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| 足立梅田教会墓地(埼玉県越生町 地産霊園内) |
ヨハネの黙示録21章 3 ~ 4 節
関口 康
「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」
ヨハネの黙示録の言葉を読みました。何千年も前から言い伝えられて来た「この世」と「来世」の関係をどのようにとらえ、信じていたかが分かります。
一言でいえば「この世」と「来世」は地続きであるということです。両者は途切れておらず、「この世」は消去されるのではなく、虚無になるのではなく、むしろ評価されます。善い行いをしたら善く評価されます。犯した罪に対しては悪く評価されます。しかし、悪いほうについては、神の前で悔い改めれば、その罪を赦していただけます。
言い方を換えれば、「この世」は未完成のままであるということです。「来世」という続きがあるのですから、「この世」だけで終わりません。
これはありがたい教えです。「この世」がすでに完成しているとすれば、これから生まれる命は余計なものです。これ以上子どもを産んだり育てたりする必要はありません。それはありえない話ですし、失礼な話です。
自分の人生は自分のものであり、他のだれのものでもないと考えることは間違ってはいません。しかし、だれともかかわらずに孤立して生きていくよりも、互いに協力し、助け合い、愛し合うほうが楽しいです。
新しい命の誕生に出会うのはうれしいことです。「この世」に生まれた命は、例外なく、人生の途中で挫折と悲しみを体験します。苦しいことは無いほうが助かります。だれでもそのように言いたいです。しかし、苦境や逆境の中でこそ、私たちは目覚ましく成長します。挫折や悲しみには意味があります。
「この世」でたくさん流した涙は、「神」が「ことごとくぬぐい取って」くださいます。流したことがない涙がぬぐい取られることはありません。つらくて悲しい人生を味わいつくした人々に、喜びと平安の時が訪れるのです。
先輩たちが私たちに模範を示してくださいました。信仰をもって生きるとき、苦労の多い人生を前向きに引き受けることができることを、その身をもって証ししてくださいました。
(2025年11月3日 日本基督教団足立梅田教会 墓前礼拝 埼玉県越生町)
