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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「復活の力」年末礼拝
フィリピの信徒への手紙 3 章12~14節
関口 康
「なすべきことはただひとつ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13-14節)
今日は、2025年最後の礼拝です。
週報に人数を記しましたが、クリスマス礼拝も、クリスマスイヴ礼拝も盛会でした。礼拝堂が小中高校の 1 教室の広さなので、「満員」と言えるでしょう。「満員御礼」という垂れ幕を天井からぶら下げると楽しいかもしれません。
今年 9 月 7 日(日)足立梅田教会創立72周年記念礼拝で再確認したのは、創立者・藤村靖一先生がお立てになった「ゆっくりゆっくり」という基本方針です。骨子は次の 3 つです。
1. 集会をできるだけ少なくする。
2. 受洗者は年にひとりでよい。しかし、最後まで脱落しないように祈る。
3. 牧師の生活は自分で支える。
集会の回数については、昨年から教会学校を年 4 回の目標で再開したことと、今年 5 月から奇数月の礼拝後に祈祷会を始めましたので、むしろ増えました。しかし、元々あった集会を復活させたものです。
受洗者は何年もいません。牧師は副業を求めていますが、できそうなのが見つかりません。自炊してエンゲル係数を減らしています。
60歳になりましたので、最速で 5 年後には国民年金を受給可能な年齢になります。しかし、政治家が余計なことをして受給年齢を引き上げられたりすると長引きます。
いま申し上げたことは悪い意味で言っていません。副産物があります。
受洗者の件の副産物は、ノルマ主義からの解放です。
東京神学大学を含むすべての神学部・神学校が、学生不足で苦しんでいます。それはそうでしょう。驚くことではありません。根本的な問いは「神は自動的・機械的に一定数の人々に召命を与えるのか」ということです。ありえないでしょう。
「召命」は牧師になることだけでなく、洗礼を受けることも同じです。毎年ひとりずつ、神が人をお召しになるでしょうか。神の選びは神の自由です。私たちにできるのは、教会の仲間がもっと多く与えられますように、と祈ることだけです。
牧師の自活問題の副産物は、牧師の料理の腕前が飛躍的に向上したことです(自己評価)。私の料理が「売り物になる」とほめてくださる方がおられますが、本気で商売を始めると説教どころではなくなります。商売の世界は甘くないです。
今日はフィリピの信徒への手紙 3 章12節から14節までを朗読していただきました。説教題の「復活の力」という言葉は 3 章10節に出てきます。あとで触れます。
パウロが強調しているのは、目標を目指して走っている私は、ゴールに達していないという意味で、途上にある、不完全な者である、ということです。
これは、自分の存在をどのようなものとしてとらえるかという自己認識の問題です。自分は不完全な者であり、それゆえ謙虚でなければならない存在なのだと、パウロは確信しています。
「賞を得るために走る」とはレースに参加することです。このレース場はぐるぐる回るトラック(Track)式の競技場です。競技種目は分かりません。競馬かもしれませんし、人間の足で走る競争かもしれません。
しかし、重要なことは、パウロがこれを特別な日のレースの話にしていないことです。ごく普通の日常生活のすべてをレースに見立てています。
そのように説明すると、かえって疑問が増えるかもしれません。
「日常生活がレースであるということは、生きているだけで賞をもらえるということですか。何をもらえるのですか。お金ですか、モノですか、笑顔だけですか。1 等だけですか。何等までありますか。参加賞はありますか」。
これらの疑問に答えをもらえる優れた言葉が、私が愛用している註解書に記されていました。
「賞は参加への招待である」(De prijs bestaat uit de uitnodiging om mee te doen)
(A. F. J. Klijn(クレイン), De brief van Paulus aan de Filippenzen(フィリピ書註解), Prediking van het Nieuwe Testament, 1969, p. 81)。参加賞は全員もらえます。
しかし、気になることがあります。それは、レースのたとえなのにレースらしくないことです。他人との比較が問題になっていません。パウロは、自分はまだゴールにたどり着いていないということだけを言っています。ここに描かれているのは、他のだれかと順位を争うレースではありません。
戦う相手はどうやら自分自身です。自分の不完全さ、未熟さを自覚し、たかをくくらず、高慢に陥らず、地上の命が尽きるまで神と教会に仕える生涯を送ることを指しています。
それをパウロは、独特の言葉で表現しています。
「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(10~11節)。
要するにパウロは「私は復活したい」と言っています。「何とかして復活に達したい」と。
解釈が難しい言葉があります。それは「その苦しみにあずかって」の「その」です。「どの」苦しみにあずかる(参加する)のでしょうか。「その」という指示代名詞が指す言葉が何なのかが分かりません。
通常、指示代名詞は直前の言葉を指しますので、可能性は 3 つあります。
①「キリストの」苦しみ。
②「キリストの復活の」苦しみ。
③「キリストとその復活の力とを知る」苦しみ。
①「キリストの苦しみ」と理解する可能性は、最も説明しやすさがある選択肢ですが、具体性が乏しいです。私たちが「キリストの苦しみ」にあずかるとは、私たちが十字架につけられて死ぬことを意味するでしょうか。
③を②よりも先に言います。③「キリストとその復活の力とを知る苦しみ」だとすれば、聖書とキリスト教を学ぶことが苦しい、という意味になるでしょう。そのような感想を持つ人がいないとは限りませんが、パウロがそういうことを言うとは考えにくいです。
②は、「キリストの復活の苦しみ」です。復活とは苦しいものだということです。復活は自動的に起こることではありません。死の苦しみを乗り越え、必死でもがいて、何度でも何度でも立ち上がることが「復活」だということです。
私がおすすめしたいのは②の読み方です。「キリストの復活の苦しみにあずかる」です。これで行けば「何とかして死者の中からの復活に達したい」(11節)というパウロの言葉の意味を理解できるようになるでしょう。
それは、幼虫がさなぎになり蝶になる、あの変態(メタモルフォーゼ Metamorphose)に近いです。
「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)という主イエスの御言葉に具体性を与えます。
先ほどと同じ註解書ですが、著者(クレイン先生)の説明もこれに近いです。
「復活を知るとは、苦しみを知ることを意味すると言えるだろう。苦しみなくして復活なし(Geen opstanding zonder lijden; No resurrection without suffering)であることをキリストは示された」(A. F. J. Klijn, Ibid. p. 79)。
足立梅田教会は死んでいません。「復活」という言葉は当教会には当てはまりません。しかし、「キリストの復活の苦しみにあずかる」ことができれば、教会の活気をもっと多く取り戻すことができるでしょう。
「苦しみなくして復活なし」(ノー・レザレクション・ウィズアウト・サファリング No resurrection without suffering)です。
来年もよろしくお願いいたします。
(2025年12月27日 日本基督教団足立梅田教会 年末礼拝)




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