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2025年6月8日日曜日

聖霊の働き

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「聖霊の働き」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教⑥

ローマの信徒への手紙12章1~8節

関口 康

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(1節)

「この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」(日本基督教団信仰告白

今日は「ペンテコステ(聖霊降臨日)」の礼拝です。キリスト教会の歴史的出発をお祝いする日です。

新約聖書によると、死者の中から復活された主イエス・キリストが天に昇られた後、主イエスの弟子たちがひとつの部屋に集まっているところに、父なる神とイエス・キリストのもとから聖霊が降り、弟子たちにとどまりました(使徒言行録1~2章参照)。

「炎のような舌」(使徒言行録2章3節)が弟子たちの上にとどまるなど、聖書に描写されている情景が「ホラー映画のようだ」と感じる向きがあるかもしれません。しかし、それは聖書の読み方の問題です。明らかに文学的表現が用いられています。

「炎のような舌」は、神の御言葉を炎のように熱い思いで力強く宣べ伝える教会がそのとき生み出された、と言いたいだけです。そのように考えながら読めば、意外なほど安心できる当たり前の情景が描かれていることが分かります。

5月4日(日)から「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」を続けています。偶然の一致ですが、「聖霊の働き」について記されている箇所がペンテコステ礼拝の日に巡って来ました。まさにふさわしいテーマですので、両者の要素を掛け合わせてお話しいたします。

日本基督教団信仰告白の今日の箇所も、「この変らざる恵みのうちに」と記されているとおり、「神の恵みの教理」(恩恵論)です。人間の努力や功績によらず、神から一方的に与えられる「賜物」(ギフト)としての「神の恵み」です。

日本基督教団信仰告白では、神の恵みの教理(恩恵論)の中に、最初に選びの教理(予定論)と信仰義認の教理(義認論)が配置され、その次に「聖化論」(Doctrine of Sanctification)が配置されています。「聖化論」の内容は以下のとおり。

日本基督教団信仰告白

英訳(公式)

試訳(暫定訳)

この変らざる恵みのうちに

In this unchangeable grace

この二度と取り消されることのない神の恵みの中で

聖霊は我らを潔めて

(The Holy Spirit accomplishes His work) by sanctifying us

聖霊(なる神)は私たちを聖化し

義の果を結ばしめ

causing us to bear fruits of righteousness

義の実を結ばせ

その御業を成就したまふ

The Holy Spirit accomplishes His work

(聖霊なる神ご自身の)御業を成し遂げてくださいます


この文章の主語は「聖霊」です。三位一体の第三位格としての「聖霊」は、端的に「神」です。聖霊なる神ご自身がお選びになった人に信仰を与え、その人は罪人のままなのに、あたかも罪が無い人であるかのようにみなしてくださること(=義認)までが先週の箇所です。それに続く、その人を「潔め、義の実を結ばしめる」部分が「聖化論」です。

「義認」は「みなし」なので法廷的(forensic)概念であり、「聖化」は実体変化を意味するので実質的(substantial)概念であるなどと言われます。

「義の果」の内容は、日本基督教団信仰告白の文面だけでは不明です。しかし、「聖霊の結ぶ実」は「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とガラテヤの信徒への手紙5章22節に記されています。

これは「キリスト教倫理」と呼べる内容です。神の御心にかなう善き行いを指します。最初は「個人」において実現します。それが「キリストの体なる教会」という形態を獲得し、「社会」や「国」や「世界」へと広がります。キリスト教の二千年の歴史がその事実を物語っています。

しかし、私はこのあたりで話を止めて、考え直す必要があると感じます。「予定、義認、聖化」を「人間の努力や功績の結果」ではなく「神の恵み」としてとらえることは間違っていません。しかし、この論理は人間を要らないものにしている気がしませんか。わたしたちの働きは無視ですか。人間の努力は無用ですか。

聖霊の働きを正確に理解する必要があります。聖霊なる神は、私たち「の代わりに」(instead of)働いてくださる方ではなく、私たち「の中で」(in)、私たち「と共に」(with)、私たち「と一緒に」(together)働いてくださいます。私たちの理性も意志も感情も排除されません。

聖霊なる神は、わたしたちをパートナーにしてくださいます。信仰は「与えられるもの」ですが、信じるのは私たちです。「義の実を結ばせる」のは神ですが、義の実を味わって生きるのは私たちです。

今日朗読していただいた聖書箇所は、ローマの信徒への手紙12章1節から8節までです。この箇所で最も大事な言葉は、最初の「こういうわけで」(1節)であると言われることがあります。どうしてそういうことになるのでしょうか。

ローマの信徒への手紙は、大別すると3部に分かれます。次の通りです。

18

信仰義認の教理
(義認論)

911

選びの教理
(予定論)

1216

君たちはどう生きるか
(キリスト教倫理)


このように見ると分かるのは、ローマの信徒への手紙は、1章から11章までが「神の恵みの教理」で構成され、つまり「神のわざ」で埋め尽くされているのに、12章に入った途端、「人間のわざ」の話になる、ということです。

もう少し噛み砕いていえば、1章から11章まで「人間は何もしないで救われる」と言ってくれていて、「ありがたいお話だ」と思いながら読んでいたら、12章になると「君たちはどう生きるか」の話に切り替わって、「ナニ、結局、人間の努力が求められちゃうわけ?なんだ、つまらない」と、がっかりする人はがっかりする(がっかりしない人もいる)展開になっているのが、ローマの信徒への手紙の全体構造だったりします。

なかには「ローマの信徒への手紙は、1章から8章までだけでいい。9章以下は要らない(予定論が嫌いだから)。12章以下は論外だ(道徳的なことは興味ない)」と言い出す人までいます。実際に出会ったことがあります。

しかし、そんなことを言われても困るわけです。ローマの信徒への手紙の1章から11章までの「恩恵論」(義認論+予定論)と、12章から16章までの「君たちはどう生きるか」を問うてくる「キリスト教倫理」をつなぐ重要な蝶番(ちょうつがい)が、12章1節の「こういうわけで」である、というわけです。

これで私が何を言いたいかというと、「人が救われるのは努力や功績によらない」という教えと「神の御心にかなう生活をめざすこと」は両立する、ということです。

神の恵みによって救われた人たちは、その恵みにふさわしい「義の果(ぎのみ)」(fruits of righteousness)を結びながら、潔められた(=聖化された)生活を営みます。

(2025年6月8日 日本基督教団足立梅田教会 ペンテコステ礼拝)

2025年6月1日日曜日

神の恵み

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「神の恵み」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教⑤

ローマの信徒への手紙5章1~11節

関口 康

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(1-2節)

「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」(日本基督教団信仰告白

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」5回目のテーマは「神の恵み」です。

日本基督教団信仰告白の今日の箇所に記されていることは、大きく分けると2つあります。

第1は、「神は恵みをもて我らを選び」の部分に関することです。これは「選びの教理」(Doctrine of Election)または「予定論」(Doctrine of Predestination)と呼ばれます。

第2は、「ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」の部分に関することです。これは「信仰義認論」(Doctrine of Justification by Faith)ないし「義認論」(Doctrine of Justification)と呼ばれます。

「予定論」と「義認論」を包括する、もっと大きな枠組みが「神の恵みの教理」(Doctrine of God’s grace)です。「恩恵(おんけい)論」または「恩寵(おんちょう)論」と記される場合もありますが、意味は同じです。

「恵み」(Grace)は、16世紀の日本人クリスチャン(キリシタン)の細川ガラシャさんの名前の由来です。スペイン語グラシア(gracia)で「ガラシャ」。意味は「めぐみ」さんです。ラテン語グラティア(gratia)。ドイツ語グナーデ(Gnade)、オランダ語ヘナーデ(genade)。

聖書と教会の教えの中で「神の恵み」は、決して軽い意味ではありません。私たち人間の救いにかかわるすべては神からの「賜物」(ギフト gift)すなわち「いただきもの」であり、人間の努力や功績で得るものではないという教えです。「信仰」すらも「神のプレゼント(いただきもの)」です。私たちが「信じる努力をする」というようなことではありません。

恩恵論に含まれるのは、予定論と義認論だけではありません。来週のペンテコステ礼拝の説教で取り上げる「聖霊の働き」に関する条文の「この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」も恩恵論に含まれます。「聖霊の潔めの教理」を「聖化論」(Doctrine of Sanctification)と言います。しかし、今日は「聖化論」は扱いません。

いま申し上げていることは「難しい話である」という印象になっていそうな気がしますが、少しも難しくありません。使徒パウロのローマの信徒への手紙8章30節に書かれていることそのものです。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ローマ8章30節)。

これは教会の長い伝統の中で「救いの順序」(オルド・サルティス ordo salutis)と呼ばれてきました。あらかじめ定められた(=予定)者が召し出され(=召命)、義とされ(=義認)、潔められ(=聖化)、栄光を与えられる(=栄光化)のは、すべて神のみわざであって、人間の努力の成果ではないことを訴える教えです。「順序」(英語オーダー order)と言っても、時間の順序(chronological order)ではなく、事柄の順序(logical order)です。

この教えは人間に、徹底した謙遜を要求します。なぜなら、自分の努力や功績を交換条件として差し出して「これだけがんばったのだから、私は救われて当然である」と言い出す人間の主張を、神が完全に拒否するからです。

若くて元気で活発に活動できる頃は、この教えに不満を感じるかもしれません。しかし、加齢や病気で、体も心も思うように動かない。礼拝や教会活動に参加できない。自分は忘れられた存在ではないか、不要な存在ではないかと感じる。それでも「私は救われている」と確信できる根拠があるとすれば、それは「神は恵みをもて我らを選び」というこの教えの他にありません。

しかし、今申し上げている「選びの教理」の取り扱いは、慎重でなければなりません。扱い方を間違えると、ものすごく危険な教理になります。なぜ危険なのかといえば、「神に選ばれた人」がいるということは「神がお選びにならなかった人」もいるという、反面の真理を必ず持つからです(昔のLPレコードの「B面」)。

日本基督教団信仰告白の中に「選ばれていない人もいます」という文字が書かれているわけではありません。しかし、人間の想像力は自分以外のだれにも止めることができません。「神は我らを選び」と書かれているではないか。「選ばれた人」がいるということは「選ばれていない人」もいることを意味しているに違いない、と考える人が当然います。

そのように考えてはいけないわけでもありません。なぜなら、聖書にそのとおりのことが書かれているからです。それはローマの信徒への手紙9章18節です。「神は御自分が憐みたいと思う者を憐れみ、かたくなにされたいと思う者をかたくなにされる」。

「神は独裁者なのか」とお感じの方がおられるかもしれません。ある意味で、そのとおりです。すべては神の自由です。だれを選ぶか、だれを選ばないかは人間が決めることではありません。

今回もファン・ルーラーが何を言っているかを調べました(*A. A. ファン・ルーラー「選びの教理」1941年、「選びの教理」1942年、「予定論の危険性と批判」1945年、「神の選び」1958年。すべて『ファン・ルーラー著作集』4a巻(2011年)の中に収録されています。1941年の「選びの教理」のオリジナルテキストは、なんと全495頁の手書きノート。『著作集』では全250頁(本文184頁+校註66頁))。

『ファン・ルーラー著作集』4a巻(2011年)

ファン・ルーラーによると、選びの教理(予定論)に忠実だった偉人は、キリスト教会の歴史の中で3人しかいません。それはアウグスティヌス(354-430)、トマス・アクィナス(1225-1274)、カルヴァン(1509-1564)の3人だけです(ファン・ルーラー、同上書、743頁)。

なぜこんなに少ないかというと、選びの教理(予定論)は、それを言った人が嫌われる仕組みになっているからです。「神によって選ばれた人がいるということは、神がお選びにならなかった人もいるという意味だろう。なんでそんなひどいことを言うのか」と、それを言った人が責められます。決まってそういう反応が返ってきます。

それで、多くの教師が選びの教理(予定論)を口にすること自体を避けるのです。言ったその人が責められるからです。言うのに勇気が必要です。勇気だけの問題ではない気がしますが、言えない雰囲気にされてしまいます。

予定論は、厳密に言えば、二重予定論(double predestination; praedestinatio gemina)です。「選び」(election)と「棄却(または遺棄)」(reprobation)の両面があります。

「棄却(遺棄)の教理はこの世の悪の問題を非常に深く考え抜いたものである」とファン・ルーラーが述べています(拙訳「神の選び」1958年参照)。具体例を挙げていませんが、おそらく戦争犯罪者の問題です。

かのナチスの独裁者も洗礼を受けたキリスト者でした。彼もまた「救いへと選ばれた人」であることに変わりないでしょうか。「すべての人が救われる」でしょうか。これは戦後のヨーロッパの教会において深刻な問題でした。

神は愛に満ちたお方です。しかし、同時にご自身の義に対して忠実で厳しいお方です。白いものを黒と言ったり、善悪の基準を逆転させたりしない方です。「この世の悪の問題」は、あいまいに片づけられてはなりません。

(2025年6月1日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

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2025年5月25日日曜日

キリストによる贖罪

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「キリストによる贖罪」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教④

ローマの信徒への手紙3章21~26節

関口 康

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」(25節)

「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり」(日本基督教団信仰告白

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」4回目のテーマは「キリストによる贖罪」です。

「贖罪(しょくざい)」に該当する英語は、意味の狭さや特殊性の強さの順で、アトンメント(atonement)、リデンプション(redemption)、サルベーション(salvation)などです。

アトンメントが「つぐない、罪滅ぼし」など色濃く宗教的な意味で用いられることが多く、リデンプションは中ぐらい、サルベーションは「社会救済」などの一般的な意味でも使われます。

贖罪の教理に関して日本基督教団信仰告白に記されていることを、若干補いながら口語的に言い直すと、次のようになります。

「三位一体の第二位格である神の御子、イエス・キリストは、わたしたち罪人の救いのために人間になり、十字架にかかり、歴史上ただ一回限り、ご自身を完全なる犠牲として父なる神へと献げ、わたしたちの贖いとなりました」。

いくつか論点を挙げていきます。

(1)「我ら罪人」の「我ら」は「全人類」を指し、「我ら罪人」は「全人類は罪人であること」を意味します。

(2)「神の御子が人となったこと」には「罪人の救いのため」という明確な目的がありました。逆に、もし人類のだれひとり罪を犯さなかったなら、御子が人となる必然性はありませんでした。

(3)人間は、自分の自由意志において神に背くことによって、罪を犯しました。神が人間の内部に罪の性質を仕込んで、人間に罪を犯させたのではありません。罪の責任は100パーセントあなたにあります。神のせいにしてはいけません。

(4)神は、罪を犯した人間を何とかして救いたいという意志を持っておられます。しかし、それと同時に神はご自身の義に忠実なお方なので、罪を犯した人間を罰せずにおきません。

(5)ユダヤ教では、動物を犠牲の供え物として焼き殺すことによって人間の罪に対する神の怒りをなだめる儀式を行います。しかし、人間の罪はあまりにも大きすぎるので、動物の犠牲の命だけでは、つぐないとしては不足しています。だからといって、人間の命を差し出すことは、人間を滅ぼすことになるので、人間の救いになりません。

(6)そこで、神は「神でもあり同時に人間でもある」ご自身の御子イエス・キリストの命を贖罪とされることによって、神ご自身の義が充足されつつ、同時に人間を救う道を開かれました。

いま申し上げたことは、西暦11世紀から12世紀初頭まで活躍したカンタベリーのアンセルムス(1033-1109)の著書である『クール・デウス・ホモ 神は何故に人間となりたまひしか』(日本語版:長沢信寿訳、岩波文庫、1948年)のアウトラインと軌を一にします。このような教えを、伝統的に「充足説」(satisfaction theory of atonement)と言います。

アンセルムス『クール・デウス・ホモ』岩波文庫版

はっきり言えることは、日本基督教団信仰告白はアンセルムスの贖罪論を受け継いでいるということです。なぜそう言えるかというと、「御子は我ら罪人の救ひのために人と成り」という観点は「神はなぜ人間になったのか」という、まさにアンセルムスの問いに答えようとしているからです。別の言い方をすれば「御子の受肉の目的は何か」という問題でもあります。

しかし、このアンセルムス型の贖罪論が非常に多くの批判を浴びて来たことについては、黙っているわけには行かないと思っています。

よく言われる批判は、「人間の罪を軽視する教えである」というものです。なんだかんだ理屈をつけて、結局、人間の罪を見逃すだの赦すだのいう甘い教えである、というようなことがしばしば語られます。

もうひとつご紹介したい批判は、「刑死や殉死を美化する教えである」というものです。人類の身代わりに死んでくださったあのキリストのように、特攻隊員はお国のために我々の身代わりに命を投げ出した、というような話へのすり替えがなされることは確かにありえます。

これらの批判に対して私たちは謙虚に傾聴すべきであると私個人は考えています。そのうえで、私はアンセルムス型の充足説で満足しています。甘い人間ですので。神のみゆるしなしに生きて行けないものを感じますので。御子の贖いによって神の義が充足されたので、私たちが神に償う必要はもはやないという教えは、私にとってはありがたいです。

「イエス・キリストによる贖罪によって、わたしたちは(   )から救われる」という穴埋め問題の答えを考えることが贖罪論において重要です。救いには「救い出されること、救出されること」の意味がありますので、「何から」(From what ?)という問いが重要な意味を持ちます。

ファン・ルーラーが7つの選択肢(穴埋め問題の「語群」)を挙げています(「イエスの苦しみの意味」(1956年)、『A. A. ファン・ルーラー著作集』2011年、233-243頁)。

 ①死  ②悪魔とその力  ③律法

 ④この世  ⑤我々自身  ⑥力としての罪

 ⑦負い目(罪悪感)としての罪

ファン・ルーラーが最適解としているのは「⑦負い目(罪悪感)」(オランダ語 schuld スフルト)です。ぜひ思い出していただきたいのは、マタイ6章とルカ11章の「主の祈り」の第5の祈りが、新共同訳聖書から「負い目」と訳されるようになったことです。聖書協会共同訳も「負い目」。

「負い目」という意味は、文語訳の主の祈りで「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈っているときには認識できません。「負い目」とは「罪悪感」のことです。そのように最近の聖書で翻訳されるようになりました。

「負い目」(罪悪感)は私たちが常に感じていることです。「ああ、昨日あの人を傷つけてしまった。今日もやってしまった」と罪悪感を抱かない日は無いと思うほどの私たちです。そういうことを少しも感じずに生きることに、かえって問題を感じるほどです。

しかし、「負い目」(罪悪感)は放置していると、澱(おり)のように私たちの心と体にたまっていきます。そのうちあふれて、私たちが壊れて行きます。

私たちの「負い目」(罪悪感)を神によって取り除いていただけることも、十分な意味で「罪の赦し」であり、「贖い」です。日本基督教団信仰告白が言う「我ら罪人の救ひ」そのものです。毎週の礼拝の中で、日々の祈りと賛美と信徒の交わりの中で、「負い目」(罪悪感)からの救いが起こります。

この穴埋め問題に正解はありません。自分で答えを考えることが大切です。とはいえ、危険度が高い選択肢が含まれていることに気づく必要があります。

「④この世」と「⑤我々自身」という選択肢は危険です。「この世の中から救い出されること」が救いなら、私たちはどこへ行けばよいのでしょうか。「自分自身という罪深い存在から救い出されること」が救いなら、「私は生きていてはいけない」という考えに陥らないでしょうか。

「②悪魔とその力」という選択肢も危険です。自分に当てはめるならともかく、自分以外のだれかを「悪魔」呼ばわりして、その人が消えうせることを求める考えに陥らないでしょうか。

(2025年5月25日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

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2024年11月23日土曜日

神の計画の確かさ

愛恵まちづくり記念館(東京都足立区関原1-21-9)

(※以下は、当教会と歴史的に深い関係にある「愛恵学園」(1930-1990)の関係者の集い(2024年11月23日、愛恵まちづくり記念館にて開催)の開会礼拝での説教(要旨)です)


説教「神の計画の確かさ」

ローマの信徒への手紙8章26~30節

関口 康

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)

開会礼拝のために選ばせていただきました聖書の箇所は、使徒パウロのローマの信徒への手紙8章26節から30節までです。

「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(26節)。

この「霊」は聖霊です。西暦1世紀に「三位一体」という言葉はありませんでした。しかし、西暦1世紀には「聖霊」はまだ神ではなかったということではありません。26節の意味は、「神が弱いわたしたちを助けてくださる」ということです。

そして「わたしたち」は人間です。パウロによると、わたしたち人間の弱さは「どう祈るべきかを知らない」ことにあります。しかしこれは、人間は祈る言葉を全く知らないとか、祈ることは不可能であるとか、祈りは無意味であるということではありません。

そのようなことよりも、「言葉がない」という日本語表現のほうに近いです。私も牧師の末席を汚しています。教会員のご家族の不幸。教会員ご自身の事故や病気。大規模な自然災害。人為的な犯罪や破壊行為。そして戦争。何か言わなければ、言葉にしなければ、と思いながら「言葉がない」。祈る言葉も見つからない。神に何を言えばいいか分からない。

そのようなとき「霊(なる神)がわたしたちを助けてくださる」とパウロは言います。しかし、そのとき神は「あなた、どうせ何も言えないんでしょ。それなら黙っていなさいよ。私が代わりにしゃべってあげるわよ」という調子で、神ひとりが饒舌にお語りになるわけではありません。むしろ神も沈黙されます。なぜでしょうか。

わたしたちが「言葉がない」とうつむくのは、傷つき苦しむ当事者のことを「知っているふりをしたくない」からでしょう。その人に苦しみの意味を説明してあげて、解決方法まで教えてあげれば事が足りるなどとはとても思えないから「言葉がない」わけでしょう。

神はそのようなわたしたちの気持ちに寄り添ってくださる仕方で沈黙なさるのです。わたしたちと一緒にうめいてくださるのです。神もまた「知っているふり」をなさらないのです。説明もなさいません。

この「わたしたちはどう祈るべきかを知らない」(26節)について、16世紀のドイツの宗教改革者マルティン・ルターが『ローマ書講義』(1515年 / 1516年)で次のように解説しています(松尾喜代司訳。英語版はAmerican Edition)。

「たとい、一見われわれの祈願に反することが生じても、それは決して悪いしるしではなく、むしろ最もよいしるしである。それは、われわれの祈願に対して、すべてが全くねがいどおりに与えられたならば、決してよいしるしではないのと同様である」

“It is not a bad sign, but a very good one, if things seem to turn out contrary to our request. Just as it is not a good sign if everything turns out favorably for our request.”

その意味は、「神の計画とご意志は人間の計画と意志をはるかに超えたものである」ということです。ルターは次のように続けています。

「神は、その賜物を賜う前に、まずわれわれのうちに有るものを破砕し・撃滅するのが神の性質である」

“It is the nature of God first to destroy and tear down whatever is in us before He gives us His good things.”

ルターの言うとおりです。もしすべてがわたしたちの祈りどおり、わたしたちのリクエストどおりになるというなら、その祈りは魔法使いの魔法杖です。その杖を振れば、どんな夢でも叶えられる。

ルターによると、わたしたちのリクエストどおりになることはバッドサインであり、リクエストどおりにならないほうがベリーグッドサインであり、そもそも祈る前にわたしたちが抱いているリクエストそのものを神はデストロイなさるというわけです。

ルターはずいぶん激しいことを言います。しかし、説得力があります。

それでパウロは言います。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)。

ここで「わたしたちは知っています」とパウロが書いていることの意味は、ユダヤ教の伝統や初期キリスト教の教えと合致しているということです。だれでも知っている普遍的真理であるとか一般論ではありません。パウロはあくまで「神を愛する者たち」に語りかけています。

しかも、前後の文脈を考えれば、パウロが言う「万事が益となる」の「万事」の内容の大半は「苦しみ」です。「言葉がない」と音を上げるほどの苦しみの日々が、パウロの言う「万事」です。世の中で、社会の中で、人生そのものの中で、「楽しい」と感じることはほとんどなく、「苦しいことだらけだ」と絶望しかけている信仰者にとっての「万事」です。

しかし、その苦しみもまた、いや、その苦しみこそをわたしたちの「益」にしてくださるのが、わたしたちの神であり、神の計画である、ということをパウロが記しています。

「お前が言うな」と、どうかお怒りにならないでください。大先輩の皆さまはきっと、「パウロの言うとおりだ」と受けとめてくださると思います。

「日本の教会がピンチである」と多くの人が嘆きます。そういう言葉をよく聞くでしょう。しかし、私は全く同意できません。

ルターの言うとおりです。わたしたちのリクエストどおりにならないことのほうがベリーグッドサインです。「日本の教会がピンチである」と言う人たちは、自分のリクエスト通りにならないことに苛立っているだけです。わたしたちのリクエストは神がデストロイなさるのです。

しかし、気を付けなくてはならないことがあります。26節に戻りますが、「霊が弱いわたしたちを助けてくださる」と言われている場合の、神がわたしたちを助けてくださる方法は、《神が100%働いてくださって、人間の働きは0%になる》のではありません。

「言葉が無い」だの「どう祈るべきかを知らない」だのと言い訳ばかりして役に立たない人間はクビにして「お前はもう黙っていろ。何もするな。わたしが全部するから見ているだけでいい。わたしの邪魔をするな」と、人間の代わりに神がすべてしてくださるわけではありません。

あるいはまた、《人間が99%働いて、神が1%付け加えてくださる》というのでもありません。

教団とか教派とかの文脈に身を置くと、イヤな話を繰り返し耳にします。「自立できないような小さな教会を維持したがるのは人間の願望にすぎない。そういう教会は解散するほうが神の御心である。一般企業と同じように、教会においても『選択と集中』を推し進めるべきである」などと言い出す人たちがいます。ひどいと思いませんか。

私は足立梅田教会に来させていただいたことを幸せに思っています。皆さん「やる気満々」ですから。わたしたちの神は「やる気満々」の人々を見捨てる神でしょうか。そんなことありえないですよ。

「聖霊なる神」が弱いわたしたちを助けてくださる方法は《神100%、人間100%》です。どんなことがあっても心が折れず、希望を捨てない人々を、神は決して見捨てません。

今日お集まりの皆さんの教会も同じです。「小さな教会を畳むことが神の御心である」などと、どうかおっしゃらないでください。心が折れそうなときは足立梅田教会を思い出してください。私もぜひ、皆様のお仲間に加えていただきたくお願いいたします。

(2024年11月23日 野比の会(愛恵学園の会)開会礼拝、於 愛恵まちづくり記念館)

2024年7月22日月曜日

信念はあるか

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「信念はあるか」

ローマの信徒への手紙14章13~23節

関口 康

「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」(13節)

今日の説教のタイトルは「信念はあるか」です。一般的な意味です。「信仰はあるか」と問うていません。私の意図にいちばん近いのは「ポリシー」です。

説明は不要でしょう。「有言実行」「首尾一貫」「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」(岡山県出身の彫刻家・平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)氏の言葉)などに言い表された人間の意志や感情です。

「いつ、どこで、だれが」をさらすのは控えますが、最近の事例です。「引っ越して何か月か経ちました。借家にひとりでいるとコトコト音がします」と始まる。私なら「それはネズミか地震ですね」とすぐ答えてしまいますが、「もしかして幽霊が」と悩みはじめる方々がおられます。

方角、日にち、場所、食べ物などの迷信もそうです。「迷信」と呼ぶ時点で価値判断が入っています。それを信じている人にとっては、迷信どころか真理そのものです。

「土用の丑(うし)の日にウナギを食べる」というのも迷信です。なぜ「丑の日」なのでしょうか。子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥。だから何なのでしょう。厄年、還暦、星座、血液型などもそうです。聖書の教えからすると、どれもこれも異教です。

目くじらを立てる意味で申し上げていません。私は自分が「へび年のさそり座生まれ」であることは知っています。テレビや雑誌の占いをじっと見てしまいます。学校でこの話をすると生徒に怪訝な顔をされます。真に受ける子がいて申し訳ないです。

今日の箇所は、14章の最初から始まっている話題の結論部分です。そのテーマは「信仰の弱い人を受け入れなさい」というものです。

「信仰の弱い人」を受け入れるのは「信仰の強い人」の側です。弱い人が強い人を受け入れることは不可能です。体重の問題に少し通じます。通常は、体重の重い人のほうが、軽い人を背負ったり抱えたりするはずです。その逆は難しいでしょう。筋肉の強さの問題は別です。

しかし、そこに「強い」か「弱い」かという力関係を表わす区別が持ち込まれると混乱が起こる危険があります。「弱い」と言われただけで、見下げられている気分になる人が出てきます。

パウロが言おうとしている「信仰の強い人」の意味は、神以外のすべての存在から自由であり、何ものにも束縛されない人のことです。「信仰の弱い人」はその逆です。いろんな束縛から自由でない人です。

その具体例がいくつか14章以下で取り上げられています。「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べている」(2節)。動物を屠殺してその肉を食べるようなことはしないし、できない人がいます。

別の例も挙げられています。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます」(5節)。

私の話をすることをお許しください。私は「すべての日は同じ」です。牧師34年目、盆・暮れ・正月と全く無縁の人生を送ってきたことと間違いなく関係あります。

「教会暦」に関してすら、私は「すべての日は同じ」です。レント(受難節)の断食なども、私自身はしたことがないし、だれかに勧めたこともありません。

しかし、ローマの信徒への手紙14章でパウロが問題にしているのは、わたしたちが自分はそうであると思っているからと言って、自分の立場を、特に教会の中で、自分の近くにいる人たちに強制してはいけない、ということです。

よく分かる話です。納得できます。しかし、この文脈に「強い」か「弱い」かというような混乱を招く価値観が割り込んで来て、しかも明らかにパウロ自身は「強い人」の側に立って語り続けるのでややこしくなるのですが、「信仰の弱い人」には他の人に自分の立場を押し付けがたる傾向がある、というのがパウロの言い分の前提です。

「すべてが同じ」である人にとっては、だれかに何かを押し付ける具体的なものがそもそも何もありません。「制限はない」と言っている人のほうが、「制限がある」と言っている人よりも「許容範囲が広い」とは言えるでしょう。

「強い人」か「弱い人」かという区分よりは「広い人」か「狭い人」かのほうが、争いが少なくなるでしょうか。ますます混乱するでしょうか。

「弱い人」が自分の立場を周りに押し付けたがるのは、孤立を恐れるからではないでしょうか。自分の考えに自信を持てないので、周りを巻き込んで多数派になろうとする。「強い人」は強い確信があるので孤立が怖くない。しかし、それはそれで人を傷つけるものがあるので、話は単純ではない。

結論は「もう互いに裁き合わないようにしよう」(13節)です。そして「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないようにしよう」(同上節)です。

日本の教会で昔から問題にされてきたのが禁酒禁煙の問題です。賀川豊彦先生のような方が禁酒運動に熱心に取り組みました。私の父の受洗のきっかけは「賀川伝道」でした。だからかどうかは分かりませんが、私の両親も禁酒禁煙主義者でした。私の出身教会の牧師もそうでした。

私が東京神学大学に入学したとき「禁酒禁煙」の誓約書を書かされました。1984年4月です。今どうなっているかは知りません。教会で問題にされるときは健康問題だけではありません。神の前での生き方の問題にされます。

私は禁酒禁煙に関して自分がどうしているかについて、人前で言ったり書いたりしたことはありません。「人前で言ったり書いたりしたことがない」だけです。私の両親はすでに二人とも亡くなりましたが、親の前で一度も、私がどうしているかを話したことがありません。

そうしてきたことをずるいと思っていません。嫌がる人がいると知りながら、からかいや冷笑を伴う挑発的な態度をとるのを控えて来ただけです。私の話を先にしてから言うのは順序が逆ですが、パウロの意図はいま私が申し上げたことと同じです。

「信念はあるか」と問わせていただきました。肉や酒やたばこなどをすべて断つという誓いを一生貫きますかと問うていません。あるいは、早寝早起き、ジョギング、英会話の勉強などを毎日欠かさずすること、など。多くの人は守り切れないでしょう。

もし誓うなら、一生守れそうなことを誓おうではありませんか。それは「嫌がる人がいることを知りながら、故意に嫌がらせするようなことは決してしない」という誓いです。これなら守れるでしょう。成熟した人間(おとな)らしい態度だと言えます。

パウロはここまではっきり言っています、「キリストは、その兄弟のために死んでくださったのです」(15節)と。

「その兄弟」とは、宗教的な理由で動物の肉を食べず、野菜だけを食べる人です。キリストがその兄弟のために、ご自身の貴い命を差し出して死んでくださったのだから、せめてその兄弟の前で肉料理を食べるのを我慢することぐらいできるでしょうという意味です。冗談でも言っているかのような気分になりがちですが、これは真剣かつ深刻な話です。

食事、方角、日にち、場所などの問題は先祖代々受け継いできたものであったり、地域の歴史や風土に関係していたりします。それを重んじている人たちにとっては感性の問題です。生理的な、肌感覚の、きわめてデリケートな問題です。ずけずけ物を言い、ずかずか土足で踏み込んで良いようなことではありません。

だからこそ、「デリケートな問題に対してはデリカシーを持つべきである」というのが今日の箇所の教えの意味であると申し上げておきます。

これをわたしたちの「ポリシー」にする。それは不可能な話ではなく、可能な話です。互いの感性を重んじ合うことが、互いの存在を重んじ合うために大事です。

(2024年7月21日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)