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2025年10月12日日曜日

世にある教会 北村慈郎牧師

北村慈郎牧師(2025年10月12日 足立梅田教会)

説教「世にある教会」

出エジプト記19章 1 ~ 6 節、ヨハネによる福音書17章 6 ~19節

北村慈郎牧師

「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」(ヨハネ17章18節、口語訳)

今日は、礼拝後に「これからの教会と日本基督教団」という題でお話しすることになっていますので、この礼拝では、ヨハネによる福音書17章のイエスの「大祭司の祈り」と言われているところから、「教会とは何か」について、聖書の語りかけを聞きたいと思います。

ヨハネ福音書17章の「大祭司の祈り」と言われていますイエスの祈りは、大きく三つの部分に分けることができます。 1 ~  5 節(イエスの栄光のための祈り)、 6 ~19節(後に残される弟子たちのための祈り)、20~26節(全教会のため、教会一致のめための祈り)です。
 
今日の17章 6 ~19節は、大祭司イエスが、後に残される弟子たち(教会)のために祈られた執り成しの祈りであります。ここには、イエスとその弟子たちとの間の深い生命のつながりが言い表され、また残されて世にある弟子たち(教会)の生命がどこから来るのか、その使命がどこにあるのかが明らかに示されています。

このところは、教会が真にキリストの教会として、雄々しく主にあって立ち、生きることができるようにというイエスの祈りが、弟子たちのために心をこめてなされていて、大きな慰めと励ましを受ける箇所であります。
 
まず11節を読んでみますと、「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(新共同訳)と、言われています。
 
この11節によって、なぜイエスが弟子たちのために祈られるのかが、示されていると思います。イエスは、ここで言っておられるように、今地上での働きを終えて、父なる神の御許に帰ろうとしておられます。しかし、彼にこれまで付き従って来た弟子たちは、彼のあとについて行くことができません。彼らは依然として、この地上に残らなければなりません。イエスは、そのことが弟子たちにとってはどういうことであるか、どういうことを意味するかということを、よく御存知です。
 
彼は15章19節で、やはり弟子たちについて「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(新共同訳)。と言われました。これが、弟子たちがこれから生き続けなければならないこの世であります。弟子たちを憎む、そういうこの世に、イエスは弟子たちを残して行かなければなりません。それゆえにイエスは、彼らのために、父なる神に向かって、「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい」と祈られるのです。
 
イエスは先ず「聖なる父よ」と呼びかけられます。すなわち、この世に打ち勝つ力と浄らかさを持ち給う父なる神に、彼は呼びかけ給います。そして、その神に対して、「わたしに賜わった御名によって彼らを守ってください」と祈られます。

しかし、ここに言われている「御名によって守る」とは、どういうことでしょうか。私たちの場合には、名前というものは、しばしば一種の符丁に過ぎません。一人の人間を他の人間から区別するための符丁のようなものに過ぎません。

しかし、聖書の人たちにとっては、「神の御名」というのは、決して単なる符丁ではありませんでした。それは、いわば神の本質そのものでありました。その一例は、17章 6 節ですが、そこでイエスが、「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました」(新共同訳)と言っておられるのも、イエスが父なる神の本質を顕し給うたということ――神の御意志を顕し給うたということに他なりません。

11節でも、彼は、そのような神の本質である神の御名が、弟子たちを、この世において守って下さるようにと祈られます。これからの弟子たちのこの世での歩みにおいて、どうしても予想しなければならない世の憎しみや迫害、艱難や試練の中で、神の御名が彼らを守って下さるようにと、イエスは祈られるのです。
                        
このイエスの祈りには、イエスの弟子たち、すなわちキリスト者はどのような者なのかということが明確に示されています。それは、イエスの弟子たち(キリスト者)は世にありながら、しかし世のものではない、ということです。このイエスの祈りの中でそのことが繰り返し示されています( 6 ,  8 , 14, 16節)。
 
 6 節ではイエスの弟子たちは「世から選び出して(神が)わたしに与えてくださった人々」と言われていますから、イエスの弟子たちは世にありながら、しかし世のものではなく、イエス・キリストのものであるというのです。「わたしが世に属していないように、彼ら(弟子たち)も世に属していないのです」という言葉が、ここで二度くり返し語られています(14, 16節)。
 
イエスの弟子たち(キリスト者)は、イエスを信じ、イエスが宣教された神に国の福音を信じる者として、この世のことが全てであるかのように、目に見えるものに惑わされ、この世の動きに一喜一憂するような生活をすべきではありません。人からの誉れではなく、イエスとイエスの父なる神からの誉れをめざして生きることに徹するべきなのです。
 
そこで大祭司イエスの弟子たちのための祈りには、弟子たちが、世にありながら、しかし世のものとしてではなく、キリストのものとして生きることに徹するように、という期待と祈りがなされているのであります。
 
イエスはまた、15節でこのように祈っています。――「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(新共同訳)と。

イエスが祈られたことは、残された弟子たちが、この世を捨て去ることではなく、しかしまた、この世に対して憎しみをもって憎しみ返すことでもなく、この世にあって弟子たちが、悪しき者から守られ、悪より救い出されることでありました。

そのことは、イエスが弟子たちに祈りの範例として示された主の祈りの第 6 の祈りの内容でもあります。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」(マタイ 6 章13節)。

すなわち、この世を離れることではないが、しかしまたこの世に埋没し、この世にならって、キリストのものであることを見失うことのないように、味を失った塩(マタイ 5 章13節)となることのないように、という二重の期待が、この祈りの中にはこめられているのであります。
 
この世は私たちにとってしばしば、「死の陰の谷」(詩編23編 4 節)のように苦しく、生き難い世であります。「悪しき世」の力は大きく、喜びよりもむしろ苦しみの方が多いかも知れません。しかしイエスは弟子たちに、あくまでこの罪と悪の世にふみとどまって、そこでキリストのものとして生き抜くようにと祈られるのです。
 
リュティはこのように述べています。「キリストはその教団のために祈りたもうが、しかしそれは、彼らがこの世に留まり、そこで耐え抜くことである。彼らが悪い状況の中にあって、自ら悪くならぬこと、不正な環境の中にあって、自ら不正な者とならぬこと、偽りにみちた仕事の中にあって、自ら偽り者とならぬこと、誘惑に満ちた社会の中にあって眠らぬことである」(リュティ『我は初めなり、終わりなり』井上良雄訳、122~123頁)。
 
そのためにイエスはこのようにも祈ります。――「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります(17節、口語訳)――。

聖別とは、一面においてこの世より選び別たれることではありますが、しかし聖別の祈りは同時に、より積極的な面を含んでいます。すなわち、教会のこの世における使命のための派遣の祈りとなるのです。

「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」(18節、口語訳)。聖別は派遣となり、つまり聖別は使命のための祈りとなるのであります。
 
私たちは何によって聖別されるのでしょうか。それは、真理によって、イエス・キリストの言葉によってであります。自分で自分を聖別することはできません。イエス・キリストの言葉を受け、それを真理として信じ、受け入れ、それに従うことにおいて、私たちは聖別されるのです。

聖別とは、きよめ別って、この罪の世から離れさせることではなく、むしろイエス・キリストの言葉をもってこの世の中へと一歩ふみ出すように働く力であります。

聖別は、世への派遣のための、使命のための選びです。イエス・キリストから罪の赦しを受ける時、私たちは同時に、イエス・キリストから世へとつかわされるための言葉を聞き、そのための祈りを受けるのです。
 
これらのイエスの祈りは、もちろん弟子たちのための祈りですが、しかし、この祈りは、私たちのための祈りとしても、聞くことができます。

イエスは私たちのためにも、このように祈り給うということを、知らなくてはならないと思います。イエスは、私たちのためにも、私たちが世にあって守られて歩み続けることができるようにと、祈り給います。

しかしそれだけではありません。イエスは単にそのような、いわば消極的なことだけでなく、もっと積極的なことについても、私たちのために祈り給うということを、知らなければならないと思います。すなわち、私たちが世と区別された者として――聖別された者として、世の前に示されるということ、そのためにも、イエスは祈り給います。
 
イエスの弟子たちは、大祭司イエスの聖別の祈りを受け、み言葉を持ち運ぶ使者として、この世に派遣されます。そこにキリスト者として生きる意味があります。この世より取り去られることでなく、この世にあって悪の力から守られて、「善をもって悪に勝つ」(ローマ21章21節)ことができるように祈られているのです。
 
キリストの派遣(使命)に生きるとは、どういうことでしょうか。それは有名になることではなく、大きくなることでもありません。勲章をもらったり、高い地位についたりすること、それらはすべてこの世からのものです。キリスト者は、小さくとも、この世を超えたもっと高いものを目ざし、高きにいます方を指し示す指となる、それが私たちの使命であり、願いでもあります(森野善右衛門)。
 
弟子たちのために祈られたイエスが、私たちのためにも祈って下さっていることを覚えたいと思います。そして「世にありながら、しかし世のものではない」キリストのものとして、私たちもイエスの言葉の真実を証言していくことができますように。 
 
主が私たち一人ひとりをそのように導いてくださいますように!

祈ります。

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。

あなたは私たち全てにイエスを遣わし、イエスに倣って生きるようにと招いて下さっています。どうかそのあなたの招きに従って生きることができますように、私たち一人一人をお導き下さい。

そしてこの世にありながら、この世のものではなく、イエス・キリストのものとしてこの世を生き抜くことができますようにお導き下さい。

この世にあって様々な苦しみの中にあります方々を支え導いてくださいますように。また、高ぶる人間の高慢を打ち砕いてください。あなたの平和と和解によって世界を包んでください。

この祈りをイエスさまのお名前によってお捧げいたします。 アーメン

(2025年10月12日 日本基督教団足立梅田教会 特別礼拝)

2025年7月15日火曜日

イエスとピラト

日本基督教団富士見町教会(東京都千代田区富士見町2-10-1)

釈義「イエスとピラト」

ヨハネによる福音書19章1~7節

日本基督教団東京教区東支区教師会での発題

関口 康

(1節)この直前までピラトはイエスについて「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(Ἐγὼ οὐδεμίαν εὑρίσκω ἐν αὐτῷ αἰτίαν. 18章38節b)と言っていますが、イエスを捕らえて兵士たちに鞭で打たせました。

それはイエスを釈放するためのピラトの戦略でした。鞭打ち刑は十字架刑の代案(alternative)でした。十字架刑に付随するもの(accompaniment)ではありませんでした(G. R. Beasley-Murray, John, WBC, 1987, p.334)。

しかし、この鞭打ちが致命的なダメージを及ぼした可能性があります。

ローマの鞭打ち刑には3種類の拷問具がありました。①自由民(freemen)に対しては数本を束にした木製の笞(sticks)、②軍隊内では棍棒(rods)、③奴隷に対しては多くの釘(spikes)を先端に付けた皮の鞭(scourges)、または多くの骨片や鉛玉を鎖状につないだ鞭(whips)が使われました。イエスの鞭打ち刑は③でした。

ローマ法はユダヤ法と異なり、鞭打ち回数の最高限度がありませんでした。鞭打ち刑だけで(内臓や骨が飛び出して)死亡する例がしばしばありました(ブリンツラー『イエスの裁判』大貫隆、善野碩之助訳、新教出版社、1988年、332~333頁参照)。

鞭打ちの苦しみが、イエスが処刑場まで十字架を担ぐことができず、十字架刑後すぐに亡くなった理由であると主張する米国医師会雑誌(JAMA)255号(1986年)の記事があるそうです(Beasley-Murray, ibid., p. 336)。

(2~3節)「兵士たち」はローマ軍の異邦人です。ユダヤ人と違い、イエスは憎しみの対象ではなかったはずです。その彼らがしたのが「茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来て、『ユダヤ人の王、万歳』と言って平手で打つ」ことでした。

これは「悪ふざけ」「ごっこ遊び」「ジョーク」「パロディ」「パントマイム」であろうと複数の註解者が記しています。動機は不明ですが、考えうる可能性は軍隊生活のうさ晴らしです。

彼らはイエスをローマ皇帝に模した姿にしました。「茨の冠」は月桂冠のパロディでしょう。容易に入手できたナツメヤシ(palm)の大きなトゲで作られたと考えられています(Beasley-Murray, ibid.)。

「紫の服」も皇帝の正装のパロディでしょう。マタイ27章28節は「赤い外套」、マルコ15章20節は「紫の服」、ルカ23章11節は「派手な衣」です。元々は赤い一般軍人のマントが(血や泥で?)紫へと変色したものをイエスに着せたのではないでしょうか。

イエスをこの姿にしたうえでローマ式敬礼をし、平手で打ったのですから、彼らの恨みの真の対象はローマ皇帝だったと言えないでしょうか。

(4節)「ピラトはまた出て来て」は、イエスが侮辱されている間、ピラトがユダヤ人の前から身を隠していた可能性を示唆しています。芝居かもしれません。再び出て来て、「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」と言いました。

(5~7節)ブルトマンによると、「ピラトの目的はイエスの存在(Person)をユダヤ人に滑稽で無害なもの(lächerlich und harmlos) に見せることで彼らに告発を取り下げさせることであり、そのためにイエスが王の戯画(Karrikatur)として現れ、ピラトが『それがこの人だ!この哀れな姿を見よ!』(Ἰδοὺ ὁ ἄνθρωπος; ecce homo; Das ist der Mensch! Da seht die Jammergestalt!)と紹介しなくてはなりませんでした。

この逆説(Paradoxie)が、福音書記者の心の中で壮大な絵となり、『言は肉となった』〔1章14節〕が究極の結末において可視化されました」('Das ὁ λόγος σὰρξ ἐγένετο ist in seiner extremsten Konsequenz sichtbar geworden'. R. Bultmann, Das Evangelium des Johannes, 1941, 1962 (17. Aufl.), S.510)。

(2025年7月15日、日本基督教団東京教区東支区教師会、日本基督教団富士見町教会)

2025年6月27日金曜日

ユダにパンを渡す

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「ユダにパンを渡す」

ヨハネによる福音書13章21~3

日本基督教団東京教区東支区壮年委員会教会訪問礼拝

関口 康

「イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた」(26節)

今夜の御言葉は、日本基督教団聖書日課『日毎の糧』の今日の箇所です。主イエスが十字架につけられる前の夜、最後の晩餐でイスカリオテのユダにパンをお渡しになった場面です。

主イエスはパンを浸して取り、ユダにお与えになりました(26節)。パンを「何」に浸したのでしょうか。

マタイ26章23節とマルコ14章20節によると、主イエスはパンを「鉢」(τρυβλίον トルブリオン。英語bowl)に浸しました。しかし、知りたいのは鉢の中身です。可能性が2つあることが分かりました。

(1)第一の可能性

第一は、「一緒に鉢に手を浸す」(Ὁ ἐμβάψας μετ’ ἐμοῦ τὴν χεῖρα ἐν τῷ τρυβλίῳ)という表現は「食事を共にすること」以上の意味を持たない当時の慣用句だったという可能性です(ウォルター・バウアー『新約聖書辞典』の立場)。

高知の「皿鉢(さわち)料理」を思い出します。または「同じ釜の飯を食う」「鍋をつつく」など。食事会をコロナでやめたという人や会社が多いかもしれません。教会も同じです。みんなで分かち合う、協力するという大事な意味があったはず。鍋奉行がいたり。裏切りとはそのような関係性を破壊することを意味する、というメッセージになるでしょう。

(2)第二の可能性

第二は、主イエスはパンを「(☆   )」に浸したという可能性です(H. L. シュトラック、P. ビラベック共著『タルムードとミドラッシュに基づく新約聖書註解』全4巻(1922~1928年)の立場)。

①青野太潮『初期キリスト教思想の軌跡』(新教出版社、2013年、63~64頁参照)によると、主イエスがお生まれになったのがヘロデ大王の没年の紀元前(BCE)4年と同じか紀元前5年。十字架刑はほぼ間違いなく紀元(CE)30年4月7日。これで正しければ、「最後の晩餐」の日付は「西暦30年4月6日」。

②全福音書が教えているのは「最後の晩餐」はユダヤ教の「過越祭」だったということです。ただし、ひとつの解説(J.T.Nielsen, Het Evangelie naar Mattheüs, III, PNT, 1974)によれば、その場合の「過越祭」は広い意味です。 
 
③マタイ26章17節とマルコ14章12節に「除酵祭の第一日」に主イエスが弟子たちに過越祭の場所探しを命じるなど準備を始めたことが記されています。しかし厳密に言えば、その日から始まる1週のうち、「過越祭」は(太陰暦の)ニサン(現行の西暦(グレゴリオ暦)の3月から4月)の14日から15日の夜に祝われ、その直後のニサン15日から21日までが「除酵祭」です。「除酵祭の第一日」には祭りの準備は完了していなければなりませんでしたが、未完了だったということは「初日」ではなく「前日」の意味だろうと考えられます。

④西暦1世紀のユダヤ教が狭義の「過越祭」と「除酵祭」を合わせて「過越祭」と呼んだので、マタイもマルコも両者を区別しません。過越祭は、エジプトでの奴隷状態からの解放の祝いであり、七週祭(ペンテコステ)と仮庵祭と共に、ユダヤ教3大巡礼祭の一つでした。

⑤過越の食事は日没後に始まり、夜遅くまで続きました。それは必ずエルサレムの城壁内で行われなければなりませんでした。当時、エルサレムはイスラエル全部族の共有財産だったため、巡礼者たちは過越を祝うために、誰の家でも訪れる権利がありました。彼らは無料で宿泊場所を与えられ、もし空きがあれば過越を祝うための部屋を自由に利用できました。

⑥過越の食事は夕方に行われます。元々は立って食べましたが(出エジプト記12章11節)、横になって食べます。

⑦「最後の晩餐」が「聖餐式」の原型です。私たちの関心になりうるのは、聖餐式でどんなパンを食べるのかです。普通のパンなのか、無酵母パンなのか。「最後の晩餐」で用いられたのは無酵母のパンでした。主イエスはこのときの過越祭の食事で当時のパレスチナのユダヤ人と同じ行動をとっています。しかしマタイは普通のパンを意味する「アルトス」という語を用いています。無酵母パン(マッツァー)は「アズモス」という別の言葉があります。

⑧過越の食事はコースメニューになっています。ユダヤ法(ハラハー)によれば、メインディッシュは「パン、サラダ、(☆   )、子羊」です。マタイ26章23節は主イエスがパンを「浸した」(ἐμβάψας エムバパス)と過去形で記し、マルコ14章12節は「浸している」(ἐμβαπτόμενος エムバプトメノス)と現在進行形で記しています。食事中は、各人は自分の鉢を目の前に置かなければなりませんでしたが、最初のコースを食べている間、鉢が共用状態であったときのことが描かれていると考えられます。

⑨(☆   )は細かく刻んだ果物とナッツを混ぜ合わせた甘くて濃い色の食べ物です。レシピはたくさんあります。色と質感はイスラエル人がエジプトで奴隷状態にあった際に使用したモルタル、または日干しレンガを作るのに使われた泥を思い起こすものです。名称は「粘土」を意味するヘブライ語「 חֶרֶס へレス」に由来します。

第二の可能性の場合は「鍋をつついた」とか「同じ釜の飯を食った」というよりも宗教的な意味が増すでしょう。主イエスへの裏切りは、人間同士の信頼関係を破壊するだけではなく、神との約束を反故にし、解放を望んでせっかく脱出したあの不自由な関係性への逆戻りを意味する、というメッセージになるでしょう。

主イエスにとってユダの裏切りは、やはり残念なことでした。だからこそ主イエスは「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(マタイ26章24節)と厳しいことをおっしゃいました。

「どうぞご自由に」など言えるはずがないではありませんか。夫または妻、親または子、友人に裏切られたとき、「どうぞご自由に」と言えますか。人によるかもしれません。しかし、関係が近ければ近いほど、裏切りがもたらす傷は大きいです。

それでも主イエスは、ユダの心も他の弟子たちの心もすべてをご理解なさったうえで、ご自身の意志で、父なる神の御心に従い、十字架への道を進まれました。

主イエスはユダを最後まで愛しておられました。ユダの後任者を選んだのは他の弟子たちです。主イエスはユダを除名していません。ユダの代わりはいません。取り換えがきかない、かけがえのない弟子です。

主イエスは、ユダのためにも、十字架にかかって死んでくださいました。

教会は、よみがえられた主イエスの愛がつくり出した共同体です。主イエスは一度愛した相手を見捨てません。私たちがどれほど心変わりしても、主イエスは私たちを愛し続けておられます。

私たちの教会の聖餐式のパンには、「(☆   )」どころか、マーガリンもジャムも付いていません。しかし、聖餐を受けるたびに、神の愛の約束のしるしであることを思い起こすことが求められています。

(2025年6月27日 東京教区東支区壮年委員会教会訪問礼拝、日本基督教団足立梅田教会)

2025年5月18日日曜日

三位一体の神

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「三位一体の神」

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教③

ヨハネによる福音書1章14~18節

関口 康

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)

「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」(日本基督教団信仰告白

日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」第3回目のテーマは「三位一体の神」です。

なぜ教会は「さんいいったい」ではなく「さんみいったい」と読むのでしょうか。その理由は、音便(おんびん)です。音便とは「発音上の便宜(べんぎ)」です。言いやすさ、読みやすさ。平安時代から「三位」は「さんみ」と読まれていたそうです。

「三位一体」は、英語でTrinity(トリニティ)。ドイツ語Trinität(トリニテート)。オランダ語Triniteit(トリニテイト)。ラテン語trinitas(トリニタス)。古典ギリシア語τριάς(トリアス)。

「三角形」(triangle)など「トリ」(tri)が「3」です。3つのものの一体性(unity)を意味するtri-unity(トリ・ユニティ)からのtrinity(トリニティ)です。

その意味は、1つの神性(one divine nature)の内部に3つの位格(three persons)があるということです。御父(おんちち)なる神、御子(みこ)イエス・キリスト、聖霊(せいれい)なる神を「三位一体の神」とするのが「正統教義」です。この教義を受け入れない人たちは「異端」とみなされてきました。それが歴史の事実です。

ご参考までにご紹介したいのは、私が岡山県立岡山朝日高等学校のたしか2年生のときに授業を受けた「世界史」の教科書、『詳説世界史(再訂版)』(山川出版社、1979(S54)年版)です。公立学校ですので聖書の授業などはありえないし、キリスト教的な要素が全くない学校でしたが、そういう学校の世界史の教科書に「三位一体論」についてかなり詳しく書かれていました。

文部省検定済教科書『詳説 世界史(再訂版)』(山川出版社、1979年版)

少し長いですが、以下引用します。

「313年、当時〔ローマ〕帝国西半部を支配していたコンスタンティヌス帝はミラノでキリスト教を公認した。さらに324年かれが帝国を統一して独裁者となると、キリスト教は全帝国の公認宗教となった。ところが当時教会には神学上の見解の対立があったから、帝は325年ニケーアに公会議(宗教会議)をひらき、のちにアタナシウス(Athanasius [295?-373])が確立した三位一体説を正統教義とし、キリストの神性を否定するアリウス派(Arius)を異端とした。その後ユリアヌス帝(Jurianus [位361-363])は古典文化と異教の復興を企て、キリスト教徒をおさえたが成功せず、392年、テオドシウス帝はついにキリスト教を国教とし、他の宗教を厳禁するにいたった」(45-46頁)

最近どうなっているかは分かりませんが、私が高校生だった45年前の日本の公立高校の生徒たちが「三位一体」について学んだのはこのような内容でした。そのイメージは「ローマ帝国の独裁者が全領土の住民に強制した宗教」です。こういう知識のある人たちは、教会の前を通るたびに首を傾(かし)げているでしょう。もう少し続きを読みます。

「ニケーアの公会議で敗れたアリウス派は北方のゲルマン人のあいだにひろまったが、その後も公会議はしばしばひらかれ、さまざまの学説が異端とされた。そのなかで5世紀にキリストの神性を十分に認めないとの理由で異端とされたネストリウス派(Nestorius)は、ペルシアをへて中国まで伝わり、唐代に景教と呼ばれた」(46頁)

歴史の説明をするだけで終わりそうなので、ここまでにします。45年前の公立高校で教えられていたキリスト教の「正統派」に対するもうひとつのイメージは、「イエス・キリストが神であることを認めない人々を異端呼ばわりして追い出す宗教」です。高校生たちはこういうのを丸暗記して共通一次試験を受けることになっていましたので必死で覚えました。

そして、ここで私が申し上げることができるのは、私たち日本基督教団は「三位一体の神」への信仰告白において「アリウス派」(ホモイウースオス派、ὁμοιούσιος)ではなく「アタナシウス派」(ホモウーシオス派、ὁμοούσιος)のほうの「正統教義」を継承していることを明らかにしている、ということです。これが歴史の事実です。

しかし、誤解なきように。「三位一体の神」はアタナシウスの発明ではありません。「三位一体」という用語は聖書の中にはありません。だからといって、聖書の中に神が三位一体であることを信じる根拠はないとは言えません。三位一体の教理の核心は「イエス・キリストは神である」という信仰告白です。それは新約聖書の核心部分です。今日の朗読箇所にもその信仰が告白されています。後の神学者たちが、聖書の教えを要約して、神を「三位一体」と呼んだにすぎません。

ヨハネによる福音書の「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1章1節)の「言(ことば)」(ロゴス)は、イエス・キリストです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(1章14節)の「肉」(サルクス)は、人間を意味します。この箇所で告白されている信仰は「イエス・キリストは人間となった神である」ということです。

「人間となった神」は御子イエス・キリストであり、その方は御父と同質(ホモウーシオス)であると信じることが三位一体の教理の核心部分です。そのような信仰を、私たちは日本基督教団信仰告白において継承しています。

「神となった人間」つまり「神格化された人間」はたくさんいます。決して珍しくありません。私は先週、かなり意識的に集中して戦争映画を観ました。ひとり暮らしの暇つぶしで観たというのとは違う気持ちでした。すべてインターネットで配信されているものです。

先週観たのは「ルバング島の奇跡 陸軍中野学校」(主演:千葉真一、1974年)、「二百三高地」(主演:仲代達也、1981年)、「大日本帝国」(主演:丹波哲郎、1982年)、「ミッドウェイ」(出演:豊川悦司他、2019年)。戦後の復興期の政界を描いた「小説吉田学校」(主演:森繁久彌、1983年)も観ました。

戦争映画は嫌いです。殺し合いの映像がリアルですし、どの映画も長く、観るだけで疲れます。しかし、今日の説教の準備のために観なければならない気がしました。私は1965年生まれです。戦後の焼け跡を見たことがなく、「天皇が神とされた」日本を体験的に全く知りません。当時の人々の証言を何度聞いても、本を読んでも、写真を見ても、想像力が追い付かず、リアルな映像が浮かんできません。そのため、映画に助けてもらう必要があると思いました。

登場人物の中に日本人のクリスチャンが何人か描かれていることが分かりました。「二百三高地」(1981年)の小賀武志(あおい輝彦さん)や松尾佐知(夏目雅子さん)、「大日本帝国」(1982年)の江上孝(篠田三郎さん)や柏木京子(こちらも夏目雅子さん)。その人々が静かに抵抗しながら結局戦争に巻き込まれていく姿が描かれていることに興味を惹かれました。

イエス・キリストを「人間となった神」であると信じることは、その真逆の存在である「神格化された人間」に対する根本的な抵抗を意味します。イエス・キリストの時代のローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスもその後の皇帝たちも神格化され、皇帝礼拝の対象になりました。

「三位一体」という正統教義は「ローマ皇帝によって全領土の住民に強制された宗教」であるという面が無いとは言えない一方で、「神になりたがるすべての権力者に抵抗する宗教」である面もあります。

(2025年5月18日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

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2024年12月22日日曜日

言は肉となった

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「言は肉となった」

ヨハネによる福音書1章1~18節

関口 康

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)

ご承知のとおり、新約聖書にはイエス・キリストの生涯を描く「福音書」と呼ばれる書物が4巻あります。前から順にマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。

これらのうちで、主イエスのご降誕を描いているのがマルコ以外の3巻です。ヨハネによる福音書にもしっかり記されています。「どこに?」と思われるでしょうか。今日の朗読箇所です。

その描き方において他の福音書と違いがありすぎることは明白です。だいたい出てくる感想は「難しい」「哲学的」「抽象的」「意味不明」。そう言われれば、おっしゃるとおりと認めざるを得ないところがあります。

たとえば、今日の箇所に基づいてキリスト聖誕劇(ページェント)の台本を書けるでしょうか。至難の業であることは確実です。面白くない(=自分と関係ない)し、不適切であると感じる人は多いでしょう。

マタイやルカに描かれている物語にも、未確認生命体というべき「天使」が登場したり、結婚前のマリアが妊娠したりと、謎めいた内容が記されています。しかし、演劇として成立する豊かな内容があります。

一昨日(12月20日)私は、当教会と関係が深い保育園で子どもさんがたが演じるページェントを初めて拝見しました。みんなかわいかったです。

ヨセフとマリア、ベツレヘムの羊飼いと羊、宿屋、東方の3博士(カスパール、メルキオール、バルタザールという名前がついた伝説がある)、ローマ兵、天使と星が、飼い葉桶の主イエスを囲んで大団円。このような「人間らしい」聖誕劇なら、わたしたち自身の誕生と無関係ではない描き方ができるでしょう。

しかし、ヨハネによる福音書に基づいてどんな劇ができるでしょうか。登場人物が「ヨハネ」(6節)以外に出て来ません。このヨハネは主イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネです。主イエスがお生まれになったとき、このヨハネも小さな子どもです。

ヨハネによる福音書のキリスト降誕物語の主人公は「神」です。人間の視点からではなく、神の視点から描かれています。人間の理解の限度を超えるものがあります。しかし、そのほうがいいでしょう。人間のプライドが傷つきます。だからこそ、人間の心の砦(とりで)が破られ、回心の機会が訪れるでしょう。

わたしたちが理解できるかどうかはともかく、ヨハネによる福音書がとにかく言っているのは、「神」(テオス)の「言(ことば)」(ロゴス)が「肉」(サルクス)となったのが主イエスである、ということです。

そして、その「肉となった神」であるイエス・キリストとの出会いは、父なる「神」との出会いに等しいということであり、さらに主イエスご自身が「神」であるということです。

もし主イエスが「神」ではないならば、キリスト者の祈りの言葉である「主イエス・キリストによって祈ります」という表現は成立しません。主イエスは、神でもなければ人間でもない、両方から責め立てられる、中間管理職のような存在ではありません。イエス・キリストは「神の右に座しておられる」という信仰表現もあるほど「神と等しい方」であり、つまり「神」です。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)と記されています。こういう正直な文章が私は好きです。神を見たことがある人は人類史上ひとりもいません。「神を見た」と思っている人は神以外の何かを見た可能性が高いです。私も「見た」ことがないです。だからこそ「信じて」います。

このような信仰を軽蔑する人がいます。今日のクリスマス礼拝の案内をインターネットで見てくださった方の中にいました。その方自身は仏教の特定の宗派に所属していることを教えてくださいました。「神が人類を造ったというなら、その神を連れて来てみろ。できないだろう。それができないキリスト教は邪教である」の一点張りでした。

「私も神を見たことがありません。見たことがないからこそ信じております」と返事したら、「そんな愚かな宗教はやめてしまえ」と返って来ました。そこで私はやりとりを終了しました。ご自身が信じる道をお進みになればよろしい。それ以上、私から申し上げることはありません。

私の話はどうでもいいです。教会の立場については、みんなで考える必要があります。ヨハネによる福音書の成立年代は、西暦1世紀の終わり頃(90年代前後)です。それが意味することは、紀元30年ごろ十字架にかけられて地上の生涯を終えられる前の主イエスと直接的な交流を持ったことがある人々が残っていた可能性がきわめて低い時期に書かれた、ということです。

なぜ成立年代の話をするかといえば、「父のふところにいる独り子である神」(18節)としての主イエスを「見た」(同上節)と書かれていることの意味は何かを考える必要があると申し上げたいからです。この「見る」に物理的な肉眼で目視したこと以上の意味があるのは明白です。

そうしますと、ヨハネによる福音書が書かれた時代(紀元1世紀末)の人々と今のわたしたちは立場が同じであることが分かります。わたしたちが主イエスを「見る」方法は聖書を学ぶこと以外にありません。さらに、演劇があると助かります。舞台でもテレビドラマでも映画でも大丈夫です。登場人物の言葉や動作の意味を理解でき、共感できます。苦しみや痛みを共有できます。心が通います。

最後に怖い話をしていいですか。とても怖い話です。

「初めに言(ことば)があった」(1節)の「初め」は、天地創造以前、すなわち世界も人間も誕生する前を指しています。神以外の何も存在していない、「無」(Nothing)と神が向き合っておられる状態です。「時間」(クロノス)も神が創造したものなので、その点を厳密にとらえれば「時間以前」であると言うべきです。

さて問題です。「初め」に「言(ことば)」があり、「言(ことば)」が「神」であったという場合、その「言(ことば)」は、だれに向かって発せられたものでしょうか。神には話し相手がまだいないはずなのに。

この問題の答えは聖書に記されていません。しかし、可能性は2つです。

第1の可能性は、神はひたすら沈黙されていた、ということです。

第2の可能性は、神はずっと独り言を言い続けておられた、ということです。

私は前者を選びます。神は天地創造の前は、ひたすら沈黙しておられました。

しかし、神は沈黙を破られました。神は「言(ことば)」をもって「無」(Nothing)から「有」(Being)を、そして「すべて」(Everything)を呼び起こされました。神が「光あれ」と言われ、光が創造されました(創世記1章3節)。

そして神は、ご自身が創造された世界と人間を愛してくださいました。神は「愛」をわたしたち人間に告白してくださるために「肉」をお摂りになり、人間としてお生まれになりました。

生きる意味も理由も見失いがちなわたしたちに神が「わたしはあなたを愛している」と告白してくださり、「あなたは愛されるために生まれた」と教えてくださるために、イエス・キリストはお生まれになりました。

(2024年12月22日 日本基督教団足立梅田教会 クリスマス礼拝)

2024年10月6日日曜日

信じるものを求めている方々へ

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「信じるものを求めている方々へ」

ヨハネによる福音書11章28~44節

関口 康

「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(14節)

今日の箇所に登場するのは主イエス。マルタ、マリア、ラザロの3人姉弟。そして数名のユダヤ人です。一連の物語が11章冒頭から始まっています。

3人姉弟のうちマルタとマリアはルカ福音書10章に登場する姉妹と同じです。ルカ福音書のその箇所にラザロは登場しませんが、必ず全員の名前を書かなければならないことはないでしょう。

3人の年齢順は分かりません。マルタが「マリアの姉」なのは明白です。「兄弟ラザロ」は2人の姉の「弟」とみなされることが多いですが、確証はありません。2人の妹の「兄」である可能性が無いとは言えません。

しかし、全員成人している同年配の肉親同士の「男1人、女2人」で共同生活を営む家族は意外と珍しく、町の中で目立っていた様子がうかがえます。

ルカ福音書10章のほうを先にお話しします。主イエスがマルタとマリアの家までわざわざ来てくださいました。姉マルタはおもてなしをしなくてはと忙しく立ち回りました。妹マリアはお客さまの前に座り込み、じっと話を聴いていました。

マルタは激怒して主イエスに抗議しました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ10章40節)。

主イエスはおっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(同10章41~42節)。

厳しい言葉です。私はおふたりとお話ししに来たのです、とおっしゃっているのです。私がいつ「もてなしてほしい」とあなたに頼みましたか。おもてなしはコミュニケーションを円滑にする手段であっても目的ではありません。肝心なことを忘れていませんか、です。

同じ姉妹が今日の箇所に登場します。このときもイエスさまがマルタとマリアの家に来られています。しかし、ルカ福音書の場面と状況が大きく違います。イエスさまがこの家に到着されたとき、ラザロは亡くなっていました。葬儀も終わり、墓に埋葬されて、4日経っていました。遺体から臭いもすると、マルタが言っています(39節)。

そのことを主イエスがご存じなくて、この家に到着して初めて知って驚かれたという話ではありません。主イエスはすべてご存じでした。それどころか、11章の最初から読むと分かりますが、意図的に到着を遅らせました。

遅刻の理由が14節に記されています。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(14節)。

「あなたがたが信じるようになるためである」を、古い英語聖書(KJV(1611)、RSV(1952)、NIV(1978)など)はso that you may believeと訳しています。より新しい英語聖書(REB(1989)など)はfor it will lead you to believe。直訳すれば「それがあなたがたを信じることへと導くだろうから」。

主イエスが到着されたとき、多くのユダヤ人がマルタとマリアを慰めていました(19節)。マルタは主イエスが到着したと聞いて迎えに行きましたが、マリアは家の中に座っていました(20節)。2人の態度はそれぞれルカ福音書10章の場面と似ていますが、内容は大きく違います。

マルタはとにかく体を動かして主イエスのために働く「行為の人」です。しかし、ルカ福音書のときと正反対なのはマリアです。座っているのは同じですが、ルカ福音書のマリアは主イエスの話を聞く人でした。しかし、今日の箇所のマリアは、主イエスから顔を背けて座り込んでいる人です。

マルタもマルタで、イエスさまのもとに駆けつけはしましたが、おもてなしをするためではありませんでした。また抗議です。激しい抗議です。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。こんな大事な時になぜ遅刻したのか。わたしたちを愛しているとおっしゃる言葉のすべてはウソか。帰ってくれとは言わないが反省してほしい、です。

そのあと主イエスと押し問答が始まります。マルタは教えの正しさという面で主イエスの言葉に同意することはやぶさかでないと返答したようには読めますが、元通りの信頼関係を回復できた様子はありません。

それから主イエスは、マリアを呼んでほしいとマルタに願われました。そのことをマルタがマリアに伝えたら、マリアが「すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った」(29節)というこの描写は、胸を打たれます。

わたしたちは主イエスにとって不要だった、多くの弟子の中のワンオブゼムだった、それなのになぜ「愛している」というのかと、何もかも信じられなくなってしまったマリアに、主イエスが「会いたい」と自分を呼んでくださった。そのことが分かって「すぐに」立ち上がれたのです。

イエスさまは「まだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた」(30節)も、感動的です。2人に会うまでは一歩も動かないと、イエスさまが決心しておられたかのようです。

マリアはイエスさまのところに来ました。そしてマルタと全く同じことを言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。そしてマリアは泣き、一緒にいたユダヤ人たちも泣いた。

そのときです。主イエスが「涙を流された」(35節)のは。

主イエスがなぜ泣かれたかは記されていませんが、想像ぐらいできます。理由として考えられるのは、マルタもマリアもイエスさまに同じことを言った、その内容です。

「もしここにいてくださいましたなら」?

わたしがいつ、あなたがたと一緒にいなかったと言うのか。この場所、この空間に、四六時中、目に見える距離にいれば「共にいてくれている」とか「愛してくれている」と思ってもらえるが、少しでも離れたら「もういない」とか「愛していない」ということになるのか。そんなことありえないだろう。なぜ私の愛を疑うか、ということに憤慨された「涙」です。

ラザロだってそうだ。「死にました」?「墓に葬りました」?

だからラザロは「もういない」のか?「もう愛さなくていい」のか?きれいさっぱり忘れるのか?あなたがたはなぜそんなふうに考えることができるのか。私があなたがたのことをどれほど愛しているかをどうしたら伝えられるのだろうか、という葛藤の中で流された「涙」です。

19世紀デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの『死に至る病』(1849年)は、ヨハネ福音書11章のラザロについての解釈から書き始められています。キルケゴールによると、キリスト教的な意味では「死」でさえも「死に至る病」ではありません。「死に至る病」とは「絶望」であると言っています。

主イエスはラザロの墓に行き、大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫びました。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた」(41節)と記されています。主イエスは、人々に「ほどいてやって、行かせなさい」とおっしゃいました。

ラザロは布でぐるぐる巻きにされたままで墓から出てきましたので、本当に生きているかどうかをまだ確認できません。いずれにせよ、ラザロの「蘇生」は、主イエス・キリストに起こった出来事と同じ意味での「復活」ではありません。主イエスの「復活」の前ぶれですが、「蘇生」自体はわたしたちの信仰の対象ではありません。

この箇所が教えていることは、「信じる」とはどういうことか、です。この「信じる」は、「主イエス・キリストが、いつも共にいてくださり、愛してくださっていることを信じる」です。

今日の説教題「信じるものを求めている方々へ」に興味を持ってくださった方々に、「主イエスの愛の強さと深さを信じてください」とお伝えしたいです。「絶望」という「死に至る病」から逃れる道です。

(2024年10月6日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)

2024年9月8日日曜日

世を愛する神の愛 北村慈郎牧師

北村慈郎牧師(2024年9月8日 日本基督教団足立梅田教会)

説教「世を愛する神の愛」

ヨハネによる福音書3章16~21節

北村慈郎牧師(当教会第2代牧師)          

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)

今日は足立梅田教会創立70周年記念礼拝の説教を頼まれまして、私はここに立っています。

私は現在82歳なので、足立梅田教会で私が説教するのはおそらくこれが最後ではないかと思います。そこで今日は、私がこれが聖書の使信(メッセージ)の神髄ではないかと思わされていることを、この説教でみなさんにお話しさせてもらいたいと思います。

先ほど司会者に読んでいただいたヨハネによる福音書3章16節は、神の愛を語っている新約聖書の中でも最も有名な言葉の一つです。

このヨハネ福音書3章16節は、古くから「小福音」と呼ばれてきました。この3章16節一節の言葉の中に、イエスさまがもたらされた喜ばしき音ずれである「福音」が見事に言い表されているという意味で、この言葉を「小福音」と呼んで来たのです。

ここに語られています「世を愛する神の愛」は、ヨハネ福音書とヨハネの手紙全体を貫いている根本的なテーマの一つですが、そのことがこの箇所ほど明確に出ているところは他にはありません。

このヨハネによる福音書3章16節は、その前に記されていますイエスとニコデモとの対話(3章1~15節)を受けて記されています。

イエスとニコデモとの対話で中心になる言葉は、3節のイエスの言葉です。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新しく生まれなければ神の国を見ることはできない』」という言葉です。

その後、ニコデモはイエスに「『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか』」(4節)と頓珍漢な質問をします。すると、ニコデモにイエスは答えて、このようにおっしゃいます。

「『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれた者は霊である。「あなたがたは新しく生まれなければならない」とあなたがたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである』」(5~8節)。

このニコデモとイエスの対話を受けて、ヨハネによる福音書の記者は16節で、田川建三訳で読みますと、「何故なら神はそれほどに世を愛して下さったので、一人子なる御子を与え給うたのだ。彼を信じる者がみな滅びることなく、永遠の生命を持つためである」と語られているのです。

16節に続く17節では「世」(コスモス)という言葉が3回も出てきます。これも田川訳で読みますが、「というのも、神が御子を世に遣わしたのは、世を裁くためではなく、世が彼によって救われるためである」。

ここに「世が彼(イエス)によって救われるためである」と言われています。ヨハネ福音書の「世」は、神に反するものを意味する場合と、単に「現実に存在しているこの世界」というだけの意味に用いることも多いと言われています。そしてこの3章16節、17節の「世」は「現実に存在しているこの世界」を意味していると言えます。

「現実に存在しているこの世界」、現在の世界の現実を皆さんはどう思っているでしょうか。

今年の7月、8月は日本では大変暑い日が続きました。7月、8月の気温としては今年が最高を記録したと言われます。気候温暖化による気候危機が叫ばれるようになってだいぶ経ちますが、CO2削減も進まず、このままですと海の水位が上がって水没する国や都市が出るに違いありません。神が人類にそれを守るべく与えて下さった地球環境を、人類は守るどころか、自らの欲求の充足を求めるあまり破壊してしまっています。

また世界の国々は、20世紀に二つの世界大戦を経験しながら、21世紀になっても戦争はなくならず、この数年はロシアによるウクライナへの軍事侵攻とイスラエルによるガザへの軍事攻撃をはじめ、世界の各地で軍事衝突が起きています。

日本の国も、かつてアジアへの侵略戦争と太平洋戦争によって、アジアの国々をはじめ諸外国の約2000万人の人々の命を奪い、その戦争と戦災によって約300万人の日本人の命を失った戦争犯罪を犯しました。

戦後、その反省に立って、日本の国は二度と再び戦争はしないとの決意を日本国憲法第9条に込めたはずにもかかわらず、台湾有事を理由に、現在の日本政府はアメリカと一体となって日米軍事同盟を強化し、防衛費予算を倍増して軍備増強を進めています。

また、新自由主義的な資本主義が覇権主義的な力を発揮し、国家を越えて資本が世界を支配しています。そのためにグローバルサウスの人々は今も貧困によって苦しんでいます。グローバルサウスの人々だけでなく先進国と言われる国々でも経済格差が広がり、生活困窮者が増えています。様々な差別もあり、一人一人の人間の尊厳が踏みにじられています。

これが現在の世界の現実の一面です。そして私たちはこの現実の世界をその一員として日々生きているわけです。しかもこの世界の現実は命に溢れているというよりは、滅びと死に向かって動いているように思われます。

ヨハネによる福音書が記す「世」も、現代の世界の現実と変わらないと思われます。「神の愛」はそのような「世」を、その独り子を与えるほどに神は愛されたと言うのです。そして、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言われているのです。これが、ヨハネによる福音書が語っている「世を愛する神の愛」です。

愛とは、愛する対象のために最も価値あるものを惜しまずに与える行為です。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(Ⅰヨハネ3章16節)とヨハネの手紙一の著者が書いている通りです。

愛についての解説やことばの説明ではなく、イエスの生涯そのものが、愛を定義しているのです。なくてもよいものをあたえるのは、愛ではありません。残り物や余分なものを捨てるのは、慈善であっても本当の愛からは遠いことです。自分にとって最も価値あるもの、捨て難いものを、相手のためにあえて捨てるところに愛があります。

愛とは、文字通り身を切ることです。奇跡とは、病人をいやしたり、人間の願望を何でもなかえて上げたりすることではなく、身を切るほどまでに、相手のために自分をさし出すことであり、そのような愛がイエスにおいて示されたということが、もっとも大きな奇跡なのだ、とヨハネは私たちにむかって語り、証ししているのではないでしょうか。

では、「神は御子イエスを世に遣わされることによって、御子イエスによって世が救われる」と言われていますが、それはどのようにしてなのでしょうか。

神から遣わされた御子イエスは「すべての人を照らすまことの光」(1章9節)と、ヨハネ福音書の記者は語っています。この光は、人間の過去と現在のすべてを明るみに出すのです。このような光がこの世に来たということは、私たちにとっては、今や出会いと決断の時である、ということを意味しています。

この光である御子イエスを信じないということは、神の恵みの光に対して、心を閉ざして拒否することです。ヨハネにとっては、裁きは信じないことの結果もたらされることではなく、信じないということがすでに裁きなのです(18節)。

裁きは将来にあるのではなく、神の御子、すべての人を照らすまことの光に対して心を閉ざして受け入れないという現在の姿そのものの中にあるのです。この光である御子イエスを信じることの中にすでに救いがあるのであり、したがって「信じる者はさばかれない」(18節)と言われているのです。

光にうつし出された人間の姿は、すべて例外なく闇の中にあります。そこには、救われる者と滅びる者との二分法はありません。すべての人間は、闇を愛し、滅びに向かって走っています。そして、光が強ければ強いほど、闇も深くなって行きます。

「信じる」とは、闇そのものでしかない自分の姿をうつし出されて、光であるキリストに向かってその生き方の方向を転換することであり、この決断の中に救いがあるのだと、ヨハネはここで言っているのです。

先ほどイエスとニコデモの対話の記事の中で、「風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言われていました。信じるということは、霊によって新しく生まれることなのです。洗礼(バプテスマ)がそのことを象徴的に意味しています。光であるキリストに向かってその生き方の方向を転換することなのです。

20節、21節で、「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」と言われています。「真理を行なっている者は光に来る」(21節)のです。

「すべての人を照らすまことの光」(1章9節)である御子イエスを父なる神がこの世に派遣してくださったことによって、その御子イエスから新しい人類の歴史が始まるのです。その御子イエスによる新しい人類の歴史とは、愛である神の御心が支配する神の国の歴史です。

ものすごい悪が存在していると同時に、まことの光に向かって自分自身を転換し、キリストにあって生きている互いに愛し合う人たちが多く存在しているということもまた事実なのです。闇が深くなればなるほど、光の明るさはよりいっそうの輝きを増すのです。

闇が深まるほどに、まことの光としてのイエスの到来は、その喜ばしさを増すのです。救いと滅び、光と闇とを、固定的、平面的に二分するのではなく、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5章20節)とパウロが言っているようにです。

この世を愛する神の愛は、御子イエスを光としてこの世に遣わしてくださり、聖霊の息吹を受けて、その光である御子イエスを信じ、闇の中に生きていた己を方向転換して、光に向かって歩むイエスの兄弟姉妹団である教会をこの世に誕生させてくださったのです。そのことによって神はこの世を救おうとしておられるのです。

ヨハネによる福音書13章34節、35節で、イエスは弟子たちにこのように語っています。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」と。

教会はイエスを主と信じる者たちの群れです。イエスの兄弟姉妹団です。御子イエスによってこの世を救おうとしておられる神の愛を証言する群れです。光である御子イエスを信じて、方向転換して、悔改め(メタノイア)て、互いに愛し合うことによって生きる群れです。

本田哲郎さんは、御自身の聖書翻訳で、信仰を「信じて歩みを起こす」に、「愛」は「大切」、「愛する」は「大切にする」と訳しています。「互いに愛し合う」は「互いに大切にし合う」です。人間の尊厳を互いに大切にし合うということです。「イエスを信じる」ということは、イエスが人間の尊厳を大切にされたように、私たちも互いの尊厳を大切にし合って、イエスを信じて歩みを起こすということなのです。

聖書の教えやキリスト教の教義を学ぶことも、礼拝に出席することも大切ですが、それらはイエスを信じて歩みを起こすために必要なものであって、それが自己目的化されるのはおかしいと思います。

私たちは、「世を愛する神の愛」の確かさを信じて、神の御心が支配する神の国の民の一員とし召されて、イエスの兄弟姉妹団である教会に連なっていることを覚えたいと思います。その教会は、御子イエスの福音を信じて、喜びと希望を持ってこの問題に満ちた世に対峙して生きる者たちの群れなのです。

「世を愛する神の愛」は御子イエスを通して世にその愛を示されました。イエスが十字架にかかり、死んで葬られ、復活して、昇天した後は、聖霊の導きによってイエスの弟子集団である教会を通して、神は世を愛されているのではないでしょうか。

今日は足立梅田教会の皆さんとそのことを確認したいと思いました。 

お祈りいたします。

神さま、今日は足立梅田教会の皆さんと礼拝を共にすることができ、感謝いたします。

神さま、70年の歴史をこの地にあって刻んできているこの足立梅田教会が、イエスを主と信じる群れとして、この地にあってイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくことができますようにお導きください。

新しく牧師として赴任された関口先生と教会の皆さんの上にあなたの祝福が豊かにありますように!

この一言の祈りを、イエスさまのお名前を通してお捧げします。  アーメン。

(2024年9月8日 日本基督教団足立梅田教会 創立70周年記念礼拝)

2024年5月5日日曜日

勇気を出しなさい

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「勇気を出しなさい」

ヨハネによる福音書16章25~33節

関口 康

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」

5月になりました。この教会に来て2か月もちました。あとどれぐらいおらせていただけるでしょうか。毎日懸命に働かせていただいています。

9月8日に足立梅田教会の創立70周年記念礼拝を行います。講師として、当教会の第2代牧師である北村慈郎先生をお迎えします。しかし私は面識がありません。勉強させていただこうと、1989年3月に出版された『足立梅田教会の歩み』(非売品、全202ページ、ハードカバー美装)の北村慈郎先生の文章を読ませていただきました。

1989年3月の私は、東京神学大学大学院の1年から2年に進級する直前です。三鷹の学生寮にいました。翌年1990年3月に卒業しました。牧師としての経験はゼロの年です。

素晴らしい文章だと思いました。北村先生はきっと文章が上手な方です。しかし「文章が上手」というのはいろんな意味を持つ可能性があります。悪い意味ではありません。実体が伴っている文章です。足立梅田教会が大好きな方です。この教会の本質を熟知しておられます。この教会がどこを目指して歩むべきかの見通しが明確です。説得力があります。大先輩の文章を赤ペン添削するのは不遜極まりないことで、申し訳ありません。

次の文章から始まります。「教会はイエス・キリストを主と告白する者の交わり、と言われます。交わりとは、人と人との絆のことです。その絆を担うひとりひとりは、それぞれ固有な存在と、生活の人であります。けれども交わりとしての教会は、イエス・キリストにあってひとつなのであります」。

そして北村先生が「これはいつまでも失ってはならない良さではないかと思わされました点」としてほとんど冒頭に挙げておられるのが「梅田教会が、〔初代〕藤村〔靖一〕先生の良き導きによって、ありのままのその人を大切にする教会であるという点、つまり教会の担い手の多様性を無条件に受容するということ」です。

そして「悩みを持ち、それぞれの重い生活を背負いながら教会の門をくぐって、求めて来る人たちが礼拝に来るわけですが、梅田教会はそのような人に対して、教会の側の枠組を押し付ける、ということがありませんでした」と北村先生がおっしゃっていることに、私は感銘を受けました。

北村先生がこの文章を書かれたのが足立梅田教会創立35周年の頃ですので、70周年のちょうど半分です。その時点において北村先生が「僕の希望」として書いておられるのが「この35年の歴史で藤村先生の人格的影響力によって培われた梅田教会の土台を大切にして、これからもその上に教会を建てて行ってもらいたい、と願っています」ということです。

その「土台」が上にご紹介した2つです。第一は「教会の担い手の多様性を無条件に受容すること」です。第二は「教会の側の枠組みを押し付けないこと」です。この土台とは異なる方向に進んで行こうとすると、木に竹を接ぐ結果になってしまう、ということだと思います。

しかし、この先に北村先生がお書きになっていることが最も重要です。「けれども、その作業は大変難しい、と思います」から始まるくだりです。

「その困難さはどこにあるかといえば、教会の制度的な整備によってではなく、教会の担い手であります信徒ひとりひとりが、ある意味で藤村先生の人格性(それはイエスに通ずるもの)を体現することによってはじめて、これからの梅田教会が、今までの良き伝統を生かしつつ、創造的な営みが可能になると思われるからです。今まで多くの方々は、そのありのままの自分を受け容れてくれる教会として、受け手の立場に安住していたという面が強くあったのではないでしょうか。そういう受け手の姿勢に留まるかぎり、いつまでも藤村先生がいなければダメ、ということになってしまうと思います」。

厳しい言葉ですね。

今日の聖書箇所は先週の箇所の続きです。主イエスが十字架にかけられる前の夜に弟子たちと共にお囲みになった最後の晩餐での遺言です。北村慈郎先生が藤村靖一先生の人格性に「イエスに通ずるもの」を見出しておられたことが分かりましたので、話が早くなります。

主イエスが話しておられることの最も中心にあるのは、今日の朗読箇所の少し前の箇所ですが、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(7節)です。衝撃的な言葉です。

主イエスが一緒にいてくださるかぎり、弟子たちは、北村慈郎先生の文章で用いられた表現をお借りして言えば「受け手の立場に安住する」ことができます。そういう受け手の姿勢に留まるかぎり、いつまでも「あの先生」がいなければダメ、ということになってしまうと思います。

ここまで申し上げたところで「自立」という言葉が去来しておられる方が多いかもしれません。自立といえば自立です。自立、大事です。しかし、わたしたちに求められるのは、絶対的な自立ではなく相対的な自立です。絶対的に完全に自立しなくてはならないとしたら、教会の交わりは要らないでしょう。「ひとりで生きていってください」と突き放されなくてはならないでしょうか。そんな冷たい教会では困ります。

空間と時間の枠組みに拘束された物理的存在である肉体を持つ西暦1世紀のナザレのイエスは、今はもう地上にいません。いなくていいとか、いないほうがいいとか言うのは、すごく不謹慎なことを言っているようで私も嫌ですが、ご理解いただきたいのであえて極端な表現を用います。

地上のイエスと会わないかぎりキリスト信者でないことになるのであれば、将来天才科学者が発明してくれるかもしれないタイムマシーンか、せめて飛行機と正確な位置情報がないかぎり、キリスト信者になることができません。しかし、イエスが納められたであろうと言われるお墓の場所に行ったとしても「ここにはおられない」と言われているので、墓参に意味はありません。

その必要は全くないと主イエスご自身がおっしゃっているのです。目に見えない神があなたの心と体に宿ってくださるから。弁護者(パラクレーテ)が来てくれるから。聖霊があなたの傍らにいつも立ち、あなたの中にいつもいて、必ずあなたをかばってくれるから、私がいなくなっても大丈夫だと、主イエスは弟子たちを懸命に励ましておられるのです。

今日の箇所の最後に印象的な言葉が語られています。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(31節)。

主イエスが「勝利」について語っておられます。この勝利に「戦闘における勝利」という意味が全く含まれていないとは言えませんが、それより大事なのは「裁判(Prozeß)における勝利」という意味です。後者の意味を強調したのは20世紀の新約聖書学者ルードルフ・ブルトマンです。

主イエスは、サンヘドリンにおいてもポンティオ・ピラトのもとでも不当な裁判を受けました。主イエスは冤罪です。人の裁判で死刑にされた主イエスは、神の裁判においては勝利しているということです。

神の義にかなう主イエスに従うことは正しいことなので、勇気を持って、自信をもって、主イエスに身をゆだねることができます。弟子たちが主イエスに「信じます」(30節)と応えているのは、主イエスに自分の身をゆだねて生きることの決心と約束を意味しています。

(2024年5月5日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)

2024年4月14日日曜日

わたしを愛しているか

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

2024年4月14日(日)聖日礼拝予告

説 教:「わたしを愛しているか」関口康牧師

聖 書:ヨハネによる福音書21章1~14

讃美歌:26、二篇56、164、542

〇キリスト教主義学校の生徒のみなさんへ

*新年度を迎えたキリスト教主義学校の学生・生徒・児童のみなさんを歓迎します。

*午前10時30分から始まる聖日礼拝に出席してください。

*開始時刻ぎりぎりではなく、時間に余裕をもって来てください。

*自分の聖書と讃美歌を持って来ることを心がけてください。

*学校に提出する教会出席カードへのサインは、礼拝終了後、牧師が対応します。

*教会に来るときの服装は、学校のルールに従ってください。

2024年4月8日月曜日

復活の主の顕現

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

2024年4月7日(日)聖日礼拝予告

説 教:「復活の主の顕現」関口康牧師

聖 書:ヨハネによる福音書20章19~31

讃美歌:23、154、152、544

〇キリスト教主義学校の生徒のみなさんへ

*新年度を迎えたキリスト教主義学校の学生・生徒・児童のみなさんを歓迎します。

*午前10時30分から始まる聖日礼拝に出席してください。

*開始時刻ぎりぎりではなく、時間に余裕をもって来てください。

*自分の聖書と讃美歌を持って来ることを心がけてください。

*学校に提出する教会出席カードへのサインは、礼拝終了後、牧師が対応します。

*教会に来るときの服装は、学校のルールに従ってください。


2024年4月1日月曜日

キリストの復活

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

足立梅田教会 イースター礼拝

日時 2024年3月31日(日)午前10時30分より

場所 足立梅田教会 礼拝堂(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「キリストの復活」関口康牧師

聖餐式を行います。午後、愛餐会を行います。

新共同訳聖書、讃美歌(1954年版)を用いています。備え付けがあります。

みなさまのご来会をお待ちしています。