2025年10月12日日曜日

世にある教会 北村慈郎牧師

北村慈郎牧師(2025年10月12日 足立梅田教会)

説教「世にある教会」

出エジプト記19章 1 ~ 6 節、ヨハネによる福音書17章 6 ~19節

北村慈郎牧師

「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」(ヨハネ17章18節、口語訳)

今日は、礼拝後に「これからの教会と日本基督教団」という題でお話しすることになっていますので、この礼拝では、ヨハネによる福音書17章のイエスの「大祭司の祈り」と言われているところから、「教会とは何か」について、聖書の語りかけを聞きたいと思います。

ヨハネ福音書17章の「大祭司の祈り」と言われていますイエスの祈りは、大きく三つの部分に分けることができます。 1 ~  5 節(イエスの栄光のための祈り)、 6 ~19節(後に残される弟子たちのための祈り)、20~26節(全教会のため、教会一致のめための祈り)です。
 
今日の17章 6 ~19節は、大祭司イエスが、後に残される弟子たち(教会)のために祈られた執り成しの祈りであります。ここには、イエスとその弟子たちとの間の深い生命のつながりが言い表され、また残されて世にある弟子たち(教会)の生命がどこから来るのか、その使命がどこにあるのかが明らかに示されています。

このところは、教会が真にキリストの教会として、雄々しく主にあって立ち、生きることができるようにというイエスの祈りが、弟子たちのために心をこめてなされていて、大きな慰めと励ましを受ける箇所であります。
 
まず11節を読んでみますと、「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(新共同訳)と、言われています。
 
この11節によって、なぜイエスが弟子たちのために祈られるのかが、示されていると思います。イエスは、ここで言っておられるように、今地上での働きを終えて、父なる神の御許に帰ろうとしておられます。しかし、彼にこれまで付き従って来た弟子たちは、彼のあとについて行くことができません。彼らは依然として、この地上に残らなければなりません。イエスは、そのことが弟子たちにとってはどういうことであるか、どういうことを意味するかということを、よく御存知です。
 
彼は15章19節で、やはり弟子たちについて「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(新共同訳)。と言われました。これが、弟子たちがこれから生き続けなければならないこの世であります。弟子たちを憎む、そういうこの世に、イエスは弟子たちを残して行かなければなりません。それゆえにイエスは、彼らのために、父なる神に向かって、「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい」と祈られるのです。
 
イエスは先ず「聖なる父よ」と呼びかけられます。すなわち、この世に打ち勝つ力と浄らかさを持ち給う父なる神に、彼は呼びかけ給います。そして、その神に対して、「わたしに賜わった御名によって彼らを守ってください」と祈られます。

しかし、ここに言われている「御名によって守る」とは、どういうことでしょうか。私たちの場合には、名前というものは、しばしば一種の符丁に過ぎません。一人の人間を他の人間から区別するための符丁のようなものに過ぎません。

しかし、聖書の人たちにとっては、「神の御名」というのは、決して単なる符丁ではありませんでした。それは、いわば神の本質そのものでありました。その一例は、17章 6 節ですが、そこでイエスが、「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました」(新共同訳)と言っておられるのも、イエスが父なる神の本質を顕し給うたということ――神の御意志を顕し給うたということに他なりません。

11節でも、彼は、そのような神の本質である神の御名が、弟子たちを、この世において守って下さるようにと祈られます。これからの弟子たちのこの世での歩みにおいて、どうしても予想しなければならない世の憎しみや迫害、艱難や試練の中で、神の御名が彼らを守って下さるようにと、イエスは祈られるのです。
                        
このイエスの祈りには、イエスの弟子たち、すなわちキリスト者はどのような者なのかということが明確に示されています。それは、イエスの弟子たち(キリスト者)は世にありながら、しかし世のものではない、ということです。このイエスの祈りの中でそのことが繰り返し示されています( 6 ,  8 , 14, 16節)。
 
 6 節ではイエスの弟子たちは「世から選び出して(神が)わたしに与えてくださった人々」と言われていますから、イエスの弟子たちは世にありながら、しかし世のものではなく、イエス・キリストのものであるというのです。「わたしが世に属していないように、彼ら(弟子たち)も世に属していないのです」という言葉が、ここで二度くり返し語られています(14, 16節)。
 
イエスの弟子たち(キリスト者)は、イエスを信じ、イエスが宣教された神に国の福音を信じる者として、この世のことが全てであるかのように、目に見えるものに惑わされ、この世の動きに一喜一憂するような生活をすべきではありません。人からの誉れではなく、イエスとイエスの父なる神からの誉れをめざして生きることに徹するべきなのです。
 
そこで大祭司イエスの弟子たちのための祈りには、弟子たちが、世にありながら、しかし世のものとしてではなく、キリストのものとして生きることに徹するように、という期待と祈りがなされているのであります。
 
イエスはまた、15節でこのように祈っています。――「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(新共同訳)と。

イエスが祈られたことは、残された弟子たちが、この世を捨て去ることではなく、しかしまた、この世に対して憎しみをもって憎しみ返すことでもなく、この世にあって弟子たちが、悪しき者から守られ、悪より救い出されることでありました。

そのことは、イエスが弟子たちに祈りの範例として示された主の祈りの第 6 の祈りの内容でもあります。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」(マタイ 6 章13節)。

すなわち、この世を離れることではないが、しかしまたこの世に埋没し、この世にならって、キリストのものであることを見失うことのないように、味を失った塩(マタイ 5 章13節)となることのないように、という二重の期待が、この祈りの中にはこめられているのであります。
 
この世は私たちにとってしばしば、「死の陰の谷」(詩編23編 4 節)のように苦しく、生き難い世であります。「悪しき世」の力は大きく、喜びよりもむしろ苦しみの方が多いかも知れません。しかしイエスは弟子たちに、あくまでこの罪と悪の世にふみとどまって、そこでキリストのものとして生き抜くようにと祈られるのです。
 
リュティはこのように述べています。「キリストはその教団のために祈りたもうが、しかしそれは、彼らがこの世に留まり、そこで耐え抜くことである。彼らが悪い状況の中にあって、自ら悪くならぬこと、不正な環境の中にあって、自ら不正な者とならぬこと、偽りにみちた仕事の中にあって、自ら偽り者とならぬこと、誘惑に満ちた社会の中にあって眠らぬことである」(リュティ『我は初めなり、終わりなり』井上良雄訳、122~123頁)。
 
そのためにイエスはこのようにも祈ります。――「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります(17節、口語訳)――。

聖別とは、一面においてこの世より選び別たれることではありますが、しかし聖別の祈りは同時に、より積極的な面を含んでいます。すなわち、教会のこの世における使命のための派遣の祈りとなるのです。

「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」(18節、口語訳)。聖別は派遣となり、つまり聖別は使命のための祈りとなるのであります。
 
私たちは何によって聖別されるのでしょうか。それは、真理によって、イエス・キリストの言葉によってであります。自分で自分を聖別することはできません。イエス・キリストの言葉を受け、それを真理として信じ、受け入れ、それに従うことにおいて、私たちは聖別されるのです。

聖別とは、きよめ別って、この罪の世から離れさせることではなく、むしろイエス・キリストの言葉をもってこの世の中へと一歩ふみ出すように働く力であります。

聖別は、世への派遣のための、使命のための選びです。イエス・キリストから罪の赦しを受ける時、私たちは同時に、イエス・キリストから世へとつかわされるための言葉を聞き、そのための祈りを受けるのです。
 
これらのイエスの祈りは、もちろん弟子たちのための祈りですが、しかし、この祈りは、私たちのための祈りとしても、聞くことができます。

イエスは私たちのためにも、このように祈り給うということを、知らなくてはならないと思います。イエスは、私たちのためにも、私たちが世にあって守られて歩み続けることができるようにと、祈り給います。

しかしそれだけではありません。イエスは単にそのような、いわば消極的なことだけでなく、もっと積極的なことについても、私たちのために祈り給うということを、知らなければならないと思います。すなわち、私たちが世と区別された者として――聖別された者として、世の前に示されるということ、そのためにも、イエスは祈り給います。
 
イエスの弟子たちは、大祭司イエスの聖別の祈りを受け、み言葉を持ち運ぶ使者として、この世に派遣されます。そこにキリスト者として生きる意味があります。この世より取り去られることでなく、この世にあって悪の力から守られて、「善をもって悪に勝つ」(ローマ21章21節)ことができるように祈られているのです。
 
キリストの派遣(使命)に生きるとは、どういうことでしょうか。それは有名になることではなく、大きくなることでもありません。勲章をもらったり、高い地位についたりすること、それらはすべてこの世からのものです。キリスト者は、小さくとも、この世を超えたもっと高いものを目ざし、高きにいます方を指し示す指となる、それが私たちの使命であり、願いでもあります(森野善右衛門)。
 
弟子たちのために祈られたイエスが、私たちのためにも祈って下さっていることを覚えたいと思います。そして「世にありながら、しかし世のものではない」キリストのものとして、私たちもイエスの言葉の真実を証言していくことができますように。 
 
主が私たち一人ひとりをそのように導いてくださいますように!

祈ります。

神さま、今日も礼拝に集うことができましたことを心から感謝いたします。

あなたは私たち全てにイエスを遣わし、イエスに倣って生きるようにと招いて下さっています。どうかそのあなたの招きに従って生きることができますように、私たち一人一人をお導き下さい。

そしてこの世にありながら、この世のものではなく、イエス・キリストのものとしてこの世を生き抜くことができますようにお導き下さい。

この世にあって様々な苦しみの中にあります方々を支え導いてくださいますように。また、高ぶる人間の高慢を打ち砕いてください。あなたの平和と和解によって世界を包んでください。

この祈りをイエスさまのお名前によってお捧げいたします。 アーメン

(2025年10月12日 日本基督教団足立梅田教会 特別礼拝)