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2024年12月6日金曜日

ザカリヤの預言 北村慈郎牧師

農村伝道神学校(東京都町田市野津田町2024)

説教「ザカリヤの預言」

ルカによる福音書1章68~79節

北村慈郎牧師

於・農村伝道神学校 礼拝堂

私は、一昨日12月4日で満83歳になりました。

今年1月と9月に、牧会経験のある二つの教会の創立記念礼拝の説教を頼まれました。その時、これが最後の私の説教になると思いますと言って、説教をしました。農伝でもおそらく私の説教する機会は、これが最後ではないかと思います。

そこで、最後にこれから牧師になられる農伝の学生の方々に、何を語ったらよいのかを思いめぐらし、やはりイエス・キリストの福音とは何かという、教職にとっても信徒にとっても、キリスト者として何を信じて生きているのか、その根源についてお話しすべきではないかと思いました。そのことを短い時間ですので、簡潔にお話しさせてもらいたいと思います。

最近出版された鈴木道也著『違いがありつつ、ひとつ~試論「十全のイエス・キリスト」へ』には、私の日本基督教団における戒規免職の背後には、信仰理解の相違があり、教団は神学的対話をしないで、私を免職にしたことは問題であると述べています。

信仰理解の相違とは、簡単に言えば、信仰告白のキリスト像とイエスの歴史的生の違いと言えます。教団の中で「信仰告白と教憲教規」を教会の基準にしている人たちは前者「信仰告白のキリスト像」に立つ人たちと言えます。聖餐を福音書の5,000人、4,000人の供食物語を一つの起源に考えて、「開かれた聖餐」をしている人たちは後者「イエスの歴史的生」を教会の基準にしていると言えます。私は、イエス・キリストの福音の根底には「イエスの歴史的生」があると思っています。

この相違は、キリスト者とは、教会とは、をどのように考えるかの違いにもなっています。

以下『イエスと出会う~福音書を読む~』という本からの引用になりますが、この本の著者はカトリックの人ですので、ちょっと違和感のあるところもありますが、その点お含みおきください。

「キリスト教徒のしるし」として、「十字架を身につけ、熱心に祈り、儀式(礼拝)に参列していれば、キリスト教徒と言えるだろうか」。この著者がこう問うているということは、そのように考えるキリスト教徒がいるということです。それに対してこの著者は、「そうではなく、人々を分け隔てなく迎え入れることがキリスト教徒であることの何よりのしるしとなる。様々な価値観を受け入れ、国籍が違っても互いに尊重しあい、一人ひとりを大切にし、共につくりあげていく喜びをわかちあおうとするのが、キリスト教徒だ。『ここでは敵とも言葉を交わしている。これがイエスの友達のしるしだ!』と人々は言うであろう」と述べています。

前者は「礼拝共同体」としての教会、後者は「交わりとしての教会共同体」と言えるかと思います。この本の著者は、後者「「交わりとしての教会共同体」を「イエスの友達」とか「イエスのチーム」と呼んでいます。

そしてこの本の「山上の説教」の解説では、「イエスの友達」「イエスのチーム」であるキリスト者はこの世の中に「幸せをもたらす人々」であると言うのです。「山上の説教」の解説では「幸せ」「幸せをさまたげる」「幸せをもたらす人々」と、三つのテーマについて短く記されています。

それを読ませてもらいます。

「幸せ」

毎日ご飯が食べられ、住む家があり、生きていくのに必要なだけのお金があって、自分の場所と呼べるところがあるとき幸せだ。つらいときに慰めが得られ、喜びを味わうことができ、正義が保証されているとき幸せだ。愛する人、愛してくれる人、惜しみなく与える人、信頼できる人に囲まれているとき幸せだ。また爆弾や戦車が存在しない平和な世界で子供を育て、なにかを生み出して行くことができるとき、自由に考え、行動し、発言できる権利があるとき、幸せだ。そして、追われたり、軽蔑されることなく神を信じ、神を知ることができるとき、それから……まだまだある。これらの幸せを、神はすべての人にお望みになっている。

「幸せをさまたげる」

地球上に貧しい人はたくさんいる。国全体が貧しいこともある。食料がなく、耕す土地もなく、仕事もなければ、利用できる資源もない。彼らは、多くの場合、周囲から、そのまま放っておかれている。富のある人は、ときに、自分の財産を楽しんだり、増やすことばかり考えていて、なにももたない人の犠牲のうえに今の生活が成り立っているということをまったく考えない。貧しさが原因でどれだけ不幸が生み出されていることだろう。信仰や思想が理由で、あるいは単に国の指導者たちにとって不都合な存在だったりするがために、迫害されている人は大勢いる。暴力による犠牲者の数も多い。戦争や国外追放、反乱、家宅侵入、離散した家族。人が人の幸せを破壊することもよくある。他人が幸せになるのがゆるせなかったり、すべてを独占しないと気のすまない人たちによる行為だ。

「幸せをもたらす人々」

他者に心を開いている人は、地球上のどこにいても、神が人々に望まれる幸せを実現しようと立ち上がる。腕を組んでただ待っているようなことはしない。平和をもたらし、正義を実践し、一人ひとりの尊厳を大切にし、良心に耳を傾け、誠実な行動をとり、飢餓と戦い、人々の権利を守り、喜びを富に見いださず、互いに大切にしあう世界をつくろうとする。彼らは、“幸い”な人々だ。“幸い”なとき、神への愛とイエスへの信仰を実践している。

ザカリヤの預言の中にも、マリアから生まれるイエスは、「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」と言われています。また「マリアの賛歌」では「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えている人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1:51-53)と言われています。

そういうイエスの歴史的生が福音なのです。私は、「イエスの歴史的生」を排除して、頑なに「信仰告白と教憲教規」を主張する教会は、戦時下教団の教会のように戦争協力に巻き込まれるように思えてなりません。

最後に、この農伝を卒業して牧師になって、みなさんが遣わされる教会は多かれ少なかれ「信仰告白のキリスト像」の優位な教会が多いと思います。「イエスの歴史的生」を大切にしようとしても、すんなりとそれを共有してくれる教会は少ないと思います。ですから、既成の教会に遣わされても、根気強く開拓伝道をするつもりで働いてもらいたいと思います。一人でも二人でも時間をかけて忍耐強く理解者になってもらう努力をしながら、「イエスの友達」「イエスのチーム」としての教会共同体を「礼拝共同体」と共に建てていっていただきたいと思います。

主がそのようにみなさんを導いて下さいますように!


祈ります。

神さま、今年も主の降誕を喜ぶ時が近づいています。

あなたがこの世に遣わされたナザレのイエスが生きられたその生涯の中に

私たちすべてに対するあなたの贈物があることを信じます。

どうか私たち一人一人を、そのあなたの贈物によって、全ての

人と共に生きる道を歩ませて下さい。

主の名によってお祈りいたします。   アーメン。

2024年7月29日月曜日

善いサマリア人

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「善いサマリア人」

ルカによる福音書10章25~37節

関口 康

「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(26節)。

(※以下の内容は、午前9時からの「教会学校」と、10時半からの「聖日礼拝」とで重複しないように連続でお話ししたことを、ひとまとめにしたものです。)

今日の聖書箇所は「善いサマリア人のたとえ」です。内容に入る前に「サマリア人」についてお話しします。

サマリア人と他のユダヤ人のルーツは同じですが、サマリア人は他のユダヤ人からバッシングやハラスメントを受けていました。なぜ差別されたかといえば歴史と関係あります。要するに別の国だった時代がありました。その年代は紀元前926年(928年説あり)から722年(721年説あり)までです。

その後、サマリアが中心の北イスラエル王国が隣国アッシリアによって滅ぼされました。そのときの北王国の難民の生き残りが「サマリア人」です。紀元前597年(596年説あり)には南ユダ王国のほうも隣国バビロニアによって滅ぼされました。

私は今「差別は仕方ない」という意味で言っていません。差別が起こった原因を述べているに過ぎません。要するに歴史が関係あります。別の国だった時代がありました。その時代に、両国の思想や文化の違いが生まれました。両国とも別の国によって滅ぼされましたが、その後も仲良くできない関係であり続けました。

さて今日の箇所です。前半と後半に分かれます。前半はイエスとある律法学者との対話、後半はイエスご自身がお語りになった「善いサマリア人のたとえ」です。

律法学者が主イエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問しました。主イエスの答えは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という教えと、「隣人を自分のように愛しなさい」(英語でLove your neighbor as yourself)という教えを実行すればよい、というものでした。

しかし、この答えに律法学者は満足しませんでした。カチンとくるものがありました。自分を正当化しなければならないという思いがわいてきました。彼は自分は完璧な人間でありたいと願っていたのだと思います。「神」を愛することについては任せてほしいと胸を張って言えたでしょう。しかし、「隣人」を愛することについては躊躇がありました。

もし「隣人」の意味が全世界の全人類を指しているということであれば、「それは不可能です」と答えざるをえません。なぜなら世界には、愛しうる人もいれば、愛しえない人もいるからです。それが世界の現実です。

「隣人を自分のように愛すること」を実行することについてはやぶさかではありません。忠実に実行します。ですから、その「隣人」の定義を教えてください。「隣人」の範囲を決めてください。出題範囲を教えてもらえないテストなど受けられませんと、この律法学者は主イエスに反発しているのです。

その問いへの主イエスの答えが「善いサマリア人のたとえ」でした。たとえ話の内容自体は難しくありません。ある日、エルサレムからエリコまでの直線距離20キロの下りの山道で強盗に襲われて半殺しされた人が道端に倒れていました。その人の前を「祭司」と「レビ人」が通りかかったのに、2人ともその人を助けないで立ち去りました。

「祭司」はユダヤ教の聖職者、「レビ人」は祭司を助ける人たちです。神と教会に仕える立場にある人たちです。その人たちが、目の前で死にそうになっている人をなぜ助けないのでしょうか。倒れている人はユダヤ人であると想定されていると思います。祭司やレビ人の「隣人」の範囲にいると思います。それなのになぜ。

3人目に通りかかった人が、サマリア人でした。他のユダヤ人たちから差別されていた人です。その人が、半殺しにされて倒れていた人を助けてあげました。「さて、あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と主イエスがお尋ねになりました。「その人を助けた人です」と彼は答えました。

全世界の全人類を助けることはひとりの力では無理です。しかし、自分の目の前で倒れているひとりの人を助けることは絶対に不可能ということはないはずです。

「何になりたいかではなくだれに必要とされているかが大切である」とコメディアンの萩本欽一さんが言ったそうです。その言葉と似ているとも言えますが、違うとも言えます。

「善きサマリア人のたとえ」の心は、そこに困っている人がいるなら、そこでつべこべ言わないでとにかく助けることが大事なのであって、「私はだれに必要とされているか」ということなどを特に意識しなくても、あなたのことを必要だと思ってくれる人が現われるかもしれませんよ、というくらいです。

 * * *

先週の礼拝後、1階で今日数年ぶりの再開となる教会学校の打ち合わせを兼ねて、かき氷の練習と試食会をしていたとき、その前日に私がアマゾンに注文した本を宅配業者が届けてくれました。それは三宅香帆さんという方の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024年)という今年の4月に発売されたばかりの本です。

著者の情報を何も知らずに買いましたが、三宅さんは私の息子と同い年のようで、1994年高知県出身とのことです。京都大学大学院卒業後、会社勤めをしたそうですが、働いているうちに、それまで大好きだった本を読むことができなくなったそうです。そこで「本を読むために会社を辞める」という一大決心をなさり、文筆業に専念することになさった方です。

この本をまだお読みになっていない方のために、踏み込んだ説明はしないでおきます。それよりも、私がなぜこの本を買おうと思ったかをお話しします。それは、この本のタイトルの「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という疑問は、私自身が長年抱いてきた謎そのものだったからです。同じことを考えてくれる人がいて良かったと思いました。

しかし、私は牧師です。本が読めなくなることがあるのか、それだと仕事が成り立たないのではないかと、心配されるかもしれません。

私の中で「聖書を読むこと」は「読書」に含まれません。それが私の仕事ですから。私にとって「聖書」は、会社員の方が業務上取り扱っておられる書類と同じです。「働いていると聖書が読めなくなる」ということは、私に限ってはありません。読めなくなるのは、それ以外の本です。

正直に言います。言った後に後悔するかもしれませんが。私は「小説」を読む能力が子どもの頃からありません。絶望的にその能力が欠落しています。お医者さんに診てもらえば何か病名をつけてもらえるかもしれないと思うほどです。

小学校から高校まで国語の授業で、いろんな文学や小説を読め読めと言われて、実際に読もうとするのですが、さっぱり分かりません。「村上春樹の小説を読んだことがない」と言ったら呆れられたことがあります。そのときの冷たい反応で私もだいぶ反省しまして、「小説を読む力がない」と公言しないようにしてきました。隠すほどのことではありませんが。

それを私は自分の恥だと思っていて、苦にしていますので、なんとか克服したいと願っているのですが、どうしようもなくて、いろいろ考えて最近始めたことは、ネットでテレビドラマや映画を大量に観ることです。動画ならよく理解できるので、動画を先に頭に入れておけば、小説の文字を追うだけで理解できるようになるかもしれないと考えました。聖書もそっちのけで映画やドラマばかり観ているようで申し訳ないのですが。

なぜ今この話をしているのかといえば、今日の聖書箇所と関係づけたがっているからです。

三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の中で私が特に重要だと思いましたのは、「情報」と「知識」を区別しておられることです。「情報」は「知りたいこと」を意味する。しかし「知識」は「知りたいこと」に「ノイズ」が加わるというのです。

「ノイズ」は要するに「雑音」。なんらかの疑問を持ち、専門書や辞典やネットなどを調べることで答えを得るために集めるデータが「情報」です。しかし「知識」には「情報」以上のものが加わります。今まで考えたことも悩んだこともなかったようなこと、現時点の自分にとってまだ問題になっておらず、関心すら持っていない「余計なこと」が加わる。それが「ノイズ」であって、「情報」に「ノイズ」が加わって初めて「知識」になる、というのが三宅さんの説明の大意です。

興味深い説明だと思いましたが、同時にぞっとしました。断罪された気持ちでした。私が小説を読む力が無い理由が分かった気がしたからです。私が小説を読むことができないのは「情報」だけが欲しくて「ノイズ」を嫌っていたからかもしれないと。

聖書とキリスト教についての「情報」は受け容れることができるし、それが自分の仕事だと思っている。しかし、それ以外のすべては「ノイズ」なので、私を巻き込まないでほしいと距離を置く。そんな牧師はダメでしょう。人に寄り添うことができないではありませんか。

勘の良い方は、これから私が言おうとしていることにすでにお気づきだと思います。主イエスの「善いサマリア人のたとえ」に登場する祭司とレビ人が、傷ついた人の前を素通りしてしまうのはなぜなのか。その謎を解くためのヒントが見つかった気持ちでいます。

三宅香帆さんは「仕事をしていると本が読めなくなる」理由を「ノイズ」に求めておられます。エルサレムからエリコに下る道を通っていた祭司とレビ人が、死にそうになって倒れていた人の前を素通りしたのは、その人を「ノイズ」だと認識したからではないでしょうか。

3人の通行人のうちこの人を助けた唯一の存在が、サマリア人でした。この人は能力が高い人だと思います。傷口への対処法を知り、救助から看護依頼までスムーズで、2デナリ(1デナリは1日の労働賃金なので2デナリは今の2万円)の宿泊費を差し出し、不足分が発生すればそれも自分に請求してほしいとまで言う。心に余裕があり、常に広い視野を持ち、他人を助けることに躊躇がありません。こういう人はモテると思います。

「隣人愛の教えを実行するのは難しい」といえば、そのとおりです。しかし、不可能であると言って拒否するのではなく、可能なことから取り組んでいけばよいと思います。

互いに愛し合うことができるわたしたちひとりひとりになり、そのような教会を目指すことが求められています。

(2024年7月28日 日本基督教団足立梅田教会 教会学校・聖日礼拝 連続説教)