2025年1月15日水曜日

2025年の特別な行事

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


「2025年の特別な行事」

現時点で分かっている、当教会の「2025年の特別な行事」をお知らせいたします。

(変更する可能性があります)

【2025年】

 3 月30日(日)10時30分より 特別礼拝・講演会(当教会)小海 基 牧師

※小海 基(こかい もとい)先生は日本基督教団荻窪教会牧師。 

「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、 ひらかれた合同教会をつくる会」会長。

礼拝後、講演会「北村慈郎牧師支援会の活動内容と趣旨について」(仮題)

 4 月 6 日(日) 9 時00分より 教会学校(当教会)

※2025年度第1回。コロナで休会していた教会学校を、年4回を目標に再開中。

 4 月20日(日)10時30分より イースター礼拝・愛餐会(当教会)

 6 月 8 日(日)10時30分より ペンテコステ礼拝(当教会)

 9 月 7 日(日)10時30分より 足立梅田教会創立記念礼拝(創立72周年)(当教会)

11月 2 日(日)10時30分より 永眠者記念礼拝(当教会)

11月 3 日(月)11時00分より 墓前礼拝(教会墓地前、埼玉県越生町「地産霊園」内)

12月21日(日)10時30分より クリスマス礼拝・愛餐会(当教会)

12月24日(水)18時30分より クリスマスイブ・キャンドルサービス(当教会)

以上は現時点で決定している行事です。

もっと増えます。ご期待ください。

2025年1月12日日曜日

イエスの洗礼

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「イエスの洗礼」

マタイによる福音書3章13~17節

関口 康

「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」(13節)

今日の箇所に記されているのは、主イエスが洗礼者ヨハネから受洗なさったという歴史的事実です。なぜ「歴史的事実」かについては、エドゥアルト・シュヴァイツァー先生(Eduard Schweizer [1913-2006])の説明が興味深いです(日本語版あり)。

シュヴァイツァー先生によると、ヨハネのグループとイエスの弟子集団ならびにキリスト教会との関係は、一方が他方を吸収したわけではなく並存関係だったため、イエスがヨハネから洗礼を受けたということがキリスト教会にとって不利に働く可能性があったにもかかわらず、そのことが記録されているのは歴史的事実だったからだろう、というのです。深く納得できました。

しかし、史実かどうかの問題よりも大事なのは、主イエスが「なぜ」ヨハネから洗礼をお受けになったのかを考えることです。主イエスご自身は、だれにも洗礼をお授けになりませんでした。しかし、主イエスの死後キリスト教会は洗礼を授けるようになりました。その関係がどうなっているかを、わたしたちはよく考える必要があります。

もうひとつ、今日の聖書の箇所とは必ずしも直接的な関係にはありませんが、さりとて無関係とも言えない問題を、今日取り上げさせていただきます。

今年3月30日(日)に荻窪教会の小海基先生に礼拝説教と講演をしていただきます。そのことを役員会で決めました。講演のテーマは、小海先生が現在会長になっておられる「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、 ひらかれた合同教会をつくる会」の活動紹介と趣旨説明です。

先週の1月定例役員会で考えたのは、当教会の中には北村先生をご存じの方もご存じでない方もおられるので、なぜ小海先生をお迎えするのかについて事前に説明しておく必要があるだろうということです。その説明をいつするかは役員会では決めませんでしたが、「善は急げ」で、今日することにしました。

日本基督教団では、現時点では「洗礼」と「聖餐」の2つが「聖礼典(サクラメント)」です。ローマ・カトリック教会の「7つの秘跡(サクラメント)」(洗礼、ゆるし、ご聖体、堅信、叙階、結婚、病者の塗油)の中から、聖書的根拠があると16世紀の宗教改革者たちが認めた2つ(洗礼と聖餐)を残した形を、日本基督教団は採用しています。

私がいま申し上げたことで大事な点は、「どれをサクラメントとみなすか」については教会的な判断が必ず加わっているということです。自動的に決定されていることではなく、教会が考えて決めたことです。多くの議論があり、みんなで意見を出し合って、取捨選択してきたという歴史があることを忘れてはいけません。

北村慈郎先生による問題提起の内容は「洗礼と聖餐の関係」に関することですので、今日の箇所の「洗礼」というテーマと関係があります。「洗礼」も「聖餐」も「聖礼典(サクラメント)」であるという共通点があるからです。しかし、その話は最後にします。順を追って説明します。

ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」でした。ヨハネが明言しています。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けている」(3章13節)。そのヨハネのもとにヨルダン川沿いの地方一体から人々が来て罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました(6節)。

だからこそ、主イエスがヨハネに洗礼を授けてほしいと志願なさったとき、ヨハネはそのことを「思いとどまらせようと」(14節)しました。立場が逆であるとヨハネは考えました。しかし、主イエスは「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは我々にふさわしいことです」(15節)と言われ、そのお言葉にヨハネは従いました。

ヨハネと主イエスのやりとりの意味をよく考えなくてはなりません。特に誤解してはならないのは、ヨハネは会社の上下関係や学校の師弟関係のようなことを考えているわけではないということです。「イエスさま、もしあなたが私から洗礼を受けたら、あなたが私の弟子であるということになってしまいますが、それでもよろしいでしょうか」という意味ではありません。

そうではなく、ヨハネが問題にしたのは、彼が授けている洗礼の趣旨が「悔い改め」であることとの関係です。「イエスさま、罪のないあなたは悔い改める必要がありません。私が授けている洗礼をあなたがお受けになるのは趣旨が違います」とヨハネは言っているのです。

ある人が他の人から洗礼を受けるとある人は他の人の「弟子」になるという理解が、教会の歴史の中で全く無かったとは言えません。あるいは、聖礼典(サクラメント)の執行者たる教職(牧師、司祭)の「資質」が聖礼典の効力を左右するかどうかについての大論争もありました。いわゆる「人効説」(ex opere operantis)か「事効説」(ex opere operato)かの問題です。

日本基督教団は概ね「事効説」に立っていると言えます。しかし、不確定要素があります。たとえば「問題ある牧師」が執行した聖礼典は有効でしょうか。「あんな牧師からは洗礼を受けたくない」という感情を封印できるでしょうか。意識的か無意識か、牧師に対する「格付け」をしない教会があるでしょうか。それを「人効説」と呼ぶかどうかはともかく、聖礼典の効力が執行者と何らかの関係にあるという考え方には説得力も魅力もあるので、議論は終わりません。

しかし、主イエスはすべての事情をお受入れになったうえで、ヨハネからあえて洗礼をお受けになりました。それはなぜでしょうか。この問題に取り組んだ代表的な文献を私も学生時代に読まされました。オスカー・クルマン先生(Oscar Cullman [1902-1999])の『新約聖書の洗礼論』(日本語版あり)です。

クルマン先生によると、キリスト教の洗礼は罪の赦しを得させる洗礼でもあるが、単純にヨハネの洗礼に戻ったのではなく「ヨハネの洗礼の成就」です。「イエスの洗礼は、生涯の頂点である十字架を指し示している。イエスの十字架において、すべての者の洗礼は初めて成就を見る。十字架において、イエスは総代洗礼(Genaraltaufe)をお受けになる。それに至る命令を、ヨルダン川での洗礼に際してかれは受けられた」(同上、106頁)。

3月30日に小海基先生をお迎えいたします。特に午後の講演では、北村慈郎先生の支援会の活動について教えていただきます。2010年に日本基督教団が北村慈郎先生の教師籍を剥奪する免職の戒規を執行しました。それは北村先生が紅葉坂教会の教会総会の賛同を得て「未受洗者陪餐」を行うことをお決めになったことへの処分として教団がしたことですが、この処分は不当であると北村先生と支援会の皆さんが主張し続けておられます。

支援会のみなさんがおっしゃっているのは、「聖礼典」とは何かについての一致した見解が日本基督教団の中にあるとは言えず、世界的にも議論の最中である問題について、北村先生ひとりが狙い撃ちされたことに納得できないということです。その点は私にもよく分かる話です。

今日お話ししたとおり、「聖礼典(サクラメント)」の議論は終わっていません。みんなが悩んでいます。みんなが悩んで考えている最中に、一方の論者を問答無用で追放するという見せしめをするのはアンフェアです。真相を知る必要があるとわたしたちは考え、小海先生をお招きすることにしました。

北村慈郎先生が教師免職の戒規をお受けになった2010年時点の私は日本キリスト改革派教会の教師で、完全に部外者でしたので日本基督教団の問題にタッチできる立場にありませんでした。私も学ばせていただきたいです。よろしくお願いいたします。

(2025年1月12日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年1月5日日曜日

エジプトのイエス

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「エジプトのイエス」

マタイによる福音書2章13~23節

関口 康

「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから』」(17-18節)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

しかし、新年が「おめでたい」かどうかは難しい問題です。昨年の元日に能登半島を中心に巨大地震が襲いました。ご実家が倒壊して父親を失った方が「元旦はすごく嫌い」と遺族代表としてお話しになったという記事を私も読みました。言葉がありません。

お祝いごとは一切すべきでないとまで言う必要はないでしょう。私たちにできそうなことは、たとえお祝いの日であっても、わたしたちのすぐそばに悲しみや苦しみを抱えている方々が必ずおられることに思いを寄せて、騒ぎすぎないことぐらいです。

今日の聖書の箇所は先週の続きです。内容は、イエス・キリストのご降誕の物語です。東の国の学者たちの夢に現れたのと同じ天使が今度はヨセフの夢に現れて、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」(13節)と命じたという話です。

ヨセフとマリアがそのとおりにしたら、ヘロデが「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(16節)というとんでもない事件が起こりました。そのためヨセフとマリアは、ヘロデが死ぬまでエジプトにとどまりました。

そしてその後、ヨセフとマリアと主イエスはガリラヤのナザレに移りました。主イエスは大人になるまでナザレにおられ、「ナザレ人」と呼ばれるようになりました。

ナザレとナザレ人は、ヨハネによる福音書1章46節でナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と見下げる言い方をしているように軽蔑対象でした。神は天使を通してヨセフとマリアを、主イエスが「ナザレ人」と呼ばれるようになる地へと導くことによって、主イエスが見下げられる人々の側に立つ救い主であることを示されました。このような説明が可能です。

しかし、今申し上げたことは、今日の箇所の中心テーマとまでは言えません。それでは何が中心テーマでしょうか。ひとつに絞りたいところですが、2つあります。

今日の箇所の第1のテーマは、主イエスの存在とモーセの存在が重ねられていることと関係しています。その意味は、主イエスはモーセの再来であり、モーセ以上であるということです。

モーセの頃のエジプトのファラオはラメセス2世です。ヨセフの活躍によってカナン地方からエジプトへと移住したユダヤ人の人口が数百年を経て増大しました。そのことを恐れたファラオが、ユダヤ人の家庭に生まれる男の子を皆殺しにせよと命じました。そのエジプトのファラオの姿が、今日の箇所でベツレヘムの幼児を殺す命令を下すヘロデの姿と重ね合わされています。

第2のテーマは、バビロン捕囚との関係です。バビロン捕囚と主イエスの誕生との関係はマタイによる福音書冒頭の「イエス・キリストの系図」の中でも繰り返し強調されています(1章12節、17節)。両者の関係をとらえるための重要なカギは、18節で引用されているエレミヤ31章16節の言葉です。

「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」(新共同訳・旧約1235ページ)。

この「ラケル」は第3代族長ヤコブの妻ラケルです。初代族長アブラハムの子であるイサクに、エサウとヤコブという双子が生まれます。エサウは父イサクに愛され、ヤコブは母リベカに愛されます。リベカはヤコブと結託して、本来はエサウが得るべき長子の特権と祝福を奪う工作を実行しました。だまされたと知ったエサウはヤコブに殺意を抱き、ヤコブは逃亡しました。

ヤコブの逃亡先は、リベカの兄ラバンの家でした。その家に2人の娘がいました。姉はレア、妹はラケル。このラケルが、今日の箇所の「ラケル」です。

ヤコブはラケルにひとめぼれし、結婚したいと願います。しかし、ラバンは姉レアのほうを先に結婚させたかったので、ヤコブを姉レアと結婚させます。しかし、ヤコブはラケルをあきらめられず、レアと結婚しながらラケルへの求愛を続けます。結局ヤコブはラケルとも結婚します。

ヤコブの妻は2人になりましたが、子どもが生まれるのはレアのほうばかり。ラケルはレアに嫉妬し、ヤコブに「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければわたしは死にます」とまで言い、ヤコブは激しく怒って「わたしが神に代われると言うのか」と返事します(創世記30章1~2節)。

結局レアの子どもが計6人、ラケルの召し使いビルハから2人の子ども、レアの召し使いジルパから2人の子どもが生まれましたが、ラケルからは子どもが生まれず、彼女は苦悩します。

その後ラケルから生まれた念願の子どもがヨセフとベニヤミンでした。ところが、第一子ヨセフは10人の兄の妬みを買い、エジプトへ下る奴隷商人に銀20枚で売り飛ばされました。ラケルに知らされたのは「ヨセフは死んだ」という虚偽の情報でした。第二子ベニヤミンは難産で、産後まもなくラケルが亡くなってしまいました(創世記35章16節以下)。

創世記35章19節に「ラケルはエフラタ、すなわち今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られた」と記されています。このラケルが葬られた場所が「ラマ」であるとする伝説があります。その伝説が今日の箇所を理解するための前提です。「ラマ」はエルサレムの北8キロ、バビロンへ通じる道沿いにあります。

愛する子どもたちを失った「ラケルの泣き声」が「ラマ」に響いている!

その後「ラマ」は、ユダヤ人の重要な軍事拠点となります。エルサレムへの侵入を妨害するための要塞にされたり(列王記上15章17~22節、歴代誌下16章1~6節)、要塞が取り壊された廃材が防衛強化のために使用されたりします(列王記上 15章22節、歴代誌下 16章6節)。バビロン捕囚(前597年)のときには、ユダヤ人はいったんラマに集められてから、バビロンへと連行されました(エレミヤ書 40章1節)。こうして「ラマ」は屈辱の地になりました。

「ラマ」に響き続ける「ラケルの泣き声」は、ヨセフとベニヤミンを失った悲しみだけでなく、「バビロン捕囚」(イスラエル王国の滅亡)によって全ユダヤ人を失った悲しみに泣く声であることをエレミヤが示し(エレミヤ書31章15節)、それが今日の箇所で、ヘロデに子どもたちを殺されたベツレヘムの母たちの泣き声へと重ね合わされています。

つまり、今日の箇所が言おうとしているのは、ユダヤの王ヘロデは、エジプト王ラメセス2世とも、バビロニア王ネブカドネツァルともそっくりだ、ということです。両者ともユダヤ人の最大の敵です。しかし、その敵の姿とヘロデは瓜二つであると今日の箇所は言おうとしています。

主イエスが「敵を愛しなさい」とお教えになりました(マタイ5章44節、ルカ6章27節)。

「敵を愛することなど絶対に不可能である」と誰もが言います。しかし、わたしたちは敵の姿と自分の姿を見比べてみる必要があります。憎らしい敵と自分の姿との間にもし類似点や共通点が見つかれば、そこに理解と和解の道が切り開かれるでしょう。

わたしたちの2025年が「和解」の年となりますように、お祈りいたします。

(2025年1月5日 日本基督教団足立梅田教会 新年礼拝)

2024年12月24日火曜日

救い主の星

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「救い主の星」

マタイによる福音書2章1~12節

関口 康

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(9-10節)

今夜はクリスマスイブキャンドルサービスにお集まりいただき、ありがとうございます。

私は今年3月からこの教会の牧師になりました。まだ1年経っていません。コロナの関係等で何年も中止していたイブ礼拝を再開しました。いろいろ手探りで準備しました。以前と違う点があるようでしたらお許しください。

ところで、みなさんは「クリぼっち」という言葉をご存じでしょうか。

この言葉を私が最初に見かけたのは、8年前の2016年です。なぜ時期を覚えているかと言えば、2016年度の1年間、千葉県八千代市にある千葉英和高等学校で聖書科の常勤講師だったとき、私と同期で採用された聖書科の若い女性の非常勤の先生が、生徒向けの学校礼拝で「みなさんは『クリぼっち』という言葉をご存じでしょうか」と切り出したのを忘れられないからです。

言葉の意味は単純です。「クリスマスにひとりぼっちでいること」です。今年もインターネットで「クリぼっち」という言葉が飛び交っているのを見かけました。いまだに死語になっていないと分かりました。

教会のわたしたちはそういう話を不思議に思います。教会のわたしたちにとって「クリスマス」はイエス・キリストのご降誕をお祝いする日です。ですから、わたしたちはつい「クリスマスにひとりぼっちが寂しいなら、ぜひ教会に来てください。クリスマス礼拝があります。クリスマスイブ礼拝もあります。食事もケーキもお茶もあります」と言いたくなります。

しかし、それは別の話であると認識されるというのが現代人の基礎知識です。「クリぼっち」の意味が「独りでいることが寂しい」というだけでなく「恋人が欲しい」ということであるのも、私は理解しているつもりです。イエス・キリストも教会も関係なくクリスマスが祝われることをとがめる気持ちは、私にはありません。

先ほど朗読した聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストがお生まれになったユダヤのベツレヘムに「東の方」から占星術の学者たちがやって来たという物語です。

地名は記されていませんが、明らかにバビロニアです。今のイラクがある地です。チグリス川とユーフラテス川にはさまれて豊かな自然に恵まれ、栄華を極めたメソポタミアの中心地。そこにあったのはユダヤ人の文化や聖書の教えとは異なるものであり、ユダヤ人とは何百年も対立してきた敵国です。

しかし、その東の国の学者たちが、自分たちの文化の中で、聖書の教えとは全く異なる考え方や方法でたどり着いた結論が「ユダヤに救い主が生まれる」ということであり、その結論に基づいて遠路はるばる砂漠の中を旅してきたことが記されています。

それが「クリぼっち」の話とどのように関係するのかを申し上げねばなりません。すぐ分かる話です。イエス・キリストも教会も関係なく盛り上がるクリスマスの季節に寂しい思いを抱え込む「クリぼっち」の方々と、聖書の教えとは別の発想と方法で「救い主の星」を見つけ、「ユダヤのベツレヘム」を目指す旅に出かけた東の国の学者たちは、同じであると申し上げたいのです。

ですから、もし今夜「教会に初めて来ました」という方がおられましたら大歓迎いたします。「神を信じるつもりはない」という方でも「居場所を求めていない」という方でも大丈夫です。

今夜の聖書の箇所に描かれているのは「最初のクリスマス礼拝」の様子です。集まったみんなで主イエスを拝んでいるので「礼拝」です。星が見える時間帯の話ですので「夜」です。その場所に「あなたは来てもいい」とか「あなたには来る資格がない」とか、そのような差別は全くありませんでした。

東の国の学者たちは「黄金、入香、没薬」を贈り物として主イエスに献げました。今夜はそれもなしです。イブ礼拝で献金を募るかどうかを役員会で相談しましたが、今回はしないことにしました。「教会に行くと取られる」とか「無くなる」というイメージが広がるのは困ります。東の国の学者たちは、あくまで自分の意志で主イエスに贈り物を献げたのであって、強制されたわけではありません。

人生も少し長くなると「ひとりの寂しさ」の意味が変わってくることを実感している今日この頃です。「恋人が欲しい」「話し相手が欲しい」「居場所が欲しい」という寂しさも分かります。しかし、私は来年で60歳です。この歳になってやっと、これまでずっといつも前を歩いてくれて背中で人生を教えてくれていた両親や恩師たちがいなくなる寂しさが分かるようになりました。

寂しさの中身は何であれ、「クリぼっち」の方々は、クリスマスでなくても、ぜひ教会においでください。「救い主の星」のもとに集まり、讃美歌を歌い、聖書を学び、祈りをささげ、楽しく過ごしましょう。心からお待ちしております。

(2024年12月24日 日本基督教団足立梅田教会 クリスマスイブキャンドルサービス)

2024年12月22日日曜日

言は肉となった

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「言は肉となった」

ヨハネによる福音書1章1~18節

関口 康

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)

ご承知のとおり、新約聖書にはイエス・キリストの生涯を描く「福音書」と呼ばれる書物が4巻あります。前から順にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。

これらのうちで、主イエスのご降誕を描いているのがマルコ以外の3巻です。ヨハネによる福音書にもしっかり記されています。「どこに?」と思われるでしょうか。今日の朗読箇所です。

その描き方において他の福音書と違いがありすぎることは明白です。だいたい出てくる感想は「難しい」「哲学的」「抽象的」「意味不明」。そう言われれば、おっしゃるとおりと認めざるを得ないところがあります。

たとえば、今日の箇所に基づいてキリスト聖誕劇(ページェント)の台本を書けるでしょうか。至難の業であることは確実です。面白くない(=自分と関係ない)し、不適切であると感じる人は多いでしょう。

マタイやルカに描かれている物語にも、未確認生命体というべき「天使」が登場したり、結婚前のマリアが妊娠したりと、謎めいた内容が記されています。しかし、演劇として成立する豊かな内容があります。

一昨日(12月20日)私は、当教会と関係が深い保育園で子どもさんがたが演じるページェントを初めて拝見しました。みんなかわいかったです。

ヨセフとマリア、ベツレヘムの羊飼いと羊、宿屋、東方の3博士(カスパール、メルキオール、バルタザールという名前がついた伝説がある)、ローマ兵、天使と星が、飼い葉桶の主イエスを囲んで大団円。このような「人間らしい」聖誕劇なら、わたしたち自身の誕生と無関係ではない描き方ができるでしょう。

しかし、ヨハネによる福音書に基づいてどんな劇ができるでしょうか。登場人物が「ヨハネ」(6節)以外に出て来ません。このヨハネは主イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネです。主イエスがお生まれになったとき、このヨハネも小さな子どもです。

ヨハネによる福音書のキリスト降誕物語の主人公は「神」です。人間の視点からではなく、神の視点から描かれています。人間の理解の限度を超えるものがあります。しかし、そのほうがいいでしょう。人間のプライドが傷つきます。だからこそ、人間の心の砦(とりで)が破られ、回心の機会が訪れるでしょう。

わたしたちが理解できるかどうかはともかく、ヨハネによる福音書がとにかく言っているのは、「神」(テオス)の「言(ことば)」(ロゴス)が「肉」(サルクス)となったのが主イエスである、ということです。

そして、その「肉となった神」であるイエス・キリストとの出会いは、父なる「神」との出会いに等しいということであり、さらに主イエスご自身が「神」であるということです。

もし主イエスが「神」ではないならば、キリスト者の祈りの言葉である「主イエス・キリストによって祈ります」という表現は成立しません。主イエスは、神でもなければ人間でもない、両方から責め立てられる、中間管理職のような存在ではありません。イエス・キリストは「神の右に座しておられる」という信仰表現もあるほど「神と等しい方」であり、つまり「神」です。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)と記されています。こういう正直な文章が私は好きです。神を見たことがある人は人類史上ひとりもいません。「神を見た」と思っている人は神以外の何かを見た可能性が高いです。私も「見た」ことがないです。だからこそ「信じて」います。

このような信仰を軽蔑する人がいます。今日のクリスマス礼拝の案内をインターネットで見てくださった方の中にいました。その方自身は仏教の特定の宗派に所属していることを教えてくださいました。「神が人類を造ったというなら、その神を連れて来てみろ。できないだろう。それができないキリスト教は邪教である」の一点張りでした。

「私も神を見たことがありません。見たことがないからこそ信じております」と返事したら、「そんな愚かな宗教はやめてしまえ」と返って来ました。そこで私はやりとりを終了しました。ご自身が信じる道をお進みになればよろしい。それ以上、私から申し上げることはありません。

私の話はどうでもいいです。教会の立場については、みんなで考える必要があります。ヨハネによる福音書の成立年代は、西暦1世紀の終わり頃(90年代前後)です。それが意味することは、紀元30年ごろ十字架にかけられて地上の生涯を終えられる前の主イエスと直接的な交流を持ったことがある人々が残っていた可能性がきわめて低い時期に書かれた、ということです。

なぜ成立年代の話をするかといえば、「父のふところにいる独り子である神」(18節)としての主イエスを「見た」(同上節)と書かれていることの意味は何かを考える必要があると申し上げたいからです。この「見る」に物理的な肉眼で目視したこと以上の意味があるのは明白です。

そうしますと、ヨハネによる福音書が書かれた時代(紀元1世紀末)の人々と今のわたしたちは立場が同じであることが分かります。わたしたちが主イエスを「見る」方法は聖書を学ぶこと以外にありません。さらに、演劇があると助かります。舞台でもテレビドラマでも映画でも大丈夫です。登場人物の言葉や動作の意味を理解でき、共感できます。苦しみや痛みを共有できます。心が通います。

最後に怖い話をしていいですか。とても怖い話です。

「初めに言(ことば)があった」(1節)の「初め」は、天地創造以前、すなわち世界も人間も誕生する前を指しています。神以外の何も存在していない、「無」(Nothing)と神が向き合っておられる状態です。「時間」(クロノス)も神が創造したものなので、その点を厳密にとらえれば「時間以前」であると言うべきです。

さて問題です。「初め」に「言(ことば)」があり、「言(ことば)」が「神」であったという場合、その「言(ことば)」は、だれに向かって発せられたものでしょうか。神には話し相手がまだいないはずなのに。

この問題の答えは聖書に記されていません。しかし、可能性は2つです。

第1の可能性は、神はひたすら沈黙されていた、ということです。

第2の可能性は、神はずっと独り言を言い続けておられた、ということです。

私は前者を選びます。神は天地創造の前は、ひたすら沈黙しておられました。

しかし、神は沈黙を破られました。神は「言(ことば)」をもって「無」(Nothing)から「有」(Being)を、そして「すべて」(Everything)を呼び起こされました。神が「光あれ」と言われ、光が創造されました(創世記1章3節)。

そして神は、ご自身が創造された世界と人間を愛してくださいました。神は「愛」をわたしたち人間に告白してくださるために「肉」をお摂りになり、人間としてお生まれになりました。

生きる意味も理由も見失いがちなわたしたちに神が「わたしはあなたを愛している」と告白してくださり、「あなたは愛されるために生まれた」と教えてくださるために、イエス・キリストはお生まれになりました。

(2024年12月22日 日本基督教団足立梅田教会 クリスマス礼拝)