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2025年11月9日日曜日

自分を見つける

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「自分を見つける」

エフェソの信徒への手紙 4 章25~32節

関口 康

日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(16節)

今日の朗読箇所は、エフェソの信徒への手紙 4 章25節から32節までです。

この書簡の著者が使徒パウロかどうかについては、議論があります。原本は残っておらず、あるのは写本だけです。筆跡鑑定などはできません。思想や文体で判断するほかありません。

学問的に誠実に語ろうとする説教者がたは「使徒パウロは」とは言わず「エフェソ書の著者は」と言います。「エフェソ書の著者は」は早口言葉のようで舌が回りません。今申し上げたことをすべて踏まえたうえで、 1 章 1 節の記述に基づいて「使徒パウロは」と言わせていただきます。

今日の箇所を理解するうえで見落としてはならない点は、これらはすべて「教会」の内部の話であるということです。一般論ではなく、教会員同士の関係の問題です。「わたしたちは互いに体の一部なのです」(25節)は「キリストは教会の頭であり、教会はキリストの体である」(ローマ12章 5 節、コリント一12章12~27節、エフェソ 1 章23節、コロサイ 1 章18節)という教えなしには、決して理解できません。

しかし、教会内部のあり方は、内部だけにとどまらず、外へと広がっていきます。教会の中で身に着けた「新しい生き方」は、見せつけたり押し付けたりしなくても、身近な人々から順に感化を及ぼしていきます。

「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」(25節)

この教えはモーセの十戒の第九戒「隣人に関して偽証してはならない」(出エジプト記20章16節)の尊重を求めています。十戒の教えを尊重することは律法主義ではありません。信仰義認の教えと十戒の尊重は矛盾しません。

「真実」は「偽り」の対義語です。「真実を語る」の意味は「ありのままの事実を正直に語る」です。恥部を暴露し、ののしり、あざ笑い、追い詰め、切り捨てるためにそうするのではありません。それは教会のすることではありません。「多くの部分があっても一つの体」としての教会においては「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(コリント一12章20~22節)とパウロが書いているとおりです。

「受洗者は年にひとりでよいので、最後までひとりも脱落しないように祈っていく」(『足立梅田教会の歩み』1989年、14頁、50頁)と初代牧師・藤村靖一先生がお定めになった足立梅田教会の基本方針を受け継ぎ、互いの罪や弱さを赦し合う教会であることを貫いていけば持続可能な教会(Sustainable Development Church)になります。

今日最もお話ししたいのは26節です。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(26節)

この言葉を最初に読んだとき激しい衝撃を受けました。東京神学大学に入学したばかりの頃で、1980年代の後半です。当時は口語訳聖書でした。口語訳では「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない」でした。とんでもなく偉大なことが言われている気がして、それ以来、私の座右の銘になりました。

カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])の「エフェソ4・21~32による説教」という題の説教(1943年10月31日、バーゼル大聖堂)が日本語で読めることが分かりました(『カール・バルト説教選集』第10巻、蓮見和男訳、日本基督教団出版局、1993年、136~149頁)。

カール・バルト説教選集(日本基督教団出版局)

実際に読んでみたら、とても長い説教でしたが、カール・バルトは25節の説明をしているだけで、26節以下には触れていませんでした。がっかりしました。

ドイツ語の新約聖書註解Das Neue Testament Deutsch (NTD)(ダス・ノイエ・テスタメント・ドイッチュ(エヌテーデー))のエフェソ書註解(日本語版1979年)のハンス・コンツェルマン(Hans Conzelmann [1915-1989])の解説は素晴らしかったです。

下段の黒ラベルが新約聖書註解で「NTD」(ドイツ語なので「エヌテーデー」)
上段の赤ラベルが旧約聖書註解で「ATD」(アーテーデー)

コンツェルマンによると、この箇所( 4 章16節)の背景に、詩編 4 編 5 節「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ」があります。ここまでは他の註解書にも記されていました。しかし、この後のコンツェルマンの解説に、私はとても驚きました。

「『怒っても罪を犯すな』という表現は注目に値する。ふつうの説明ではこうである。人は常に怒りを抑えることができるとは限らない。怒りは正に人間的現象であり、その限りで怒ることは許される。しかしそのために罪を犯し、怒りをぶちまけることがあってはならない、と。 

けれども、このような意味での容認は、31節と27節とに照らして正しくないことが明らかである。27節は、悪魔の接近は避けられないのだから、せめてそれに引き込まれないように、という意味のものでは決してない。むしろ端的に、悪魔とぶつかったら、断然それと戦え、と言っているのである。 

その意味で26節もまた、怒ることを無条件に禁止するのである(マタイ五22がそうである)。(中略)怒ることそれ自体が罪である」(同上頁)。

「次の文(26節後半)も明らかに容認ではなくて戒めである。すなわち、日が暮れるまでは怒ってもよいというのではなく、怒りの中にとどまることが禁止されるのである(ヤコ一19、20参照)。 

(中略)人はどのようにして怒りを根絶できるかと問うであろう。その場合、人はキリストにある存在を仰がなければならないのである」(同上頁)。

註解書を調べてよかったです。私が予想した可能性をすべて否定されました。ビジネス雑誌などでよく見かける「アンガーマネジメント」の話をすべきだろうかと心理学の本を読んでみましたが、そういう話ではないことが分かりました。

どうやらポイントは「教会を大切にする思い」です。

大規模な教会のことは私には分かりません。「家族的な」規模の教会では、交わりを破壊しないために、決して言ってはならない言葉や、決して顔や態度に出してはならない感情があります。

教会は失敗が許される場所です。しかし、問題は失敗の仕方です。

何十年も続いて来た教会だろうと、ただ一度「牧師が教会員を怒鳴りつけた」だけで壊れるのが教会です。

しかし、他人をわざと怒らせようとする困った人がいないとは限りません。平気でうそをつく、約束を守る気がない、他人との関係を常に上下でとらえ、すきあらば他人を見下げる、さげすむ、からかう、一方的な中傷誹謗、言いがかり、セクシャルハラスメント等。

その場合は、怒った人の側だけ責められるのもどうかと思います。どうしたらいいでしょうか。

今日の説教題は「自分を見つめる」といったん決めて「め」を「け」にして「見つける」にしました。「見つめる」と自省の念ばかり湧くのが私たちではないでしょうか。自分を責めて、反省して、自分の罪を自覚して「怒り」が収まるなら良いのですが、収まりません。

「自分を見つめる」のは、特に私たちにとっては、かえって逆効果かもしれません。「私は人間であり、人間は罪人なので、怒りを抑えられないのは当然である。そのように神が人間を創造なさったのである」というような理屈で自己正当化しはじめると、始末に負えません。

「怒り」を別の罪に置き換えても結論は同じです。窃盗、強盗、詐欺、不倫。「神が人間をそのように創造したのだから、人間が罪を犯すのは当然である」と言い出しかねません。それこそが「悪魔にすきを与えること」(27節)です。その道を私たちが選ぶことはできません。

「自分を見つける」にしたのは、暴力によらずに悪を退ける意志をイエス・キリストから与えられている自分を「見つける」ほうが大事だと思ったからです。

強烈なパンチを食らうと目の前が真っ暗になり、自分を見失います。ボクシング選手がゴングが鳴ってコーナーに戻って最初にすることは、バケツの水をかぶって頭を冷やすことです。少しは周りが見えるようになるでしょう。燃える頭を早く冷やして、冷静になり、イエス・キリストがいつも共にいてくださる自分を取り戻すことが大事です。

そして「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(26節)という今日の御言葉を思い出して、夕陽を見つめながら、大晦日の夜にするように、カウントダウンしようではありませんか。日没が怒りのタイムリミットです。

カッカしているときはインターネットでのやりとりもやめて「沈黙すること」(詩編 4 編 5 節)が大事です。

アルコールもおそらく逆効果です。冷たい水かお湯を飲むほうが「沈黙」に向いています。

(2025年11月9日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年10月5日日曜日

愛の内に歩みなさい

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「愛の内に歩みなさい」

エフェソの信徒への手紙 5 章 1 ~ 5 節

関口 康

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」( 2 節)

先週は東京教区東支区の講壇交換日でした。当教会に亀戸教会の堀川樹牧師をお迎えしました。私は大島元村教会と波浮教会の合同礼拝で説教しました。私は昨年 6 月に伊豆大島に初めて行きましたが、日曜日ではありませんでした。教会の方々とお会いするのは、先週が初めてでした。



ジェット船で東京竹芝から大島岡田港へ(2025年 9 月27日)

加えて先週、と言っても昨日ですが、私にとっての「人生初」が 2 つありました。大島での説教を合わせると「 3 つ」。来月60歳の私にとって、 1 週間で「人生初 3 つ」は刺激的でした。

昨日の 1 つめの「人生初」は、カトリック教会の司祭(神父)の説教を初めて聞いたことです。カトリック松戸教会(千葉県松戸市)で毎月行われている「松戸朝祷会」に、私は松戸の改革派教会の牧師だった頃、出席していました。足立に来てから出席を再開しました。プロテスタントの牧師たちの奨励は聴きましたが、カトリックの司祭の奨励は聴いたことがありませんでした。しかし、ついに昨日、高瀬典之司祭の奨励を初めて聴きました。

カトリック松戸教会(千葉県松戸市松戸1126)

特に印象に残ったのは「10月 3 日」がアッシジのフランシスコ(フランチェスコ)(1182-1226)が亡くなった日で、昨日「10月 4 日」がカトリック教会の「聖フランシスコの日」だと教えていただいたことです。

そして高瀬司祭は、フランシスコの名前と伝統的に結び付けられて来た「平和の祈り」の中の「絶望のあるところに希望を」という祈りと、ローマの信徒への手紙 5 章 5 節「希望はわたしたちを欺くことがありません」を結び付けて希望に満ちたメッセージを語ってくださいました。

平和の祈り


司会者 平和の祈りを致しましょう!

司会者 主よ!わたしをあなたの平和の道具としてください。


一同 憎しみのあるところに、愛を

   争いのあるところに、許しを

   分裂のあるところに、一致を

   疑いのあるところに、信仰を

   誤りのあるところに、真理を

   絶望のあるところに、希望を

   悲しみのあるところに、喜びを

   闇には、光をもたらす者としてください。

 

司会者 主よ!慰められるよりも、慰めることを

 

一同 理解されるよりも、理解することを

   愛されるよりも、愛することを、わたしが求めますように。

   わたしたちは与えることによって、受け、

   許すことによって、赦され、

   自分を捨て死ぬことによって、

   永遠の命を頂くことができるからです。アーメン

(朝祷会賛美選集『希望Ⅱ』より転載)

昨日のもう 1 つの「人生初」は私の母校・岡山朝日高校の京浜地区同窓会主催の講演会に初めて出席したことです。私の高校の先輩の、東京大学名誉教授で地震予知総合研究振興会副主席主任研究員の榎原雅治先生の講演をうかがいました。テーマは「過去の災害を知る――諸学の連携で解明する歴史地震」でした。

講演「過去の災害を知る」榎原正治教授
(2025年10月 4 日、岡山朝日高校京浜同窓会)

特に印象に残ったのは、「何年何月何日にどこでどんな地震が起きる」というレベルの地震予知は不可能だが、地震には周期性があるので、過去の地震の記録を歴史学的見地から調べる必要があるということ。

しかし、公式記録として残っているのは豊臣以後のものであり、それ以前の資料は、幕府が滅亡したため後代に受け継がれていないこと。かろうじて残っているのは、貴族の日記や詩歌、民間の何らかの記録、そして地層。まさか漢文や百人一首の勉強が地震予知につながるとは、考えたことがなかったので、とても驚きました。

百人一首と地震予知の関係は何か

その中で、「明応南海地震」(16世紀)の発生年代については「寺社造営件数」によって証明したということを、榎原教授が教えてくださいました。なぜ「寺社」なのかといえば、民間の記録は何も残っていないからとのこと。「寺社」すなわち「宗教」が歴史の記録係としての役割を果たせたようだと分かり、私はとても励まされました。

今日の聖書の箇所に「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者になりなさい」(1節)と記されています。パウロの他の手紙の中に「神に」ではなく「わたしに倣う者になりなさい」と記されている箇所が複数あります。それはコリントの信徒への手紙一 4 章16節、同11章 1 節、フィリピの信徒への手紙 3 章17節、テサロニケの信徒への手紙 1 章 6 節、同 2 章14節です。

「わたしに倣う者になりなさい」と言われると反発を感じる方がおられるのではないでしょうか。しかし、パウロには躊躇がありません。これは理解できない話ではありません。

たとえば、学校の教師が生徒の前で模範的でない言動を繰り返したら必ず批判されるでしょう。それと同じです。説教者が「私はキリストに従いませんが、皆さんは従ってください」と言うと「そんな話には説得力がありません」と必ず返ってくるでしょう。

先ほど挙げた第一コリント11章 1 節「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」の論理構造が重要です。それが今日の「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」( 2 節)につながります。

「キリストに倣う」とは、今ここにいる私たちに十字架にかけられて死ぬことが求められているわけではありません。そうではなく、「キリストに倣う」とは、イエス・キリストが十字架の上で示してくださった「神の愛の自己犠牲的なあり方」に倣うこと、学ぶこと、真似ることです。

この点を私が強調するのは、私が主イエスの「山上の説教」や「たとえ話」について説教すると、決まって「イエスさまが出てこない」と言い出す人たちが現れるからです。鼻先 3 センチの距離にイエスさまがおられるのに。「イエスさまが出てこない」などとどうして言われなくてはならないのでしょうか。

その批判の意味は、「関口の説教には主イエスの十字架と復活による赦しの教えがない」ということでしょう。実際にそう言われました。

しかし、主イエスは「山上の説教」や「たとえ話」の中で、厳しい戒めや裁きをお語りになっています。それらはすべて、私たちに従うことを求めています。主イエスの十字架と復活が、主イエスの厳しい戒めを無効化するわけではありません。主イエスは、復活前も、復活後も、同じひとりの方です。

パウロが今日の箇所の 3 節以下に記しているのは、2 節の「愛によって歩みなさい」という教えの具体的な事例です。

「あなたがたの間では、聖なる者たちにふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい」( 3 ~ 4 節)。

私は説教の中で「性」に関する事柄を取り上げるのがとても苦手です。完全に逃げ腰であることをお許しください。言葉の辞書的な意味を述べることで勘弁してください。

「みだらなことやいろいろの汚れたこと」とは、売春・買春のことです。ユダヤ教の律法学者の解釈によれば、律法で必ずしも明確に禁じられていない売春・買春は、ユダヤ教では許容されていました。パウロはそのような解釈に真っ向から反対しています。

「貪欲なこと」とは、金銭を愛することです。パウロは貪欲(金銭への愛)をモーセの十戒の第十戒「隣人の家を欲してはならない」への違反だけでなく、第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」への違反(偶像礼拝)とも見なしています( 5 節)。

「卑わいな言葉」(モロロギア)は古代ギリシアの喜劇と関係あります。そういう話が好きな人々が笑って楽しむ言葉です。「愚かな話」(エウトラペリア)は「ほのめかし」や「におわせ」です。セクシャル・ハラスメントです。

当時のギリシア人にとっては「卑わいな言葉」(モロロギア)も「愚かな話」(エウトラペリア)も、楽しい仲間づくりのための手段でした。しかし、パウロにとっては、どちらも厳しく非難すべき対象でした。これは私の感覚と完全に合致します。

すぐにお分かりいただけることです。もし仮に私が説教の中で「卑わいな言葉」(モロロギア)や「愚かな話」(エウトラペリア)を用いて受けを狙うようなことをしたらどうなるかを考えてみていただくと分かります。とんでもない結果になることが目に見えています。

「礼拝感覚」が身についてくると、調子に乗って面白おかしく卑猥な話をするようなことはできなくなります。

このように考えると、今日の箇所の「愛」の意味は、ほとんど「デリカシー」のことであることが分かってきます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)という主イエスの呼びかけに応えて集まる先は教会です。教会に集まる人々は、みんな疲れています。重荷を負っています。休みたくて教会に来ています。

極端な考えの人が総理になることが決まり、政治の絶望感がいよいよ深まりました。地震災害の不安は尽きません。

不安定で不安な時代の中で、教会こそが、想像力を働かせて、相手の状況をおもんぱかり、互いに労わり合うことが求められています。

(2025年10月 5 日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2024年6月23日日曜日

広く大きな救い

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「広く大きな救い」

エフェソの信徒への手紙2章11~22節

関口 康

「〔キリストは〕二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(14-15節)

先週日曜日の午後に東武線とつくばエクスプレスを乗り継いで浅草教会に行きました。私以外に足立梅田教会から3名の方。教会に落語家を招いて寄席をするという。わたしたちはいちばん前に座りました。

もうひとかた、足立梅田教会の元会員の方がお見えになりました。その5人で寄席の帰りに浅草で作戦会議。楽しく過ごしました。

落語家さんは、牧師館に戻ってネットで調べたら、1953年6月、群馬の前橋生まれ、71歳。私の父も前橋生まれなので親近感がわきました。私の血の半分は群馬産です。

落語そのものは「面白くないことはない」ぐらいでしたが、「第2部」だという余興で始めたのが「懐かしのスーパーヒーローに早変わり」という演目。何を始めるのかと思えば、重ね着した服を一枚ずつ脱いでいく。最初が星飛雄馬、次がエイトマン、最後が月光仮面。

落語の内容は、あとで調べたら「鮫講釈(さめこうしゃく)」という演題の古典落語。

伊勢神宮(現在の三重県)に全国から人が集まってお参りする。熱田(現在の名古屋)から伊勢まで行く渡し船が、桑名の沖で多くの鮫に囲まれて動かなくなった。

船の中にひとりの講釈師がいた。その講釈師が「今生の名残に一席やらせてほしい」と涙ながらに訴えた。最期だからいろんな講話をいっぺんにしたいと「五目講釈」をすると言い出す。赤穂浪士の大石内蔵助と、大岡越前と、牛若丸(源義経)と、武蔵坊弁慶が同時に出てくる、筋書きがめちゃくちゃな話を、扇子を船べり(落語では膝)にバタバタ叩きつけて話す。

すると鮫が逃げて行った。海の中で鮫同士が会話する。「なぜ講釈師ごときが怖くて逃げたのか」と尋ねる鮫がいた。「講釈師だったのか。船べりをあんまりバタバタ叩くので、かまぼこ屋かと思った」で終わる。

鮫はかまぼこの原料。かまぼこ屋が怖い。若い人たちは分からないオチかもしれません。

先週の報告のつもりでお話ししています。とにかく思ったのは、わたしたちも浅草教会さんを見習って、落語家を教会にお招きするようなことを本格的にしなくてはならないかもしれないなということです。

落語家さんがたも特にコロナ後たいへんなのだそうで。かなり自虐的に「週休5日制です」とか、「かつては北は北海道、南は沖縄で仕事をさせていただいたものですが、今では、北は北千住、南は南千住です」とおっしゃっていました。「仕事ください」と携帯電話の番号までみんなに教えてくださいました。そういう必死なところも見習わなくてはと思いました。

落語家を教会に招いて寄席を開く浅草教会さんに見習う。当然です。でも、それだけではない。プライドを捨てて「仕事ください」と言い出し、星飛雄馬にもエイトマンにも月光仮面にも変身する落語家さんにも見習う。そうでなくてはいけないなと思わされました。

今日の聖書のお話もしっかりしますので、ご安心ください。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり」(11節)と記されています。

聖書はユダヤ人でない人のことを「異邦人」と呼びます。ユダヤ人かどうかの外見上のしるしは、割礼を受けているかどうかでした。割礼とは、要するに包茎手術です。そんなことを真顔で求められるのがユダヤ教だというわけです。

これもおかしな話で、女性に割礼は求められません。女性である時点でユダヤ人男性からは異邦人を見る目で見られるかもしれません。逆に、割礼を受ければ元異邦人でもユダヤ人になれる。その場合のユダヤ人はユダヤ教団の信徒を意味します。

なので、割礼を受けていない男性、割礼を受けるも受けないも関係ない女性は、神から遠いとみなされました。「しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(13節)の中で「遠い」とか「近い」とか言われているのは、神との関係です。

「体の一部を切り取る手術を受けた者は神に近づくことができるが、その手術を受けない者は神から遠いままである」というような言い方をすれば、ずいぶんとおかしな話だと多くの現代人が気づくでしょう。「指を詰める」という話と大差ありません。

私はユダヤ教徒を差別するつもりはありません。ヒトラーがしたことです。しかし、彼らの教えに問題が無いとは思いません。もし問題が無いのであれば、わたしたちも割礼を受けないかぎり神に近づくことはできません。女性は割礼を受けることができないわけですが。

エフェソの信徒への手紙を使徒パウロの真筆であることを認めない聖書学者が増えています。私が東京神学大学の神学生だった頃の新約聖書の教授の竹森眞佐一教授が講義の中でその問題を取り上げておっしゃった言葉を忘れられません。

「エペソ書の思想は、他のパウロ書簡と似ているということを否定する学者はいないんですよ。似てるんでしょ?だったら『パウロが書いた』でいいんですよ」とおっしゃいました。私もその線で「パウロが書いた」と言います。

パウロは異邦人伝道を生涯の仕事にした人です。そのパウロが今日の箇所に書いているのは、「我々は神に近い」とか「あの人たちは神から遠い」とか言って、結局のところ、人を宗教的に見下げるようなことをする人間の愚かさをご存じの神が、愛する独り子イエス・キリストを世に遣わしてくださり、イエスさまは十字架の上で血を流して死んでくださった、そのおかげで教会内で対立していた人々を、神が和解させたという話です。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(14~15節)。

これはユダヤ教団とキリスト教会の対立の話ではなく、キリスト教会内部の話です。元ユダヤ教徒で割礼を受けた後キリスト教の洗礼を受けた人たちと、元異教徒で割礼を受けたことがないままでキリスト教の洗礼を受けた人たちとで、神からの距離に差があるという議論が教会内部で起こったので、パウロはそんな愚かな話はないと、口を酸っぱくして言い続けたのです。

しかし、今の日本の教会で、割礼を受けるべきかどうかという議論が起こることはまず無いし、少なくとも私は寡聞にして知りません。なので、もう少し別の文脈で考えないと今日の聖書箇所の意味が私たちには理解できません。

キリスト教も戒律ずくめの形で教え込まれる可能性があります。学校を悪く言うつもりはありません。しかし、学校式の教え方にはどうしても命令の要素が加わります。遅刻してはいけない、おしゃべりしてはいけない、居眠りしてはいけない、無断欠席はいけない。ルールを守れないと減点。罰則主義。

熱心な信徒が自分の子どもに信仰を伝えるときも、命令的になりがちです。私も子どもたちにはずいぶん命令しました。自分は命令されるのが誰よりも嫌いなのに。

子どもたちは反発します。おとなだって反発します。命令を正当化する宗教があるなら、その宗教の神に敵意を抱く。反逆する。必然的な帰結です。しかし、その敵意を罰するのではなく、神の御子の肉体で受け止め、抱きしめ、敵意を無効化して愛するためのキリストの十字架なのだとパウロは言います。何とも言えない気持ちにさせられます。

神の救いは広くて大きいのです。教会が「伝道しましょう、多くの人に教会に来て欲しいです」と言いながらやたら高い壁を作って、これを乗り越えることができた人だけ仲間に入れてあげると言っているかのようなのは矛盾です。

「こうでなければキリスト者でない、こうでなければ教会でない」と、決めごとが多くないほうがいいです。なるべく自由でありたい。

壁をぶっ壊そうではありませんか。牧師が月光仮面になってバイクで駆け回るぐらいで、ちょうどいいのです。

(2024年6月23日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)