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| 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「終末と希望」
テサロニケの信徒への手紙一 5 章 1 ~11節
関口 康
「主はわたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(10節)
説教題として最初に考えたのは「たとえ世界が滅びても」でした。近年、日本の小説やテレビや映画のタイトルやセリフに見かけるようになりました。この言葉には続きがあります。
「たとえ明日世界が滅びようとも、今日われらはなおリンゴの木を植えるだろう」(Und wenn morgen die Welt unter ginge, so wollen wir doch heute noch unser Apfelbäumchen pflanzen)
これは16世紀の宗教改革者マルティン・ルター(Martin Luther [1483-1546])の言葉として紹介されてきました。しかし、これが本当にルターの言葉かどうかに議論があります。マルティン・シュレーマンの『ルターのりんごの木』棟居洋訳、教文館、2015年)をぜひお読みください。シュレーマンの結論は「これはルターの言葉ではない」です。
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| シュレーマン『ルターのりんごの木』2015年 |
今日はテサロニケの信徒への手紙一を開きました。使徒パウロの手紙です。紀元50年ごろに書かれたもので、「現存するパウロの最古の手紙」であるだけでなく、「新約聖書の最古の文書」です(ヴィリー・マルクスセン『新約聖書緒論』(渡辺康麿訳、教文館、1984年、78頁参照)。
古文書の成立年代推定には根拠が必要です。そのひとつは「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められた」( 2 章 2 節)や「テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て」( 3 章 6 節)という描写を使徒言行録や他のパウロ書簡と比較して見えてくる結論です。
もうひとつは、パウロの教えの「初期」と「後期」に変化があることを認めて、どちらなのかを見分けることです。
4 章13節から始まる話題は、世界の終末においてイエス・キリストが再び来られることについてです。パルーシア(παρουσία)と言い、「再臨」や「来臨」と訳されます。
パウロは、自分が生きている間にパルーシアが起こると、この手紙を書いたころは本気で信じていました。しかし、そうならないことが分かってトーンダウンし、やがて「再臨」について書かなくなります。それがパウロの変化です。
しかし、このような「聖書の歴史的批評的な読み方」に苦痛や反発を感じる方々が、現在世界24億人と言われるキリスト者の中にいます。聖書の言葉はすべて文字通りに実現すると信じている人々がこの箇所を説明するために用いる言葉が「携挙」(rapture)です。
まさに文字通り、世界の終末に信仰の先達とその時点で生きている人が空を飛び、彼方から飛んで来られる主イエスと空中で出会い、共に雲に包まれて携挙されます。まさにスペクタクル。
しかし、そのような非科学的なことが起こるはずはないと考えるキリスト者も大勢います。
先々週11月20日(木)五反田にあるゲンロンカフェで「宗教国家アメリカはどこへいく」というテーマで、新潮選書『アメリカの新右翼』の著者・井上弘貴氏と、中公新書『福音派』の著者・加藤喜之氏と、政治学者・三牧聖子氏の鼎談が開催されたので観覧しました。聖書の「終末論」がアメリカ社会を分断している、というのです。
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| 『福音派』『アメリカの新右翼』 |
青土社(せいどしゃ)の雑誌『現代思想』11月号の特集が「終末論を考える」であると相生教会の本竜晋牧師から教えていただき、それも購入しました。なんと驚くべきことに、「終末論」が現代思想のトレンドであることが分かりました。
「これはたとえ話(verba Allegorica)です。子どもや単純な人に分かるように華々しい領主の行列にたとえています」(Martin Luther, Weimarer Ausgabe, 36, S. 268. M. H. Bolkestein, De brieven aan de Thessalonicenzen, Prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1970, p. 118からの再引用)。
ルターが言ってくれているとおり、これは「たとえ話」(verba Allegorica)です。私たちは空を飛ばなくても大丈夫です。4 章17節は、後半に「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と記されているとおり、 5 章10節の「わたしたちが目覚めていても眠っていても主と共に生きるようになる」と趣旨が同じです。
あなたと主イエスの関係は永遠であり、生きているときも死んでからも同じように主イエスが共にいてくださるという慰めの言葉が語られていると分かれば、それで十分なのです。
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| マルティン・ルター |
「それならば、今死んでも同じではないか。早くイエスさまにお会いしたい」と私たちは考えません。人生がつらいのは分かります。しかし、私たちは、たとえ明日世界が滅びようと、地味で地道な日常生活を営み続けます。そうする他ないではありませんか。
そして、私たちはパウロの教えに従って「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで」( 8 節)いようと思います。
「信仰、希望、愛」の組み合わせは、本書 1 章 3 節やコリントの信徒への手紙一13章13節にもあります。ここで大事なことは、私たちが身に着けることをすすめられているのは「胸当て」と「兜」、つまり自分を守るための防具だけであるということです。攻撃するための武器はありません。「信仰」や「愛」を武器にして他者を攻撃してはいけません。
さて、ここで少し話題の方向が変わります。今日は「終末と希望」についてお話ししています。「終末」が「たとえ明日世界が滅びようとも」に当たり、「希望」は「今日われらはなおりんごの木を植えるだろう」に当たると考えていただきたいです。
すべての命あるものに終わりがあるように、世界も必ず終わりを迎えます。そのとき「教会」は何をすべきでしょうか。私たちの「りんごの木」は何でしょうか。
ファン・ルーラーは「教会はそれ自体で目的でもある」(De kerk is ook doel in zichzelf)と教えました。日本で学生運動が盛んだった1960年代に、ヨーロッパの大学でも「世界同時革命」を呼びかける学生が多くいました。
そのころ流行した神学思想の中に「目標は世界の未来である。教会は手段に過ぎない」と教え、「教会」を「革命の拠点」としてとらえるものがありました。
その教えに反対するために、ファン・ルーラーが1960年に「教会はそれ自体で目的でもある」という講義をドイツで行いました(『ファン・ルーラー著作集』第5A巻、ブーケンセントルム社、2020年、232~247頁)。
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| 『ファン・ルーラー著作集』第5A巻(2020年)・第5C巻(2023年) |
その講義の趣旨は、教会が自己目的化し、内向きになるのがよろしくないことは理解できるが、それでは教会自身には目的も目標もないのかというと、そうではない、ということです。
オランダの教会も同じですが、日本のプロテスタントは「教会に行く」といえば「説教を聴きに行くこと」と同じ意味だった時代が長かったと思います。その後、聖餐式の価値が認められてきましたが、そのあたりで止まってしまいました。
ファン・ルーラーが「教会の目的」として強調しているのは「讃美歌」です。「礼拝」にみんなで集まり、共に歌い、共に祈る交わりそのものに、他に代えがたい価値があることを強調しています。私も大賛成です。
何よりファン・ルーラーにとって「宗教改革」(Reformatie)とは「大掃除」(grote schoongemaak)でした。それは「革命」ではありませんでした。
これもたとえ話ですが、「部屋の掃除をするのが面倒くさいから、家を壊して建て直す」というなら「革命」かもしれませんが、それは暴力です。「掃除」は「革命」ではありません。そこにすでにあるものを、ホコリを払って磨いて活用するだけです。それは人間に対する見方にも通じます。プロテスタント教会は「革命」を求めず「改革」を続けます。
教会だけが「目的」ではありません。神の創造のみわざの目的は、人間をキリスト者にすることではありません。教会だけが残ることが世界の目的ではありません。教会は社会との共存を求めます。科学技術の進歩の恩恵にあずかっています。
しかし、現実はどうでしょう。人工知能の進歩によって今後奪われる職種は 2 万と言われます。「超富裕層」(3000万ドルあるいは45億円以上)は30万人、世界人口の0.005パーセントです。大多数は「貧困層」です。どうしてこれほどバランスが崩れてしまったのでしょうか。科学技術は人類を幸せにしたでしょうか。
「本当の自由は何か」「善き未来とは何か」は全人類の真剣な問いです。これらの問いに真剣に取り組んでいるルドガー・ブレグマン『希望の歴史』上・下巻(野中香方子訳、文藝春秋社、2021年)と、敬愛する水島治郎先生の『オランダは、「自由の国」だったのか』(NHK出版、2025年)を推薦いたします。
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| 『オランダは、「自由な国」だったのか』『希望の歴史』 |
教会は社会の問題を考える場でもあります。たとえば、もし聖書の「終末論」の間違った解釈が戦争の原因になっているとしたら、教会がそれを無視できるはずがないではありませんか。
最後にもう一度、ファン・ルーラーの言葉を紹介します。
「キリスト教の視点からすれば、いかなる否定的なことに対しても、人類は肯定的にしか立ちません。たとえ世界が滅びても、その滅亡を人類は共に乗り越えます。最後の瞬間でさえ、別の世界へ逃げません」(「聖書の未来待望と地上の視点」(Bijbelse toekomstverwachting en aards perspectief) 『ファン・ルーラー著作集』第5C巻、ブーケンセントルム社、2023年、952頁)
私もファン・ルーラーと同じ思いです。私たちは「ここではない、どこか」へ逃げても、人間が罪から逃れられないかぎり、破局の現実はどこまでも追いかけてきます。
現実に踏みとどまって、身近なところから「改革」しようではありませんか。それは「革命」ではありません。忍耐強く、部屋を片付けていくのです。そうするだけで、自由に使える生活空間が広がります。それが私たちの「希望」です。
(2025年11月30日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)




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