説教「使徒派遣」
マタイによる福音書10章5~15節
関口 康
日本基督教団 足立梅田教会
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日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「孤独な人々と生きる」
マタイによる福音書 9 章 9 ~13節
関口 康
「ファリサイ派の人々はこれを見て弟子たちに『なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である』」(11-12節)
10月12日(日)に北村慈郎牧師をお迎えして「特別礼拝・講演会」を行うことになりました。主題は「これからの教会と日本基督教団」でお願いしますとお伝えして、快諾を得ました。
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画像をクリックすると特別礼拝のページにジャンプします |
このテーマについては、ご著書『自立と共生の場としての教会』(新教出版社、2009年)の中にほぼ記していますと北村先生が教えてくださいました。古書店に注文し、一昨日届きました。
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北村慈郎著 『自立と共生の場としての教会』 (新教出版社、2009年) |
「今年も皆さんに暑中見舞いをお送りします」と言いながらまだ送れていないことを申し訳なく思っています。10月12日特別礼拝の案内をどうしても書きたかったので遅くなりました。立秋を過ぎましたので「残暑見舞い」になります。ご理解いただけますと幸いです。
北村先生の『自立と共生の場としての教会』(2009年)の内容については著者ご自身からお話を伺える運びになりましたので、私が先回りして取り上げるのはやめておきます。しかし、予習のためにヒントを出します。
第 1 章の冒頭に、北村先生が目指してこられた「教会のあり方」について 3 つのポイントが挙げられています(21~23頁)。穴埋め問題の答えは10月12日(日)に発表します。
Ⅰ 共に生きる場としての教会の担い手は(① )であること。 Ⅱ 牧師は本質的には(② )が、現実的には(③ )であること。 Ⅲ 教会員ひとりひとりが(④ )していく(⑤ )が大切であること。 |
a. 主イエスが食事された「家」(10節)はマタイの家。宴会に大勢招けるほど資産家だった。 b. 「徴税人」はギリシア語の知識が不可欠。「徴税人マタイ」はギリシア語使い。 c. 「マタイ」は「神からの賜物」を意味するヘブライ語「Mattatjah」または「Mattatjahoe」の略語Mattai、Matja、Matjah等に由来し、ユダヤ地方出身者であることを示している。 d. マタイ福音書の著者は、ヘブライ語、アラム語、律法、預言者、ユダヤの伝統に精通している。 |
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特別礼拝・講演会 講師 北村慈郎牧師 |
私たち足立梅田教会は、来たる10月12日(日)に「特別礼拝・講演会」を開催し、講師として当教会第2代牧師、北村慈郎牧師をお迎えいたします。
日時 2025年10月12日(日)午前10時半~特別礼拝、礼拝後~講演会
主題 「これからの教会と日本基督教団」
講師 北村慈郎牧師(足立梅田教会第2代牧師)
会場 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)
*入場無料、席上献金があります(金額自由)
連絡 adachiumedachurch@gmail.com(牧師が受信します)
北村慈郎牧師は1969年から1974年まで5年間、足立梅田教会を力強く牧会してくださいました。昨年9月8日(日)「足立梅田教会創立70周年記念礼拝」で説教と講演をしてくださいました。
北村慈郎先生のご著書:
『自立と共生の場としての教会』(新教出版社、2009年)
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北村慈郎著 『自立と共生の場としての教会』 (新教出版社、2009年) |
『食材としての説教――聖書と現実の往還から――』(新教出版社、2015年)
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北村慈郎著 『食材としての説教』 (新教出版社、2015年) |
どなたもぜひお集まりいただきたく、謹んでご案内申し上げます。
2025年8月5日
主催:日本基督教団足立梅田教会
後援:北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会
9月 7日(日)「教会の歩みはこれからも続く」教会創立記念礼拝
9月13日(土)教会創立記念日(創立72周年)
9月14日(日)「復活の体」
9月21日(日)「教会の一致」
9月28日(日)東京教区東支区講壇交換
足立梅田教会「ここにも確かにおられる主」堀川樹牧師(亀戸教会)
大島元村教会「仲間を赦さない家来のたとえ」関口康牧師(足立梅田教会)
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日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「平和のためにできること」
マタイによる福音書 8章 5~13節
関口 康
「そして、百人隊長に言われた。『帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。』ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」(13節)
説教題を「平和のためにできること」としたのは、毎年8月第一主日が日本基督教団の定める「平和聖日」だからです。今日をその日にすることを1962年の教団総会で決議しました。
そして、1967年には鈴木正久教団議長名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(戦責告白)を公表しました。その趣旨は次の通り。
①日本基督教団は、大日本帝国政府が戦争遂行の必要から諸宗教団体の統合と戦争への協力を国策として要請したことを契機に成立した。
②「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきでなく、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対して正しい判断をなすべきだった。
③しかし、我々は教団の名においてあの戦争を是認し、支持し、勝利のために祈り努めることを内外にむかって声明することによって、「見張り」の使命をないがしろにする罪を犯した。
④我々は心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、特にアジアの諸国とその教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞に心からのゆるしを請う。
この文章に基づいて「平和のためにできることは何か」の答えを探すとすれば、「見張りの使命を怠らないこと」です。「見張り」と言っても諜報活動ではありません。公開されている情報をよく見ることです。それだけでもかなりのことが分かります。
自衛隊の海外派遣は現時点ですでに行われていることです。憲法上問題ないと裁判所が判断しています。問題はその先です。
自衛隊を「日本防衛軍」、自衛官を「軍人」、陸上・海上・航空各自衛隊を「陸軍、海軍、空軍」、幕僚長を「参謀長」、護衛艦を「駆逐艦」等にするという名称変更案を外務省発行の外交専門誌『外交』16号(2012年)で公表したのは、私の中学の同級生です。2022年に再会して話す機会がありました。
いま私が申し上げたいのは「準備はすべて整っている」ということです。だからこそ、日本国の戦争への直接参加には、絶対に反対しなくてはなりません。
戦争は、必然でも運命でもなく、人間が意志をもって実行することです。戦争の全責任は人間にあります。しかし、ほとんどの人は巻き込まれただけです。戦争で利益を得る可能性があるのは、ごく少数の権力者だけです。ほとんどの人が犠牲になります。そのことを先の戦争の体験者がたはよくご存じのはずです。
どうしても私は、複数の学校(小中高)で聖書の授業をすることが許された、トータルで6年間の日々を思い起こします。授業の中で何度も言ったのは「日本が戦争に巻き込まれたら、戦地に行くのは君たちであって私ではない。『教え子を戦地に送らない』という言葉を教室の授業の中で言わなくてはならない状況にしてしまったことを申し訳なく思う」ということでした。
今日の聖書の箇所は、日本基督教団聖書日課の今日の箇所です。今年5月9日(金)信濃町教会での「東京教区東支区・北支区合同連合祈祷会」で私が奨励を担当したときに取り上げたのと同じ箇所です。奨励の内容は教会ブログで公開しました。もしよろしければ併せてお読みください。
これは、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムで、ローマ軍の「百人隊長」が自分の「僕」の病気を治してほしいと主イエスに懇願し、主イエスがその「僕」をおいやしになった物語です。
並行記事はマルコ以外の2つの福音書にあります(ルカ7章1~10節、ヨハネ4章43~54節)。比較すると違いが分かります。マタイとヨハネは百人隊長自身が主イエスのもとを訪ねたことを記していますが、ルカはそうではなく、百人隊長自身は主イエスを訪ねず、使いの者を送っています(ルカ7章3節、6節、10節)。
この物語の理解のポイントは、この「百人隊長」と「僕」をどうとらえるかです。「百人隊長」はローマ軍の職名ですが、ローマ人だったことを必ずしも意味しません。カファルナウムは北の国境に近く、外国からの流入者が多かったため警戒視されて軍隊が配置されました。この「百人隊長」はシリア人の傭兵だったのではないかと考えられています。
しかし、この人は確かにローマ軍の兵士でした。いち兵卒から登り詰めて「百人隊長」の地位を得た人であり、ルカによると「ユダヤ人のために会堂(シナゴーグ)を建ててくれた人」として尊敬されています(ルカ7章5節参照)。明らかに資産家です。
このように、地位も名誉も資産も体力もあり、ユダヤを支配する側のローマ軍にいたこの人が、ユダヤ人として生涯を送られた主イエスに助けを求めたこと自体が驚くべきです。
この物語を理解するもうひとつのポイントは「僕」です。マタイはこの人を、通常の「奴隷」を意味するドゥーロス(δοῦλος)ではなく、「自分の子どものように愛する僕」を意味するパイス(παῖς)と呼んでいます。
この「パイス」について、5月9日(金)連合祈祷会で司会を担当された尊敬する先輩牧師が教えてくださったことを聞いて、ひっくり返りました。
最近の解釈によると、この「パイス」は軍人にあてがわれた性的奴隷であると考えられていて、その点からこの箇所を読み直すと、当時の感覚では使い捨てとされていたパイスが病気になったことを悲しみ、彼の助けを求めた百人隊長のその願いに主イエスがお応えになったと理解できるということでした。
初めて耳にする解釈で驚きましたが、可能性は十分あるでしょう。戦争が生み出す闇です。
ところで、主イエスは百人隊長から「ひと言おっしゃってください」(8節)と求められて、どんな「ひと言」をおっしゃったでしょうか。マタイとヨハネで共通しているのは「帰りなさい」(マタイ8章13節、ヨハネ4章50節)だけです。つまり「帰りなさい」が「ひと言」です。
しかし、「どこ」に帰るのでしょうか。原文には「どこ」は明記されていません。近年の解釈によれば「家」です。1989年の英語聖書Revised English Bible(REB)と、1972年のオランダ語新共同訳聖書(Groot Nieuws Bijbel)が「家に帰りなさい」(Go home; Ga naar huis)です。
REBの訳はカッコいいです。〝Go home; as you have believed, so let it be.〟ビートルズです。
地元を離れて傭兵生活をしていた百人隊長にとって「家に帰りなさい」という言葉は二重の意味を持ったはずです。病気の僕(パイス)と住む家だけではなく、家族が住む地元の家が重なって見えたのではないでしょうか。「あなたを必要としている人のもとに帰りなさい」と言われた気がしたのではないでしょうか。
戦争は、身近な人、大切な人との絆を破壊します。人を人とせず、効率と生産性と利益の追求がすべてであるかのように教育し、不利益になるものを容赦なく叩き壊します。
「平和のためにできること」の最適解は「家に帰ること」(Go home)です。愛し合う「家」に、いやしがあります。
(2025年8月3日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)
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日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
旧約 |
イザヤ9章14節 イザヤ28章7節 エレミヤ6章13節 8章10節 エレミヤ23章11節 エゼキエル13章3節 |
「偽りを教える預言者」 「濃いぶどう酒を飲んでよろめき迷う預言者」 「利を貪り、人を欺く預言者」
「汚れた預言者」 「自分の霊の赴くまま歩む愚かな預言者」 |
新約 |
マタイ24章11、24節 使徒言行録13章6節 使徒言行録20章29節 ローマ16章17節 Ⅱテモテ3章5節 Ⅱペトロ2章1節 Ⅰヨハネ4章1節 黙示16章13節、19章20節、20章10節 |
「偽預言者」 「バルイエスという預言者」 「群れを荒らす残忍な狼ども」 「学んだ教えに反して不和やつまずきをもたらす人々」 「信心を装いながら信心の力を否定しようとする人々」 「異端を持ち込み贖い主を拒否する偽教師」 「偽預言者」 「偽預言者」 |
他 |
十二使徒の教訓(ディダケー)11章7~12節 |
下記参照 |
①滞在は1日、長くて2日であるべきなのに、3日滞在する(5節) ②パン以外は何も要求すべきでないのに、金銭を要求する(6節) ③食事を注文して食べる(9節) ④真理を人々に教えるが、自分は実行しない(10節) ⑤金銭あるいは他の何かを要求する(12節) |
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日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「狭い門から入りなさい」
マタイによる福音書 7章1~14節
関口 康
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者は多い」(13節)
今日も先週に引き続き「山上の説教」の一節です。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(1a節)
裁判制度を否定する言葉ではありません。マタイによる福音書において「裁く」(クリネイン κρίνειν)(クリナイ κρίναιの現在形不定詞)の意味は、「悪意をもって非難する、酷評する、批判する」です。
他人への非難を禁じる理由は「あなたがたも裁かれないようにするため」(1b節)です。「あなたがたは自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(2節)。互いに裁き合わないようにすることは、主イエスが教えてくださった新しい生き方です。
学校や会社や社会の中で厳しいことを言わなくてはならない場面があることは否定できません。しかし、費用対効果(コストパフォーマンス)のために、生産性のために、成績のために、効率と成果を求められ、結果が出ないと非難され、疲れてメンタルが壊れて生きるのがつらくなっている方々を多く見かけます。
人の心を壊して得る利益で、だれが得するのでしょうか。もっと人にやさしい社会を目指せないものでしょうか。
人が裁き合う姿の愚かさについて、主イエスは、独特のユーモアと皮肉をこめて次のようにおっしゃいました。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(4~5節)
互いに裁き合わないようにする件は、神と人間の出会いはどのようにして起こるかをどのように理解するかの問題にかかわります。
主イエスにとって「神との出会い」とは、人間や地上的事物とは無関係に空中に浮かんだスピリチュアルな存在のようなものとの接触ではなく、常に隣人との出会いにおいて起こることです。神との出会いは隣人との出会いにおいて起こります。あなたが隣人とどのように付き合うかが、神があなたとどう付き合うかと関係します。
主の祈りの第5の願いは「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(6章12節)です。私たちが隣人の罪(負い目)を赦すとき、神が私たちの罪(負い目)を赦してくださいます。
「神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」(6節)
この箇所は説明しづらいです。明らかな差別語・不快語が含まれているからです。しかし、語り手である主イエスの真意をお伝えしたいので取り上げます。
「犬」と「豚」は、西暦1世紀のパレスティナのユダヤ人の軽蔑の対象でした。ただし、飼い犬は大事にされました。軽蔑されたのは野犬です。豚は、汚れた動物とされていました。
問題は、「犬」と「豚」が特定の人々の比喩として持ち出されていることです。犬のような人。豚のような人。こういう言い方を私は我慢して聞いていられません。
しかも、この言葉が教会の歴史の中でどのように用いられてきたかを知る例として、西暦1世紀末から2世紀初頭までの間に書かれた『十二使徒の教訓(ディダケー)』(佐竹明訳、使徒教父文書、聖書の世界、別巻4、新約Ⅱ、講談社、1974年)に「聖餐式」との関係で引用されている箇所があります。
「主の名をもって洗礼を授けられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。主がこの点についても、『聖なるものを犬に与えるな』と述べておられるからである」(ディダケー9章5節、同上書、24頁)。
私たちはこういう言葉から目をそらすことはできません。教会は「洗礼を受けていない人」を「犬」呼ばわりしていました。ディダケーは正典(canon)としての旧新約聖書と同等ではありませんが、教会の重要な文書です。
しかし、重要なことをまだ言えていません。主イエスがそのような人たちに「神聖なるもの」や「真珠」を投げ与えてはならないと言われた意味です。
それは、強制してはいけない、ということです。自分にとってどれほど大切なものであっても、それを嫌がっている相手に押し付けてはいけない、ということです。
多くの言葉で相手を説き伏せるよりも、黙るほうがよい場合があります。伝わらない思いを無理に伝えようとしなくてもよい場合があります。
信じてもらいたい人に信じてもらえないとき、大切なことを伝えることは不可能だと思えば、他の人に任せればよいし、神に委ねればよいのです。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)
この三つの文は祈りが聞き届けられることについて語っています。
求める(ask)、探す(seek)、門をたたくこと(knock)の頭文字を集めると、ask(求める)になります。
特にノックは、祈りのイメージとして重要です。門を叩くことで門が開き、祈ることで与えられます。
「パンを欲しがる自分の子供に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(9~10節)
これは疑問文になっていて、答えが隠されています。こういうひどいことをする悪い親がいないことが前提になっています。現実の親子関係はもっと深刻ではないでしょうか。
しかし、この言葉は、たとえひどい親の元で育てられても、神はその人の真の親であることを教える言葉であると読むこともできます。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(12節)
これは黄金律(Golden Rule)と呼ばれます。類似している教えは、ギリシアにもローマにもユダヤにもありましたが、どれも否定形です。
「あなたが憎むことを誰にもしてはならない」
「隣人にして欲しくないことを隣人にもしてはならない」
「あなたの欲しないことを隣人にしてはならない」
否定形の教えならば、万国共通だれでも理解できる普遍的な真理になります。しかし、主イエスの教えのように肯定形で言うと、難しい教えになります。なぜでしょうか。
他者の状況に個人的に共感する必要性がより強調されるからです。
この個人的な共感こそ、主イエスが教えてくださった新しい人間関係の土台です。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者は多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」(13~14節)
2つの道のイメージは旧約聖書からあります。申命記11章26節以下、同30章15節以下、エレミヤ記21章8節。
モーセは「祝福の道か、呪いの道か」を民に問いました。エレミヤは「命の道か、死の道か」を民に問いました。中間はありません。どちらかを選ばなくてはなりません。
主イエスの「狭い門か、広い門か」の問いかけも趣旨は同じです。これは一般論ではありません。関係あるのは「わたしに従いなさい」という主イエスの呼びかけだけです。
わたしの道は、狭い門から入り、細い道を通るので、「通る者は少ない(少数者である)」と言われています。
広い道と広い門は、わざわざ選んで入ったり通ったりするものではなく、そこにあります。そこを通るために労苦も犠牲も不要ですし、「通って」いるのかどうか分かりません。
「道」や「門」と呼ぶ必要すらありません。それはどこにも通じていないし、過程(プロセス)も終点(ゴール)もないからです。
(2025年7月20日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)
8月3日(日)「平和のためにできること」
8月10日(日)「孤独な人々と生きる」
8月17日(日)「使徒派遣」
8月24日(日)「伝わらない思い」
8月31日(日)「安息の家」
*8月24日(日)9:00 教会学校(今年度2回目)※年4回で再開中