2026年2月8日日曜日

福音と信仰


2026年2月8日(日)午前8時24分 教会前


※雪が降っています!

※特に自転車の方、ご無理なさらないでください!

※底がすべらない靴でお願いします!

※教会の外階段に積もる雪が、降っている間は払い切れません。階段を上り下りする時は、必ず手すりをおつかみください。手すりは冷たいので、手袋があると良いと思います。

説教「福音と信仰」の板書

説教「福音と信仰」

ローマの信徒への手紙1章8~17節

関口 康

2026年2月1日日曜日

神は愛する

説教「神は愛する」

ローマの信徒への手紙1章1~7節

関口 康

2026年1月25日日曜日

聖なる生活とは

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「聖なる生活とは」

テサロニケの信徒への手紙一 4 章 1 ~ 8 節

関口 康

「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」( 3 節)

 1 月に入ってから、毎週の説教をお詫びから始めているようで、本当に申し訳ありません。今日お集まりの皆さん全員にかかわることではありませんので、説教の中ではなく、説教が終わってから言うほうがいいかもしれませんが、先週から私の身辺が忙しくなっていて、教会のブログを更新できていません。

料理で忙しくなっているわけではありません。料理についてはむしろ「今日は無いのですか」と言っていただけるほうがうれしいぐらいです。

そういうことではなく、先週は地域合同祈祷会で私が説教させていただきました。長年の交流がある仲間たちとの合同礼拝ですので、悪い意味での緊張はありませんが、教団・教派を超えての集まりにはそれなりの礼儀がありますので、その意味での緊張はありますし、ありました。

それがやっと終わったと思ったら、東京教区東支区の内部のことですが、いろいろイレギュラーなことが起こり、対応に追われています。

そして、今週末 1 月31日(土)沖縄キリスト教センター(沖縄県宜野湾市)での「北村慈郎牧師支援コンサート」に参加するために、今週 1 月29日(金)から沖縄に行くための飛行機の座席指定などもしています。

いま申し上げていることはすべて教会ブログ更新遅延の弁明ですので、お聞き苦しいかぎりで申し訳ありません。「ブログで発信しすぎるとそれを読むだけで済むので、教会に誰も人が来なくなるのではないか」とご家族から言われたかたの話も伺っています。おっしゃるとおりです。本音を言えば、日曜日の礼拝にぜひおいでいただきたいです。その気持ちを偽ることはできません。

今日はテサロニケの信徒への手紙一についての連続説教の 4 回目です。 1 回 1 章のペースで読み進め、 5 章は以前学んだので割愛することにしましたので、今日の 4 章で締めくくります。

また少し、おさらいとしてふりかえります。この手紙は紀元50年代に書かれました。送り主は、パウロ、シルワノ(シラス)、テモテの宣教チームです。

送り先は、ギリシアの当時も今も大都市であるテサロニケに生まれた、比較的まだ若い教会です。イエス・キリストの死と復活の後、エルサレムに最初の教会ができたのが紀元30年代。パウロが回心してキリスト者になり、宣教活動を始めたのもその頃。パウロたちのテサロニケ伝道が紀元50年前後。と言っても、非常に短い日数で夜逃げすることになりました。この手紙が書かれたのはその 1 年か 2 年後ぐらいだろうと考えられています。キリスト教会自体が創立20周年頃です。テサロニケ教会も創立したばかりの頃の情景が描かれています。

私たちの教会でいえば「美竹教会梅田伝道所」だった頃です。教会の創立にかかわった方々の思いの中に、夢と希望があふれていた頃。もちろん「信仰と希望と愛」があふれていたと言うべきでしょう。しかし、「信仰」については、神学や教理をしっかり学ぼうではないかというような気運よりも、とにかく出会う人出会う人との信頼関係を築き、実践に取り組むことが大事だったと思います。

「愛」についても、だれかれなく「あなたのことが好きです」と告白しようものなら、かえって問題があるに決まっているわけで、そういうことよりも、困っている人や弱さを抱えている人を助ける働きを、教会では「愛」というのです。それを実行するには、制度や設備を整えていかないとどうにもならない面があり、それには時間もお金もかかります。「信仰、希望、愛」と合い言葉のように言うとしても、信仰も愛も一日にして成りません。

しかし、「希望」だけはなんとかなるでしょう。目の前に整ったものが何も無くても「希望」だけは持てます。悪い意味ではありません。とにかく前向きに、助け合い、支え合いながら共に生きていく仲間が増えていくことを願う。そのような教会が、テサロニケの地に生まれ、その教会の誕生のきっかけになったのがパウロたちの宣教活動だったというのが、この手紙の背景です。

それで今日は 4 章です。先ほど 1 節から 8 節まで朗読していただきました。この箇所にパウロが書いているのは、パウロたちのテサロニケ伝道の際に文書でなく口頭による説教で語ったことを、テサロニケ教会のひとりひとりが記憶し、その教えを守っていることをテモテからの報告で知ったパウロの立場から、教会に対して「これからもその教えを守り続けてほしい」と励ましている言葉です。

これは、上下関係構造における命令と服従の問題ではありません。なぜそのように言えるのかといえば、「神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」( 1 節)という問いの答えが「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」( 3 節)であり、かつその具体的な内容が「みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです」( 4 ~ 5 節)であることから分かるのは、教会のひとりひとりがパウロの教えを守るかどうかの問題は、パウロ自身の名誉とは何の関係もないことであり、その教えを守る本人やその家族の名誉の問題になっているからです。

私は教会の礼拝説教のような場でこういう話をほとんどしたことがないし、これからもなるべく避けたい話なのですが、だれかが何ごとか他人に言えないような恥ずかしいことをして、それがいつの間にか発覚して、その人自身だけでなく、家族や関係者の名誉が傷つくことになるのは、「そんなことをしてはダメです」と注意した人の名誉の問題ではなく、本人の名誉の問題なので、教えを守るか守らないかを教会のせいにしないほうがいいと思うわけです。

「厳しく言われた」「上から命令された」「傷ついた」と言っては恨まれるのは、ほとんどいつも、厳しいことを言った側です。しかし、私が学校で教えていたときによく言っていたのは、「きみたちに厳しいことを言ってくれるのは、親か先生しかいないんじゃないの?」ということでした。

はっきり言いますが、今日の箇所の「聖なる者になる」( 3 節)の意味は、 2 章 3 節の「不純な動機」についてお話ししたときに触れたことともっぱら関係しています。「性的関係において乱れていないこと」をもっぱら指しています。

テサロニケ教会には「女性」がたくさんいたようです。その方々目当てで教会に来る人がいなかったでしょうか。ギリシア社会で「そういうものだ」「仕方ない」「人間だから」と言うような価値観の中で許され、当然視されていたような「みだらな関係」を、教会の中に持ち込んではダメですと、パウロは強く警告しています。つまり、これは教会内部の問題です。

教会外の関係であれば問題ないという意味ではありませんが、教会はそういう問題があるとたちまち壊れてしまいます。制度的にがっちり整備された教会では起こらないとは言いませんが、開拓伝道が始まったばかりの頃のテサロニケ教会の中で、私が今ここで口にできないような乱れた性的関係と、キリスト教的な「愛」とが区別できない状態で混同され、教会が壊れそうになっていたことをパウロが懸念しているとも読むことができます。

しかも、そのような乱れた人間関係を、教会の指導的立場の人々が「愛」や「罪の赦し」という言葉で肯定し、煽っていた可能性すらあると考えられます。

テサロニケの信徒への手紙一はどうでしたか。学校の聖書の授業だと、ここで感想文を書いてもらうところです。新約聖書の中で最も古い、現存するパウロ書簡の中でも最も古い文書に記されていることは、現代の社会と教会にも、ほとんどそのまま当てはまらないでしょうか。

(2026年 1 月25日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年1月18日日曜日

協力して道をひらく

つぶあんを作っています
ラップとホイルの中身は同じです

説教「協力して道をひらく」

テサロニケの信徒への手紙一 3 章 6 ~10節

関口 康

「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら今わたしたちは生きていると言えるからです」(8節)

「今日も何かあるの」と期待していただけるようになりたいです。今朝は 7 時半起きでおはぎを作りました。つぶあんです。こしあんも作りたかったのですが、こしあんとつぶあんは作り方が全く違うと分かり、こしあんはあきらめました。

今日はテサロニケの信徒への手紙一の説教の 3 回目です。3 章を取り上げます。

先週の 2 章の段階で、パウロをリーダーとする宣教チームとテサロニケ教会の人々との関係が必ずしも一筋縄で行くものではなかったらしいことが分かりました。

パウロたちのテサロニケへの滞在期間があまりに短かったため、教会の中に彼らに不信感を持つ人々が現われ、騒ぎになっているという情報をパウロが得たため、なんとかして信頼関係を取り戻したいと願って弁解することを意図する言葉が 2 章に出てきました。

しかし、「覆水盆に返らず」です。いったん壊れた信頼関係を取り戻すのは容易でない、または不可能であることを私たちは経験的に知っています。パウロがそのことを知らなかったとは言えないでしょう。

しかし、それも単純な話ではありません。ひとつの突破口は、教会が個人の所有物ではないことです。かつて働いた教職に不信感を持つ人々がいることが、必ずしもすべての教会員との信頼関係の崩壊をストレートには意味しません。

そのように考えてよいひとつの理由は、その情報がパウロの耳に届いていることです。先週も触れましたが、「テモテをそちらに派遣した」( 2 節)と明記されているのが今日の箇所です。

テモテがテサロニケ教会の人々との面会に成功しました。完全な信頼崩壊が起こっていたら、面会すら不可能になります。テモテの派遣が受け入れられたということは聞く耳を持つ方々もおられたことの証拠と言えますので、大きな前進です。

テモテの派遣に当たり、パウロはテモテに 2 つの非常に尊厳のある呼び名を与えています。

第 1 の尊称は「わたしたちの兄弟」です。これで身分や年齢の違いは消え去ります。テモテはパウロよりもはるかに年下でした。しかし、「兄弟」として、愛と責任を共有することによってパウロと結ばれています。

第 2 の尊称は「神の協力者」です。この表現で合っています。「神と人間の関係は協力関係ではありえない。協力は、まるで対等のようだ。パウロが間違って書いたか、または誤訳だろう」と考える必要はありません。

神は人間を御自身のみわざに携わらせます。人間は「神と共に」働くことができますし、働かなければなりません。神と人間は同じ水準にいません。神に不足があって、それを人間が補う関係にあるのではありません。しかし、人間は「神と共に」働きます。人間の働きには独自の位置づけを与えられています。人間は「神の協力者」となるように召されます。

神と人間の協力関係の配分は、神100%・人間 0 %ではありません。神99%・人間 1 %でもありません。神が100%働き、人間も100%働きます。そのことをオランダの神学者ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が「神律的相互関係」(theonome reciprociteit; theonomous reciprocity)という言葉で表現しました。

テモテの使命の目的は、テサロニケの教会の「牧会」です。日本の教会で、ドイツ語のSeelsorge(ゼールゾルゲ)が「牧会」と訳されてきました。Seele(ゼーレ)が「魂」でSorge(ゾルゲ)が「配慮」や「心配」を意味するので「魂の配慮」の意味になります。英語だとpastoral care(パストラルケア)で「パスター(牧師)的なケア(配慮)」です。

特にこの箇所に記されている「牧会」の具体的内容は「あなたがたを励まし、信仰を強めること」( 2 節)です。

「励ます」のほうは「教える」に近い意味の言葉です。「説教する」と言い換えても大差ありません。しかし「強める」のほうは、文字通りなら「支える」であり、比喩的に「力を与える」という意味です。「強める」は、しばしば誘惑や迫害との関連で用いられます。

言葉だけで、説教だけで、私たちの信仰生活のモチベーションを奪い去る妨害を乗りこえる力が出て来るかはひとつの大きな問題です。

「教会に通わない理由」はいくらでも思いつきます。しかし、「なぜ教会に通うのか」の理由を言葉にするのは意外と難しいものです。教職者の責任は「教会を強めること」です。「それは説教だけでない」と言わなくてはなりません。

テモテはテサロニケから戻ってきました。テモテの報告はパウロにとって喜びの知らせでした。「あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせ」( 6 節)を伝えてくれました。テサロニケ教会のみんなが信仰・希望・愛に生きた、まさに生きた証人として立ち続けていることの報告でした。

知らせを聞いたパウロが「あなたがたが主にしっかり結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言える」( 8 節)と書いています。本当に良かったと安堵し、感謝している言葉です。

(2026年 1 月18日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

一致を求めて 地域合同祈祷会

日本ルーテル教団 竹の塚ルーテル教会(東京都足立区伊興3-18-7)


説教 「一致を求めて」

エフェソの信徒への手紙 4 章 1 ~13節

関口 康(日本基督教団 足立梅田教会牧師)


(2026年1月18日 日本ルーテル教団 竹の塚ルーテル教会)