2025年12月14日日曜日

心の支えは同じ

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「心の支えは同じ」

マタイによる福音書 2 章 1 ~12節

関口 康

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」( 9 -10節)

今日の箇所も待降節(アドベント)や降誕節(クリスマス)のたびに読まれ、説教されます。

毎年同じ話をするのは申し訳ないという気持ちがあるのですが、「年末は『忠臣蔵』を観ないと落ち着かない」という方もおられるようですので、どうかお許しください。

今日の箇所に記されているのは、以下のことです。

①イエス・キリストは、ユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。ベツレヘムは「都会」のエルサレムとは対極の「田舎」です。

②それはユダヤの王がヘロデだった頃の「紀元前37年から紀元前 4 年までの間」でした。これが主イエスの誕生年の「紀元前 4 年説」の根拠です。ヘロデは西暦元年まで生きていません。

③ユダヤから見て「東」のバビロニアの占星術師(マギ)たちが、メシアが生まれたことを示す「星」が出現したと結論づけ、ユダヤまで表敬訪問に来ました。

④ヘロデ王は猜疑心が強い人だったので、メシア誕生の知らせに恐怖心を抱き、自分のところに来たマギたちにメシアを探させて居場所を突き止め、メシアを殺害しようとしました。

⑤マギたちはメシアのもとにたどり着き、崇拝の儀礼を行いましたが、「ヘロデのところへ帰るな」と告げる天使の声に従い、ヘロデに報告せずに、バビロニアに帰りました。

ヘロデの残忍性については、複数の記録があります。歴史家ヨセフスによると、ヘロデによって殺害された人々のリストの中に義兄弟アリストブロス、妻マリアムネ、その母アレクサンドラ、息子のアリストブロス、アレクサンドロス、アンティパトロス、その他大勢の名があります。

歴史家マクロビウスによると、ヘロデが自分の子どもたちまで殺したことを耳にしたローマ皇帝アウグストゥスが「ヘロデの豚(ヒュス ὗς)になるほうが彼の息子(ヒュイオス υιός)になるよりましだ」と言いました。ヘロデは豚肉を食べなかったからです。

バビロニアの占星術は、当時の価値観に照らせば、高度な学問でした。マギのユダヤ来訪は天文マニアの個人的な趣味や探検レベルの事柄ではなく、国と国との関係、国際外交の一環でした。だからこそ彼らはヘロデ王と直接話すことができました。

バビロニアのマギがなぜメシアの誕生を知りえたかについては、バビロニア捕囚(紀元前597年~538年)の後も多くのユダヤ人がバビロニアに留まったことで、ユダヤ教がバビロニアに影響を与えたことから説明できます。メソポタミアにおけるユダヤ教の影響力の強さは、西暦50年にバビロニア王がユダヤ教徒に改宗したことから明らかです。

東方の君主がローマ皇帝に捧げた敬意の例としては、アルメニア王ティリダテスを挙げることができます。

ティリダテスは、妻、息子たち、3000人の騎兵、大勢の従者を率いて、西暦66年、皇帝ネロに敬意を表すため、ユーフラテス川からローマまで行進しました。ティリダテスはネロを「主」と呼び、地にひれ伏して、跪(ひざまず)きました。

ネロが自分のティアラ(王冠)を外し、ティリダテスの頭に置きました。ティリダテスはネロに「主よ、私は私の神であるあなたを拝みに参りました」と語りかけました。

ネロの返答は「私はあなたがアルメニア王となることを宣言する。私が王国を奪いもし、与えもする力を持っていることを、あなたと他の人々に知らせるためである」というものでした。

先日公開された米国大統領の横で日本の総理大臣が飛び跳ねた映像は、現在の日米の上下関係をよくあらわしています。

バビロニアのマギたちはメシアの生誕地は当然王都エルサレムだろうと予測しましたが、それは間違いでした。最高法院(サンヘドリン)の祭司長たちと律法学者たちがヘロデから依頼されて捜索を始めました。しかし、目標にたどり着いたのはバビロニアのマギたちが先でした。なんと驚くべきことに、それは王都エルサレムではなく、片田舎のベツレヘムでした。

彼らは幼子を見つけてひれ伏し、黄金、乳香、没薬を贈りました。贈り物が 3 つであることが「三賢者」とされる理由です。 3 人だったかどうかの根拠は聖書にはありませんが、聖書外資料の中に「カスパール、メルキオール、バルタザール」という名前がついた伝説があります。黄金と乳香は王への贈り物です(詩編72編 9 ~15節、イザヤ60章 6 節)。没薬は古代の香水です。

今日の箇所が教えているのは、「異教徒」こそがイエス・キリストを最初に崇拝したということ、そして「ヘロデのところへ帰るな」という神の警告に最初に耳を傾けたということです。

その意味は「神の救いは普遍的である」ということです。救いの恵みは、宗教の壁を越えます。宗教間対話の可能性は初めから開かれています。

毎年同じ話だとつまらないので、最新情報を仕入れてきました。

私は一昨日12月12日(金)日本福音ルーテル東京教会(新宿区大久保)で開催された「ニケア公会議1700年記念・世界教会協議会(World Council of Churches (WCC))第 6 回信仰職制会議報告会」に出席しました。

WCCはプロテスタント、カトリック、オーソドックス(正教会)の違いを超えてキリスト教会の一致を目指す世界会議です。一昨日の報告者は西原廉太先生(立教大学総長)でした。

なぜ今この話を持ち出すのかと言えば、宗教間対話を行うためには、まずはキリスト教の一致を目指すべきなのに、いまだに一致できていないことについての認識を共有したいからです。

西原先生によると、キリスト教会の一致を妨げている大きな壁が 2 つ残っています。

そのどちらも、ちょうど1700年前の西暦325年にニケア(ニカイア、ニケヤとも表記)(現在のトルコ・イズニック)で行われた「ニケア公会議」の決定事項と関係しています。

第 1 に、イースターの日取りが一致していません。

西方教会(カトリック、プロテスタント)はニケア公会議で定めた「春分の次の満月の後の最初の日曜日」を守っていますが、東方教会(オーソドックス)は違います。

第 2 に、ニケア信条(富士見町教会HP「ニカイア信条」参照)の「聖霊」に関する表現が一致していません。

西暦325年のニケア公会議で制定された当初の表現は「聖霊は父から出て」だったのに、西暦 9 世紀のローマ・カトリック教会が「子から」(フィリオクェ Filioque)を追加して「聖霊は父と子から出て」にしました。そのことを東方教会(オーソドックス)が決して認めず、東西教会の決定的な分裂の原因になっています。

しかし、西原先生によると、最近の世界教会の傾向としては、「子から」(フィリオクェ)を括弧(かっこ)に入れることで、読んでも読まなくてもよいとする流れに落ち着きつつあるとのことです。

「子から」(フィリオクェ)を削除することに反対している人々の主な理由は、聖霊とイエス・キリストの関係が離れてしまうこと、あるいはイエス・キリストとは無関係な、または関係性が不明な「神」について語られることへの警戒心です。

宗教間対話の観点からすれば、「子から」(フィリオクェ)があるかぎりイエス・キリストを抜きにした議論はありえませんので、キリスト教と他の宗教との壁は高くなります。しかし、その壁がないとキリスト教を守れないと考える人々もいます。

どのように考えるにせよ、神の救いは普遍的であることを忘れないようにしましょう。

そのことが、全世界のすべての人の心の支えになります。

互いの壁を乗り越えて、平和のために人類が一致できるように、共に祈りましょう。

(2025年12月14日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年12月7日日曜日

再び信じる決心を

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「再び信じる決心を」

マタイによる福音書 1 章18~25節

関口 康

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿った』」(19-20節)

待降節(アドベント)第 2 主日を迎えました。今日の聖書の箇所は昨年と同じです。みなさんの中には80回ぐらい同じ話をお聴きになった方がおられます。私も50回以上聴きました。

この箇所に記されているのは「イエス・キリストの誕生の次第」(18節)です。マリアとヨセフが婚約していたのに、 2 人が一緒になる前にマリアが身ごもりました。ヨセフはマリアとの縁を切ることを決心しましたが、天使が夢に現れて「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの子は聖霊によって宿ったのである」(20節)とヨセフに告げたのでマリアを迎え入れました。

昨年「私は天使が苦手です」と言いました。「天使が怖い」とか「気持ち悪い」という意味ではありません。説教者として、自分はまだ見たことも触ったこともない存在について説明するのが難しいという意味です。

しかし、今年の私はひと味違います。日々進化する牧師です。昨年までは見えにくかったことが見えるようになりました。

年齢と関係ありそうです。ちょうど60歳になりました。昨年よりはっきり見えるようになったのは自分の人生の終わりです。悪い意味は全くありません。人生の終わりを意識すると人生の全体像が客観的に見えるようになる、ということが実感として分かるようになりました。

そうした中で、「天使」の役割の意味がだんだん分かってきました。天使にしか決して語ることができない言葉があることが分かってきました。

私たちの人生で、どこまで行っても結局さっぱり分からなかったと感じるものがあるとしたら、それは他者の心です。夫婦だろうと、親子だろうと、兄弟だろうと、友人だろうと、各自の自由に属する領域について完全に理解するのは不可能です。知る必要がないことです。

お互いがどこで何をしているかを完全に知る必要があるでしょうか。GPSを付けますか。24時間くっついていますか。束縛したいですか。つきまといますか。そういうのをストーカーと言うと思います。

結婚前のマリアが身ごもりました。ヨセフはマリアとの縁を切ろうと決心したというのですが、その理由が「夫ヨセフは正しい人であった」からとか「マリアのことを表ざたにするのを望まなかった」(19節)と、はなからマリアが悪人扱いです。ヨセフが「正しい人」なら、マリアは「正しくない人」でしょうか。

「表ざたにする」は、世間の評判にさらすことを指します。それは自分のことがかわいそうで、自分のプライドを守りたくて、世間に暴露して騒ぎにするかどうかを迷ったということでしょうか。一方的すぎて、奇妙な話です。

「そこは問題ではないのではないですか」と、「マリアのことを表ざたにするのを望まない」と考えている時点のヨセフに訊きたいです。「縁を切っても、どうせ納得できないでしょう。いっそ犯人を探して復讐しますか」と言いたいです。

言うまでもなく、DNA鑑定もGPSも西暦 1 世紀には存在しませんでした。それでは、マリアが身ごもっていることがヨセフにどうして分かったのでしょうか。それは間違いなくマリア自身が打ち明けたからでしょう。それとも、マリアの周囲の人がリークしたでしょうか、その可能性がゼロでないとしても、本人が黙っていれば分かりっこないことでしょう。

マリアはヨセフに事実を伝えたのです。「私には身に覚えのないことだ」と(ルカ 1 章34節参照)。ヨセフに残された唯一の選択肢は、“マリアを再び信じる”かどうかだけです。

もしこの箇所のすべてがでたらめな作り話だと私たちが考えるのでなければ、同じ問いが私たちにも投げられています。それは「マリアは聖霊によって身ごもった」という天使の言葉を信じるかどうか、です。

同じことが、私たちにとって決して完全には理解できない他人の心とどのように向き合うか、という問いにも当てはまります。

夫婦や親子や兄弟や友人は“神”ではないので、信じる対象ではないとお感じになるでしょうか。それもごもっともですが、“あたかも神を信じるようにあなたのパートナーを信じること”以外になすすべがないとも言えます。それとも、つきまとって監視しますか。

マタイ 1 章冒頭の「イエス・キリストの系図」( 1 節)は、カタカナの名前がたくさん出てくるので読むのがつらいとお感じになる方が多い箇所です。「系図」と訳されているギリシア語(Βίβλος γενέσεως)はヘブライ語の「創世記」(トレドト)と同じ言葉です。これは「イエス・キリストの創世記」と訳すことが可能です。

ユダヤ人男性が神殿奉仕者になるとき、ユダヤ人であることの血統の証明書の提出が求められました。自分の系図を作成し、最高法院(サンヘドリン)で正統性を検証してもらう必要がありました。彼らが作成していた系図は男性のみの家系でした。

「イエス・キリストの系図」に女性が 4 人登場するのは、ユダヤ人の伝統と対比すれば、極めて異例なことでした。「タマル」( 3 節)、「ラハブ」( 5 節)、「ルツ」( 5 節)、「ウリヤの妻」( 6 節)が女性の名前です。 4 人目は名前を伏せられていますが、イスラエル第 2 代国王ダビデとの間に第 3 代国王となるソロモンを産んだ「バト・シェバ」(サムエル記下11章参照)です。

「この女性たちは悪名高い罪人でした」と説明する説教を過去に何度か聴きました。女性たちを罪人呼ばわりしたうえで「罪ある女性を含む家系の中に救い主はお生まれになることによって、人類の罪を背負い、罪人の身代わりに死んでくださったのです」とつなげていく説教です。

同様の解釈がヨーロッパの教会にもあるようで、私がいつも頼りにしているオランダ語の註解書が「4 人の女性が『悪名高い罪人たち』(notoire zondaressen)であるというのは事実だろうか」と記して、その解釈に抗議しています(Vlg. J. T. Nielsen, Het evangelie naar Mattheüs I, Prediking van het Nieuwe Testament, 1971, p. 29)。

「タマルとユダの罪〔創世記38章参照〕も、ダビデとバト・シェバの罪〔サムエル記下11章参照〕も、『罪』は女性ではなく男性にある」し、「ルツ〔ルツ記参照〕はモアブ人だが、決して否定的な意味ではない」し、「ラハブは旧約聖書〔ヨシュア記 2 章 1 節など〕で『遊女』と呼ばれているが、ユダヤ人に対するラハブの奉仕は高く評価されている」と記しています(Ibid.)。信頼できる註解書に出会えてよかったです。

イエス・キリストの系図についても、イエス・キリストの誕生の次第についても、女性を悪者にして片づけようとする間違った解釈があることは否定できません。異なる読み方が必要です。

マリアを再び信じ、「すべての事情を天使に教えてもらいました。それで十分です。私はあなたを信じます。結婚してください。アイ・ラブ・ユー」と告白することができたヨセフの姿を今日の箇所は描いています。勇気が必要な生き方かもしれません。「男らしい」とは絶対言いません。

こうして私はやっと「天使」が好きになりました。「私には身に覚えがない」と訴えるマリアを、すべての疑惑から天使が守っています。それ以上のことをだれも問うべきではありません。

(2025年12月 7 日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年11月30日日曜日

終末と希望

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「終末と希望」

テサロニケの信徒への手紙一 5 章 1 ~11節

関口 康

「主はわたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(10節)

説教題として最初に考えたのは「たとえ世界が滅びても」でした。近年、日本の小説やテレビや映画のタイトルやセリフに見かけるようになりました。この言葉には続きがあります。

「たとえ明日世界が滅びようとも、今日われらはなおリンゴの木を植えるだろう」(Und wenn morgen die Welt unter ginge, so wollen wir doch heute noch unser Apfelbäumchen pflanzen)

これは16世紀の宗教改革者マルティン・ルター(Martin Luther [1483-1546])の言葉として紹介されてきました。しかし、これが本当にルターの言葉かどうかに議論があります。マルティン・シュレーマンの『ルターのりんごの木』棟居洋訳、教文館、2015年)をぜひお読みください。シュレーマンの結論は「これはルターの言葉ではない」です。

シュレーマン『ルターのりんごの木』2015年

今日はテサロニケの信徒への手紙一を開きました。使徒パウロの手紙です。紀元50年ごろに書かれたもので、「現存するパウロの最古の手紙」であるだけでなく、「新約聖書の最古の文書」です(ヴィリー・マルクスセン『新約聖書緒論』(渡辺康麿訳、教文館、1984年、78頁参照)。

古文書の成立年代推定には根拠が必要です。そのひとつは「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められた」( 2 章 2 節)や「テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て」( 3 章 6 節)という描写を使徒言行録や他のパウロ書簡と比較して見えてくる結論です。

もうひとつは、パウロの教えの「初期」と「後期」に変化があることを認めて、どちらなのかを見分けることです。

 4 章13節から始まる話題は、世界の終末においてイエス・キリストが再び来られることについてです。パルーシア(παρουσία)と言い、「再臨」や「来臨」と訳されます。

パウロは、自分が生きている間にパルーシアが起こると、この手紙を書いたころは本気で信じていました。しかし、そうならないことが分かってトーンダウンし、やがて「再臨」について書かなくなります。それがパウロの変化です。

しかし、このような「聖書の歴史的批評的な読み方」に苦痛や反発を感じる方々が、現在世界24億人と言われるキリスト者の中にいます。聖書の言葉はすべて文字通りに実現すると信じている人々がこの箇所を説明するために用いる言葉が「携挙」(rapture)です。

まさに文字通り、世界の終末に信仰の先達とその時点で生きている人が空を飛び、彼方から飛んで来られる主イエスと空中で出会い、共に雲に包まれて携挙されます。まさにスペクタクル。

しかし、そのような非科学的なことが起こるはずはないと考えるキリスト者も大勢います。

先々週11月20日(木)五反田にあるゲンロンカフェで「宗教国家アメリカはどこへいく」というテーマで、新潮選書『アメリカの新右翼』の著者・井上弘貴氏と、中公新書『福音派』の著者・加藤喜之氏と、政治学者・三牧聖子氏の鼎談が開催されたので観覧しました。聖書の「終末論」がアメリカ社会を分断している、というのです。

『福音派』『アメリカの新右翼』

青土社(せいどしゃ)の雑誌『現代思想』11月号の特集が「終末論を考える」であると相生教会の本竜晋牧師から教えていただき、それも購入しました。なんと驚くべきことに、「終末論」が現代思想のトレンドであることが分かりました。

『現代思想』11月号 特集「終末論」を考える

 4 章16節以下について、ルターが「1532年 8 月22日付け」の文書で説明しています。

「これはたとえ話(verba Allegorica)です。子どもや単純な人に分かるように華々しい領主の行列にたとえています」(Martin Luther, Weimarer Ausgabe, 36, S. 268. M. H. Bolkestein, De brieven aan de Thessalonicenzen, Prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1970, p. 118からの再引用)。 

ルターが言ってくれているとおり、これは「たとえ話」(verba Allegorica)です。私たちは空を飛ばなくても大丈夫です。4 章17節は、後半に「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と記されているとおり、 5 章10節の「わたしたちが目覚めていても眠っていても主と共に生きるようになる」と趣旨が同じです。

あなたと主イエスの関係は永遠であり、生きているときも死んでからも同じように主イエスが共にいてくださるという慰めの言葉が語られていると分かれば、それで十分なのです。

マルティン・ルター

「それならば、今死んでも同じではないか。早くイエスさまにお会いしたい」と私たちは考えません。人生がつらいのは分かります。しかし、私たちは、たとえ明日世界が滅びようと、地味で地道な日常生活を営み続けます。そうする他ないではありませんか。

そして、私たちはパウロの教えに従って「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで」( 8 節)いようと思います。

「信仰、希望、愛」の組み合わせは、本書 1 章 3 節やコリントの信徒への手紙一13章13節にもあります。ここで大事なことは、私たちが身に着けることをすすめられているのは「胸当て」と「兜」、つまり自分を守るための防具だけであるということです。攻撃するための武器はありません。「信仰」や「愛」を武器にして他者を攻撃してはいけません。

さて、ここで少し話題の方向が変わります。今日は「終末と希望」についてお話ししています。「終末」が「たとえ明日世界が滅びようとも」に当たり、「希望」は「今日われらはなおりんごの木を植えるだろう」に当たると考えていただきたいです。

すべての命あるものに終わりがあるように、世界も必ず終わりを迎えます。そのとき「教会」は何をすべきでしょうか。私たちの「りんごの木」は何でしょうか。

ファン・ルーラーは「教会はそれ自体で目的でもある」(De kerk is ook doel in zichzelf)と教えました。日本で学生運動が盛んだった1960年代に、ヨーロッパの大学でも「世界同時革命」を呼びかける学生が多くいました。

そのころ流行した神学思想の中に「目標は世界の未来である。教会は手段に過ぎない」と教え、「教会」を「革命の拠点」としてとらえるものがありました。

その教えに反対するために、ファン・ルーラーが1960年に「教会はそれ自体で目的でもある」という講義をドイツで行いました(『ファン・ルーラー著作集』第5A巻、ブーケンセントルム社、2020年、232~247頁)。

『ファン・ルーラー著作集』第5A巻(2020年)・第5C巻(2023年)


その講義の趣旨は、教会が自己目的化し、内向きになるのがよろしくないことは理解できるが、それでは教会自身には目的も目標もないのかというと、そうではない、ということです。

オランダの教会も同じですが、日本のプロテスタントは「教会に行く」といえば「説教を聴きに行くこと」と同じ意味だった時代が長かったと思います。その後、聖餐式の価値が認められてきましたが、そのあたりで止まってしまいました。

ファン・ルーラーが「教会の目的」として強調しているのは「讃美歌」です。「礼拝」にみんなで集まり、共に歌い、共に祈る交わりそのものに、他に代えがたい価値があることを強調しています。私も大賛成です。

何よりファン・ルーラーにとって「宗教改革」(Reformatie)とは「大掃除」(grote schoongemaak)でした。それは「革命」ではありませんでした。

これもたとえ話ですが、「部屋の掃除をするのが面倒くさいから、家を壊して建て直す」というなら「革命」かもしれませんが、それは暴力です。「掃除」は「革命」ではありません。そこにすでにあるものを、ホコリを払って磨いて活用するだけです。それは人間に対する見方にも通じます。プロテスタント教会は「革命」を求めず「改革」を続けます。

教会だけが「目的」ではありません。神の創造のみわざの目的は、人間をキリスト者にすることではありません。教会だけが残ることが世界の目的ではありません。教会は社会との共存を求めます。科学技術の進歩の恩恵にあずかっています。

しかし、現実はどうでしょう。人工知能の進歩によって今後奪われる職種は 2 万と言われます。「超富裕層」(3000万ドルあるいは45億円以上)は30万人、世界人口の0.005パーセントです。大多数は「貧困層」です。どうしてこれほどバランスが崩れてしまったのでしょうか。科学技術は人類を幸せにしたでしょうか。

「本当の自由は何か」「善き未来とは何か」は全人類の真剣な問いです。これらの問いに真剣に取り組んでいるルドガー・ブレグマン『希望の歴史』上・下巻(野中香方子訳、文藝春秋社、2021年)と、敬愛する水島治郎先生の『オランダは、「自由の国」だったのか』(NHK出版、2025年)を推薦いたします。

『オランダは、「自由な国」だったのか』『希望の歴史』

教会は社会の問題を考える場でもあります。たとえば、もし聖書の「終末論」の間違った解釈が戦争の原因になっているとしたら、教会がそれを無視できるはずがないではありませんか。

最後にもう一度、ファン・ルーラーの言葉を紹介します。

「キリスト教の視点からすれば、いかなる否定的なことに対しても、人類は肯定的にしか立ちません。たとえ世界が滅びても、その滅亡を人類は共に乗り越えます。最後の瞬間でさえ、別の世界へ逃げません」(「聖書の未来待望と地上の視点」(Bijbelse toekomstverwachting en aards perspectief) 『ファン・ルーラー著作集』第5C巻、ブーケンセントルム社、2023年、952頁)

私もファン・ルーラーと同じ思いです。私たちは「ここではない、どこか」へ逃げても、人間が罪から逃れられないかぎり、破局の現実はどこまでも追いかけてきます。

現実に踏みとどまって、身近なところから「改革」しようではありませんか。それは「革命」ではありません。忍耐強く、部屋を片付けていくのです。そうするだけで、自由に使える生活空間が広がります。それが私たちの「希望」です。

(2025年11月30日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)