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2026年9月14日月曜日

思いを一つに 足立梅田教会創立73周年記念礼拝

前列右から 3 人目が藤村靖一牧師(初代・第 3 代牧師)
後列左から 2 人目が北村慈郎牧師(第 2 代牧師)

説教「思いを一つに」

ローマの信徒への手紙12章 9 ~21節

足立梅田教会創立73周年記念礼拝

関口 康

「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者と思ってはなりません」(16節)

今日は当教会の創立73周年記念礼拝です。おめでとうございます。

しかし、そのお祝いの日に水をかけたいわけではありませんが、「73」はキリが悪い数字です。たぶんそうだろうと予測してAIジェミニに確認してもらったら、「あなたのおっしゃるとおり、73は素数です」と返してくれました。

素数とは「 1 とそれ自体の数以外では割り切れない数字」です。孤立している感じがあります。73周年で満足できるでしょうか。キリの良い80周年、90周年、100周年を目指したいでしょう。「75でもいいか」と思うかどうかは考え方次第です。

今日の説教題にこだわりはありません。「愛」のほうがふさわしいかもしれません。今日の箇所は最初から最後まで「愛とは何か」を教えています。しかし「愛」を言い出せば、毎週の説教題が「愛」です。「愛」という言葉は、聖書の中に数え切れないほど登場します。すべての教えの土台が「愛」です。

しかし「愛」の意味の説明は容易ではありません。愛し合う前に「愛の定義」を知りたがる男女のようです。「悪」と「善」の意味も同様です。しかし、何かを語らなければなりません。「愛」について語ることは、教会創立73周年記念礼拝にふさわしいことです。なぜなら、今日の箇所に記されている「愛」は「キリスト者の実践」との関係において各自が行うべきことだからです。

ある程度の確かさをもって聖書的・キリスト教的な「愛」を定義するなら、それは他者の幸福と尊厳を思い、他者を喜び、自分を他者と分かち合おうと努めることです。また「神は愛です」。「愛」は神の本質です。そして「愛」は日常生活のあらゆる関係の土台です。

その愛に偽りがあってはなりません( 9 節、Ⅱコリント 6 章 6 節、Ⅰペトロ 1 章22節)。完璧な愛は求められていません。しかし、うそでないこと、大言壮語でないこと、誠実さ(ピスティス)は求められています。

ピスティスとは、自分が立てた誓いを自分で取り下げないこと、約束した自分を自分で裏切らないこと、です。

同時に聖書において「愛」の実践は「悪」との関係を考える機会になります。戦後のオランダで活躍した神学者レッケルケルカー(A. F. N. Lekkerkerker [1913-1972])が『ローマ書注解・下』(オランダ語版、1965年、118頁)に記したことによれば、戦時中ナチス・ドイツに蹂躙されていたオランダ人にとって「愛しなさい」という戒めは「ドイツ人を愛さなければならないこと」を意味するかどうかの問題でした。

レッケルケルカーは結論的に「彼らが福音に反する世界観の代表者かつ実行者であるかぎり、『悪を退けなさい』という戒めのほうに該当した」と述べています。

悪とは、存在を害し、生命を損ない、人に不幸と破滅をもたらし、道徳的に非難されるべきものであり、究極的には神の意志に反するものです。

パウロは、私たちが悪を憎むべきであることを教えています。「悪を退け」と訳されていますが、ギリシャ語の訳としては弱すぎます。神は被造物と人間をとても愛しておられるので、罪を憎み、悪を無くしたいと願っておられます。

10~13節は兄弟愛(フィラデルフィア)で始まり、もてなし(フィロクセニア)で終わります。どちらの言葉も、古代ギリシャ・ローマ文化の中で「慈善の実践」において重要な意味を持っていました。パウロは、同じ家族内の兄弟間の愛情を意味するフィラデルフィアを、教会員同士の関係に当てはめました。「もてなし」は、見知らぬ人や旅人に対して実践されるべき美徳ですが、この言葉もパウロは教会内の関係に当てはめています。

第二の勧告では、ある賜物を受けた者が自分を他人よりも優れていると考える誘惑に反対しています。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」(フィリピ 2 章 3 節)。しかも、愛は教会の外なる人々にも向けられるべきことを主張しています(14節)。キリスト者は教会の中だけでなく、世の中にも生きているからです。

教会員同士の家族のような関係は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くこと」(15節)を意味します。これは容易なことではありません。「喜ぶ者と共に喜ぶこと」は「泣く者と共に泣くこと」よりも難しいです。なぜなら人は、隣人の幸福、他人の喜びを見ると、嫉妬してしまうからです(A. A.ファン・ルーラー「喜びを人に分かつと喜びは二倍になる」(関口康訳はこちら)『使徒の権威において』、聖書黙想集、オランダ語版、1971年、118頁)。

「あらゆる喜びに共に喜ぶべきではない」と指摘する人(オリゲネス)もいます。商売が奇跡的に成功して莫大な資産を得て喜んでいる人と共に喜ばなくていいでしょう。この喜びは束の間のものだからです。同じように、隣人のあらゆる悲しみ、たとえば一時的に多額の財産を失った人の悲しみに付き合わなくていいでしょう。それも束の間のことです。簡単に割り切れないかもしれませんが、大事なことは、真の喜びと真の悲しみがどこにあるかを区別することです。

パウロは多くの箇所で教会に一致を促しています。「互いに思いを一つにし」(16節)は、先ほど引用したフィリピ 2 章 3 節と趣旨が同じです。この聖句は「謙遜な人々と交わる」という意味で理解すべきです。教会は「高い目標」、すなわち特別な賜物によって他の人よりも「上」を目指そうとする危険にさらされています。パウロは謙遜で小さな者の中に加わるよう勧めています。

パウロが17~19節に述べているのは主観的で感情的な「復讐」をすすめる言葉ではありません。主観的な「復讐」と、正当な罰としての客観的な「報復」を区別することは今日の箇所を正しく理解するために必要です。

パウロは、人が衝動に駆られて「復讐」を行うことを戒めています。その根拠として、神は悪に正当に報復し、犯罪者を罰する方であることを示しています。報復できるのは神のみです。神の罰としての「報復」は人間の「復讐」とは無関係です。

「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」(20節。箴言25章21~22節)の意味は謎です。分かりません。敵への拷問でしょうか。それとも、愛によって悔い改めと回心へと導くことでしょうか。拷問のほうではないと思いたいです。

教会の存在理由と目標を知ることは、私たちが教会につらなる意義と価値を知ることにつながります。教会は「他者のために生きること」と「悪と戦うこと」のために存在します。「悪と戦う」とは「悪人を善人に変えること」です。それがいちばん難しいことです。その最も難しい課題に、教会は取り組んでいます。

キリの良い「80周年」までと言われるとつらいでしょう。まずは来年の「74周年」まで、みんな元気に過ごしましょう。一歩一歩、地味に地道に着実に歩みを進めていこうではありませんか。

(2026年 9 月13日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年8月30日日曜日

信仰とは信頼である

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「信仰とは信頼である」

ローマの信徒への手紙11章25~36節

関口 康

「神の賜物と招きは取り消されることがない」(29節)

今日の箇所でパウロは「秘義」(μυστήριον ミュステリオン)を告げています。新約聖書の中で用いられる場合の「秘義」の意味は、終末における神の定めです。たとえば、コリントの信徒への手紙一15章51節をご覧ください。イエス・キリストがまた来てくださる未来が「秘義」として描かれています。

終末は、現在の私たちにとっても未来です。未来を自分の目で見たことがある人はいません。「秘義」を告げているパウロは、自分でも見たことが無い未来をなぜか知っている霊能者のようです。

しかしパウロは、何の根拠もなく未来を言い当てようとしているわけではありません。

第一の根拠は、「旧約聖書」です。パウロはユダヤ教のラビになるための教育を受けた人です。律法(トーラー)、預言者(ネビイーム)、諸書(ケトゥビーム)を学んでいます。テキストに基づいて考えることができる人です。

第二の根拠は、パウロ自身が直接的にかかわった教会や個人、そして彼自身の経験です。今日の箇所で語られている「秘義」の内容は、終末における神の定めにおいては、ユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストの教会において救われるということです。つまりこれはイエス・キリストと教会の関係についての「秘義」です。

そう言ってよいなら、私たちも「秘義」を理解することができます。私たちが教会だからです。私たち教会とイエス・キリストの関係は「秘義」です。私はなぜここにいるのでしょうか。なぜ教会の礼拝に出席しているのでしょうか。その理由を完全に説明できる人はいません。自分自身ですらその全体像を把握しきれない「ミステリー」なのです。

今日の箇所の「イスラエル」が民族としてのイスラエルを意味することは明白です。「異邦人」と対比されているからです。秘義を裏付けるためにパウロが引用している聖書箇所も特定の場所(シオン)、特定の民(ヤコブ)について述べています。

そうなるとどうしても避けて通れなくなるのは、現在進行中のイスラエルの戦争のことです。「イスラエル」という言葉を聞く今の人は、必ずそのことを考えるでしょう。

しかし、第二次世界大戦後のパレスティナの領土問題と今日の箇所を直接結びつけるのはやめましょう。何らかの結論を出すこと自体がどちらか一方への加担を意味するからです。日本は絶対に戦争に巻き込まれてはなりません。どちらかを支援することすら加担です。ローマの信徒への手紙の解釈いかんで、戦争の状況が変わるわけでもありません。イスラエルの戦争については、私たちは判断を停止すべきです。

そういうことではなく、私たちにできそうなのは、今日の箇所に記されていることを自分自身に当てはめてみることです。

教会の説教は、自分の話をすることではないので、私の話をするのはなるべく避けたいのですが、ここは言わせてください。

繰り返し申し上げているとおり、私は60歳で60年、教会に通ってきた人間です。私が生まれる前から両親がキリスト者となり、兄と私は生まれたときから教会に連れていかれました。

そして私は、小学校入学前の 6 歳の教会のクリスマス礼拝(1971年12月26日)で、自分の明確な意志を言い表わして、成人洗礼を授けてもらいました。風邪を引いたとき以外は、日曜日の礼拝に休まず通いました。高校からストレートで東京神学大学に入り、卒業後24歳から現在60歳まで牧師を続けてきました。

60歳の私が60年、教会を離れずにいられたことが、ミステリーです。はっきり言えるのは、私の信仰は深くもなければ強くもない、ということです。教会の皆さんにはとっくにばれています。そうであることを恥ずかしいと思っていないので、隠したことがありません。

私がなぜ教会から離れないでいられるのかの理由は、はっきり分かりますし、説明もできます。

それはこのたび私たちの教会の礼拝で正式に導入した「聖書協会共同訳」の最大の魅力である、ギリシア語ピスティスを文脈によって「①神の真実」と「②人間の信仰」とに訳し分けることと関係あることです。

「①神の真実」としてのピスティスの意味が、29節にまさに記されています。「神の賜物と招きは取り消されることがない」。

その意味は、神は約束を絶対に守るかたであるということです。いったん発した約束を、神の側から取り下げることはありません。人間の側の事情や都合が変われば、それに応じて、約束など初めから無かったことにして、態度を変える方ではありません。

それが「①神の真実」(ピスティス)の意味であり、だからこそ、イスラエルは「つまずいた」が「倒れていない」とパウロは言うのです。異邦人が先に救われ、救いの恵みにあずかって喜びに輝く異邦人の姿にユダヤ人がねたみを抱き、それによって奮起して、あとから救われるというパウロが描く壮大な「秘義」の根拠は「①神の真実」(ピスティス)です。

しかし、だからといってピスティスから「②人間の信仰」という意味が無くなったわけではありません。そもそも約束というものは、ひとりで成立するものではありません。相手が必要です。相手がいない約束など無意味です。

そして人間も、いったん約束したことに対する「真実、誠実、忠実」(ピスティス)が求められないはずがありません。約束を守らない人は信用されません。自分でも、うそつきになりたくはないでしょう。

私がそうでした。中学生のころ、日曜日の朝「今日は教会に行きたくない」とグズグズしていたとき、母から「自分で洗礼を受けたいと言ったでしょう」と言われて、返す言葉が無くて教会に行ったことを覚えています。

私は、神を信じる信仰は強くもなければ深くもありません。しかし、自分が立てた約束を自分で破りたくないという思いが非常に強いです。洗礼を受けたとき決心し、約束した自分を、自分で裏切ることができません。

だから私は教会から離れることができないし、離れたくありません。自分で自分を裏切ることになるからです。その意味では、私は自己愛が強いだけかもしれません。

神に対して私にできるのは、イエス・キリストを通して明らかにされた「真実な」神を、ただ「信頼」することだけです。その「信頼」によって私たちは救われます。

(2026年 8 月31日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年8月23日日曜日

野生のオリーブとはだれのことか

教会学校のみんなでかき氷を楽しみました(2026年8月23日)

説教「野生のオリーブとはだれのことか」

ローマの信徒への手紙11章11~24節

関口 康

「もしあなたが、自然のままの野生のオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、良いオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう」(24節)

先週は夏季休暇を取らせていただきました。五反田教会の礼拝に出席して山口隆康先生の説教を拝聴しました。山口先生は、東京神学大学で直接神学を教わった、地上でまだお会いできる最後の先生です。いろいろ考える良い機会となりました。ありがとうございます。

牧師が日曜日に教会を不在にすると、皆さんと半月もお会いしない状態になります。「ご無沙汰しています」と言いたくなります。半月も空くと、これまで何を話したかを忘れてしまいます。しかし、聖書は不思議な書物です。これまでの内容を覚えていなければ続きが分からないような書物ではありません。

「では尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたのは、倒れるためであったのか。決してそうではない」(11節)と記されています。

この言葉の意味は、「つまずくこと」と「倒れること」を区別してくださいということです。

相撲のことを考えれば分かる話です。土俵の縁は「徳俵」または「勝負俵」と呼ばれます。徳俵に力士の足が引っかかって「おっとっと」になっているのが「つまずく」です。しかし足はまだ土俵の外に出ていない。勝負がついていない。それが「倒れていない」です。

パウロが述べているのは、ユダヤ人と神との関係の問題です。ユダヤ人は、イエス・キリストを受け入れない。神に「つまずいている」。しかしまだ「倒れていない」。勝負はついていません。「のこったのこった」です。

そこから先の内容に、私たちは驚くべきです。この箇所を繰り返し読んでこられた方には、何度でも驚いていただきたいです。とんでもないことが書かれています。

「かえって、彼らの過ちによって、救いが異邦人に及びました。それは、彼らに妬みを起こさせるためです。彼らの過ちが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」(11~12節)。

何を言っているでしょうか。これは私たちにとって意外なほど分かりやすい話です。なぜなら、これは教会の話だからです。その場合の「教会」は、人の集まりとしての教会です。土地や建物を持ち、私たちが自分の体を運んでこの場所に集まって来ている、この教会です。

教会の私たちにとって「妬み」の問題は、避けて通ることができません。他の教会との比較や、教会の中で自分と他人の比較が始まるからです。うちの教会は小さい。あの教会は大きい。うちの牧師はこうだ。あの教会の牧師はこうだ。個人の比較も始まります。私はこうだ。あの人はこうだ。比較があるかぎり「妬み」は起こります。優劣の差があるからです。

しかし、ほとんどの場合、優劣の差は主観的です。他人のものは自分のものより良く見える。「隣の芝は青い」(The grass is always greener on the other side of the fence)です。

パウロが言っているのは、妬むのをやめなさい、ということではありません。その正反対です。人の「妬み」を神が用いる、と言っています。ユダヤ人が「つまずいた」のは、彼らが受け入れない救いの恵みを神が異邦人に先に与えて、自らの救いを喜ぶ異邦人を見てユダヤ人が「妬み」を抱いて発奮するためだというのです。ユダヤ人が「倒れていない」のは、異邦人の救いの後に、彼らが救われるからです。まだ勝負はついていないのです。

ありていに言えば、パウロの目から見ても、当時のユダヤ人たちの自覚においても、ユダヤ教の神殿やシナゴーグに集まる人々の中に閉塞感があったのです。礼拝の説教や讃美歌やお祈りの儀式はマンネリ化している。「祭司長」「律法学者」「長老」「会堂長」などの肩書きや役職がある人たちの占有物になっている。それ以外の人たちにとっては居心地の悪い、窮屈な集まりでした。

しかし、イエス・キリストの教会はそうではないと、パウロは言おうとしています。人がねたむほど開放的で自由な私たちの教会を見て、発奮する人々が現れるだろうと言っています。

9月13日に創立73周年を迎える足立梅田教会が、80周年、90周年、100周年、もっと先まで進んで行けるかどうかは、今日の箇所でパウロが驚くほど率直に取り上げている「妬み」の問題から逃げ出さず、向き合うことができるかどうかにかかっていると言っても過言ではありません。

恐ろしい話になってきました。

今日の説教題に触れずに終わるわけにはいきません。私の父の思い出と結びついています。

以前お話ししたように、私の父は、出身は群馬の前橋ですが、戦後新制になったばかりの千葉大学園芸学部(千葉県松戸市)を卒業しました。卒業後、岡山県の複数の農業高校で園芸科教員をしました。植物の知識があり、道端の雑草の名前を全部言える人でした。父のそういうところを私は全く受け継げず、バラとツツジの違いすら分かりません。

その父とたしか20年ほど前に電話で話していたとき、父が激怒していることが分かりました。私に対してではなく、父が通っていた教会の牧師に対して腹を立てていました。何があったのかと尋ねたら、今日の箇所でした。

父いわく、パウロが書いている「自然のままの野生のオリーブを良い木に接ぎ木する」ことは園芸学的に絶対にありえない。それなのに、牧師に知識が無さ過ぎて、何の疑問も持たずに書いてある通りに話して終わらせた、と。

野生の木のほうが、生命力が強いに決まっているので、そんなものを接ぎ木したら良い木が全滅してしまうというわけです。父に言わせると、パウロの言っていることはメチャクチャです。

その後、私もいくつかの註解書を読みましたが、その通りのことが書かれていました。「使徒が接ぎ木のたとえを用いる方法が正しいかどうかという問題に多くの注目が集まっている。確かに庭師は、野生の果樹に良い枝を接ぎ木するのであって、その逆ではない」。

私は「父の言い分が正しい」と言いたいわけではないのです。父自身も、聖書にはでたらめなことが書いてあると言いたかったわけではなさそうでした。そうではなく、園芸学的に絶対にありえないことを、牧師が平然と言いのけたことが我慢できなかったようでした。

私は、いつも参考にしている註解書を支持します。次のように書かれています。

「この箇所でパウロは確かに、良い木に野生の枝を接ぎ木することについて語っており、これが庭師の慣習に反することを私は認識しています。しかし、神の恵みの世界では、物事が自然界とは異なる形で進むと想定しているとも考えることができます」。

つまり、パウロは逆説的なことを書いているという可能性です。父の教会の牧師がこういうふうに語っていたら、父があれほど激怒することもなかったかもしれません。

「野生のオリーブ」が「異邦人キリスト者」を指していることは文脈的に明らかです。ユダヤ人の血統をルーツとしない。幼少期からの聖書教育など受けたことがない、割礼を受けていない、礼拝に通ったことが無い。しかし、求めるところがあって教会の仲間に加わった人たちです。

その人たちは元気なので、うかうかしていると昔ながらの教会員がマンネリに甘んじているわけに行かなくなるぞと、はっぱをかけている可能性があります。若い命、新しい風を積極的に受け入れて、教会が変わっていく必要があると言っているかもしれません。

(2026年8月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年8月9日日曜日

神は世界をあきらめていない

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「神は世界をあきらめていない」

ローマの信徒への手紙 11 章 1 ~10節

関口 康

「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。恵みによるのであれば、もはや行いにはよりません。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなります」( 5 ~ 6 節)

ローマの信徒への手紙の11章に入ります。

この手紙を今年 2 月から、前から順に読んできました。このペースで行けば、アドベントの前には読み終わるのではないかと予想しています。行き当たりばったりで読んでいるわけではありませんが、予定を立てきれてもいません。

このことを申し上げるのは、説教に限らず、来年度の教会全体の活動計画をそろそろ考えなくてはならないと思うからです。

内容に入る前にお話ししたいことがあります。私はこの教会で 3 年目です。招聘時についていた 3 年の任期は外してもらって無期になりました。しかし、牧師としての働きが私の「仕事」なのですから、ただ漫然とここにいればいいというわけには行かないでしょう。

「漫然(まんぜん)」とは、「心にとめて深く考えず、またはっきりとした目的や意識を持たないさま。とりとめのないさま。しまりのないさま」(広辞苑第 4 版)です。それを「仕事」と認めてもらえることはないでしょう。

先週「なぜ教会が必要なのか」という題の説教でお話ししたことを繰り返します。ひと昔前の日本の教会でよく言われたのは「教会は甘えている」という言葉です。「会社の支店やコンビニは売り上げが悪いとすぐにつぶされる。しかし、教会はそうではない。それは甘えである」という言葉が、キリスト教界の中で人口に膾炙したのを記憶しています。

「人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)する」の意味も説明しておきます。「膾」(かい)が「なます」で生肉(なまにく)。「炙」(しゃ)があぶり肉。その意味は「(なますとあぶり肉が万人に好まれるように)広く世人に好まれ、話題に上って知れわたること」(広辞苑第 4 版)。「教会は甘えている」という言葉が、それを言う人たちの口の中で美味しい。快感を伴っている。

私はこの言葉を、いろんな場所でいろんな人から聞きました。時期を覚えています。2000年代に入って10年ぐらいの間です。世代論(Generation theory)を言う人たちが「ゼロ年代」と呼ぶ時代。バブル崩壊後の長期不況の只中、会社も社会も自分の家も大変だったころ。しかも、これを言う人々の口ぶりや表情に共通点がありました。それを言葉で説明するのは難しいです。いま私がその真似をしている顔と口調です。ブログや動画では伝えきれません。

この話をずっと続けるわけにはいきません。しかし、今日の聖書の箇所に関係あると思うので、もう少しだけ続けます。

ゼロ年代までの私は、牧師しかしたことがありませんでした。学校で教えるようになったのは2016年以降です。

1990年 3 月に東京神学大学大学院を24歳で卒業して、翌 4 月に日本基督教団の教師(最初は補教師)になりましたので、2000年代は、牧師になって10年を過ぎたころ。私の 2 人の子どもが小学校から高校までの頃です。

その時期の日本社会の様子は、皆さんのほうがよくご存じでしょうから、私は何も言いません。問題はキリスト教界です。会社やコンビニとの比較で教会を「甘えている」と言うのは成果主義以外の何ものでもありません。

具体的な場面を覚えています。当時の私は日本キリスト改革派教会にいました。日本基督教団の「教区」にほぼ該当する(厳密にいえば意味が異なる)単位は「中会(ちゅうかい)」と呼ばれます。私はその「中会」の中の「伝道委員会」にかなり長く属し、その委員会の書記を任されていました。

「中会」の「伝道委員会」の最も中心的な仕事は、人をどうしたら教会に集めることができるかの手段を講じることではありません。そうではなく、小規模ゆえに経済的に自立できない伝道所を支援するために、同じ中会に所属するすべての教会から分担金を徴収して、支援が必要な伝道所に分配することでした。

いやな役目でした。はっきり言う人々は「うちの教会の牧師にもっと謝儀をあげたいのに、知らない教会を支援するために分担金を徴収されるのはたまらない」と言いました。そういうときに「教会は甘えている」という殺し文句が飛び出すわけです。

「すみません」と謝りたくなる気分でした。伝道委員会の立場にある私に向かって個人的に言われることもありましたし、200人規模の大きな会議の中ではっきり言う人もいました。

今日の朗読箇所の核心部分は、聖書協会共同訳も新共同訳も同じ小見出しをつけているとおり、「イスラエルの残りの者」です。

「残りの者」とは何のことでしょうか。パウロが「エリヤの箇所」と呼んで引用しているのは、列王記上の19章10節と19章18節です。しかし、「残りの者」の思想は、旧約聖書の中にたくさん出てきます。ノアの洪水物語(創世記 6 ~10章)、紀元前 8 世紀に活躍した預言者イザヤ(10章21節)やミカ( 2 章12節、 4 章 7 節)やアモス( 5 章15節)。紀元前 6 世紀の預言者エゼキエル( 6 章 8 節、11章13節、14章22節)など。

細かいことはどうでもいいです。紀元前 8 世紀の預言者は北イスラエル王国の滅亡、また紀元前 6 世紀の預言者は南ユダ王国の滅亡という歴史と深い関係にあります。たとえ国家が滅びても「神によって残された」一握りの人々が信仰を受け継いで生きていくという思想です。その旧約聖書の「残りの者」の思想こそ、パウロが記している「恵みによる選び」の思想の土台です。

分かりやすそうなことから言えば、「残り物には福がある」と言うではありませんか。あの格言は江戸時代の浄瑠璃などにもみられる表現で、キリスト教とは関係なさそうですが、ニュアンスが近いです。その意味は「人が先に取って残っている物に思わぬ利得がある」(広辞苑第 4 版)です。

人の目には無価値に見える。競争も奪い合いもなく売れ残っている。生鮮食料品ならば廃棄処分するしかない。すぐには腐らない置物や本などは、いつまでも残って棚や倉庫をふさいでいる。「回転率が悪い」とか「そもそも入荷すべきでなかった」と言われる。

「あるある」とか言っている場合ではありません。それが「教会」であるとパウロは言っているのですから。

「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。恵みによるのであれば、もはや行いにはよりません。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなります」( 5 ~ 6 節)とは、まさにその意味です。

「選ばれた人」と聞くと、才能と努力を遺憾なく発揮して優秀な成績を収めた人たちの中から、厳しい審査員による最終選考をパスした最優秀者のことを言っているのだろうと、私たちだって考えるでしょう。なぜなら、それが社会のオキテであり、学校も会社もそのオキテのもとにあるからです。

しかし、パウロが言っているのは正反対です。「もはや行いにはよりません」とは、才能も努力も成果も全く関係ない、という意味なのですから。

そして、そのようにして「恵み」によって「選ばれた」人が「残っている」以上、世界が滅ぶことはありません。神がそのような人を残してくださるのは、神が世界をあきらめていないことのしるしであると信じることができます。それこそが旧約聖書の「残りの者」の思想であり、使徒パウロの「恵みの選び」の思想の核心です。教団制度は崩壊しても選ばれた者たちは残ります。

そうは言っても、教会は「残りもの」であると言われると、カチンと来るでしょう。「漫然としている」ことができなくないのも教会です。目標や数字と無関係でいられるのも教会です。だからと言って、サボっているわけにいかないのも教会です。「残りの者」の意味を正しくとらえることが大切です。

(2026年 8 月 9 日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年7月12日日曜日

なぜ神は私をこのように造られたのか

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「なぜ神は私をこのように造られたのか」

ローマの信徒への手紙 9 章14~29節

関口 康

 「陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に作る権限があるのではないか」(21節)

2 月から 6 か月目ですが、ローマの信徒への手紙を連続的に取り上げています。この説教方法を「連続講解説教」(lectio continua; continuous reading)と言います。キリスト教会の最初期から続く伝統的な学び方です。

「連続講解説教」と「教会暦説教」や「主題説教」との違いは、いったん始まると終わるまでが長いことです。 1 年、 2 年続くことも、ざらです。長いことが短所かどうかは考えどころです。今は長所だけを言うべきかもしれません。

「連続講解説教」の長所であり同時に短所かもしれないことがあります。それは私たちが不都合を感じるような「読みにくい」箇所から目をそらさずに読むことができることです。

ローマ書の連続講解を始めた 2 月から教会ブログの更新をストップしたのは、いま申し上げたことと関係があります。ローマ書には、いたるところに論争の火種があるからです。

ブログを開設した目的は、日曜日の礼拝に集まってくださっている方々の聴き洩らしの確認や、振り返りに用いていただくことです。不特定多数の相手に神学論争を挑むことではありません。

「ブログに書いてしまうと集まる必要が無くなるのではないか」とご家族の方から言われた、というお話も伺いました。おっしゃるとおりなので、とにかく今はブログをストップしています。

今日の箇所がそうです。ローマの信徒への手紙の中でも「最大のざわめき」を起こして来た箇所です。パウロ自身が、多方面からの抗議に身構えています。「では、何と言うべきでしょうか。神に不正があるのか。決してそうではない」(14節)。

これは、パウロが直前に引用したマラキ書 1 章 2 ~ 3 節の「私はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」について多くの人が感じる疑問への答えです。双子として同時に生まれた子どもなのに、「一方を愛し、他方を憎む」(?)というようなことを、神がしてよいのか。それが「神」だというのなら、そんな「神」は、とてもじゃないが信じられない、という反発です。

パウロが冷静だったかどうかまでは分かりません。しかし、ある意味で論理的に返しているのが「神はモーセに、『私を憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむ』と言っておられます」という出エジプト記33章19節の引用です。

「だれを憐れむか」は、憐れむ神の側の自由に属することであって、「憐れんでほしい、憐れむべきだ」という人間側の注文に応える義務は神には無い、という意味です。

そして、こう続けます。「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです」(16節)。

これは、パウロが 1 章から 8 章まで記して来た信仰義認の教えそのものです。信仰の行為や努力、熱心さがその人を救うのではなく、神がその人を救うのであって、熱量の多い少ないは救いとは無関係であるという教えです。

自分の反省や謙遜の意味ならば、話は別です。「私の祈りが聞かれないのは、祈りが熱心でないからだ。もっと熱心に祈らなくては」と自分を励ますことまでを悪いとは言えません。問題は、他人の話になるときです。「あの人の祈り/あなたの祈り」が聞かれないのは「その祈りの熱量が足りないからである」とやりはじめると、バトルが始まります。

しかし、「神の自由」が強調されると、ますます疑問がわいてくるのがわたしたちです。もし神が好き勝手に世界を創造したというのなら、この私がこんなに不格好なのも、この世界がこんなにめちゃくちゃなのも、すべては神のせいなのか。それならば、なぜ神は私をこのように造ったのか。答えてほしいと言いたくなるのが私たちです。

誰の心にもある思いをパウロは知っています。「そこで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのか。神の御心に誰が逆らうことができようか』」。

そしてその問いに対してパウロが「ああ、人よ。神に口答えするとは、あなたは何者か。造られたものが造った者に、『どうして私をこのように造ったのか』と言えるでしょうか」と返して、ますます火に油を注ぐ結果になっています。

「なぜ神は私をこのように造られたのか」という問いは、私たちが人生の不条理、思い通りにならない現実、「親ガチャ」というような言葉に引きずられるとき、老いや弱さに直面するとき、心の底から湧き上がる、生々しい叫びです。簡単に片づけられては困る、人生最大の問題です。

もうひとつ今日申し上げたいのは、私のことです。

日本で古典的な教養を持つ人が「予定論」と聞くとすぐ思い浮かべるのが、16世紀のカルヴァンの名前と、20世紀のマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のタイトルです。

なぜそう言えるかといえば、高校の世界史教科書の世界観がそうなっているからです。予定論といえばカルヴァン。カルヴァンといえば予定論。予定論といえば資本主義の精神。

それがなぜ「私の話」なのかといえば、皆さんはご承知の通り、私は1997年 1 月から2015年12月までの19年間、日本基督教団を離れ、日本キリスト改革派教会に所属していたからです。

予定論はカルヴァンが発明したわけではありませんし、改革派教会独自の教えでもありません。しかし、まるでそうであるかのように思われている面が無くはありません。

一例だけ挙げます。

今年 5 月19日(火)、 K さんのご夫人の葬儀で私が説教させていただいたあと、谷塚斎場(埼玉県草加市)から谷塚駅まで他教会の信徒のかたとタクシーでご一緒したとき、「私は過去に日本キリスト改革派教会に所属していました」と話した途端に顔色が変わり、「改革派教会の予定論をどう思いますか。あんな恐ろしい神を私は信じることができません」と始まりました。「それはタクシーの中で、 3 分でお話しできることではありません」と丁重にお断りしました。

しかし、パウロの書き方に問題が無くはありません。悩んでいる人を突き放す感じがあります。論争が始まることには理由があります。火のないところに煙は立ちません。

21節の「陶工(新共同訳「焼き物師」)と粘土のたとえ」は、イザヤ書64章とエレミヤ書18章に基づくものです。これをパウロが「陶工は、同じ粘土の塊から、一つを貴い器に、一つを卑しい器に造る権限があるのではないか」(21節)と説明していて、ますます火に油を注いでいます。いよいよ神が独裁者です。

しかし、エレミヤ書18章を実際に開くと、そこには全く違う、驚くべき神の姿が描かれていることが分かります。「神はろくろで仕事をしていた。陶工は粘土で作っていた器を手で壊し、自分の気に入った他の器に作り変えた」(エレミヤ書18章 3 ~ 4 節)

ろくろで粘土を器の形にした経験があるかたはお分かりでしょう。美しい形になるまで、粘土は何度でも練り直されます。そのことをエレミヤが言っています。

エレミヤが描く神は「できそこないを叩き割る神」でも「不要なものをゴミ箱に放り込む神」でもありません。

神は、私たちの歪みや崩れた現実を、何度でも練り直し、よりよく仕上げてくださる陶工です。これは慰めの言葉なのです。

(2026年 7 月12日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年6月28日日曜日

神との平和

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田 5-28-9)


説教「神との平和」

ローマの信徒への手紙 8 章26~39節

関口 康

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)

いよいよ来週 7 月 5 日から、礼拝の朗読聖書を「聖書協会共同訳」(2018年)に切り替えます。

新共同訳より悪くなった箇所があるかどうかは、まだ分かりません。完璧な翻訳は存在しません。それは地上に完璧な事物が存在しないのと同様です。

現在の印象としては、全体的に引き締まった文章になっています。今日の箇所の26節もそうです。

新共同訳(1988年):「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(82字)

聖書協会共同訳(2018年):「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。」(77字)

なんと、この一文だけで、字数が 5 字も減っています。

新共同訳の「同様に」が「また同じように」になっているのは、 4 字増です。

新共同訳の凡例三(2)で「新約聖書において、底本の字義どおり「霊」と訳した箇所のうち、「聖霊」あるいは「神の霊」「主の霊」が意味されていると思われる場合には前後に“ ”を付けた」と解説されている二重引用符(ダブルクオーテーション)が削除されています。これで 4 字減。

新共同訳で「わたし」「わたしたち」はひらがなですが、「私」「私たち」と漢字になって 4 字減。「うめき」も「呻き」と漢字になって 1 字減。

「 4 - 4 - 4 - 1 」で、マイナス 5 。

週報に朗読箇所のページ番号を毎週記していますが、今日の箇所は「新共同訳(新約)285ページ、聖書協会共同訳(新約)279ページ」です。すでにここまでで、 6 ページ分の削減に成功しています。新約聖書全体でも、新共同訳480ページ、聖書協会共同訳467ページと、なんと、13ページも減っています。

聖書が少し軽くなったかもしれません。これは重さの問題だけではなく、全体的に文章が引き締まったことの証拠です。

今はスマホの時代です。字数が多いと嫌われます。日本の説教集で、語尾が「であります」( 5 字)や「なのであります」( 7 字)と軍隊調で書かれているのをご覧になったことがある方がおられるはずです。「です」なら、2 文字で済むのに。こういうのを水増しと言います。

内容に入ります。

聖書協会共同訳では二重引用符(ダブルクオーテーション)が外されましたが、「霊」(28節)が「聖霊」でなくなったわけではありません。聖霊は端的に神です。

「聖霊が弱い私たちを助けてくださいます」とパウロは記しています。「神が私たちを助けてくださる」と言い換えても同じです。ただし、聖霊は、私たち人間の体と心に宿ってくださる神です。

「山のあなたの空遠く 幸い住むと人の言ふ」と京都帝国大学教授・上田敏博士(1874-1916)の名訳があるカール・ブッセの詩のような「遠い神」ではなく、私たちの胸の奥に住んでおられ、私たちの呻きと共に呻いてくださる「近い神」です。

聖霊なる神が「弱い私たちを助けてくださる」のはありがたいことです。しかし、私たちのどこが、どのように弱いのでしょうか。パウロが述べているのは、「私たちはどう祈るべきかを知らない」ほど弱い、ということです。

これは、私たちの慰めになるでしょう。

当教会で、奇数月の最終週の礼拝後に祈祷会を再開しましたが、お祈りを「パス」してもいいことにしています。人前で声に出してお祈りするのが苦手な方がおられるからです。

礼拝の司会を役員さんがたに担当していただいていますが、お祈りが得意であると思っておられる方はいない気がします。責める意味はありません。

実は私も、人前で祈るのは苦手です。 60 歳で 60 年教会に通い、牧師生活 36 年目の私ですが、こればかりはどうしようもありません。

自宅でひとりでいるときや、バイクで走っているときは、よく神さまに文句を言っています。「神さま、ちょっと待ってくださいよ」とか「神さま、勘弁してくださいよ」と、よく言っています。これをお祈りと言えるかどうかは分かりません。ハタから見ると、ひとり言です。それでも、私なりに真剣です。しかし、そのことと、人前で祈ることは、全く別です。

しかし、パウロが記している「私たちはどう祈るべきかを知りません」には、人前でお祈りするのが苦手という話とは少し違う、もっと深い意味がありそうです。可能性として考えられるのは、「言葉がない」「言葉を失う」状況に直面したときです。

深い悲しみの底にある方の痛みに直面するとき。人間の力ではどうにもならない大きな自然災害や、防ぎようのなかった人災の悲劇を前にするとき。そのようなとき、安易な言葉の羅列、形式的な式文を読み上げることに戸惑う。なぜその人が、または自分がこれほど苦しんでいるのかを理解できないまま口にしたり、字にしたりしてよいかどうかを迷う。

そういう場面があることを、パウロは知っているのです。パウロの趣旨にそえば、聖霊なる神が、そのような私たちの事実を熟知しておられるのです。

だから「霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださる」のです。この「呻き」は陣痛であると、先週申し上げました。産みの苦しみです。今はまだ出口も結果も見えず、ただ苦しみしか感じないとき、何も言えない、言葉がない。その苦しみを聖霊なる神は、深く受け止めてくださり、一緒に呻いてくださる仕方で共にいてくださるのです。

いま申し上げたとおりのことを、パウロは27節に記しています。「霊は神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです」。

ここで「執り成し」とは、罪を犯して神に背を向けた人間に対して怒りを発する神と、自分の罪を認めて悔い改めている者たちとの間に、平和の架け橋をかけることです。そのみわざを聖霊なる神が成し遂げてくださいます。

そして28節。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています」(聖書協会共同訳)。

この「ご計画に従って召された者」の意味は「教会」です。神が私たち人間を罪から解放する作戦を立ててくださり(それが「ご計画」)、その目的のために召集されたのが教会です。つまり、私たちのことです。

「万事が共に働いて益となる」の「万事」の意味は「すべてのこと」です。しかし、この文脈において「万事」は、祈る言葉を失うほどの悲しみや苦しみを含めての「すべて」であることは明らかです。

しかし、その境地に至るまでには、多くの時間がかかります。苦しんでいる最中に「これも益になりますから」と軽く言われたら、かえって傷つきます。苦しいときに無理して笑わなくていいです。「やまない雨はない」とか「明けない夜はない」とか。言っても構いませんが、わざわざ言わなくてもいいです。そういうときに神は、黙って、しかし、希望の光を絶やさずに寄り添ってくださいます。

(2026年 6 月28日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年1月25日日曜日

聖なる生活とは

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「聖なる生活とは」

テサロニケの信徒への手紙一 4 章 1 ~ 8 節

関口 康

「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」( 3 節)

 1 月に入ってから、毎週の説教をお詫びから始めているようで、本当に申し訳ありません。今日お集まりの皆さん全員にかかわることではありませんので、説教の中ではなく、説教が終わってから言うほうがいいかもしれませんが、先週から私の身辺が忙しくなっていて、教会のブログを更新できていません。

料理で忙しくなっているわけではありません。料理についてはむしろ「今日は無いのですか」と言っていただけるほうがうれしいぐらいです。

そういうことではなく、先週は地域合同祈祷会で私が説教させていただきました。長年の交流がある仲間たちとの合同礼拝ですので、悪い意味での緊張はありませんが、教団・教派を超えての集まりにはそれなりの礼儀がありますので、その意味での緊張はありますし、ありました。

それがやっと終わったと思ったら、東京教区東支区の内部のことですが、いろいろイレギュラーなことが起こり、対応に追われています。

そして、今週末 1 月31日(土)沖縄キリスト教センター(沖縄県宜野湾市)での「北村慈郎牧師支援コンサート」に参加するために、今週 1 月29日(金)から沖縄に行くための飛行機の座席指定などもしています。

いま申し上げていることはすべて教会ブログ更新遅延の弁明ですので、お聞き苦しいかぎりで申し訳ありません。「ブログで発信しすぎるとそれを読むだけで済むので、教会に誰も人が来なくなるのではないか」とご家族から言われたかたの話も伺っています。おっしゃるとおりです。本音を言えば、日曜日の礼拝にぜひおいでいただきたいです。その気持ちを偽ることはできません。

今日はテサロニケの信徒への手紙一についての連続説教の 4 回目です。 1 回 1 章のペースで読み進め、 5 章は以前学んだので割愛することにしましたので、今日の 4 章で締めくくります。

また少し、おさらいとしてふりかえります。この手紙は紀元50年代に書かれました。送り主は、パウロ、シルワノ(シラス)、テモテの宣教チームです。

送り先は、ギリシアの当時も今も大都市であるテサロニケに生まれた、比較的まだ若い教会です。イエス・キリストの死と復活の後、エルサレムに最初の教会ができたのが紀元30年代。パウロが回心してキリスト者になり、宣教活動を始めたのもその頃。パウロたちのテサロニケ伝道が紀元50年前後。と言っても、非常に短い日数で夜逃げすることになりました。この手紙が書かれたのはその 1 年か 2 年後ぐらいだろうと考えられています。キリスト教会自体が創立20周年頃です。テサロニケ教会も創立したばかりの頃の情景が描かれています。

私たちの教会でいえば「美竹教会梅田伝道所」だった頃です。教会の創立にかかわった方々の思いの中に、夢と希望があふれていた頃。もちろん「信仰と希望と愛」があふれていたと言うべきでしょう。しかし、「信仰」については、神学や教理をしっかり学ぼうではないかというような気運よりも、とにかく出会う人出会う人との信頼関係を築き、実践に取り組むことが大事だったと思います。

「愛」についても、だれかれなく「あなたのことが好きです」と告白しようものなら、かえって問題があるに決まっているわけで、そういうことよりも、困っている人や弱さを抱えている人を助ける働きを、教会では「愛」というのです。それを実行するには、制度や設備を整えていかないとどうにもならない面があり、それには時間もお金もかかります。「信仰、希望、愛」と合い言葉のように言うとしても、信仰も愛も一日にして成りません。

しかし、「希望」だけはなんとかなるでしょう。目の前に整ったものが何も無くても「希望」だけは持てます。悪い意味ではありません。とにかく前向きに、助け合い、支え合いながら共に生きていく仲間が増えていくことを願う。そのような教会が、テサロニケの地に生まれ、その教会の誕生のきっかけになったのがパウロたちの宣教活動だったというのが、この手紙の背景です。

それで今日は 4 章です。先ほど 1 節から 8 節まで朗読していただきました。この箇所にパウロが書いているのは、パウロたちのテサロニケ伝道の際に文書でなく口頭による説教で語ったことを、テサロニケ教会のひとりひとりが記憶し、その教えを守っていることをテモテからの報告で知ったパウロの立場から、教会に対して「これからもその教えを守り続けてほしい」と励ましている言葉です。

これは、上下関係構造における命令と服従の問題ではありません。なぜそのように言えるのかといえば、「神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」( 1 節)という問いの答えが「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」( 3 節)であり、かつその具体的な内容が「みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです」( 4 ~ 5 節)であることから分かるのは、教会のひとりひとりがパウロの教えを守るかどうかの問題は、パウロ自身の名誉とは何の関係もないことであり、その教えを守る本人やその家族の名誉の問題になっているからです。

私は教会の礼拝説教のような場でこういう話をほとんどしたことがないし、これからもなるべく避けたい話なのですが、だれかが何ごとか他人に言えないような恥ずかしいことをして、それがいつの間にか発覚して、その人自身だけでなく、家族や関係者の名誉が傷つくことになるのは、「そんなことをしてはダメです」と注意した人の名誉の問題ではなく、本人の名誉の問題なので、教えを守るか守らないかを教会のせいにしないほうがいいと思うわけです。

「厳しく言われた」「上から命令された」「傷ついた」と言っては恨まれるのは、ほとんどいつも、厳しいことを言った側です。しかし、私が学校で教えていたときによく言っていたのは、「きみたちに厳しいことを言ってくれるのは、親か先生しかいないんじゃないの?」ということでした。

はっきり言いますが、今日の箇所の「聖なる者になる」( 3 節)の意味は、 2 章 3 節の「不純な動機」についてお話ししたときに触れたことともっぱら関係しています。「性的関係において乱れていないこと」をもっぱら指しています。

テサロニケ教会には「女性」がたくさんいたようです。その方々目当てで教会に来る人がいなかったでしょうか。ギリシア社会で「そういうものだ」「仕方ない」「人間だから」と言うような価値観の中で許され、当然視されていたような「みだらな関係」を、教会の中に持ち込んではダメですと、パウロは強く警告しています。つまり、これは教会内部の問題です。

教会外の関係であれば問題ないという意味ではありませんが、教会はそういう問題があるとたちまち壊れてしまいます。制度的にがっちり整備された教会では起こらないとは言いませんが、開拓伝道が始まったばかりの頃のテサロニケ教会の中で、私が今ここで口にできないような乱れた性的関係と、キリスト教的な「愛」とが区別できない状態で混同され、教会が壊れそうになっていたことをパウロが懸念しているとも読むことができます。

しかも、そのような乱れた人間関係を、教会の指導的立場の人々が「愛」や「罪の赦し」という言葉で肯定し、煽っていた可能性すらあると考えられます。

テサロニケの信徒への手紙一はどうでしたか。学校の聖書の授業だと、ここで感想文を書いてもらうところです。新約聖書の中で最も古い、現存するパウロ書簡の中でも最も古い文書に記されていることは、現代の社会と教会にも、ほとんどそのまま当てはまらないでしょうか。

(2026年 1 月25日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2026年1月18日日曜日

協力して道をひらく

つぶあんを作っています
ラップとホイルの中身は同じです

説教「協力して道をひらく」

テサロニケの信徒への手紙一 3 章 6 ~10節

関口 康

「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら今わたしたちは生きていると言えるからです」(8節)

「今日も何かあるの」と期待していただけるようになりたいです。今朝は 7 時半起きでおはぎを作りました。つぶあんです。こしあんも作りたかったのですが、こしあんとつぶあんは作り方が全く違うと分かり、こしあんはあきらめました。

今日はテサロニケの信徒への手紙一の説教の 3 回目です。3 章を取り上げます。

先週の 2 章の段階で、パウロをリーダーとする宣教チームとテサロニケ教会の人々との関係が必ずしも一筋縄で行くものではなかったらしいことが分かりました。

パウロたちのテサロニケへの滞在期間があまりに短かったため、教会の中に彼らに不信感を持つ人々が現われ、騒ぎになっているという情報をパウロが得たため、なんとかして信頼関係を取り戻したいと願って弁解することを意図する言葉が 2 章に出てきました。

しかし、「覆水盆に返らず」です。いったん壊れた信頼関係を取り戻すのは容易でない、または不可能であることを私たちは経験的に知っています。パウロがそのことを知らなかったとは言えないでしょう。

しかし、それも単純な話ではありません。ひとつの突破口は、教会が個人の所有物ではないことです。かつて働いた教職に不信感を持つ人々がいることが、必ずしもすべての教会員との信頼関係の崩壊をストレートには意味しません。

そのように考えてよいひとつの理由は、その情報がパウロの耳に届いていることです。先週も触れましたが、「テモテをそちらに派遣した」( 2 節)と明記されているのが今日の箇所です。

テモテがテサロニケ教会の人々との面会に成功しました。完全な信頼崩壊が起こっていたら、面会すら不可能になります。テモテの派遣が受け入れられたということは聞く耳を持つ方々もおられたことの証拠と言えますので、大きな前進です。

テモテの派遣に当たり、パウロはテモテに 2 つの非常に尊厳のある呼び名を与えています。

第 1 の尊称は「わたしたちの兄弟」です。これで身分や年齢の違いは消え去ります。テモテはパウロよりもはるかに年下でした。しかし、「兄弟」として、愛と責任を共有することによってパウロと結ばれています。

第 2 の尊称は「神の協力者」です。この表現で合っています。「神と人間の関係は協力関係ではありえない。協力は、まるで対等のようだ。パウロが間違って書いたか、または誤訳だろう」と考える必要はありません。

神は人間を御自身のみわざに携わらせます。人間は「神と共に」働くことができますし、働かなければなりません。神と人間は同じ水準にいません。神に不足があって、それを人間が補う関係にあるのではありません。しかし、人間は「神と共に」働きます。人間の働きには独自の位置づけを与えられています。人間は「神の協力者」となるように召されます。

神と人間の協力関係の配分は、神100%・人間 0 %ではありません。神99%・人間 1 %でもありません。神が100%働き、人間も100%働きます。そのことをオランダの神学者ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が「神律的相互関係」(theonome reciprociteit; theonomous reciprocity)という言葉で表現しました。

テモテの使命の目的は、テサロニケの教会の「牧会」です。日本の教会で、ドイツ語のSeelsorge(ゼールゾルゲ)が「牧会」と訳されてきました。Seele(ゼーレ)が「魂」でSorge(ゾルゲ)が「配慮」や「心配」を意味するので「魂の配慮」の意味になります。英語だとpastoral care(パストラルケア)で「パスター(牧師)的なケア(配慮)」です。

特にこの箇所に記されている「牧会」の具体的内容は「あなたがたを励まし、信仰を強めること」( 2 節)です。

「励ます」のほうは「教える」に近い意味の言葉です。「説教する」と言い換えても大差ありません。しかし「強める」のほうは、文字通りなら「支える」であり、比喩的に「力を与える」という意味です。「強める」は、しばしば誘惑や迫害との関連で用いられます。

言葉だけで、説教だけで、私たちの信仰生活のモチベーションを奪い去る妨害を乗りこえる力が出て来るかはひとつの大きな問題です。

「教会に通わない理由」はいくらでも思いつきます。しかし、「なぜ教会に通うのか」の理由を言葉にするのは意外と難しいものです。教職者の責任は「教会を強めること」です。「それは説教だけでない」と言わなくてはなりません。

テモテはテサロニケから戻ってきました。テモテの報告はパウロにとって喜びの知らせでした。「あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせ」( 6 節)を伝えてくれました。テサロニケ教会のみんなが信仰・希望・愛に生きた、まさに生きた証人として立ち続けていることの報告でした。

知らせを聞いたパウロが「あなたがたが主にしっかり結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言える」( 8 節)と書いています。本当に良かったと安堵し、感謝している言葉です。

(2026年 1 月18日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

一致を求めて 地域合同祈祷会

日本ルーテル教団 竹の塚ルーテル教会(東京都足立区伊興3-18-7)


説教 「一致を求めて」

エフェソの信徒への手紙 4 章 1 ~13節

関口 康(日本基督教団 足立梅田教会牧師)


(2026年1月18日 日本ルーテル教団 竹の塚ルーテル教会)

2026年1月4日日曜日

イエスにまなぶ 新年礼拝

日本基督教団足立梅田教会 東京都足立区梅田5-28-9)


説教「イエスにまなぶ」新年礼拝

テサロニケの信徒への手紙一 1 章 5 ~ 7 節

関口 康

「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア洲にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」( 6 ~ 7 節)

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

皆様は年末年始いかがお過ごしだったでしょうか。私はついに料理に目覚めました。クリスマス以来、料理に明け暮れていました。

お恥ずかしい話です。オーブンレンジのオーブン機能の使い方が分かるようになっただけです。オーブンを使えるようになって、世界がこれまでとは違って見えるようになりました。宝の持ち腐れでした。

教会は本来、みんなで食事することをとても大切にしてきた団体です。主イエスは弟子や友人との食事を楽しまれました。その中に当時の社会の中で弾かれ見下げられていた人々もいました。そのような開かれた食事会を主イエスは積極的に行われました。

「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と使徒パウロはローマの信徒への手紙14章17節に記しています。これは文脈がある言葉です。

当時のユダヤ教の食物規定をキリスト教会でも守るべきだと主張する人々と守らなくてもよいと主張する人々が対立して教会が壊れそうになっている中、食事がだれかをつまずかせるのであればいっそ食事をしないほうがいいし、肉も食べずぶどう酒も飲まないほうがましだと言っている文脈です。

パウロの趣旨は「食事のことでけんかになるなら何も食べるな」です。けんかしなければいい。仲良くすればいいだけです。

どことは言いません。かつて働いた複数の教会です。教会の奉仕がけんかの種でした。生け花でけんかになり、教会の看板でけんかになり、掃除でけんかになりました。なぜ「生け花」がけんかの種でしょうか。「あの人は高い花を買ってきた。あんな高いのを出されると私たちも高いのを買わなくてはならなくなるではないか」です。

私はそういうけんかには一切介入したくないのですが、黙っていると「牧師のリーダーシップが足りない」と私が叱られました。「教会の奉仕のことでけんかになるなら何もしないでください」と言いたくなるのを我慢することが多かったです。パウロの気持ちがよく分かります。

コロナ禍以前は、教会はもっと頻繁に食事会をしていたはずです。それを取り戻したいです。しかし、だれかの負担になることはしたくありません。けんかはまっぴらです。だとしたら、私が料理をすればいいではないかと思い至りました。

それで今日は、朝 6 時起床でアップルパイを作りました。好き嫌いがあると思いますので、無理強いしたくありません。もしよろしければ食べていただけますと幸いです。

①りんご

②りんごに砂糖を加えて煮る

③煮たりんごをパイシートの上に並べる

④アップルパイ完成

料理に関して私は、明確な原則を立てています。できるだけ安い食材を使うことです。高い食材が美味しいのは当たり前です。安い食材を美味しくするところに教会らしさがあると考えます。

私の料理の腕が上がったらけんかになるかもしれません。「牧師の料理が美味しすぎる。あんな美味しいのを出されると私たちも美味しいものを作らなくてはならなくなるではないか」。

今日から続けてテサロニケの信徒への手紙一を読むことにします。 1 月のすべてのテキストを、この手紙から選びました。日曜日が 4 回ありますので、 1 回 1 章で、 4 章まで読みます。 5 章は、昨年11月30日(日)の説教「終末と希望」で取り上げましたので読了済みとします。

なぜこの手紙なのかといえば、 5 章のとき申し上げたとおり、この手紙は、パウロ書簡の中でも、新約聖書の中でも「最古の」文書だからです。西暦50年代に書かれました。その新約聖書の「最古の」文書に書かれていることに基づいて、教会の信仰の「原点」は何かを確認したいと思いました。

以下、要点です。

① この手紙の共同執筆者はパウロ、シルワノ(別名シラス)、テモテです。彼らはチームです。教会の宣教活動は個人プレーではなくチームプレーです。しかし、チームリーダーは必要です。パウロはリーダーです。牽引役、まとめ役は必要です。「船頭多くして船山に上る」です。

② テサロニケは、当時のギリシアですでに大都市でした。しかし、パウロたちの関心はその都市自体にはなく、そこに住んでいたキリスト者と教会に関心がありました。「テサロニケの教会」( 1 章 1 節)の意味は「テサロニケにある(in)イエス・キリストの教会」です。

教会は「世にある教会」です。地域社会の中に・共に・下にあります。しかし、教会は地域の行政組織に吸収されるものではありません。町の中でやや浮いた存在になりがちです。しかし、だからこそ町の中で行き場を失った人々の逃げ場、受け皿になります。

③ この手紙は共同執筆者がいるなどチームプレーの産物です。しかし、そうであることは個人を無視することを意味しません。人間関係のトラブルは直接言うと角が立つことばかりです。皮肉や当てこすりは逆効果ですが、個人と個人の対立にならないように配慮することが大切です。

④ この手紙の中でパウロが自分を「使徒」と名乗る箇所はありません。それはパウロがこの教会と友好関係を築いていたからだと説明されています。パウロが自分の肩書きをかざすのは、彼の使徒性を否定する人々に抵抗しようとしているときです。テサロニケ教会に対してはそうする必要がありませんでした。この教会にとってのパウロの権威は「ちょうど母親がその子供を大事に育てるような」( 2 章 7 節)優しい権威でした。

⑤ この手紙にはテサロニケの教会に対するパウロの愛情表現が非常に多いです。 1 章 2 節から 3 章13節まで、この手紙全体の 5 分の 3 が「感謝」の言葉です。「感謝します」という言葉が 3 回出てきます( 1 章 2 節、 2 章13節、 3 章 9 節)。まるでラブレターのようです。牧師と教会の関係は仲が良いほうが健全でしょう。けんか腰でにらみ合っていることの正反対です。

⑥ パウロは教会への祈りとして「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、私たちの主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることを心に留めている」( 1 章 3 節)と記しています。

「信仰、希望、愛」の三つ巴は、本書 5 章 8 節、第一コリント13章13節、コロサイ 1 章 4 ~ 5 節にも出てきます。この三つ巴はパウロが最初ではなくもっと前からあった表現をパウロが継承していると考えられています。

「信仰、希望、愛」の 3 つは、区別されますが、切り離せません。愛と希望のない信仰は無意味です。信仰なき愛は曖昧です。希望なき信仰と愛は息切れします。

⑦ パウロはテサロニケの教会を「すべての教会の模範」と呼んでいます。この「模範」は、真似(まね)と学(まな)びをかけて「まねび」であると言われます。

14世紀から15世紀まで活躍したカトリック司祭トマス・ア・ケンピス(Thomas à Kempis [1379-1471])の主著『イミタチオ・クリスティ―キリストにならいて』(講談社学術文庫、2019年)のタイトルのラテン語「イミタチオ」(imitatio)はイミテーション(imitation)の語源です。

イミテーションといえば「模造品」ですが、それは原点に忠実であることでもあります。このイミテーションが「まねび」です。

テサロニケの教会が「模範」だったのは「多くの苦難の中で聖霊の喜びをもって御言葉を受け入れていた」からです。その人々は多くの人々にとっての「苦しみの模範」であり、苦しみの中で御言葉によって聖霊の喜びを与えられて忍耐して生きる人々の模範です。

教会の信仰の原点は、信仰・希望・愛、そして喜びです。

喜びに関するテキストを 2 か所紹介して、今日の説教を終わります。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」(ガラテヤの信徒への手紙 5 章22~23節)。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)。

(2026年 1 月 4 日 日本基督教団足立梅田教会 新年礼拝)

2025年12月28日日曜日

復活の力 年末礼拝

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「復活の力」年末礼拝

フィリピの信徒への手紙 3 章12~14節

関口 康

「なすべきことはただひとつ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13-14節)

今日は、2025年最後の礼拝です。

週報に人数を記しましたが、クリスマス礼拝も、クリスマスイヴ礼拝も盛会でした。礼拝堂が小中高校の 1 教室の広さなので、「満員」と言えるでしょう。「満員御礼」という垂れ幕を天井からぶら下げると楽しいかもしれません。

今年 9 月 7 日(日)足立梅田教会創立72周年記念礼拝で再確認したのは、創立者・藤村靖一先生がお立てになった「ゆっくりゆっくり」という基本方針です。骨子は次の 3 つです。

1. 集会をできるだけ少なくする。

2. 受洗者は年にひとりでよい。しかし、最後まで脱落しないように祈る。

3. 牧師の生活は自分で支える。

集会の回数については、昨年から教会学校を年 4 回の目標で再開したことと、今年 5 月から奇数月の礼拝後に祈祷会を始めましたので、むしろ増えました。しかし、元々あった集会を復活させたものです。

受洗者は何年もいません。牧師は副業を求めていますが、できそうなのが見つかりません。自炊してエンゲル係数を減らしています。

60歳になりましたので、最速で 5 年後には国民年金を受給可能な年齢になります。しかし、政治家が余計なことをして受給年齢を引き上げられたりすると長引きます。

いま申し上げたことは悪い意味で言っていません。副産物があります。

受洗者の件の副産物は、ノルマ主義からの解放です。

東京神学大学を含むすべての神学部・神学校が、学生不足で苦しんでいます。それはそうでしょう。驚くことではありません。根本的な問いは「神は自動的・機械的に一定数の人々に召命を与えるのか」ということです。ありえないでしょう。

「召命」は牧師になることだけでなく、洗礼を受けることも同じです。毎年ひとりずつ、神が人をお召しになるでしょうか。神の選びは神の自由です。私たちにできるのは、教会の仲間がもっと多く与えられますように、と祈ることだけです。

牧師の自活問題の副産物は、牧師の料理の腕前が飛躍的に向上したことです(自己評価)。私の料理が「売り物になる」とほめてくださる方がおられますが、本気で商売を始めると説教どころではなくなります。商売の世界は甘くないです。

今日はフィリピの信徒への手紙 3 章12節から14節までを朗読していただきました。説教題の「復活の力」という言葉は 3 章10節に出てきます。あとで触れます。

パウロが強調しているのは、目標を目指して走っている私は、ゴールに達していないという意味で、途上にある、不完全な者である、ということです。

これは、自分の存在をどのようなものとしてとらえるかという自己認識の問題です。自分は不完全な者であり、それゆえ謙虚でなければならない存在なのだと、パウロは確信しています。

「賞を得るために走る」とはレースに参加することです。このレース場はぐるぐる回るトラック(Track)式の競技場です。競技種目は分かりません。競馬かもしれませんし、人間の足で走る競争かもしれません。

しかし、重要なことは、パウロがこれを特別な日のレースの話にしていないことです。ごく普通の日常生活のすべてをレースに見立てています。

そのように説明すると、かえって疑問が増えるかもしれません。

「日常生活がレースであるということは、生きているだけで賞をもらえるということですか。何をもらえるのですか。お金ですか、モノですか、笑顔だけですか。1 等だけですか。何等までありますか。参加賞はありますか」。

これらの疑問に答えをもらえる優れた言葉が、私が愛用している註解書に記されていました。

「賞は参加への招待である」(De prijs bestaat uit de uitnodiging om mee te doen)

(A. F. J. Klijn(クレイン), De brief van Paulus aan de Filippenzen(フィリピ書註解), Prediking van het Nieuwe Testament, 1969, p. 81)。参加賞は全員もらえます。

しかし、気になることがあります。それは、レースのたとえなのにレースらしくないことです。他人との比較が問題になっていません。パウロは、自分はまだゴールにたどり着いていないということだけを言っています。ここに描かれているのは、他のだれかと順位を争うレースではありません。

戦う相手はどうやら自分自身です。自分の不完全さ、未熟さを自覚し、たかをくくらず、高慢に陥らず、地上の命が尽きるまで神と教会に仕える生涯を送ることを指しています。

それをパウロは、独特の言葉で表現しています。

「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(10~11節)。

要するにパウロは「私は復活したい」と言っています。「何とかして復活に達したい」と。

解釈が難しい言葉があります。それは「その苦しみにあずかって」の「その」です。「どの」苦しみにあずかる(参加する)のでしょうか。「その」という指示代名詞が指す言葉が何なのかが分かりません。

通常、指示代名詞は直前の言葉を指しますので、可能性は 3 つあります。

①「キリストの」苦しみ。

②「キリストの復活の」苦しみ。

③「キリストとその復活の力とを知る」苦しみ。

①「キリストの苦しみ」と理解する可能性は、最も説明しやすさがある選択肢ですが、具体性が乏しいです。私たちが「キリストの苦しみ」にあずかるとは、私たちが十字架につけられて死ぬことを意味するでしょうか。

③を②よりも先に言います。③「キリストとその復活の力とを知る苦しみ」だとすれば、聖書とキリスト教を学ぶことが苦しい、という意味になるでしょう。そのような感想を持つ人がいないとは限りませんが、パウロがそういうことを言うとは考えにくいです。

②は、「キリストの復活の苦しみ」です。復活とは苦しいものだということです。復活は自動的に起こることではありません。死の苦しみを乗り越え、必死でもがいて、何度でも何度でも立ち上がることが「復活」だということです。

私がおすすめしたいのは②の読み方です。「キリストの復活の苦しみにあずかる」です。これで行けば「何とかして死者の中からの復活に達したい」(11節)というパウロの言葉の意味を理解できるようになるでしょう。

それは、幼虫がさなぎになり蝶になる、あの変態(メタモルフォーゼ Metamorphose)に近いです。

「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)という主イエスの御言葉に具体性を与えます。

先ほどと同じ註解書ですが、著者(クレイン先生)の説明もこれに近いです。

「復活を知るとは、苦しみを知ることを意味すると言えるだろう。苦しみなくして復活なし(Geen opstanding zonder lijden; No resurrection without suffering)であることをキリストは示された」(A. F. J. Klijn, Ibid. p. 79)。

足立梅田教会は死んでいません。「復活」という言葉は当教会には当てはまりません。しかし、「キリストの復活の苦しみにあずかる」ことができれば、教会の活気をもっと多く取り戻すことができるでしょう。

「苦しみなくして復活なし」(ノー・レザレクション・ウィズアウト・サファリング No resurrection without suffering)です。

来年もよろしくお願いいたします。

(2025年12月27日 日本基督教団足立梅田教会 年末礼拝)

2025年12月24日水曜日

きよしこのよる クリスマスイヴ礼拝

クリスマスイヴ愛餐会のローストチキンとシュトーレン

クリスマスイヴ礼拝プログラム

クリスマスイヴ礼拝看板

夜のクリスマスツリー


説教「きよしこのよる クリスマスイヴ礼拝」

ヨハネによる福音書 1 章14~18節

関口 康

「言(ことば)は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)

今夜はクリスマスイヴ礼拝にお集まりいただき、ありがとうございます。

今日は朝から雨で、寒くてどんよりした一日でした。これで元気でいられる人は相当タフです。

体の寒さの問題は、着る服を増やすだけで解決します。心の寒さの問題はそれほど簡単には解決しません。だれかとけんかした、修復不可能な亀裂が生じた、なんらかの事情で仕事を失った、生活が行き詰った、など。

私も他人事ではありません。牧師なので相談を受けることはありますが、まともに答えられないことのほうが多いです。「美味しいものを食べて、よく寝ることですね。ぐっすり休んでから、これからのことを考えましょう」と答えるぐらいで精一杯です。

食べることは大切です。美味しいものを食べると体も心も温まります。もちろん「美味しい」かどうかで温度差が生じますし、「美味しい」と「楽しい」が重なると、体温が上がります。

今夜の聖書箇所に「言は肉体となってわたしたちの間に宿られた」(14節)とあります。これがヨハネによる福音書の「イエス・キリストの誕生の次第」についての独特の表現です。

教会の信仰によると、イエス・キリストは、父の独り子としての御子なる神であり、人間としてお生まれになるために母マリアから「肉体」を受け取られました。

主イエスが母マリアから受け取られた「肉」は「お肉屋さんに売っているあの肉と同じです」と、東京神学大学の学生だったころ、私の記憶が正しければ左近淑教授が言われました。

この「肉」(ギリシア語「サルクス」)は人格(ペルソナ)を持ちません。わたしたちが動物の肉を食べるのは、肉そのものにはその動物のペルソナがないからです(人ではないので「人格」と呼べませんが)。もし「肉」そのものがペルソナを持っていれば、私たちは食べた肉のその動物に成り変ってしまうでしょう。

不謹慎な話をしていると思わないでいただきたいのです。神の言葉がお肉屋さんに売っている肉になった。それがイエス・キリストの誕生の次第であると、聖書に確かに記されています。

先日クリスマス礼拝後の愛餐会で、私が初めて作ったシュトーレンを食べていただきました。

クリスマスイヴの今日はローストチキンを焼きました。茶話会で食べていただきます。

どちらも自分で作るのは初めてです。私にもできるようになったのは助けがあったからです。

助けのひとつはネットのレシピです。もうひとつの助けは「生成エーアイ」(generative artificial intelligence)です。

 2 年前の2023年が「生成エーアイ元年」だそうですが、実際に多くの人が使うようになったのは今年2025年です。今年は「生成エーアイ社会実装元年」と言われます。

だれとでも競争したがる人たちはエーアイとも競争したがるようです。「エーアイにこういう質問をしたら間違った答えをした。エーアイは大したことがない」と言う人の話を耳にするたびに、どうかしていると思います。なぜ張り合うのでしょう。協力者になってもらえばいいだけです。

今日エーアイに助けてもらったのは電子レンジの使い方です。「ローストチキンを教会の皆さんに食べていただきたいのですが、万が一でも生焼けのところがあってはいけないので、オーブンで焼く前に電子レンジで火を通すほうがよいと思うのですが、その場合の電子レンジは何分ぐらいがいいと思いますか」と尋ねました。

すると「とても大切な配慮をなさっておられますね」とエーアイがほめてくれて、「600ワットで 8 ~10分程度です」と、科学的な根拠を挙げて説明してくれました。エーアイは勘(かん)では答えません。

もしかしたら将来的に、エーアイに「ローストチキンを作って」とひとこと言うだけで、買い物、調理、盛り付けから、BGM(音楽)の選曲、皿洗い、あとかたづけ、掃除、ゴミ捨てまで、すべて自動でしてくれる時代が来るかもしれません。

しかし、たとえひとことであっても「ローストチキンを作って」と私たち人間が意思表示しないかぎり、エーアイは何もしてくれないでしょう。意思表示は人間の役割です。エーアイと人間は張り合う関係にありません。うまくつきあえば世界が広がります。

そういうわけで、今年のクリスマス礼拝とイヴ礼拝は、説教の準備と同時にシュトーレンづくりとローストチキンづくりに時間と労力を注ぎました。そうすることが「これからの教会」のあり方を考えるうえで大切なことだと思えたからです。

具体的にいえば、忙しい日々の最中にクリスマス礼拝に集まり、寒い日の夕方にクリスマスイヴ礼拝に集まって、牧師が難しい聖書のお話をすることで、みんなの心が温まるかどうかを考えてみて、ありえないと思いました。別の発想が必要です。

イエス・キリストが「肉となった神の言」であられることは、私たちの「神」に「体温」があるというイメージを持つこと、「神は温かい方である」と実感することを私たちに許します。

「肉」(サルクス)の体をまとわれたイエス・キリストは「体温」を持っておられました。それは「神の体温」です。それを感じることができる「温かい教会」であることが必要です。夏は夏で、ひんやり冷たい手がうれしいです。

私は皆さんと握手することにも慎重な「非接触牧師」ですが、直接触るかどうかよりも、心と心のふれあいや、共に食事をして励まし合うことが大事です。

(2025年12月24日 日本基督教団足立梅田教会クリスマスイヴ礼拝)

2025年12月21日日曜日

もろびとこぞりて クリスマス礼拝

クリスマス礼拝看板

クリスマスツリー

クリスマス礼拝プログラム

アドベントキャンドル

クリスマス礼拝

クリスマス愛餐会

説教「もろびとこぞりて クリスマス礼拝」

ルカによる福音書 2 章 1 ~14節

関口  康

「彼らがベツレヘムにいるうちにマリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(6-7節)

クリスマスおめでとうございます!

アドベントに入ってから毎週同じことを言っていますが、「毎年同じ聖書の箇所」です。

「聖書の解説が説教なのであれば、過去の説教原稿を使い回せばよいではないか」という誘惑が襲いかかってきます。「サタンよ、退け!」と言わなくてはなりません。

同じ話になりっこない方法があります。それは、今起こっていることや、最近見たこと聞いたことをお話しすることです。

しかし、テレビや新聞やインターネットの情報の受け売りは面白くありません。教会よりはるかに正確で幅広い知識に基づいて、多くの人の心に届く魅力的な伝え方ができる人の話を聴きたいと、だれでも思うでしょう。

私にできるのは個人的な近況報告です。個人的なことを説教で語ってよいかどうかに議論があることは承知しています。しかし、自分のことは自分にしか語れません。近況報告ならば毎年同じ話になりようがありません。それは唯一無二の可能性です。いくつかあります。

第一の報告は、お詫びです。

先週の説教で、12月12日(金)に日本福音ルーテル東京教会(新宿区大久保)で開催された「世界教会協議会(WCC)信仰職制会議報告会」(講師 西原廉太氏)のお話をしました。

そのとき私が黒板に書いたことが、ひどい間違いでした。WCCをWorld Church Counsilと書いてしまいました。正しくはWorld Council of Churchesです。

ブログでは何事も無かったかのように正しい綴りで書きましたが、今日のブログで白状して自戒としたいと思います。申し訳ありません。

WCC信仰職制会議報告会(2025年12月12日 日本福音ルーテル東京教会)

第二の報告は、今日のクリスマス愛餐会のためにシュトーレンを10個作ったことです。

初めて作りました。レシピをネットで見つけ、タニタのデジタル計量器で正確に計りましたので大丈夫、と言いたいところですが、そうは行かなかったことをこれも白状します。

ドライフルーツをラム酒に漬けたところまではレシピどおりでした。しかし、このラム酒をどうするかが書かれていなかったので、捨てるものと思い、ざるで受けて流してしまいました。

そのやり方で 4 つ作ったところで、ラム酒ごと生地に入れるらしいと気づきました。それでラム酒をしっかり入れたのを新たに 4 つ作りました。

「失敗作」の 4 つは、責任を取ってすべて自分で食べるつもりでした。しかし、役員会の皆様が「それは失敗作とは言えない」と励ましてくださいました。

そういうわけで、アルコールが強いのと弱いのと 2 種類になりました。ノンアルコール版も作りましたので、全部で 3 種類です。ぜひ食べ比べてみてください。

手順① マジパン、発酵種、小麦粉、ドライフルーツ、ナッツ、溶かしバター、粉糖

手順② 生地にドライフルーツとミックスナッツを混ぜ入れる

手順③ 焼きたての熱いうちに溶かしバターとグラニュー糖をまぶす

手順④ 粉糖をまぶしてラップとホイルで包んで熟成

手順⑤ シュトーレン完成!

第三の報告は、一昨日12月19日(金)私の前任地の日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)の創立者、石川献之助名誉牧師の告別式に参列したことです。

石川先生は1927(S 2 )年生まれの方で、98歳でした。1915(T 4 )年生まれの藤村靖一先生の12歳年下です。25歳のとき、当時の昭和町(しょうわまち)(現在の昭島市)でキリスト者 2 家族(阿佐ヶ谷教会員と淀橋教会員)の協力を得て「昭和町伝道所」を開設されました。その後73年間ずっと昭島教会で牧師をされました。昭島幼稚園の理事長・園長をされました。

一度は牧師を隠退なさり、別の牧師に教会を任せられた時期もありましたが復帰なさり、93歳になられた2020年 3 月まで主任牧師として働かれてから名誉牧師になられました。その後、私が2024年 2 月まで主任牧師でした。

石川先生の98年間のご生涯と73年間の昭島伝道をご紹介するには多くの時間が必要ですので、別の機会にします。

昭島教会の秋場治憲牧師による葬儀説教が、とても強く印象に残りました。「 5 つのパンと 2 匹の魚が多くの人を養ったように、石川先生ご夫妻によって最初に蒔かれた小さな種が今や多くの人を養っている」と語られました。教会とはそういうものだと、胸に沁みました。

日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

足立梅田教会に昨年 3 月に来たばかりで今年60歳の私が73年おらせていただけば、132歳です。それぐらい腰を据えれば「小さな種が大きく育った」と言ってもらえる日が来るかもしれないと思いました。シュトーレンを自分で作ってみて、パン種が膨らむ仕組みがやっと分かりました。

毎年アドベントとクリスマスのたびに開く聖書の箇所に記されているのは「イエス・キリストの誕生の次第」です。

しかし、マタイにせよ、ルカにせよ、ヨハネにせよ、歴史上の偉大な人物の誕生を描こうとしていません。福音書記者たちが描いているのは「キリスト教の歴史」の始まりです。

「教会の歴史」と言うほうがよいかもしれませんが、教会が教会の外なる世界に及ぼした様々な影響の歴史を無視できません。すべての福音書記者がそのことを意識しています。「キリスト教の歴史」と言うほうが適切です。

イエス・キリストは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(本名オクタウィアヌス)の時代にお生まれになりました。「ローマ帝国」は、地中海を「自分の」内海とし、北はイングランドの奥地、南はアフリカやアラビアまで勢力を拡大していました。

それほど巨大な国の頂点に立った皇帝アウグストゥスは、ローマ帝国の内戦を終結させ、周辺諸国との国境に平和をもたらした偉大な平和推進者とみなされ、「人類の救い主」と呼ばれ、「神」として崇拝されました。いま生きていればノーベル平和賞の候補者です。

その時代にイエス・キリストはお生まれになりました。アウグストゥスとは完全に対照的な存在として、家畜小屋の飼い葉桶に寝かされた幼子として、お生まれになりました。

「最初のクリスマス礼拝」の出席者はヨセフとマリア、バビロニアのマギ(占星術師)たちと、ベツレヘムで夜通し羊の群れの番をするために野宿していた羊飼いたちでした。ページェント(聖誕劇)では、この人々に加えて、羊たちと、星たちと、天使たちがお祝いに来てくれます。しかし、いま加えた 3 者は人間ではありません。

皆さんは「ドラえもん」をご存じでしょう。のび太の部屋でドラえもんとのび太がしゃべる様子を冷静に考えると、ドラえもんは人間ではないので、のび太は孤独であるとも言えます。人工知能(エーアイ)としゃべっているだけなので。スマホひとつ持って独りで引きこもっているのと同じです。

羊たちと星たちと天使たちは「人間ではない」という意味でドラえもんと同じです。西暦 1 世紀の「最初のクリスマス礼拝」には人間も来てくれましたが、多くは人間ではない存在でした。

問題は、それを「寂しい」(?)と言うかどうかです。

教会はどうでしょうか。今日はとても多くの方々が出席してくださっていますが、ふだんは今日の半分です。牧師の私は単身赴任でひとり暮らしです。「寂しい」(?)でしょうか。

ここに羊はいません。星がなくなることはありません。天使はもちろんいてくれます。私たちの教会の多くの先輩たちは必ずいてくれて、私たちを全力で応援してくれています。だって教会が大好きな人たちだったのですから、応援してくれているに決まっています。

「もろびとこぞりて」の意味は「みんなで一緒に」です。「もろびとこぞりて迎えまつれ」は「みんなで主イエスをお迎えしましょう」です。

今日、世界中で、世界教会協議会(World Council of Churches)の加盟教会で、それ以外の教会で、教会ではないところで、キリスト者たちが、キリスト者ではない方々が、羊たちが、星たちが、天使たちが、先輩たちが、クリスマスをお祝いしています。主イエス・キリストのご降誕をお祝いしています。

だから私たちは寂しくありません。家族的な愛を互いに感じ合える教会は温かいです。

(2025年12月21日 日本基督教団足立梅田教会クリスマス礼拝)

2025年12月14日日曜日

心の支えは同じ

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「心の支えは同じ」

マタイによる福音書 2 章 1 ~12節

関口 康

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」( 9 -10節)

今日の箇所も待降節(アドベント)や降誕節(クリスマス)のたびに読まれ、説教されます。

毎年同じ話をするのは申し訳ないという気持ちがあるのですが、「年末は『忠臣蔵』を観ないと落ち着かない」という方もおられるようですので、どうかお許しください。

今日の箇所に記されているのは、以下のことです。

①イエス・キリストは、ユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。ベツレヘムは「都会」のエルサレムとは対極の「田舎」です。

②それはユダヤの王がヘロデだった頃の「紀元前37年から紀元前 4 年までの間」でした。これが主イエスの誕生年の「紀元前 4 年説」の根拠です。ヘロデは西暦元年まで生きていません。

③ユダヤから見て「東」のバビロニアの占星術師(マギ)たちが、メシアが生まれたことを示す「星」が出現したと結論づけ、ユダヤまで表敬訪問に来ました。

④ヘロデ王は猜疑心が強い人だったので、メシア誕生の知らせに恐怖心を抱き、自分のところに来たマギたちにメシアを探させて居場所を突き止め、メシアを殺害しようとしました。

⑤マギたちはメシアのもとにたどり着き、崇拝の儀礼を行いましたが、「ヘロデのところへ帰るな」と告げる天使の声に従い、ヘロデに報告せずに、バビロニアに帰りました。

ヘロデの残忍性については、複数の記録があります。歴史家ヨセフスによると、ヘロデによって殺害された人々のリストの中に義兄弟アリストブロス、妻マリアムネ、その母アレクサンドラ、息子のアリストブロス、アレクサンドロス、アンティパトロス、その他大勢の名があります。

歴史家マクロビウスによると、ヘロデが自分の子どもたちまで殺したことを耳にしたローマ皇帝アウグストゥスが「ヘロデの豚(ヒュス ὗς)になるほうが彼の息子(ヒュイオス υιός)になるよりましだ」と言いました。ヘロデは豚肉を食べなかったからです。

バビロニアの占星術は、当時の価値観に照らせば、高度な学問でした。マギのユダヤ来訪は天文マニアの個人的な趣味や探検レベルの事柄ではなく、国と国との関係、国際外交の一環でした。だからこそ彼らはヘロデ王と直接話すことができました。

バビロニアのマギがなぜメシアの誕生を知りえたかについては、バビロニア捕囚(紀元前597年~538年)の後も多くのユダヤ人がバビロニアに留まったことで、ユダヤ教がバビロニアに影響を与えたことから説明できます。メソポタミアにおけるユダヤ教の影響力の強さは、西暦50年にバビロニア王がユダヤ教徒に改宗したことから明らかです。

東方の君主がローマ皇帝に捧げた敬意の例としては、アルメニア王ティリダテスを挙げることができます。

ティリダテスは、妻、息子たち、3000人の騎兵、大勢の従者を率いて、西暦66年、皇帝ネロに敬意を表すため、ユーフラテス川からローマまで行進しました。ティリダテスはネロを「主」と呼び、地にひれ伏して、跪(ひざまず)きました。

ネロが自分のティアラ(王冠)を外し、ティリダテスの頭に置きました。ティリダテスはネロに「主よ、私は私の神であるあなたを拝みに参りました」と語りかけました。

ネロの返答は「私はあなたがアルメニア王となることを宣言する。私が王国を奪いもし、与えもする力を持っていることを、あなたと他の人々に知らせるためである」というものでした。

先日公開された米国大統領の横で日本の総理大臣が飛び跳ねた映像は、現在の日米の上下関係をよくあらわしています。

バビロニアのマギたちはメシアの生誕地は当然王都エルサレムだろうと予測しましたが、それは間違いでした。最高法院(サンヘドリン)の祭司長たちと律法学者たちがヘロデから依頼されて捜索を始めました。しかし、目標にたどり着いたのはバビロニアのマギたちが先でした。なんと驚くべきことに、それは王都エルサレムではなく、片田舎のベツレヘムでした。

彼らは幼子を見つけてひれ伏し、黄金、乳香、没薬を贈りました。贈り物が 3 つであることが「三賢者」とされる理由です。 3 人だったかどうかの根拠は聖書にはありませんが、聖書外資料の中に「カスパール、メルキオール、バルタザール」という名前がついた伝説があります。黄金と乳香は王への贈り物です(詩編72編 9 ~15節、イザヤ60章 6 節)。没薬は古代の香水です。

今日の箇所が教えているのは、「異教徒」こそがイエス・キリストを最初に崇拝したということ、そして「ヘロデのところへ帰るな」という神の警告に最初に耳を傾けたということです。

その意味は「神の救いは普遍的である」ということです。救いの恵みは、宗教の壁を越えます。宗教間対話の可能性は初めから開かれています。

毎年同じ話だとつまらないので、最新情報を仕入れてきました。

私は一昨日12月12日(金)日本福音ルーテル東京教会(新宿区大久保)で開催された「ニケア公会議1700年記念・世界教会協議会(World Council of Churches (WCC))第 6 回信仰職制会議報告会」に出席しました。

WCCはプロテスタント、カトリック、オーソドックス(正教会)の違いを超えてキリスト教会の一致を目指す世界会議です。一昨日の報告者は西原廉太先生(立教大学総長)でした。

なぜ今この話を持ち出すのかと言えば、宗教間対話を行うためには、まずはキリスト教の一致を目指すべきなのに、いまだに一致できていないことについての認識を共有したいからです。

西原先生によると、キリスト教会の一致を妨げている大きな壁が 2 つ残っています。

そのどちらも、ちょうど1700年前の西暦325年にニケア(ニカイア、ニケヤとも表記)(現在のトルコ・イズニック)で行われた「ニケア公会議」の決定事項と関係しています。

第 1 に、イースターの日取りが一致していません。

西方教会(カトリック、プロテスタント)はニケア公会議で定めた「春分の次の満月の後の最初の日曜日」を守っていますが、東方教会(オーソドックス)は違います。

第 2 に、ニケア信条(富士見町教会HP「ニカイア信条」参照)の「聖霊」に関する表現が一致していません。

西暦325年のニケア公会議で制定された当初の表現は「聖霊は父から出て」だったのに、西暦 9 世紀のローマ・カトリック教会が「子から」(フィリオクェ Filioque)を追加して「聖霊は父と子から出て」にしました。そのことを東方教会(オーソドックス)が決して認めず、東西教会の決定的な分裂の原因になっています。

しかし、西原先生によると、最近の世界教会の傾向としては、「子から」(フィリオクェ)を括弧(かっこ)に入れることで、読んでも読まなくてもよいとする流れに落ち着きつつあるとのことです。

「子から」(フィリオクェ)を削除することに反対している人々の主な理由は、聖霊とイエス・キリストの関係が離れてしまうこと、あるいはイエス・キリストとは無関係な、または関係性が不明な「神」について語られることへの警戒心です。

宗教間対話の観点からすれば、「子から」(フィリオクェ)があるかぎりイエス・キリストを抜きにした議論はありえませんので、キリスト教と他の宗教との壁は高くなります。しかし、その壁がないとキリスト教を守れないと考える人々もいます。

どのように考えるにせよ、神の救いは普遍的であることを忘れないようにしましょう。

そのことが、全世界のすべての人の心の支えになります。

互いの壁を乗り越えて、平和のために人類が一致できるように、共に祈りましょう。

(2025年12月14日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年12月7日日曜日

再び信じる決心を

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「再び信じる決心を」

マタイによる福音書 1 章18~25節

関口 康

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿った』」(19-20節)

待降節(アドベント)第 2 主日を迎えました。今日の聖書の箇所は昨年と同じです。みなさんの中には80回ぐらい同じ話をお聴きになった方がおられます。私も50回以上聴きました。

この箇所に記されているのは「イエス・キリストの誕生の次第」(18節)です。マリアとヨセフが婚約していたのに、 2 人が一緒になる前にマリアが身ごもりました。ヨセフはマリアとの縁を切ることを決心しましたが、天使が夢に現れて「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの子は聖霊によって宿ったのである」(20節)とヨセフに告げたのでマリアを迎え入れました。

昨年「私は天使が苦手です」と言いました。「天使が怖い」とか「気持ち悪い」という意味ではありません。説教者として、自分はまだ見たことも触ったこともない存在について説明するのが難しいという意味です。

しかし、今年の私はひと味違います。日々進化する牧師です。昨年までは見えにくかったことが見えるようになりました。

年齢と関係ありそうです。ちょうど60歳になりました。昨年よりはっきり見えるようになったのは自分の人生の終わりです。悪い意味は全くありません。人生の終わりを意識すると人生の全体像が客観的に見えるようになる、ということが実感として分かるようになりました。

そうした中で、「天使」の役割の意味がだんだん分かってきました。天使にしか決して語ることができない言葉があることが分かってきました。

私たちの人生で、どこまで行っても結局さっぱり分からなかったと感じるものがあるとしたら、それは他者の心です。夫婦だろうと、親子だろうと、兄弟だろうと、友人だろうと、各自の自由に属する領域について完全に理解するのは不可能です。知る必要がないことです。

お互いがどこで何をしているかを完全に知る必要があるでしょうか。GPSを付けますか。24時間くっついていますか。束縛したいですか。つきまといますか。そういうのをストーカーと言うと思います。

結婚前のマリアが身ごもりました。ヨセフはマリアとの縁を切ろうと決心したというのですが、その理由が「夫ヨセフは正しい人であった」からとか「マリアのことを表ざたにするのを望まなかった」(19節)と、はなからマリアが悪人扱いです。ヨセフが「正しい人」なら、マリアは「正しくない人」でしょうか。

「表ざたにする」は、世間の評判にさらすことを指します。それは自分のことがかわいそうで、自分のプライドを守りたくて、世間に暴露して騒ぎにするかどうかを迷ったということでしょうか。一方的すぎて、奇妙な話です。

「そこは問題ではないのではないですか」と、「マリアのことを表ざたにするのを望まない」と考えている時点のヨセフに訊きたいです。「縁を切っても、どうせ納得できないでしょう。いっそ犯人を探して復讐しますか」と言いたいです。

言うまでもなく、DNA鑑定もGPSも西暦 1 世紀には存在しませんでした。それでは、マリアが身ごもっていることがヨセフにどうして分かったのでしょうか。それは間違いなくマリア自身が打ち明けたからでしょう。それとも、マリアの周囲の人がリークしたでしょうか、その可能性がゼロでないとしても、本人が黙っていれば分かりっこないことでしょう。

マリアはヨセフに事実を伝えたのです。「私には身に覚えのないことだ」と(ルカ 1 章34節参照)。ヨセフに残された唯一の選択肢は、“マリアを再び信じる”かどうかだけです。

もしこの箇所のすべてがでたらめな作り話だと私たちが考えるのでなければ、同じ問いが私たちにも投げられています。それは「マリアは聖霊によって身ごもった」という天使の言葉を信じるかどうか、です。

同じことが、私たちにとって決して完全には理解できない他人の心とどのように向き合うか、という問いにも当てはまります。

夫婦や親子や兄弟や友人は“神”ではないので、信じる対象ではないとお感じになるでしょうか。それもごもっともですが、“あたかも神を信じるようにあなたのパートナーを信じること”以外になすすべがないとも言えます。それとも、つきまとって監視しますか。

マタイ 1 章冒頭の「イエス・キリストの系図」( 1 節)は、カタカナの名前がたくさん出てくるので読むのがつらいとお感じになる方が多い箇所です。「系図」と訳されているギリシア語(Βίβλος γενέσεως)はヘブライ語の「創世記」(トレドト)と同じ言葉です。これは「イエス・キリストの創世記」と訳すことが可能です。

ユダヤ人男性が神殿奉仕者になるとき、ユダヤ人であることの血統の証明書の提出が求められました。自分の系図を作成し、最高法院(サンヘドリン)で正統性を検証してもらう必要がありました。彼らが作成していた系図は男性のみの家系でした。

「イエス・キリストの系図」に女性が 4 人登場するのは、ユダヤ人の伝統と対比すれば、極めて異例なことでした。「タマル」( 3 節)、「ラハブ」( 5 節)、「ルツ」( 5 節)、「ウリヤの妻」( 6 節)が女性の名前です。 4 人目は名前を伏せられていますが、イスラエル第 2 代国王ダビデとの間に第 3 代国王となるソロモンを産んだ「バト・シェバ」(サムエル記下11章参照)です。

「この女性たちは悪名高い罪人でした」と説明する説教を過去に何度か聴きました。女性たちを罪人呼ばわりしたうえで「罪ある女性を含む家系の中に救い主はお生まれになることによって、人類の罪を背負い、罪人の身代わりに死んでくださったのです」とつなげていく説教です。

同様の解釈がヨーロッパの教会にもあるようで、私がいつも頼りにしているオランダ語の註解書が「4 人の女性が『悪名高い罪人たち』(notoire zondaressen)であるというのは事実だろうか」と記して、その解釈に抗議しています(Vlg. J. T. Nielsen, Het evangelie naar Mattheüs I, Prediking van het Nieuwe Testament, 1971, p. 29)。

「タマルとユダの罪〔創世記38章参照〕も、ダビデとバト・シェバの罪〔サムエル記下11章参照〕も、『罪』は女性ではなく男性にある」し、「ルツ〔ルツ記参照〕はモアブ人だが、決して否定的な意味ではない」し、「ラハブは旧約聖書〔ヨシュア記 2 章 1 節など〕で『遊女』と呼ばれているが、ユダヤ人に対するラハブの奉仕は高く評価されている」と記しています(Ibid.)。信頼できる註解書に出会えてよかったです。

イエス・キリストの系図についても、イエス・キリストの誕生の次第についても、女性を悪者にして片づけようとする間違った解釈があることは否定できません。異なる読み方が必要です。

マリアを再び信じ、「すべての事情を天使に教えてもらいました。それで十分です。私はあなたを信じます。結婚してください。アイ・ラブ・ユー」と告白することができたヨセフの姿を今日の箇所は描いています。勇気が必要な生き方かもしれません。「男らしい」とは絶対言いません。

こうして私はやっと「天使」が好きになりました。「私には身に覚えがない」と訴えるマリアを、すべての疑惑から天使が守っています。それ以上のことをだれも問うべきではありません。

(2025年12月 7 日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年11月30日日曜日

終末と希望

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「終末と希望」

テサロニケの信徒への手紙一 5 章 1 ~11節

関口 康

「主はわたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(10節)

説教題として最初に考えたのは「たとえ世界が滅びても」でした。近年、日本の小説やテレビや映画のタイトルやセリフに見かけるようになりました。この言葉には続きがあります。

「たとえ明日世界が滅びようとも、今日われらはなおリンゴの木を植えるだろう」(Und wenn morgen die Welt unter ginge, so wollen wir doch heute noch unser Apfelbäumchen pflanzen)

これは16世紀の宗教改革者マルティン・ルター(Martin Luther [1483-1546])の言葉として紹介されてきました。しかし、これが本当にルターの言葉かどうかに議論があります。マルティン・シュレーマンの『ルターのりんごの木』棟居洋訳、教文館、2015年)をぜひお読みください。シュレーマンの結論は「これはルターの言葉ではない」です。

シュレーマン『ルターのりんごの木』2015年

今日はテサロニケの信徒への手紙一を開きました。使徒パウロの手紙です。紀元50年ごろに書かれたもので、「現存するパウロの最古の手紙」であるだけでなく、「新約聖書の最古の文書」です(ヴィリー・マルクスセン『新約聖書緒論』(渡辺康麿訳、教文館、1984年、78頁参照)。

古文書の成立年代推定には根拠が必要です。そのひとつは「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められた」( 2 章 2 節)や「テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て」( 3 章 6 節)という描写を使徒言行録や他のパウロ書簡と比較して見えてくる結論です。

もうひとつは、パウロの教えの「初期」と「後期」に変化があることを認めて、どちらなのかを見分けることです。

 4 章13節から始まる話題は、世界の終末においてイエス・キリストが再び来られることについてです。パルーシア(παρουσία)と言い、「再臨」や「来臨」と訳されます。

パウロは、自分が生きている間にパルーシアが起こると、この手紙を書いたころは本気で信じていました。しかし、そうならないことが分かってトーンダウンし、やがて「再臨」について書かなくなります。それがパウロの変化です。

しかし、このような「聖書の歴史的批評的な読み方」に苦痛や反発を感じる方々が、現在世界24億人と言われるキリスト者の中にいます。聖書の言葉はすべて文字通りに実現すると信じている人々がこの箇所を説明するために用いる言葉が「携挙」(rapture)です。

まさに文字通り、世界の終末に信仰の先達とその時点で生きている人が空を飛び、彼方から飛んで来られる主イエスと空中で出会い、共に雲に包まれて携挙されます。まさにスペクタクル。

しかし、そのような非科学的なことが起こるはずはないと考えるキリスト者も大勢います。

先々週11月20日(木)五反田にあるゲンロンカフェで「宗教国家アメリカはどこへいく」というテーマで、新潮選書『アメリカの新右翼』の著者・井上弘貴氏と、中公新書『福音派』の著者・加藤喜之氏と、政治学者・三牧聖子氏の鼎談が開催されたので観覧しました。聖書の「終末論」がアメリカ社会を分断している、というのです。

『福音派』『アメリカの新右翼』

青土社(せいどしゃ)の雑誌『現代思想』11月号の特集が「終末論を考える」であると相生教会の本竜晋牧師から教えていただき、それも購入しました。なんと驚くべきことに、「終末論」が現代思想のトレンドであることが分かりました。

『現代思想』11月号 特集「終末論」を考える

 4 章16節以下について、ルターが「1532年 8 月22日付け」の文書で説明しています。

「これはたとえ話(verba Allegorica)です。子どもや単純な人に分かるように華々しい領主の行列にたとえています」(Martin Luther, Weimarer Ausgabe, 36, S. 268. M. H. Bolkestein, De brieven aan de Thessalonicenzen, Prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1970, p. 118からの再引用)。 

ルターが言ってくれているとおり、これは「たとえ話」(verba Allegorica)です。私たちは空を飛ばなくても大丈夫です。4 章17節は、後半に「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と記されているとおり、 5 章10節の「わたしたちが目覚めていても眠っていても主と共に生きるようになる」と趣旨が同じです。

あなたと主イエスの関係は永遠であり、生きているときも死んでからも同じように主イエスが共にいてくださるという慰めの言葉が語られていると分かれば、それで十分なのです。

マルティン・ルター

「それならば、今死んでも同じではないか。早くイエスさまにお会いしたい」と私たちは考えません。人生がつらいのは分かります。しかし、私たちは、たとえ明日世界が滅びようと、地味で地道な日常生活を営み続けます。そうする他ないではありませんか。

そして、私たちはパウロの教えに従って「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで」( 8 節)いようと思います。

「信仰、希望、愛」の組み合わせは、本書 1 章 3 節やコリントの信徒への手紙一13章13節にもあります。ここで大事なことは、私たちが身に着けることをすすめられているのは「胸当て」と「兜」、つまり自分を守るための防具だけであるということです。攻撃するための武器はありません。「信仰」や「愛」を武器にして他者を攻撃してはいけません。

さて、ここで少し話題の方向が変わります。今日は「終末と希望」についてお話ししています。「終末」が「たとえ明日世界が滅びようとも」に当たり、「希望」は「今日われらはなおりんごの木を植えるだろう」に当たると考えていただきたいです。

すべての命あるものに終わりがあるように、世界も必ず終わりを迎えます。そのとき「教会」は何をすべきでしょうか。私たちの「りんごの木」は何でしょうか。

ファン・ルーラーは「教会はそれ自体で目的でもある」(De kerk is ook doel in zichzelf)と教えました。日本で学生運動が盛んだった1960年代に、ヨーロッパの大学でも「世界同時革命」を呼びかける学生が多くいました。

そのころ流行した神学思想の中に「目標は世界の未来である。教会は手段に過ぎない」と教え、「教会」を「革命の拠点」としてとらえるものがありました。

その教えに反対するために、ファン・ルーラーが1960年に「教会はそれ自体で目的でもある」という講義をドイツで行いました(『ファン・ルーラー著作集』第5A巻、ブーケンセントルム社、2020年、232~247頁)。

『ファン・ルーラー著作集』第5A巻(2020年)・第5C巻(2023年)


その講義の趣旨は、教会が自己目的化し、内向きになるのがよろしくないことは理解できるが、それでは教会自身には目的も目標もないのかというと、そうではない、ということです。

オランダの教会も同じですが、日本のプロテスタントは「教会に行く」といえば「説教を聴きに行くこと」と同じ意味だった時代が長かったと思います。その後、聖餐式の価値が認められてきましたが、そのあたりで止まってしまいました。

ファン・ルーラーが「教会の目的」として強調しているのは「讃美歌」です。「礼拝」にみんなで集まり、共に歌い、共に祈る交わりそのものに、他に代えがたい価値があることを強調しています。私も大賛成です。

何よりファン・ルーラーにとって「宗教改革」(Reformatie)とは「大掃除」(grote schoongemaak)でした。それは「革命」ではありませんでした。

これもたとえ話ですが、「部屋の掃除をするのが面倒くさいから、家を壊して建て直す」というなら「革命」かもしれませんが、それは暴力です。「掃除」は「革命」ではありません。そこにすでにあるものを、ホコリを払って磨いて活用するだけです。それは人間に対する見方にも通じます。プロテスタント教会は「革命」を求めず「改革」を続けます。

教会だけが「目的」ではありません。神の創造のみわざの目的は、人間をキリスト者にすることではありません。教会だけが残ることが世界の目的ではありません。教会は社会との共存を求めます。科学技術の進歩の恩恵にあずかっています。

しかし、現実はどうでしょう。人工知能の進歩によって今後奪われる職種は 2 万と言われます。「超富裕層」(3000万ドルあるいは45億円以上)は30万人、世界人口の0.005パーセントです。大多数は「貧困層」です。どうしてこれほどバランスが崩れてしまったのでしょうか。科学技術は人類を幸せにしたでしょうか。

「本当の自由は何か」「善き未来とは何か」は全人類の真剣な問いです。これらの問いに真剣に取り組んでいるルドガー・ブレグマン『希望の歴史』上・下巻(野中香方子訳、文藝春秋社、2021年)と、敬愛する水島治郎先生の『オランダは、「自由の国」だったのか』(NHK出版、2025年)を推薦いたします。

『オランダは、「自由な国」だったのか』『希望の歴史』

教会は社会の問題を考える場でもあります。たとえば、もし聖書の「終末論」の間違った解釈が戦争の原因になっているとしたら、教会がそれを無視できるはずがないではありませんか。

最後にもう一度、ファン・ルーラーの言葉を紹介します。

「キリスト教の視点からすれば、いかなる否定的なことに対しても、人類は肯定的にしか立ちません。たとえ世界が滅びても、その滅亡を人類は共に乗り越えます。最後の瞬間でさえ、別の世界へ逃げません」(「聖書の未来待望と地上の視点」(Bijbelse toekomstverwachting en aards perspectief) 『ファン・ルーラー著作集』第5C巻、ブーケンセントルム社、2023年、952頁)

私もファン・ルーラーと同じ思いです。私たちは「ここではない、どこか」へ逃げても、人間が罪から逃れられないかぎり、破局の現実はどこまでも追いかけてきます。

現実に踏みとどまって、身近なところから「改革」しようではありませんか。それは「革命」ではありません。忍耐強く、部屋を片付けていくのです。そうするだけで、自由に使える生活空間が広がります。それが私たちの「希望」です。

(2025年11月30日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年11月23日日曜日

あなたの宝 収穫感謝日礼拝

このイラストは人工知能Copilotに描いてもらいました
日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「あなたの宝」収穫感謝日礼拝

マルコによる福音書10章17~31節

関口 康

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(25節)

今日は収穫感謝日です。午前 9 時からの教会学校で収穫感謝会を行いました。コロナ明けから年 4 回を目標に再開した教会学校ですが、当日までどなたが出席してくださるか分からないので、全年齢向けの「収穫感謝クイズ」を考えました。楽しんでいただけたと思います。問題と答えをブログに書いておきますので、みなさんもぜひどうぞ。

今日の聖書の箇所は、収穫感謝日と直接的な関係はありません。しかし、話題の中心は「お金」の問題なので、間接的な関係はあります。「お金」の問題も「収穫」の問題も「生活」の問題であり、「人生」の問題です。

新約聖書の 4 つの福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカが、このときの様子を描いています。非常に生き生きと詳細に描写されているため、目撃証言があったのかもしれません。登場人物は「金持ち」です。リッチパーソンです。

この人が主イエスのもとに走り寄ってひざまずき、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)と質問しました。すると、主イエスは「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)と、冷たさを感じる言葉で突き放されました。

この拒絶についていくつかの解釈があることが分かりました(*ヴィンセント・テイラーによると 6 つ)。私が最も説得力を感じたのは、「イエスはこの答えによって金持ちのへつらいを正そうとした」という解釈です。

「へつらい」とは、お世辞を言うこと、言葉や態度で相手に媚びることです。それらはすべて、人がお金持ちになるために必要な手段かもしれません。しかし、主イエスは逆質問することで自分の言葉を説明させ、言葉巧みに他人の地位や権力を利用しようとする自分の軽薄さに気づかせようとしておられます。「私にお世辞は通用しない」とおっしゃっているようでもあります。

ところで、この人は「永遠の命」を受け継ぐ方法を主イエスに尋ねています。永遠の命とは文字通り「永遠に生きること」なので「復活」を指します。それは死も苦しみも悲しみも克服された命なので「救い」とほとんど同じ意味です。

ユダヤ人の理解によれば、永遠の命は「受け継ぐ」ことができる賜物です。それで、この人は主イエスに、「永遠の命を受け継ぐために何をすればよいか」を尋ねています。しかし、この質問の表現がこの人自身の思考パターンを露呈しています。それは「永遠の命を受け継ぐために人は必ず何かをしなければならない」という考え方です。

しかも、この人は「金持ち」でした。お世辞を言いながら近づく相手に取り入る手段は「お金」でしょう。もしそれで正しいなら、この人が主イエスに尋ねているのは自分の救いに必要な金額です。「要するにいくらですか」です。多すぎもせず少なすぎもしない「相場」はいくらですかと尋ねたいのです。

この人はお金は持っています。それは生涯かけての血のにじむ努力の証拠でしょう。私のように一生懸命がんばって来た者を救わない神はありえないでしょう。私の救いはいくらですか。まさかタダではないでしょう。貧しい人でも手に入る安っぽいものではないでしょう。がんばった私とがんばらなかった人たちが同じということは、まさかないでしょう。私の救いはいくらですか。いくら払えばもらえますか。お金ならいくらでもあります。ずばり金額を教えてください。そのように言おうとしています。

主イエスは、これで二度目ですが、この人の言い分を拒絶なさいました。冷たい感じがするかもしれませんが、私たちに全く理解できないことではないはずです。

私たちもまた、教会生活を続けている中で、いろんな人に出会います。牧師の私にも「要するにいくらですか」と相場を尋ねる方が現れます。金に物を言わせるタイプの人が登場します。そうなると、教会のわたしたちはとても困ります。「そういう問題ではありません」とはっきり言わなくてはならない場面に実際に立ち会います。

主イエスがこの人にお求めになったのは、モーセの十戒の「第二の板」(第五戒から第十戒まで)の「隣人愛」の教えを守ることです(19節)。するとこの人が「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と返して来たので(20節)主イエスはこの人を見つめ、慈しんで「あなたに欠けているものがひとつある。行って、持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。(中略)それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいました(21節)。

主イエスがこの人にお求めになったのは、「隣人愛」の教えを学び、それを実践することです。「隣人愛」とは、先週学んだボンヘッファーの言葉を繰り返せば「他者のために存在すること」です。

あなたは自分の宝を「他者」と分け合っていないからリッチなのです。自分のものを抱え込み、積み上げ、守り抜くけれども、他者のためには用いようとしない。「他者を愛すること」ができない人は、神の戒めを守ったことになりません。そのことを、主イエスは教えておられます。

私は今このことをお話ししながら、平気な顔をしていません。私にはお金がないので、自分のものを売り払ってだれかに施すとしたら、毎日の食生活が成り立ちません。切り詰めて生きているつもりですが、これでもまだ贅沢しているように見える要素があるかもしれません。

「あなたはそれでも『他者のための存在』であると言えるのか、自分のことしかしていないではないか。牧師だとか言って、世のためにも人のためにも何の役にも立っていないではないか」と責められていることも自覚しています。申し訳ない気持ちでいっぱいです。

この人は主イエスの言葉に傷つき、悲しみながら立ち去りました。主イエスのほうも、この人を追いかけません。

弟子たちの中に「せっかくリッチな人が来てくれたのに、先生が傷つけるようなことを言うからいなくなった。もったいない」と思った人がいたかもしれません。教会も財政難のときには同じことを考える可能性があります。

しかし、そこに譲れない線があるのです。金に物を言わせようとする人は、信仰の交わりを壊します。イエス・キリストの教会はそういう理屈で動きません。

それは「教会とは何か」という問題でもあります。教会は、あなたの宝をガードするための「砦」(とりで)なのか。それとも、いろんなタイプの方々を広く受け入れ、互いに助け合い、分かち合うための、開かれた「広場」なのか。その開かれた広場の中での出会いこそが、あなたの宝なのか。

主イエスがおっしゃっている「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(25節)という、ジョークとは言えませんがユーモアの要素を多く含んでいるたとえは、それが絶対に不可能であることを示すためのものです。それ以外の意味はありません。

ラクダが針の穴を通ることは絶対に不可能です。同じように、金持ちは金持ちのままでは救われません。「他者のための存在」になることが求められています。それは、あなたの宝を「他者」のために用い、分け合うことです。

救いはお金では買えません。裕福な人だけが手に入れることができ、貧しい人には手に入らないものではありません。

「人が救われるのは人間の努力や功績によってではなく、信仰によること」を主イエスは教えておられます。この教えを使徒パウロも受け継いでいます。

(2025年11月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)