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日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9) |
説教「狭い門から入りなさい」
マタイによる福音書 7章1~14節
関口 康
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者は多い」(13節)
今日も先週に引き続き「山上の説教」の一節です。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」(1a節)
裁判制度を否定する言葉ではありません。マタイによる福音書において「裁く」(クリネイン κρίνειν)(クリナイ κρίναιの現在形不定詞)の意味は、「悪意をもって非難する、酷評する、批判する」です。
他人への非難を禁じる理由は「あなたがたも裁かれないようにするため」(1b節)です。「あなたがたは自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(2節)。互いに裁き合わないようにすることは、主イエスが教えてくださった新しい生き方です。
学校や会社や社会の中で厳しいことを言わなくてはならない場面があることは否定できません。しかし、費用対効果(コストパフォーマンス)のために、生産性のために、成績のために、効率と成果を求められ、結果が出ないと非難され、疲れてメンタルが壊れて生きるのがつらくなっている方々を多く見かけます。
人の心を壊して得る利益で、だれが得するのでしょうか。もっと人にやさしい社会を目指せないものでしょうか。
人が裁き合う姿の愚かさについて、主イエスは、独特のユーモアと皮肉をこめて次のようにおっしゃいました。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(4~5節)
互いに裁き合わないようにする件は、神と人間の出会いはどのようにして起こるかをどのように理解するかの問題にかかわります。
主イエスにとって「神との出会い」とは、人間や地上的事物とは無関係に空中に浮かんだスピリチュアルな存在のようなものとの接触ではなく、常に隣人との出会いにおいて起こることです。神との出会いは隣人との出会いにおいて起こります。あなたが隣人とどのように付き合うかが、神があなたとどう付き合うかと関係します。
主の祈りの第5の願いは「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(6章12節)です。私たちが隣人の罪(負い目)を赦すとき、神が私たちの罪(負い目)を赦してくださいます。
「神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」(6節)
この箇所は説明しづらいです。明らかな差別語・不快語が含まれているからです。しかし、語り手である主イエスの真意をお伝えしたいので取り上げます。
「犬」と「豚」は、西暦1世紀のパレスティナのユダヤ人の軽蔑の対象でした。ただし、飼い犬は大事にされました。軽蔑されたのは野犬です。豚は、汚れた動物とされていました。
問題は、「犬」と「豚」が特定の人々の比喩として持ち出されていることです。犬のような人。豚のような人。こういう言い方を私は我慢して聞いていられません。
しかも、この言葉が教会の歴史の中でどのように用いられてきたかを知る例として、西暦1世紀末から2世紀初頭までの間に書かれた『十二使徒の教訓(ディダケー)』(佐竹明訳、使徒教父文書、聖書の世界、別巻4、新約Ⅱ、講談社、1974年)に「聖餐式」との関係で引用されている箇所があります。
「主の名をもって洗礼を授けられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。主がこの点についても、『聖なるものを犬に与えるな』と述べておられるからである」(ディダケー9章5節、同上書、24頁)。
私たちはこういう言葉から目をそらすことはできません。教会は「洗礼を受けていない人」を「犬」呼ばわりしていました。ディダケーは正典(canon)としての旧新約聖書と同等ではありませんが、教会の重要な文書です。
しかし、重要なことをまだ言えていません。主イエスがそのような人たちに「神聖なるもの」や「真珠」を投げ与えてはならないと言われた意味です。
それは、強制してはいけない、ということです。自分にとってどれほど大切なものであっても、それを嫌がっている相手に押し付けてはいけない、ということです。
多くの言葉で相手を説き伏せるよりも、黙るほうがよい場合があります。伝わらない思いを無理に伝えようとしなくてもよい場合があります。
信じてもらいたい人に信じてもらえないとき、大切なことを伝えることは不可能だと思えば、他の人に任せればよいし、神に委ねればよいのです。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)
この三つの文は祈りが聞き届けられることについて語っています。
求める(ask)、探す(seek)、門をたたくこと(knock)の頭文字を集めると、ask(求める)になります。
特にノックは、祈りのイメージとして重要です。門を叩くことで門が開き、祈ることで与えられます。
「パンを欲しがる自分の子供に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(9~10節)
これは疑問文になっていて、答えが隠されています。こういうひどいことをする悪い親がいないことが前提になっています。現実の親子関係はもっと深刻ではないでしょうか。
しかし、この言葉は、たとえひどい親の元で育てられても、神はその人の真の親であることを教える言葉であると読むこともできます。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(12節)
これは黄金律(Golden Rule)と呼ばれます。類似している教えは、ギリシアにもローマにもユダヤにもありましたが、どれも否定形です。
「あなたが憎むことを誰にもしてはならない」
「隣人にして欲しくないことを隣人にもしてはならない」
「あなたの欲しないことを隣人にしてはならない」
否定形の教えならば、万国共通だれでも理解できる普遍的な真理になります。しかし、主イエスの教えのように肯定形で言うと、難しい教えになります。なぜでしょうか。
他者の状況に個人的に共感する必要性がより強調されるからです。
この個人的な共感こそ、主イエスが教えてくださった新しい人間関係の土台です。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者は多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」(13~14節)
2つの道のイメージは旧約聖書からあります。申命記11章26節以下、同30章15節以下、エレミヤ記21章8節。
モーセは「祝福の道か、呪いの道か」を民に問いました。エレミヤは「命の道か、死の道か」を民に問いました。中間はありません。どちらかを選ばなくてはなりません。
主イエスの「狭い門か、広い門か」の問いかけも趣旨は同じです。これは一般論ではありません。関係あるのは「わたしに従いなさい」という主イエスの呼びかけだけです。
わたしの道は、狭い門から入り、細い道を通るので、「通る者は少ない(少数者である)」と言われています。
広い道と広い門は、わざわざ選んで入ったり通ったりするものではなく、そこにあります。そこを通るために労苦も犠牲も不要ですし、「通って」いるのかどうか分かりません。
「道」や「門」と呼ぶ必要すらありません。それはどこにも通じていないし、過程(プロセス)も終点(ゴール)もないからです。
(2025年7月20日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)