。

「三位一体」という正統教義は「ローマ皇帝によって全領土の住民に強制された宗教」であるという面が無いとは言えない一方で、「神になりたがるすべての権力者に抵抗する宗教」である面もあります。

(2025年5月18日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」目次に戻る

2025年5月11日日曜日

聖書と生活

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教 「聖書と生活」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教②

テモテへの手紙二4章1~8節

関口 康

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(2節)

「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」(日本基督教団信仰告白

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」の2回目です。私は1冊の本を書こうとしているわけではありません。教会ブログで公開しているのは説教原稿です。実際の礼拝では、もっと多くのことをお話ししています。礼拝に来てくださっている方々にご理解いただけば、目標達成です。ご意見があればぜひご来会ください。お待ちしております。

前回から「聖書とは何か」についてお話ししています。ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])の文章を参考にしつつ、聖書が「ユダヤ人によって書かれた書物」であることが「外部の真理」であることを意味し、聖書の教えを受け入れることが過去の歩みとは異なる方向への「転換」をもたらし、「回心」をもたらすということをお話ししました。

今日は前回の続きです。今日取り上げるのは「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」という条文です。聖書の霊感(れいかん)の教理と言います。

証拠聖句はテモテへの手紙二3章16節「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」です。「霊感」と聞くと「霊感商法」を連想する人が多い時代になりました。しかし「霊感」とはインスパイア(inspire)のことです。名詞形はインスピレーション(inspiration)です。ごく普通の文脈で用いられています。

聖書が「神の霊感によって成った」とは「神の霊」すなわち「聖霊」の導きの下に100パーセント人間によって書かれたことを意味します。それ以外の意味はありません。

「神の霊は、神ご自身ではない」と考えられることもありますが、それは誤解です。神の中から噴き出した気体(?)や、流れ出た液体(?)のようなものを想像するのは間違いです。

次回は三位一体の神について学びます。「神の霊」は「父、子、聖霊なる三位一体の神」としての「聖霊」ですので、端的に「神」(God)です。聖書の霊感の教理も、「聖書は〝聖霊なる神〟の導きによって(人間によって)書かれた」と言っているだけです。

ですから、この教えは決して難しい話ではありません。むしろ、すっきりした気持ちになれるほど、聖書は100パーセント人間によって書かれた書物であると、何の躊躇もなく説明することができます。そこに魔術の要素はありません。

「その説明で大丈夫ですか。我々が今まで教えられてきたことと違うのですが」とお思いの方がおられるでしょうか。「聖書は神さまが書いたものであって、人間が書いたものではない」でしょうか。この「聖書は人間によって書かれたものではない」という考え方は、私は最も危険だと考えています。

ある朝、マタイは目を覚ましました。すると、机の上にイエス・キリストの生涯を描く福音書が置いてありました。パウロも目を覚ましたら、同じように、いろんな教会や個人に宛てた手紙が机の上に置いてありました。しかし、彼らにはそれを書いた記憶がありません。彼らが寝ている間に、意識を失っている間に、聖書のすべてが書かれましたというようなことは起こりませんでした。それはオカルトの世界です。

聖霊なる神は、人間の中で、人間と共に、人間を活かし用いて、働いてくださいます。人間の理性も感情も判断力も、人間の真・善・美も、活かされたままです。聖霊はわたしたちの身代わりに死んでくださることはないし、私たちの身代わりに聖書を書いてくださったりもしません。聖霊が働いてくださっている間、人間は眠っているわけではないし、気絶しているわけでもないし、サボっているわけでもないのです。その点を間違うと、全キリスト教がオカルト化します。

そういうことではなく、聖書の霊感の教理は、(三位一体の)聖霊なる神ご自身が私たち人間に接触し、私たち人間へと影響・感化を及ぼし、浸透し(沁みていき)、私たち人間に感銘・感動を与えてくださる過程を経て「インスパイア」された人間が聖書を記した、と言っています。

しかし、そこでストップです。神は聖書の著者の人間性も歴史性も排除しません。そこでもし人間性の排除が起こるなら、それを「洗脳」というのです。私たちが聖書を読むときに、当時の歴史について調べたり考えたりする必要があるのは、聖書は100パーセント人間が書いた書物だからです。

日本基督教団信仰告白が聖書について書いている「誤りなき規範」の「誤りなき」の意味は、「無謬性」(インフォーリビリティ:Infallibility)のことだと考えるのが妥当です。「無謬性」は「無誤性」(インエランシー:inerrancy)との比較で考えるのが理解しやすいです。

インフォーリビリティ(無謬であること)は「フォール(堕落)していない」という意味です。インエランシーは「エラー(誤記)がない」という意味です。日本基督教団信仰告白が肯定しているのは前者(「聖書は堕落していない」)のほうであって、後者(「聖書は誤記がない」)のほうではありません。

聖書に「誤記」はあります。しかし、「堕落していない」とは「神のみこころにかなっている」ということです。その意味は、聖書に記された言葉を読んで、その教えを信じたとしても、その教えに基づいて生活したとしても、それによって罪を犯すことにはならないので大丈夫です、ということです。

だからこそ、聖書は「信仰と生活の誤りなき規準」なのです。

(2025年5月11日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」目次に戻る

2025年5月9日金曜日

信仰とは何か

日本基督教団東京教区東支区・北支区合同連合祈祷会
(日本基督教団信濃町教会 東京都新宿区信濃町30番地)

教会堂外見
礼拝堂前方
礼拝堂後方
集会案内板

奨励「信仰とは何か」

マタイによる福音書8章5~13節

日本基督教団東京教区東支区・北支区合同連合祈祷会

関口 康

「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(10節)

この聖書箇所を選んだことに特別な意図はありません。日本基督教団聖書日課『日毎の糧』の今日の箇所を参考にしました。ただし、それはヨハネの並行記事で、話しにくさを感じましたので、マタイに変更しました。

「これは史実でない」と『NTD新約聖書註解』マタイの著者、エドゥアルト・シュヴァイツァー教授(Eduard Schweizer [1913-2006])が書いておられます。しかしそのシュヴァイツァー先生も、8節から10節までの主イエスと百人隊長の対話の部分は「Q資料」にあっただろうと認めておられますので、そこだけは歴史的な根拠があると堂々と言ってよさそうです。

イエス・キリストがガリラヤ湖畔の町カファルナウムにおられたとき、「百人隊長」が近づいてきました。「百人隊長」は古代ローマ軍の職名ですが、ローマ人だったとは限りません。ひとつの可能性として言われているのは、異邦人の傭兵だったのではないかということです。

マタイ福音書では、その人自身が主イエスのもとに行き、「僕」のために助けを求めています。マタイが「僕」という意味で用いているギリシア語「パイス」は、ルカの並行記事(7章1~10節)では「ドゥーロス」です。「ドゥーロス」はあからさまに「奴隷」です。しかし「パイス」は自分の子どものように愛する対象を意味します。その事実を活かし、聖書協会共同訳(以下「SKK訳」)は「子」と訳しています。

百人隊長のパイス(自分の子どものように愛していた僕)は、新共同訳では「中風」(SKK訳「麻痺」)を起こし、家で寝込んで(SKK訳「倒れて」)ひどく苦しんでいました。そのことを百人隊長自身が主イエスに伝え、助けを求めました。

その願いを受けて、主イエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」と応じてくださる姿勢を表してくださいました。しかし、J. M. ロビンソンのQ資料研究書『イエスの福音』(加山久夫、中野実訳、新教出版社、2020年)によると、主イエスの「わたしが行って、いやしてあげよう」(7節)は、Q資料では「わたしが行って、彼をいやすのか?」という拒否反応でした。それを17世紀の英語聖書(1611年刊行のキング・ジェームズ・ヴァージョン)が肯定的な反応のように訳したことで、意味が逆転してしまいました(ロビンソン、141頁以下)。

しかし、新共同訳聖書どおりだと主イエスは好意的な反応を示されましたが、それを百人隊長が断ります(8節)。このときの百人隊長の返事の中に、彼の《信仰》が明確に表現されました。

百人隊長は言いました。

「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕(パイス。SKK訳「子」)はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下(ドゥーロス。SKK訳「僕」)に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(8~9節)。

百人隊長の言葉に主イエスは感心し(SKK訳「驚き」)、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(10節)と評価されました。そして主イエスが百人隊長に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」とおっしゃったら、ちょうどそのとき、僕(パイス。SKK訳「子」)の病気がいやされました(13節)。

* * *

さて、問題です。主イエスは、百人隊長の返事のどの点を評価なさったのでしょうか。

この答えが分かれば、私たちも同じように言えば、イエスさまからほめていただけるでしょう。主イエスが称賛するほどの模範的な《信仰》があるならば、全キリスト教に影響するでしょう。

第一の可能性は、主イエスが軍隊調の命令と服従の関係で信仰をとらえ、百人隊長がそのような《信仰》を持っていることが分かったので高く評価された、というとらえ方です。

これは私が思いつくかぎりの最悪の可能性です。手と指を前にまっすぐ突き出すナチス式敬礼は、古代ローマ軍の敬礼から受け継いだとナチスが主張しました。そういうことをこの百人隊長もしていたと思います。あれでいいでしょうか。

第二の可能性は、ひとつの註解書に記されていたことです。Fernheilung(フェルンハイルンク)をどのように訳せばよいでしょうか。「遠隔治療」でしょうか。言葉を発するだけで、祈るだけで、遠くの人の病気が治る。そのような《信仰》を百人隊長が持っていることをイエスが高く評価なさった、という説明です。ユダヤ教のタルムードに「遠隔治療」の類似例があるそうです。

厚生労働省のホームページに「遠隔医療(リモート医療)」についての説明があることを知りました。医療の現場ではそういうのが日進月歩で進んでいるようです。しかし、インターネットは電気信号です。きわめて物理的な手段です。何の物理的な媒体もないわけではありません。

教会はどうでしょうか。「出会い」や「ふれあい」は教会に無くてはならないものでしょうか。「握手」や「ハグ」が必要でしょうか。体に触らないと「愛」が伝わらないでしょうか。

もし皆さんの中にそういうことをなさっている教会の方がおられるとしたら申し訳ありませんが、私はそういうのが苦手です。私はだれにも触りません。私は「非接触牧師」です。

しかし、そういう私も、教会員のお宅や病床には可能なかぎり訪問したいと考えています。対外的な働きが続いたりすると、訪問がおろそかになって心苦しいです。

ですから、今日の箇所を「リモートワーク」の話としてとらえてよければ、私は救われた気持ちになります。「うちに来ないでください。祈ってくださるだけで結構です」とか「すべてリモートで大丈夫です」と言ってもらえれば、気がラクになります。これでよろしいでしょうか。

第三の可能性は、私にとって最も納得できる説明です。それは最初にご紹介したエドゥアルト・シュヴァイツァー教授の説明です。次のように記されています。

「いずれにしてもここには(中略)神の行動をあてにしている信仰がはっきりと現れている」(281頁)。

シュヴァイツァー先生のおっしゃるとおりです。《信仰》とは「神を信じること」です。そして「神の行動をあてにすること」です。シンプルですが、ベストの答えです。

「ミッシオ・デイ」(神の宣教)も、「神の行動」を信じることにおいて、今申し上げていることと趣旨は同じです。そもそも「宣教」は神ご自身のみわざなのであって、人間の働きではありません。

「ミッシオ・デイ」(神の宣教)を悪く言う論調に接しました。なぜそういうことを言うのか、私は理解に苦しみます。

そもそも皆さんは「神」を信じていますか。このような失礼なことを、あえて問わなくてはなりません。

「神を信じる」と言いながら、いつのまにか「私」や「私たち」や「自分の教会」の努力をそのように呼んでいるだけになっていませんか。だからこそ、自分の働きを認めてもらえないという不満の理由になったりしていませんか。「神のみわざ」は人間の手柄ではありません。

シュヴァイツァー先生の説明には、続きがあります。

「この物語は(中略)決して自分の力で獲得したのではない、ないしは、それを自分の力で獲得することはできないと知っているものに対して救いを開く」(254頁)。

百人隊長は、自分の子どものように愛する僕(パイス)の病気を自分の力では治してあげることができないことを悟り、自分の無力さに打ちのめされ、人間になしえないことをなさる「神」を信じました。

これが《信仰》です。

(2025年5月9日 東京教区東支区・北支区合同連合祈祷会、於 日本基督教団信濃町教会)

2025年5月4日日曜日

聖書と教会

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「聖書と教会」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教①

テモテへの手紙二3章10~17節

関口 康

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)

「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」(日本基督教団信仰告白

今日から「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」を始めます。全10回の予定です。

私は昨年3月より足立梅田教会にいます。これまでは基本的に「教会暦説教」をしてきました。聖書箇所も日本基督教団聖書日課『日毎の糧』から選んできました。

「教会暦説教」には長所と短所があります。長所はクリスマス、イースター、ペンテコステなどの行事に合わせた説教ができることです。短所は毎年同じ話になりがちなことです。出口がない円をぐるぐる回っている感じです。

「教理説教」には出口があります。聖書の教えを歴史的な順序で説明しますので、「初め」も「終わり」もあるからです。ただし、それは現代的な意味の「歴史」とは異なります。私たちの場合は「天地創造」(創造論)から「神の国の完成」(終末論)までを描く「神のみわざの歴史」です。

「抽象論だ」「おとぎ話だ」と日本に限らず世界中で嘲笑を受けて来ました。このことについては実際の説教を聞いていただかないかぎり理解してもらえませんので、これ以上は言いません。

日本基督教団信仰告白が「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は」から始まり、「聖書とは何か」という問いに答えることから出発しているのは、わたしたちがかくかくしかじかのことを信じると言っているのは、そのように聖書に書かれているからであると述べようとしています。

「あなたたちは聖書に書かれていることを全部信じるというのか。たくさん間違いがあることは学問的に証明されている」と言われます。おっしゃるとおりと思いますが、問題は何をもって「間違い」と言うかです。現代の科学技術を駆使した歴史学や考古学の観点から矛盾や間違いを指摘されるのはありがたいことです。だからといって信じることをやめるかどうかはダイレクトに結びつきません。

日本基督教団信仰告白の「旧新約聖書は(中略)教会の拠るべき唯一の正典なり」の「正典」は、一般的に言えば「経典」ですが、わざわざ「正典」と呼ぶのはCanonという決まった用語の翻訳だからです。Canonは「はかり、物差し、規準」などの意味です。

したがって、この条文の意味は、日本基督教団は「聖書というはかり」に収まる範囲のキリスト教信仰を共有しているということです。この「はかり」を超えて主張されることになれば、異端または別の宗教であると判定せざるをえないということです。

20世紀オランダのプロテスタント神学者ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が聖書について述べた複数の文章が『ファン・ルーラー著作集』第2巻(原著オランダ語版、2008年)に収録されていることが分かりました。「聖書の権威と信仰の確かさ」(1935年)、「信仰の土台としての聖書」(1941年頃)、「聖書の権威と教会」(1968年)、「聖書の扱い方」(1970年)など。

これらのファン・ルーラーの文章すべてに一貫していたのが「私たちは聖書に書かれていることだから信じている」という主張の線です。また「聖書の権威」と「信仰の確かさ」は両方あって初めて成り立つ、ということも繰り返し主張されていました。

たとえば、創世記3章にエバと蛇が会話する場面が出てきます。民数記22章にはバラムがロバと会話する場面が出てきます。こういう箇所を読んで「蛇やロバが人間と会話できるはずがない。聖書に書かれていることはウソばかりだ」と言い出すのは聖書の本質が分かっていないからだとファン・ルーラーは言います。「聖書」には、歴史、文学、書簡、詩歌など、さまざまな文学形式で記されている文書が収められています。

また、ファン・ルーラーが書いていることの中でこのたび私が最も感銘を受けたのは、〝聖書がユダヤ人によって書かれたものであることは、私たちゲルマン人にとって、自分たちの内側には真理が無かったことを意味する〟と彼が主張しているくだりです。

以下、ファン・ルーラーの説明を要約してご紹介いたします。

本など他にもたくさんあるのに、聖書を「本の中の本」と呼ぶのはなぜだろう。古い本を読んで我々ゲルマン人の魂の本質を知りたいだけなら、ヴァイキング時代を描いた北欧神話『エッダ』に手を伸ばすほうがよいのではないかと思うのに、そうしないで聖書を読もうとすることに、我々はもっと違和感を抱くべきであるとファン・ルーラーは言います。あまりに慣れすぎて我々はその違和感を認識できないのだ、と。

我々ゲルマン人が「外部からもたらされた救い」によって「改宗」したのは「クローヴィス」の頃だと書いています。それはフランク国王クローヴィス1世(西暦466~511年)が、妻のひとりがキリスト者だったことで自分自身も西暦496年にキリスト教に改宗したことを指しています。

その「クローヴィスの改宗」こそ、ゲルマン人にとっての「転換」であり、最も深い自己意識と決別したことを意味する。それは「いまだに完全には癒えていない我々の魂の傷」であり、だからこそ「国家社会主義〔ナチス〕はその転換を覆そうとしたし、現代の西洋社会はその転換を超克したいと望んでいる」とファン・ルーラーが書いています(「聖書の扱い方」1970年参照)。

ファン・ルーラーの文章を読んで私が考えさせられたのは、1549年フランシスコ・ザビエル来日から476年、ベッテルハイム宣教師の沖縄伝道開始1846年から179年、ヘボン、ブラウン両宣教師の横浜到着1859年から166年を経ても日本の大半の人々に「転換」が起こらないのは、「外部の真理」によって転換させられることを恐れているからだ、ということです。

今申し上げたことは、日本基督教団信仰告白に明記されていません。しかし「聖書」は「日本にとっての外部の真理」であるという点が勘案されるべきです。そのことが認識されないかぎり「改宗」が起こることはありません。私の父も母も戦後に洗礼を受けてキリスト者になりました。1945年の敗戦という事実を突きつけられて「我々の内側には真理は無かった」と思い知らされたからだと思います。

「外部から持ち込まれた真理」によって、まず自分自身が変えられ、それを広く宣べ伝えるのが「教会」ですから、「身内で固まりたい人たち」や「民族主義的な人たち」からは嫌われます。違和感を示されることが多いです。

だからこそ逆に、教会は「身内で固まりたい人たち」や「民族主義的な人たち」から排除された人たちにとっての「避けどころ」(シェルター)や「出口」になり、そこに新しい共同体が生まれます。「日本人」という概念の今日的な意味は、少なくとも私には明確には分かりません。

「キリスト教は敵国の宗教だ」と言われた時期が長かったと思います。しかし、キリスト教の起源は、アメリカでもヨーロッパでもなく、アジアです。

オランダ人のファン・ルーラーが1970年の時点で「聖書」は「外部の真理」だと言っているのですから、私が申していることも「今この瞬間に日本列島に在住している私たち」にとってだけ「外部」だという意味ではありません。実はユダヤ人にとっても「外部」でした。究極的には神ご自身が人間にとっての「外部」です。「改宗」のために「外部の真理」が必要なのです。

(2025年5月4日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」目次に戻る