2025年12月7日日曜日

再び信じる決心を

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「再び信じる決心を」

マタイによる福音書 1 章18~25節

関口 康

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿った』」(19-20節)

待降節(アドベント)第 2 主日を迎えました。今日の聖書の箇所は昨年と同じです。みなさんの中には80回ぐらい同じ話をお聴きになった方がおられます。私も50回以上聴きました。

この箇所に記されているのは「イエス・キリストの誕生の次第」(18節)です。マリアとヨセフが婚約していたのに、 2 人が一緒になる前にマリアが身ごもりました。ヨセフはマリアとの縁を切ることを決心しましたが、天使が夢に現れて「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの子は聖霊によって宿ったのである」(20節)とヨセフに告げたのでマリアを迎え入れました。

昨年「私は天使が苦手です」と言いました。「天使が怖い」とか「気持ち悪い」という意味ではありません。説教者として、自分はまだ見たことも触ったこともない存在について説明するのが難しいという意味です。

しかし、今年の私はひと味違います。日々進化する牧師です。昨年までは見えにくかったことが見えるようになりました。

年齢と関係ありそうです。ちょうど60歳になりました。昨年よりはっきり見えるようになったのは自分の人生の終わりです。悪い意味は全くありません。人生の終わりを意識すると人生の全体像が客観的に見えるようになる、ということが実感として分かるようになりました。

そうした中で、「天使」の役割の意味がだんだん分かってきました。天使にしか決して語ることができない言葉があることが分かってきました。

私たちの人生で、どこまで行っても結局さっぱり分からなかったと感じるものがあるとしたら、それは他者の心です。夫婦だろうと、親子だろうと、兄弟だろうと、友人だろうと、各自の自由に属する領域について完全に理解するのは不可能です。知る必要がないことです。

お互いがどこで何をしているかを完全に知る必要があるでしょうか。GPSを付けますか。24時間くっついていますか。束縛したいですか。つきまといますか。そういうのをストーカーと言うと思います。

結婚前のマリアが身ごもりました。ヨセフはマリアとの縁を切ろうと決心したというのですが、その理由が「夫ヨセフは正しい人であった」からとか「マリアのことを表ざたにするのを望まなかった」(19節)と、はなからマリアが悪人扱いです。ヨセフが「正しい人」なら、マリアは「正しくない人」でしょうか。

「表ざたにする」は、世間の評判にさらすことを指します。それは自分のことがかわいそうで、自分のプライドを守りたくて、世間に暴露して騒ぎにするかどうかを迷ったということでしょうか。一方的すぎて、奇妙な話です。

「そこは問題ではないのではないですか」と、「マリアのことを表ざたにするのを望まない」と考えている時点のヨセフに訊きたいです。「縁を切っても、どうせ納得できないでしょう。いっそ犯人を探して復讐しますか」と言いたいです。

言うまでもなく、DNA鑑定もGPSも西暦 1 世紀には存在しませんでした。それでは、マリアが身ごもっていることがヨセフにどうして分かったのでしょうか。それは間違いなくマリア自身が打ち明けたからでしょう。それとも、マリアの周囲の人がリークしたでしょうか、その可能性がゼロでないとしても、本人が黙っていれば分かりっこないことでしょう。

マリアはヨセフに事実を伝えたのです。「私には身に覚えのないことだ」と(ルカ 1 章34節参照)。ヨセフに残された唯一の選択肢は、“マリアを再び信じる”かどうかだけです。

もしこの箇所のすべてがでたらめな作り話だと私たちが考えるのでなければ、同じ問いが私たちにも投げられています。それは「マリアは聖霊によって身ごもった」という天使の言葉を信じるかどうか、です。

同じことが、私たちにとって決して完全には理解できない他人の心とどのように向き合うか、という問いにも当てはまります。

夫婦や親子や兄弟や友人は“神”ではないので、信じる対象ではないとお感じになるでしょうか。それもごもっともですが、“あたかも神を信じるようにあなたのパートナーを信じること”以外になすすべがないとも言えます。それとも、つきまとって監視しますか。

マタイ 1 章冒頭の「イエス・キリストの系図」( 1 節)は、カタカナの名前がたくさん出てくるので読むのがつらいとお感じになる方が多い箇所です。「系図」と訳されているギリシア語(Βίβλος γενέσεως)はヘブライ語の「創世記」(トレドト)と同じ言葉です。これは「イエス・キリストの創世記」と訳すことが可能です。

ユダヤ人男性が神殿奉仕者になるとき、ユダヤ人であることの血統の証明書の提出が求められました。自分の系図を作成し、最高法院(サンヘドリン)で正統性を検証してもらう必要がありました。彼らが作成していた系図は男性のみの家系でした。

「イエス・キリストの系図」に女性が 4 人登場するのは、ユダヤ人の伝統と対比すれば、極めて異例なことでした。「タマル」( 3 節)、「ラハブ」( 5 節)、「ルツ」( 5 節)、「ウリヤの妻」( 6 節)が女性の名前です。 4 人目は名前を伏せられていますが、イスラエル第 2 代国王ダビデとの間に第 3 代国王となるソロモンを産んだ「バト・シェバ」(サムエル記下11章参照)です。

「この女性たちは悪名高い罪人でした」と説明する説教を過去に何度か聴きました。女性たちを罪人呼ばわりしたうえで「罪ある女性を含む家系の中に救い主はお生まれになることによって、人類の罪を背負い、罪人の身代わりに死んでくださったのです」とつなげていく説教です。

同様の解釈がヨーロッパの教会にもあるようで、私がいつも頼りにしているオランダ語の註解書が「4 人の女性が『悪名高い罪人たち』(notoire zondaressen)であるというのは事実だろうか」と記して、その解釈に抗議しています(Vlg. J. T. Nielsen, Het evangelie naar Mattheüs I, Prediking van het Nieuwe Testament, 1971, p. 29)。

「タマルとユダの罪〔創世記38章参照〕も、ダビデとバト・シェバの罪〔サムエル記下11章参照〕も、『罪』は女性ではなく男性にある」し、「ルツ〔ルツ記参照〕はモアブ人だが、決して否定的な意味ではない」し、「ラハブは旧約聖書〔ヨシュア記 2 章 1 節など〕で『遊女』と呼ばれているが、ユダヤ人に対するラハブの奉仕は高く評価されている」と記しています(Ibid.)。信頼できる註解書に出会えてよかったです。

イエス・キリストの系図についても、イエス・キリストの誕生の次第についても、女性を悪者にして片づけようとする間違った解釈があることは否定できません。異なる読み方が必要です。

マリアを再び信じ、「すべての事情を天使に教えてもらいました。それで十分です。私はあなたを信じます。結婚してください。アイ・ラブ・ユー」と告白することができたヨセフの姿を今日の箇所は描いています。勇気が必要な生き方かもしれません。「男らしい」とは絶対言いません。

こうして私はやっと「天使」が好きになりました。「私には身に覚えがない」と訴えるマリアを、すべての疑惑から天使が守っています。それ以上のことをだれも問うべきではありません。

(2025年12月 7 日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

12月14日(日)「心の支えは同じ」という説教をします

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


次週礼拝予告

日時 2025年12月14日(日)午前10時30分より

場所 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「心の支えは同じ」関口康牧師

聖書 マタイによる福音書 2 章 1 ~12節

ぜひおいでください。お待ちしています。

2025年12月1日月曜日

2025年12月の予定


12月の礼拝の予定は以下のとおりです。足立梅田教会にぜひおいでください!

礼拝は毎週日曜日午前10時30分からです。地図はここをクリックしてください


12月 7 日(日)アドベント(待降節)第 2 主日

       説教「再び信じる決心を」関口康牧師

       聖書 マタイによる福音書 1 章18~25節       

12月14日(日)アドベント(待降節)第 3 主日

       説教「心の支えは同じ」関口康牧師

       聖書 マタイによる福音書 2 章 1 ~12節

12月21日(日)クリスマス礼拝(教会学校と合同)

       説教「もろびとこぞりて」関口康牧師

       聖書 ルカによる福音書 2 章 1 ~14節

       午後 クリスマス愛餐会

12月24日(水)クリスマスイヴキャンドル礼拝(18時30分~)

       説教「きよしこのよる」関口康牧師

       聖書 ヨハネによる福音書 1 章14~18節

12月28日(日)年末礼拝

       説教「復活の力」関口康牧師

       聖書 フィリピの信徒への手紙 3 章12~24節

2025年11月30日日曜日

終末と希望

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「終末と希望」

テサロニケの信徒への手紙一 5 章 1 ~11節

関口 康

「主はわたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(10節)

説教題として最初に考えたのは「たとえ世界が滅びても」でした。近年、日本の小説やテレビや映画のタイトルやセリフに見かけるようになりました。この言葉には続きがあります。

「たとえ明日世界が滅びようとも、今日われらはなおリンゴの木を植えるだろう」(Und wenn morgen die Welt unter ginge, so wollen wir doch heute noch unser Apfelbäumchen pflanzen)

これは16世紀の宗教改革者マルティン・ルター(Martin Luther [1483-1546])の言葉として紹介されてきました。しかし、これが本当にルターの言葉かどうかに議論があります。マルティン・シュレーマンの『ルターのりんごの木』棟居洋訳、教文館、2015年)をぜひお読みください。シュレーマンの結論は「これはルターの言葉ではない」です。

シュレーマン『ルターのりんごの木』2015年

今日はテサロニケの信徒への手紙一を開きました。使徒パウロの手紙です。紀元50年ごろに書かれたもので、「現存するパウロの最古の手紙」であるだけでなく、「新約聖書の最古の文書」です(ヴィリー・マルクスセン『新約聖書緒論』(渡辺康麿訳、教文館、1984年、78頁参照)。

古文書の成立年代推定には根拠が必要です。そのひとつは「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められた」( 2 章 2 節)や「テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て」( 3 章 6 節)という描写を使徒言行録や他のパウロ書簡と比較して見えてくる結論です。

もうひとつは、パウロの教えの「初期」と「後期」に変化があることを認めて、どちらなのかを見分けることです。

 4 章13節から始まる話題は、世界の終末においてイエス・キリストが再び来られることについてです。パルーシア(παρουσία)と言い、「再臨」や「来臨」と訳されます。

パウロは、自分が生きている間にパルーシアが起こると、この手紙を書いたころは本気で信じていました。しかし、そうならないことが分かってトーンダウンし、やがて「再臨」について書かなくなります。それがパウロの変化です。

しかし、このような「聖書の歴史的批評的な読み方」に苦痛や反発を感じる方々が、現在世界24億人と言われるキリスト者の中にいます。聖書の言葉はすべて文字通りに実現すると信じている人々がこの箇所を説明するために用いる言葉が「携挙」(rapture)です。

まさに文字通り、世界の終末に信仰の先達とその時点で生きている人が空を飛び、彼方から飛んで来られる主イエスと空中で出会い、共に雲に包まれて携挙されます。まさにスペクタクル。

しかし、そのような非科学的なことが起こるはずはないと考えるキリスト者も大勢います。

先々週11月20日(木)五反田にあるゲンロンカフェで「宗教国家アメリカはどこへいく」というテーマで、新潮選書『アメリカの新右翼』の著者・井上弘貴氏と、中公新書『福音派』の著者・加藤喜之氏と、政治学者・三牧聖子氏の鼎談が開催されたので観覧しました。聖書の「終末論」がアメリカ社会を分断している、というのです。

『福音派』『アメリカの新右翼』

青土社(せいどしゃ)の雑誌『現代思想』11月号の特集が「終末論を考える」であると相生教会の本竜晋牧師から教えていただき、それも購入しました。なんと驚くべきことに、「終末論」が現代思想のトレンドであることが分かりました。

『現代思想』11月号 特集「終末論」を考える

 4 章16節以下について、ルターが「1532年 8 月22日付け」の文書で説明しています。

「これはたとえ話(verba Allegorica)です。子どもや単純な人に分かるように華々しい領主の行列にたとえています」(Martin Luther, Weimarer Ausgabe, 36, S. 268. M. H. Bolkestein, De brieven aan de Thessalonicenzen, Prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1970, p. 118からの再引用)。 

ルターが言ってくれているとおり、これは「たとえ話」(verba Allegorica)です。私たちは空を飛ばなくても大丈夫です。4 章17節は、後半に「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と記されているとおり、 5 章10節の「わたしたちが目覚めていても眠っていても主と共に生きるようになる」と趣旨が同じです。

あなたと主イエスの関係は永遠であり、生きているときも死んでからも同じように主イエスが共にいてくださるという慰めの言葉が語られていると分かれば、それで十分なのです。

マルティン・ルター

「それならば、今死んでも同じではないか。早くイエスさまにお会いしたい」と私たちは考えません。人生がつらいのは分かります。しかし、私たちは、たとえ明日世界が滅びようと、地味で地道な日常生活を営み続けます。そうする他ないではありませんか。

そして、私たちはパウロの教えに従って「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで」( 8 節)いようと思います。

「信仰、希望、愛」の組み合わせは、本書 1 章 3 節やコリントの信徒への手紙一13章13節にもあります。ここで大事なことは、私たちが身に着けることをすすめられているのは「胸当て」と「兜」、つまり自分を守るための防具だけであるということです。攻撃するための武器はありません。「信仰」や「愛」を武器にして他者を攻撃してはいけません。

さて、ここで少し話題の方向が変わります。今日は「終末と希望」についてお話ししています。「終末」が「たとえ明日世界が滅びようとも」に当たり、「希望」は「今日われらはなおりんごの木を植えるだろう」に当たると考えていただきたいです。

すべての命あるものに終わりがあるように、世界も必ず終わりを迎えます。そのとき「教会」は何をすべきでしょうか。私たちの「りんごの木」は何でしょうか。

ファン・ルーラーは「教会はそれ自体で目的でもある」(De kerk is ook doel in zichzelf)と教えました。日本で学生運動が盛んだった1960年代に、ヨーロッパの大学でも「世界同時革命」を呼びかける学生が多くいました。

そのころ流行した神学思想の中に「目標は世界の未来である。教会は手段に過ぎない」と教え、「教会」を「革命の拠点」としてとらえるものがありました。

その教えに反対するために、ファン・ルーラーが1960年に「教会はそれ自体で目的でもある」という講義をドイツで行いました(『ファン・ルーラー著作集』第5A巻、ブーケンセントルム社、2020年、232~247頁)。

『ファン・ルーラー著作集』第5A巻(2020年)・第5C巻(2023年)


その講義の趣旨は、教会が自己目的化し、内向きになるのがよろしくないことは理解できるが、それでは教会自身には目的も目標もないのかというと、そうではない、ということです。

オランダの教会も同じですが、日本のプロテスタントは「教会に行く」といえば「説教を聴きに行くこと」と同じ意味だった時代が長かったと思います。その後、聖餐式の価値が認められてきましたが、そのあたりで止まってしまいました。

ファン・ルーラーが「教会の目的」として強調しているのは「讃美歌」です。「礼拝」にみんなで集まり、共に歌い、共に祈る交わりそのものに、他に代えがたい価値があることを強調しています。私も大賛成です。

何よりファン・ルーラーにとって「宗教改革」(Reformatie)とは「大掃除」(grote schoongemaak)でした。それは「革命」ではありませんでした。

これもたとえ話ですが、「部屋の掃除をするのが面倒くさいから、家を壊して建て直す」というなら「革命」かもしれませんが、それは暴力です。「掃除」は「革命」ではありません。そこにすでにあるものを、ホコリを払って磨いて活用するだけです。それは人間に対する見方にも通じます。プロテスタント教会は「革命」を求めず「改革」を続けます。

教会だけが「目的」ではありません。神の創造のみわざの目的は、人間をキリスト者にすることではありません。教会だけが残ることが世界の目的ではありません。教会は社会との共存を求めます。科学技術の進歩の恩恵にあずかっています。

しかし、現実はどうでしょう。人工知能の進歩によって今後奪われる職種は 2 万と言われます。「超富裕層」(3000万ドルあるいは45億円以上)は30万人、世界人口の0.005パーセントです。大多数は「貧困層」です。どうしてこれほどバランスが崩れてしまったのでしょうか。科学技術は人類を幸せにしたでしょうか。

「本当の自由は何か」「善き未来とは何か」は全人類の真剣な問いです。これらの問いに真剣に取り組んでいるルドガー・ブレグマン『希望の歴史』上・下巻(野中香方子訳、文藝春秋社、2021年)と、敬愛する水島治郎先生の『オランダは、「自由の国」だったのか』(NHK出版、2025年)を推薦いたします。

『オランダは、「自由な国」だったのか』『希望の歴史』

教会は社会の問題を考える場でもあります。たとえば、もし聖書の「終末論」の間違った解釈が戦争の原因になっているとしたら、教会がそれを無視できるはずがないではありませんか。

最後にもう一度、ファン・ルーラーの言葉を紹介します。

「キリスト教の視点からすれば、いかなる否定的なことに対しても、人類は肯定的にしか立ちません。たとえ世界が滅びても、その滅亡を人類は共に乗り越えます。最後の瞬間でさえ、別の世界へ逃げません」(「聖書の未来待望と地上の視点」(Bijbelse toekomstverwachting en aards perspectief) 『ファン・ルーラー著作集』第5C巻、ブーケンセントルム社、2023年、952頁)

私もファン・ルーラーと同じ思いです。私たちは「ここではない、どこか」へ逃げても、人間が罪から逃れられないかぎり、破局の現実はどこまでも追いかけてきます。

現実に踏みとどまって、身近なところから「改革」しようではありませんか。それは「革命」ではありません。忍耐強く、部屋を片付けていくのです。そうするだけで、自由に使える生活空間が広がります。それが私たちの「希望」です。

(2025年11月30日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年11月23日日曜日

あなたの宝 収穫感謝日礼拝

このイラストは人工知能Copilotに描いてもらいました
日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「あなたの宝」収穫感謝日礼拝

マルコによる福音書10章17~31節

関口 康

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(25節)

今日は収穫感謝日です。午前 9 時からの教会学校で収穫感謝会を行いました。コロナ明けから年 4 回を目標に再開した教会学校ですが、当日までどなたが出席してくださるか分からないので、全年齢向けの「収穫感謝クイズ」を考えました。楽しんでいただけたと思います。問題と答えをブログに書いておきますので、みなさんもぜひどうぞ。

今日の聖書の箇所は、収穫感謝日と直接的な関係はありません。しかし、話題の中心は「お金」の問題なので、間接的な関係はあります。「お金」の問題も「収穫」の問題も「生活」の問題であり、「人生」の問題です。

新約聖書の 4 つの福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカが、このときの様子を描いています。非常に生き生きと詳細に描写されているため、目撃証言があったのかもしれません。登場人物は「金持ち」です。リッチパーソンです。

この人が主イエスのもとに走り寄ってひざまずき、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)と質問しました。すると、主イエスは「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)と、冷たさを感じる言葉で突き放されました。

この拒絶についていくつかの解釈があることが分かりました(*ヴィンセント・テイラーによると 6 つ)。私が最も説得力を感じたのは、「イエスはこの答えによって金持ちのへつらいを正そうとした」という解釈です。

「へつらい」とは、お世辞を言うこと、言葉や態度で相手に媚びることです。それらはすべて、人がお金持ちになるために必要な手段かもしれません。しかし、主イエスは逆質問することで自分の言葉を説明させ、言葉巧みに他人の地位や権力を利用しようとする自分の軽薄さに気づかせようとしておられます。「私にお世辞は通用しない」とおっしゃっているようでもあります。

ところで、この人は「永遠の命」を受け継ぐ方法を主イエスに尋ねています。永遠の命とは文字通り「永遠に生きること」なので「復活」を指します。それは死も苦しみも悲しみも克服された命なので「救い」とほとんど同じ意味です。

ユダヤ人の理解によれば、永遠の命は「受け継ぐ」ことができる賜物です。それで、この人は主イエスに、「永遠の命を受け継ぐために何をすればよいか」を尋ねています。しかし、この質問の表現がこの人自身の思考パターンを露呈しています。それは「永遠の命を受け継ぐために人は必ず何かをしなければならない」という考え方です。

しかも、この人は「金持ち」でした。お世辞を言いながら近づく相手に取り入る手段は「お金」でしょう。もしそれで正しいなら、この人が主イエスに尋ねているのは自分の救いに必要な金額です。「要するにいくらですか」です。多すぎもせず少なすぎもしない「相場」はいくらですかと尋ねたいのです。

この人はお金は持っています。それは生涯かけての血のにじむ努力の証拠でしょう。私のように一生懸命がんばって来た者を救わない神はありえないでしょう。私の救いはいくらですか。まさかタダではないでしょう。貧しい人でも手に入る安っぽいものではないでしょう。がんばった私とがんばらなかった人たちが同じということは、まさかないでしょう。私の救いはいくらですか。いくら払えばもらえますか。お金ならいくらでもあります。ずばり金額を教えてください。そのように言おうとしています。

主イエスは、これで二度目ですが、この人の言い分を拒絶なさいました。冷たい感じがするかもしれませんが、私たちに全く理解できないことではないはずです。

私たちもまた、教会生活を続けている中で、いろんな人に出会います。牧師の私にも「要するにいくらですか」と相場を尋ねる方が現れます。金に物を言わせるタイプの人が登場します。そうなると、教会のわたしたちはとても困ります。「そういう問題ではありません」とはっきり言わなくてはならない場面に実際に立ち会います。

主イエスがこの人にお求めになったのは、モーセの十戒の「第二の板」(第五戒から第十戒まで)の「隣人愛」の教えを守ることです(19節)。するとこの人が「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と返して来たので(20節)主イエスはこの人を見つめ、慈しんで「あなたに欠けているものがひとつある。行って、持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。(中略)それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいました(21節)。

主イエスがこの人にお求めになったのは、「隣人愛」の教えを学び、それを実践することです。「隣人愛」とは、先週学んだボンヘッファーの言葉を繰り返せば「他者のために存在すること」です。

あなたは自分の宝を「他者」と分け合っていないからリッチなのです。自分のものを抱え込み、積み上げ、守り抜くけれども、他者のためには用いようとしない。「他者を愛すること」ができない人は、神の戒めを守ったことになりません。そのことを、主イエスは教えておられます。

私は今このことをお話ししながら、平気な顔をしていません。私にはお金がないので、自分のものを売り払ってだれかに施すとしたら、毎日の食生活が成り立ちません。切り詰めて生きているつもりですが、これでもまだ贅沢しているように見える要素があるかもしれません。

「あなたはそれでも『他者のための存在』であると言えるのか、自分のことしかしていないではないか。牧師だとか言って、世のためにも人のためにも何の役にも立っていないではないか」と責められていることも自覚しています。申し訳ない気持ちでいっぱいです。

この人は主イエスの言葉に傷つき、悲しみながら立ち去りました。主イエスのほうも、この人を追いかけません。

弟子たちの中に「せっかくリッチな人が来てくれたのに、先生が傷つけるようなことを言うからいなくなった。もったいない」と思った人がいたかもしれません。教会も財政難のときには同じことを考える可能性があります。

しかし、そこに譲れない線があるのです。金に物を言わせようとする人は、信仰の交わりを壊します。イエス・キリストの教会はそういう理屈で動きません。

それは「教会とは何か」という問題でもあります。教会は、あなたの宝をガードするための「砦」(とりで)なのか。それとも、いろんなタイプの方々を広く受け入れ、互いに助け合い、分かち合うための、開かれた「広場」なのか。その開かれた広場の中での出会いこそが、あなたの宝なのか。

主イエスがおっしゃっている「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(25節)という、ジョークとは言えませんがユーモアの要素を多く含んでいるたとえは、それが絶対に不可能であることを示すためのものです。それ以外の意味はありません。

ラクダが針の穴を通ることは絶対に不可能です。同じように、金持ちは金持ちのままでは救われません。「他者のための存在」になることが求められています。それは、あなたの宝を「他者」のために用い、分け合うことです。

救いはお金では買えません。裕福な人だけが手に入れることができ、貧しい人には手に入らないものではありません。

「人が救われるのは人間の努力や功績によってではなく、信仰によること」を主イエスは教えておられます。この教えを使徒パウロも受け継いでいます。

(2025年11月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)