2025年12月28日日曜日

復活の力 年末礼拝

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「復活の力」年末礼拝

フィリピの信徒への手紙 3 章12~14節

関口 康

「なすべきことはただひとつ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13-14節)

今日は、2025年最後の礼拝です。

週報に人数を記しましたが、クリスマス礼拝も、クリスマスイヴ礼拝も盛会でした。礼拝堂が小中高校の 1 教室の広さなので、「満員」と言えるでしょう。「満員御礼」という垂れ幕を天井からぶら下げると楽しいかもしれません。

今年 9 月 7 日(日)足立梅田教会創立72周年記念礼拝で再確認したのは、創立者・藤村靖一先生がお立てになった「ゆっくりゆっくり」という基本方針です。骨子は次の 3 つです。

1. 集会をできるだけ少なくする。

2. 受洗者は年にひとりでよい。しかし、最後まで脱落しないように祈る。

3. 牧師の生活は自分で支える。

集会の回数については、昨年から教会学校を年 4 回の目標で再開したことと、今年 5 月から奇数月の礼拝後に祈祷会を始めましたので、むしろ増えました。しかし、元々あった集会を復活させたものです。

受洗者は何年もいません。牧師は副業を求めていますが、できそうなのが見つかりません。自炊してエンゲル係数を減らしています。

60歳になりましたので、最速で 5 年後には国民年金を受給可能な年齢になります。しかし、政治家が余計なことをして受給年齢を引き上げられたりすると長引きます。

いま申し上げたことは悪い意味で言っていません。副産物があります。

受洗者の件の副産物は、ノルマ主義からの解放です。

東京神学大学を含むすべての神学部・神学校が、学生不足で苦しんでいます。それはそうでしょう。驚くことではありません。根本的な問いは「神は自動的・機械的に一定数の人々に召命を与えるのか」ということです。ありえないでしょう。

「召命」は牧師になることだけでなく、洗礼を受けることも同じです。毎年ひとりずつ、神が人をお召しになるでしょうか。神の選びは神の自由です。私たちにできるのは、教会の仲間がもっと多く与えられますように、と祈ることだけです。

牧師の自活問題の副産物は、牧師の料理の腕前が飛躍的に向上したことです(自己評価)。私の料理が「売り物になる」とほめてくださる方がおられますが、本気で商売を始めると説教どころではなくなります。商売の世界は甘くないです。

今日はフィリピの信徒への手紙 3 章12節から14節までを朗読していただきました。説教題の「復活の力」という言葉は 3 章10節に出てきます。あとで触れます。

パウロが強調しているのは、目標を目指して走っている私は、ゴールに達していないという意味で、途上にある、不完全な者である、ということです。

これは、自分の存在をどのようなものとしてとらえるかという自己認識の問題です。自分は不完全な者であり、それゆえ謙虚でなければならない存在なのだと、パウロは確信しています。

「賞を得るために走る」とはレースに参加することです。このレース場はぐるぐる回るトラック(Track)式の競技場です。競技種目は分かりません。競馬かもしれませんし、人間の足で走る競争かもしれません。

しかし、重要なことは、パウロがこれを特別な日のレースの話にしていないことです。ごく普通の日常生活のすべてをレースに見立てています。

そのように説明すると、かえって疑問が増えるかもしれません。

「日常生活がレースであるということは、生きているだけで賞をもらえるということですか。何をもらえるのですか。お金ですか、モノですか、笑顔だけですか。1 等だけですか。何等までありますか。参加賞はありますか」。

これらの疑問に答えをもらえる優れた言葉が、私が愛用している註解書に記されていました。

「賞は参加への招待である」(De prijs bestaat uit de uitnodiging om mee te doen)

(A. F. J. Klijn(クレイン), De brief van Paulus aan de Filippenzen(フィリピ書註解), Prediking van het Nieuwe Testament, 1969, p. 81)。参加賞は全員もらえます。

しかし、気になることがあります。それは、レースのたとえなのにレースらしくないことです。他人との比較が問題になっていません。パウロは、自分はまだゴールにたどり着いていないということだけを言っています。ここに描かれているのは、他のだれかと順位を争うレースではありません。

戦う相手はどうやら自分自身です。自分の不完全さ、未熟さを自覚し、たかをくくらず、高慢に陥らず、地上の命が尽きるまで神と教会に仕える生涯を送ることを指しています。

それをパウロは、独特の言葉で表現しています。

「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(10~11節)。

要するにパウロは「私は復活したい」と言っています。「何とかして復活に達したい」と。

解釈が難しい言葉があります。それは「その苦しみにあずかって」の「その」です。「どの」苦しみにあずかる(参加する)のでしょうか。「その」という指示代名詞が指す言葉が何なのかが分かりません。

通常、指示代名詞は直前の言葉を指しますので、可能性は 3 つあります。

①「キリストの」苦しみ。

②「キリストの復活の」苦しみ。

③「キリストとその復活の力とを知る」苦しみ。

①「キリストの苦しみ」と理解する可能性は、最も説明しやすさがある選択肢ですが、具体性が乏しいです。私たちが「キリストの苦しみ」にあずかるとは、私たちが十字架につけられて死ぬことを意味するでしょうか。

③を②よりも先に言います。③「キリストとその復活の力とを知る苦しみ」だとすれば、聖書とキリスト教を学ぶことが苦しい、という意味になるでしょう。そのような感想を持つ人がいないとは限りませんが、パウロがそういうことを言うとは考えにくいです。

②は、「キリストの復活の苦しみ」です。復活とは苦しいものだということです。復活は自動的に起こることではありません。死の苦しみを乗り越え、必死でもがいて、何度でも何度でも立ち上がることが「復活」だということです。

私がおすすめしたいのは②の読み方です。「キリストの復活の苦しみにあずかる」です。これで行けば「何とかして死者の中からの復活に達したい」(11節)というパウロの言葉の意味を理解できるようになるでしょう。

それは、幼虫がさなぎになり蝶になる、あの変態(メタモルフォーゼ Metamorphose)に近いです。

「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)という主イエスの御言葉に具体性を与えます。

先ほどと同じ註解書ですが、著者(クレイン先生)の説明もこれに近いです。

「復活を知るとは、苦しみを知ることを意味すると言えるだろう。苦しみなくして復活なし(Geen opstanding zonder lijden; No resurrection without suffering)であることをキリストは示された」(A. F. J. Klijn, Ibid. p. 79)。

足立梅田教会は死んでいません。「復活」という言葉は当教会には当てはまりません。しかし、「キリストの復活の苦しみにあずかる」ことができれば、教会の活気をもっと多く取り戻すことができるでしょう。

「苦しみなくして復活なし」(ノー・レザレクション・ウィズアウト・サファリング No resurrection without suffering)です。

来年もよろしくお願いいたします。

(2025年12月27日 日本基督教団足立梅田教会 年末礼拝)

2025年12月24日水曜日

きよしこのよる クリスマスイヴ礼拝

クリスマスイヴ愛餐会のローストチキンとシュトーレン

クリスマスイヴ礼拝プログラム

クリスマスイヴ礼拝看板

夜のクリスマスツリー


説教「きよしこのよる クリスマスイヴ礼拝」

ヨハネによる福音書 1 章14~18節

関口 康

「言(ことば)は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)

今夜はクリスマスイヴ礼拝にお集まりいただき、ありがとうございます。

今日は朝から雨で、寒くてどんよりした一日でした。これで元気でいられる人は相当タフです。

体の寒さの問題は、着る服を増やすだけで解決します。心の寒さの問題はそれほど簡単には解決しません。だれかとけんかした、修復不可能な亀裂が生じた、なんらかの事情で仕事を失った、生活が行き詰った、など。

私も他人事ではありません。牧師なので相談を受けることはありますが、まともに答えられないことのほうが多いです。「美味しいものを食べて、よく寝ることですね。ぐっすり休んでから、これからのことを考えましょう」と答えるぐらいで精一杯です。

食べることは大切です。美味しいものを食べると体も心も温まります。もちろん「美味しい」かどうかで温度差が生じますし、「美味しい」と「楽しい」が重なると、体温が上がります。

今夜の聖書箇所に「言は肉体となってわたしたちの間に宿られた」(14節)とあります。これがヨハネによる福音書の「イエス・キリストの誕生の次第」についての独特の表現です。

教会の信仰によると、イエス・キリストは、父の独り子としての御子なる神であり、人間としてお生まれになるために母マリアから「肉体」を受け取られました。

主イエスが母マリアから受け取られた「肉」は「お肉屋さんに売っているあの肉と同じです」と、東京神学大学の学生だったころ、私の記憶が正しければ左近淑教授が言われました。

この「肉」(ギリシア語「サルクス」)は人格(ペルソナ)を持ちません。わたしたちが動物の肉を食べるのは、肉そのものにはその動物のペルソナがないからです(人ではないので「人格」と呼べませんが)。もし「肉」そのものがペルソナを持っていれば、私たちは食べた肉のその動物に成り変ってしまうでしょう。

不謹慎な話をしていると思わないでいただきたいのです。神の言葉がお肉屋さんに売っている肉になった。それがイエス・キリストの誕生の次第であると、聖書に確かに記されています。

先日クリスマス礼拝後の愛餐会で、私が初めて作ったシュトーレンを食べていただきました。

クリスマスイヴの今日はローストチキンを焼きました。茶話会で食べていただきます。

どちらも自分で作るのは初めてです。私にもできるようになったのは助けがあったからです。

助けのひとつはネットのレシピです。もうひとつの助けは「生成エーアイ」(generative artificial intelligence)です。

 2 年前の2023年が「生成エーアイ元年」だそうですが、実際に多くの人が使うようになったのは今年2025年です。今年は「生成エーアイ社会実装元年」と言われます。

だれとでも競争したがる人たちはエーアイとも競争したがるようです。「エーアイにこういう質問をしたら間違った答えをした。エーアイは大したことがない」と言う人の話を耳にするたびに、どうかしていると思います。なぜ張り合うのでしょう。協力者になってもらえばいいだけです。

今日エーアイに助けてもらったのは電子レンジの使い方です。「ローストチキンを教会の皆さんに食べていただきたいのですが、万が一でも生焼けのところがあってはいけないので、オーブンで焼く前に電子レンジで火を通すほうがよいと思うのですが、その場合の電子レンジは何分ぐらいがいいと思いますか」と尋ねました。

すると「とても大切な配慮をなさっておられますね」とエーアイがほめてくれて、「600ワットで 8 ~10分程度です」と、科学的な根拠を挙げて説明してくれました。エーアイは勘(かん)では答えません。

もしかしたら将来的に、エーアイに「ローストチキンを作って」とひとこと言うだけで、買い物、調理、盛り付けから、BGM(音楽)の選曲、皿洗い、あとかたづけ、掃除、ゴミ捨てまで、すべて自動でしてくれる時代が来るかもしれません。

しかし、たとえひとことであっても「ローストチキンを作って」と私たち人間が意思表示しないかぎり、エーアイは何もしてくれないでしょう。意思表示は人間の役割です。エーアイと人間は張り合う関係にありません。うまくつきあえば世界が広がります。

そういうわけで、今年のクリスマス礼拝とイヴ礼拝は、説教の準備と同時にシュトーレンづくりとローストチキンづくりに時間と労力を注ぎました。そうすることが「これからの教会」のあり方を考えるうえで大切なことだと思えたからです。

具体的にいえば、忙しい日々の最中にクリスマス礼拝に集まり、寒い日の夕方にクリスマスイヴ礼拝に集まって、牧師が難しい聖書のお話をすることで、みんなの心が温まるかどうかを考えてみて、ありえないと思いました。別の発想が必要です。

イエス・キリストが「肉となった神の言」であられることは、私たちの「神」に「体温」があるというイメージを持つこと、「神は温かい方である」と実感することを私たちに許します。

「肉」(サルクス)の体をまとわれたイエス・キリストは「体温」を持っておられました。それは「神の体温」です。それを感じることができる「温かい教会」であることが必要です。夏は夏で、ひんやり冷たい手がうれしいです。

私は皆さんと握手することにも慎重な「非接触牧師」ですが、直接触るかどうかよりも、心と心のふれあいや、共に食事をして励まし合うことが大事です。

(2025年12月24日 日本基督教団足立梅田教会クリスマスイヴ礼拝)

2025年12月21日日曜日

もろびとこぞりて クリスマス礼拝

クリスマス礼拝看板

クリスマスツリー

クリスマス礼拝プログラム

アドベントキャンドル

クリスマス礼拝

クリスマス愛餐会

説教「もろびとこぞりて クリスマス礼拝」

ルカによる福音書 2 章 1 ~14節

関口  康

「彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(6-7節)

クリスマスおめでとうございます!

アドベントに入ってから毎週同じことを言っていますが、「毎年同じ聖書の箇所」です。

「聖書の解説が説教なのであれば、過去の説教原稿を使い回せばよいではないか」という誘惑が襲いかかってきます。「サタンよ、退け!」と言わなくてはなりません。

同じ話になりっこない方法があります。それは、今起こっていることや、最近見たこと聞いたことをお話しすることです。

しかし、テレビや新聞やインターネットの情報の受け売りは面白くありません。教会よりはるかに正確で幅広い知識に基づいて、多くの人の心に届く魅力的な伝え方ができる人の話を聴きたいと、だれでも思うでしょう。

私にできるのは個人的な近況報告です。個人的なことを説教で語ってよいかどうかに議論があることは承知しています。しかし、自分のことは自分にしか語れません。近況報告ならば毎年同じ話になりようがありません。それは唯一無二の可能性です。いくつかあります。

第一の報告は、お詫びです。

先週の説教で、12月12日(金)に日本福音ルーテル東京教会(新宿区大久保)で開催された「世界教会協議会(WCC)信仰職制会議報告会」(講師 西原廉太氏)のお話をしました。

そのとき私が黒板に書いたことが、ひどい間違いでした。WCCをWorld Church Counsilと書いてしまいました。正しくはWorld Council of Churchesです。

ブログでは何事も無かったかのように正しい綴りで書きましたが、今日のブログで白状して自戒としたいと思います。申し訳ありません。

WCC信仰職制会議報告会(2025年12月12日 日本福音ルーテル東京教会)

第二の報告は、今日のクリスマス愛餐会のためにシュトーレンを10個作ったことです。

初めて作りました。レシピをネットで見つけ、タニタのデジタル計量器で正確に計りましたので大丈夫、と言いたいところですが、そうは行かなかったことをこれも白状します。

ドライフルーツをラム酒に漬けたところまではレシピどおりでした。しかし、このラム酒をどうするかが書かれていなかったので、捨てるものと思い、ざるで受けて流してしまいました。

そのやり方で 4 つ作ったところで、ラム酒ごと生地に入れるらしいと気づきました。それでラム酒をしっかり入れたのを新たに 4 つ作りました。

「失敗作」の 4 つは、責任を取ってすべて自分で食べるつもりでした。しかし、役員会の皆様が「それは失敗作とは言えない」と励ましてくださいました。

そういうわけで、アルコールが強いのと弱いのと 2 種類になりました。ノンアルコール版も作りましたので、全部で 3 種類です。ぜひ食べ比べてみてください。

手順① マジパン、発酵種、小麦粉、ドライフルーツ、ナッツ、溶かしバター、粉糖

手順② 生地にドライフルーツとミックスナッツを混ぜ入れる

手順③ 焼きたての熱いうちに溶かしバターとグラニュー糖をまぶす

手順④ 粉糖をまぶしてラップとホイルで包んで熟成

手順⑤ シュトーレン完成!

第三の報告は、一昨日12月19日(金)私の前任地の日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)の創立者、石川献之助名誉牧師の告別式に参列したことです。

石川先生は1927(S 2 )年生まれの方で、98歳でした。1915(T 4 )年生まれの藤村靖一先生の12歳年下です。25歳のとき、当時の昭和町(しょうわまち)(現在の昭島市)でキリスト者 2 家族(阿佐ヶ谷教会員と淀橋教会員)の協力を得て「昭和町伝道所」を開設されました。その後73年間ずっと昭島教会で牧師をされました。昭島幼稚園の理事長・園長をされました。

一度は牧師を隠退なさり、別の牧師に教会を任せられた時期もありましたが復帰なさり、93歳になられた2020年 3 月まで主任牧師として働かれてから名誉牧師になられました。その後、私が2024年 2 月まで主任牧師でした。

石川先生の98年間のご生涯と73年間の昭島伝道をご紹介するには多くの時間が必要ですので、別の機会にします。

昭島教会の秋場治憲牧師による葬儀説教が、とても強く印象に残りました。「 5 つのパンと 2 匹の魚が多くの人を養ったように、石川先生ご夫妻によって最初に蒔かれた小さな種が今や多くの人を養っている」と語られました。教会とはそういうものだと、胸に沁みました。

日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

足立梅田教会に昨年 3 月に来たばかりで今年60歳の私が73年おらせていただけば、132歳です。それぐらい腰を据えれば「小さな種が大きく育った」と言ってもらえる日が来るかもしれないと思いました。シュトーレンを自分で作ってみて、パン種が膨らむ仕組みがやっと分かりました。

毎年アドベントとクリスマスのたびに開く聖書の箇所に記されているのは「イエス・キリストの誕生の次第」です。

しかし、マタイにせよ、ルカにせよ、ヨハネにせよ、歴史上の偉大な人物の誕生を描こうとしていません。福音書記者たちが描いているのは「キリスト教の歴史」の始まりです。

「教会の歴史」と言うほうがよいかもしれませんが、教会が教会の外なる世界に及ぼした様々な影響の歴史を無視できません。すべての福音書記者がそのことを意識しています。「キリスト教の歴史」と言うほうが適切です。

イエス・キリストは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(本名オクタウィアヌス)の時代にお生まれになりました。「ローマ帝国」は、地中海を「自分の」内海とし、北はイングランドの奥地、南はアフリカやアラビアまで勢力を拡大していました。

それほど巨大な国の頂点に立った皇帝アウグストゥスは、ローマ帝国の内戦を終結させ、周辺諸国との国境に平和をもたらした偉大な平和推進者とみなされ、「人類の救い主」と呼ばれ、「神」として崇拝されました。いま生きていればノーベル平和賞の候補者です。

その時代にイエス・キリストはお生まれになりました。アウグストゥスとは完全に対照的な存在として、家畜小屋の飼い葉桶に寝かされた幼子として、お生まれになりました。

「最初のクリスマス礼拝」の出席者はヨセフとマリア、バビロニアのマギ(占星術師)たちと、ベツレヘムで夜通し羊の群れの番をするために野宿していた羊飼いたちでした。ページェント(聖誕劇)では、この人々に加えて、羊たちと、星たちと、天使たちがお祝いに来てくれます。しかし、いま加えた 3 者は人間ではありません。

皆さんは「ドラえもん」をご存じでしょう。のび太の部屋でドラえもんとのび太がしゃべる様子を冷静に考えると、ドラえもんは人間ではないので、のび太は孤独であるとも言えます。人工知能(エーアイ)としゃべっているだけなので。スマホひとつ持って独りで引きこもっているのと同じです。

羊たちと星たちと天使たちは「人間ではない」という意味でドラえもんと同じです。西暦 1 世紀の「最初のクリスマス礼拝」には人間も来てくれましたが、多くは人間ではない存在でした。

問題は、それを「寂しい」(?)と言うかどうかです。

教会はどうでしょうか。今日はとても多くの方々が出席してくださっていますが、ふだんは今日の半分です。牧師の私は単身赴任でひとり暮らしです。「寂しい」(?)でしょうか。

ここに羊はいません。星がなくなることはありません。天使はもちろんいてくれます。私たちの教会の多くの先輩たちは必ずいてくれて、私たちを全力で応援してくれています。だって教会が大好きな人たちだったのですから、応援してくれているに決まっています。

「もろびとこぞりて」の意味は「みんなで一緒に」です。「もろびとこぞりて迎えまつれ」は「みんなで主イエスをお迎えしましょう」です。

今日、世界中で、世界教会協議会(World Council of Churches)の加盟教会で、それ以外の教会で、教会ではないところで、キリスト者たちが、キリスト者ではない方々が、羊たちが、星たちが、天使たちが、先輩たちが、クリスマスをお祝いしています。主イエス・キリストのご降誕をお祝いしています。

だから私たちは寂しくありません。家族的な愛を互いに感じ合える教会は温かいです。

(2025年12月21日 日本基督教団足立梅田教会クリスマス礼拝)

2025年12月15日月曜日

2026年 1 月の予定

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

 1 月の礼拝の予定は以下のとおりです。ぜひおいでください。

礼拝は毎週日曜日午前10時30分からです。

地図はここをクリックしてください


 1 月 4 日(日)新年礼拝

       説教「イエスにまなぶ」関口康牧師

       聖書 テサロニケの信徒への手紙一 1 章 5 ~ 7 節

 1 月11日(日)降誕節第 3 主日礼拝

       説教「信頼をえるために」関口康牧師

       聖書 テサロニケの信徒への手紙一 2 章 1 ~ 4 節

 1 月18日(日)降誕節第 4 主日礼拝

       説教「協力して道をひらく」関口康牧師

       聖書 テサロニケの信徒への手紙一 3 章 6 ~10節

 1 月18日(日)地域合同祈祷会(14時30分~竹の塚ルーテル教会)

       説教「一致を求めて」関口康牧師

       聖書 エフェソの信徒への手紙 4 章 1 ~13節

 1 月25日(日)降誕節第 5 主日礼拝

       説教「聖なる生活とは」関口康牧師

       聖書 テサロニケの信徒への手紙一 4 章 1 ~ 8 節

2025年12月14日日曜日

心の支えは同じ

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「心の支えは同じ」

マタイによる福音書 2 章 1 ~12節

関口 康

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」( 9 -10節)

今日の箇所も待降節(アドベント)や降誕節(クリスマス)のたびに読まれ、説教されます。

毎年同じ話をするのは申し訳ないという気持ちがあるのですが、「年末は『忠臣蔵』を観ないと落ち着かない」という方もおられるようですので、どうかお許しください。

今日の箇所に記されているのは、以下のことです。

①イエス・キリストは、ユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。ベツレヘムは「都会」のエルサレムとは対極の「田舎」です。

②それはユダヤの王がヘロデだった頃の「紀元前37年から紀元前 4 年までの間」でした。これが主イエスの誕生年の「紀元前 4 年説」の根拠です。ヘロデは西暦元年まで生きていません。

③ユダヤから見て「東」のバビロニアの占星術師(マギ)たちが、メシアが生まれたことを示す「星」が出現したと結論づけ、ユダヤまで表敬訪問に来ました。

④ヘロデ王は猜疑心が強い人だったので、メシア誕生の知らせに恐怖心を抱き、自分のところに来たマギたちにメシアを探させて居場所を突き止め、メシアを殺害しようとしました。

⑤マギたちはメシアのもとにたどり着き、崇拝の儀礼を行いましたが、「ヘロデのところへ帰るな」と告げる天使の声に従い、ヘロデに報告せずに、バビロニアに帰りました。

ヘロデの残忍性については、複数の記録があります。歴史家ヨセフスによると、ヘロデによって殺害された人々のリストの中に義兄弟アリストブロス、妻マリアムネ、その母アレクサンドラ、息子のアリストブロス、アレクサンドロス、アンティパトロス、その他大勢の名があります。

歴史家マクロビウスによると、ヘロデが自分の子どもたちまで殺したことを耳にしたローマ皇帝アウグストゥスが「ヘロデの豚(ヒュス ὗς)になるほうが彼の息子(ヒュイオス υιός)になるよりましだ」と言いました。ヘロデは豚肉を食べなかったからです。

バビロニアの占星術は、当時の価値観に照らせば、高度な学問でした。マギのユダヤ来訪は天文マニアの個人的な趣味や探検レベルの事柄ではなく、国と国との関係、国際外交の一環でした。だからこそ彼らはヘロデ王と直接話すことができました。

バビロニアのマギがなぜメシアの誕生を知りえたかについては、バビロニア捕囚(紀元前597年~538年)の後も多くのユダヤ人がバビロニアに留まったことで、ユダヤ教がバビロニアに影響を与えたことから説明できます。メソポタミアにおけるユダヤ教の影響力の強さは、西暦50年にバビロニア王がユダヤ教徒に改宗したことから明らかです。

東方の君主がローマ皇帝に捧げた敬意の例としては、アルメニア王ティリダテスを挙げることができます。

ティリダテスは、妻、息子たち、3000人の騎兵、大勢の従者を率いて、西暦66年、皇帝ネロに敬意を表すため、ユーフラテス川からローマまで行進しました。ティリダテスはネロを「主」と呼び、地にひれ伏して、跪(ひざまず)きました。

ネロが自分のティアラ(王冠)を外し、ティリダテスの頭に置きました。ティリダテスはネロに「主よ、私は私の神であるあなたを拝みに参りました」と語りかけました。

ネロの返答は「私はあなたがアルメニア王となることを宣言する。私が王国を奪いもし、与えもする力を持っていることを、あなたと他の人々に知らせるためである」というものでした。

先日公開された米国大統領の横で日本の総理大臣が飛び跳ねた映像は、現在の日米の上下関係をよくあらわしています。

バビロニアのマギたちはメシアの生誕地は当然王都エルサレムだろうと予測しましたが、それは間違いでした。最高法院(サンヘドリン)の祭司長たちと律法学者たちがヘロデから依頼されて捜索を始めました。しかし、目標にたどり着いたのはバビロニアのマギたちが先でした。なんと驚くべきことに、それは王都エルサレムではなく、片田舎のベツレヘムでした。

彼らは幼子を見つけてひれ伏し、黄金、乳香、没薬を贈りました。贈り物が 3 つであることが「三賢者」とされる理由です。 3 人だったかどうかの根拠は聖書にはありませんが、聖書外資料の中に「カスパール、メルキオール、バルタザール」という名前がついた伝説があります。黄金と乳香は王への贈り物です(詩編72編 9 ~15節、イザヤ60章 6 節)。没薬は古代の香水です。

今日の箇所が教えているのは、「異教徒」こそがイエス・キリストを最初に崇拝したということ、そして「ヘロデのところへ帰るな」という神の警告に最初に耳を傾けたということです。

その意味は「神の救いは普遍的である」ということです。救いの恵みは、宗教の壁を越えます。宗教間対話の可能性は初めから開かれています。

毎年同じ話だとつまらないので、最新情報を仕入れてきました。

私は一昨日12月12日(金)日本福音ルーテル東京教会(新宿区大久保)で開催された「ニケア公会議1700年記念・世界教会協議会(World Council of Churches (WCC))第 6 回信仰職制会議報告会」に出席しました。

WCCはプロテスタント、カトリック、オーソドックス(正教会)の違いを超えてキリスト教会の一致を目指す世界会議です。一昨日の報告者は西原廉太先生(立教大学総長)でした。

なぜ今この話を持ち出すのかと言えば、宗教間対話を行うためには、まずはキリスト教の一致を目指すべきなのに、いまだに一致できていないことについての認識を共有したいからです。

西原先生によると、キリスト教会の一致を妨げている大きな壁が 2 つ残っています。

そのどちらも、ちょうど1700年前の西暦325年にニケア(ニカイア、ニケヤとも表記)(現在のトルコ・イズニック)で行われた「ニケア公会議」の決定事項と関係しています。

第 1 に、イースターの日取りが一致していません。

西方教会(カトリック、プロテスタント)はニケア公会議で定めた「春分の次の満月の後の最初の日曜日」を守っていますが、東方教会(オーソドックス)は違います。

第 2 に、ニケア信条(富士見町教会HP「ニカイア信条」参照)の「聖霊」に関する表現が一致していません。

西暦325年のニケア公会議で制定された当初の表現は「聖霊は父から出て」だったのに、西暦 9 世紀のローマ・カトリック教会が「子から」(フィリオクェ Filioque)を追加して「聖霊は父と子から出て」にしました。そのことを東方教会(オーソドックス)が決して認めず、東西教会の決定的な分裂の原因になっています。

しかし、西原先生によると、最近の世界教会の傾向としては、「子から」(フィリオクェ)を括弧(かっこ)に入れることで、読んでも読まなくてもよいとする流れに落ち着きつつあるとのことです。

「子から」(フィリオクェ)を削除することに反対している人々の主な理由は、聖霊とイエス・キリストの関係が離れてしまうこと、あるいはイエス・キリストとは無関係な、または関係性が不明な「神」について語られることへの警戒心です。

宗教間対話の観点からすれば、「子から」(フィリオクェ)があるかぎりイエス・キリストを抜きにした議論はありえませんので、キリスト教と他の宗教との壁は高くなります。しかし、その壁がないとキリスト教を守れないと考える人々もいます。

どのように考えるにせよ、神の救いは普遍的であることを忘れないようにしましょう。

そのことが、全世界のすべての人の心の支えになります。

互いの壁を乗り越えて、平和のために人類が一致できるように、共に祈りましょう。

(2025年12月14日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)