2025年9月15日月曜日

2025年10月の予定

10月 5 日(日)聖霊降臨節第18主日 世界聖餐日 世界宣教の日

 「愛の内に歩みなさい」関口康牧師

 エフェソの信徒への手紙 5 章 1 ~ 5 節

10月12日(日)聖霊降臨節第19主日 特別礼拝・講演会

 「これからの教会と日本基督教団」北村慈郎牧師(当教会第 2 代牧師)

 講演会(礼拝後、短い休憩をはさんで続けます)

10月19日(日)聖霊降臨節第20主日

 「未来をひらく」久保哲哉牧師(聖学院高等学校宗教主任)

 創世記 11章24節~12章 4 節

10月26日(日)降臨前第 9 主日 宗教改革記念礼拝

 「宗教改革の教会」関口康牧師

 ガラテヤの信徒への手紙 2 章11~14節

 祈祷会(礼拝後)

2025年9月14日日曜日

復活の体

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「復活の体」

コリントの信徒への手紙一15章35~49節

関口 康

「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」(36節)

今日はパウロのコリントの信徒への手紙一を開きました。内容に入る前にこの手紙の著者パウロについてお話しします。それが今日の箇所の内容にも関係します。

パウロは「使徒」です。しかし、彼は「生前の」主イエスが直接お選びになった12人のひとりではありません。使徒の名簿(マタイ10章 2 ~ 4 節、マルコ 3 章16~19節、ルカ 6 章14~16節)の中にパウロの名前はありません。パウロは13人目の使徒です。ただし、ユダの自死(マタイ27章 3 ~10節、使徒 1 章18~19節)とマティアの補充(使徒 1 章21~26節)を経ていますので「12-1+1+1=13」です。

しかし、パウロは、まだ「サウロ」と名乗っていた頃、復活の主イエスと出会いました。「姿を見た」とは書かれていません。書かれているのは「突然、天からの光がパウロの周りを照らし、彼は地に倒れ、「『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた」(使徒 9 章 5 節)です。パウロは復活の主イエスを目で見ておらず、「声を聞いた」だけです。

パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねたら「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(同上節)と答えが返って来ました。その日から3日間、その光の輝きのためにパウロの目が見えなくなりました(使徒22章11節)。

その後、主イエスの弟子のアナニアと出会ったとき、パウロの目は見えるようになり、アナニアから洗礼を受けてキリスト者になりました。復活の主はアナニアにも「パウロのもとに行け」とお命じになりました(使徒 9 章10節)。

洗礼を受けてキリスト者になったパウロは伝道者になり、「使徒」を名乗るようになりました。使徒言行録14章の4節と14節に「バルナバとパウロ」が「使徒」と呼ばれ、バルナバが14人目の使徒であるように読めますが、そのことが記されているのはその箇所だけです。

パウロが自分を「使徒」と呼んでいるのは彼の書簡です(ローマ  1 章 1 節、コリント一 1 章 1 節、ガラテヤ 1 章 1 節)。彼が自分を「使徒」と呼ぶのは、12人の使徒と「権能」(authority)において「同等」(equal)であると主張することを意味します。

パウロは「生前のイエス」を知りません。それどころか、彼は熱心なキリスト教迫害者でした。洗礼を受けた後も、教会の人々にすぐには信用してもらえませんでした(使徒 9 章26節)。そのパウロが、それでも自分には12人の使徒と同等の権能が与えられていると言えたのは「イエス・キリストが復活し、今ここに生きておられること」以外に根拠はありません。

ここまでで私が申し上げたいのは、イエス・キリストの復活の事実は、パウロの「使徒」としての自覚と深い関係にあった、ということです。

今日の箇所に記されているのは、そのパウロが「イエス・キリストの復活」と「死者の復活」を信じることができない人々から受けた反論に対する応答です。

15章12節に「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」とあるように、「復活など信じられない」という反発は当時からあったことが分かります。

その人々が「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」見せてみろよとパウロに突っかかって来たのでしょう。その問いにパウロが答えているのが今日の箇所です。

皆さんの中に「復活を信じられない人の気持ち」が全く理解できないとお感じの方がおられるでしょうか。私は理解できます。「私もほとんど信じられません」と言いたいほどのレベルです。「牧師さんにそういうことを言われると困ります」と思われるでしょうか。「死者はどんなふうに復活するのか(見せてみろよ)」という問いは、私も共有しています。

その問いへのパウロの答えが「愚かな人だ」(36節)なのは困ります。「ばかものめ」ですから。乱暴な言い方をされると、みんなつまずいてしまいます。もう少しソフトに答えてほしいです。

言い方の問題はともかく、パウロは 2 つのたとえを用いて、反論に答えています。

第 1 の答えは、穀物のたとえです。

「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です」(36~37節)。

第 2 の答えは、名付けが難しいたとえです。

「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります」(38~41節)。

これは現代の自然科学の知識を前提にして読むと、かえって全く理解不可能です。パウロが西暦1世紀の人であることを忘れてはいけません。パウロが言おうとしているのは、どちらかといえば文学や哲学に近いことです。無理に言葉にすれば「命の同一性と差違のたとえ」です。

たとえば、私と皆さんは同じ「人間」です。しかし、だからといって「私たちは水とたんぱく質とカルシウムと脂肪のかたまりです」的に一緒くたにされるのは、いくらなんでも嫌でしょう。

あるいはまた、「ねずみ」も「へび」も「人間」も「命」であることに変わりなくても、「あなたはねずみと同じです」と言われると抵抗があるでしょう。

神がすべての存在を創造されたとき、「個性を創造された」と言えるほどに、それぞれが別々の存在として造られました。それが聖書の教えです。

しかしまた、命の連鎖的な関係性があることも事実です。「食物連鎖」をご存じでしょう。植物を昆虫が食べ、昆虫を鳥や獣が食べ、鳥や獣を人間が食べる。

それは「水の循環」にも似ています。海や川の水が蒸発して雲になり、雨が降り、川になり、人と生き物を潤し、再び川になり、海に戻る。同じだけど違う。形を変えながら受け継がれていく何か。

ここで私たちが注意すべきことは、「蘇生(そせい)」と「復活(ふっかつ)」の区別です。英語だとどちらもresurrection(レザレクション)ですが、日本語では意味が全く違います。

「蘇生」とは「仮死状態から息を吹き返すこと」つまり「死んでいない」のですが、「復活」は死を必ず経由します。だからこそ「復活」には奇跡の要素があり、信じるか信じないかの問題になります。「蘇生」は信じるか信じないかの問題ではありません。

しかし、私たちにとって信じるのが難しい「死者の復活」と、現代的な意味での「食物連鎖」や「水の循環」は「同じです」(42節)とパウロが言ってくれています。もしこういう信じ方でもよいのであれば、私には「復活」が少しぐらいは理解可能になります。

福音書には「死んだイエスが墓から出てくる」場面が確かに描かれていますので、信じられるかどうかのハードルが高くなりますが、それも「復活」についてのひとつの信じ方です。

私たちが信じるべきことは、イエス・キリストは、十字架の上でご自身の命をささげられたからこそ、今ここにおられ、私たちに御言葉を語りかけてくださっている、ということだけです。

(2025年 9 月14日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年9月13日土曜日

特別礼拝・講演会のお知らせ 講師 北村慈郎牧師

特別礼拝・講演会 講師 北村慈郎牧師


親愛なる各位

私たち足立梅田教会は、来たる10月12日(日)に「特別礼拝・講演会」を開催し、講師として当教会第 2 代牧師、北村慈郎牧師をお迎えいたします。

日時 2025年10月12日(日)午前10時半~特別礼拝、礼拝後~講演会

主題 「これからの教会と日本基督教団」

講師 北村慈郎牧師(足立梅田教会第 2 代牧師)

会場 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田 5-28-9)

*入場無料、席上献金があります(金額自由)

連絡  adachiumedachurch@gmail.com(牧師が受信します)

北村慈郎牧師は1968年から1974年まで 6 年間、足立梅田教会を力強く牧会してくださいました。昨年 9 月 8 日(日)「足立梅田教会創立70周年記念礼拝」で説教と講演をしてくださいました。

北村慈郎先生のご著書:

『自立と共生の場としての教会』(新教出版社、2009年)

北村慈郎著
『自立と共生の場としての教会』
(新教出版社、2009年)

『食材としての説教――聖書と現実の往還から――』(新教出版社、2015年)

北村慈郎著
『食材としての説教』
(新教出版社、2015年)

どなたもぜひお集まりいただきたく、謹んでご案内申し上げます。

2025年 8 月 5 日

主催:日本基督教団足立梅田教会

後援:北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会

2025年9月7日日曜日

教会の歴史はこれからも続く 教会創立72周年記念礼拝

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「教会の歴史はこれからも続く」

マタイによる福音書13章24~33節

関口 康

「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けばどんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(31-32節)

今日は足立梅田教会の創立72周年記念礼拝です。今週土曜( 9 月13日)が記念日です。来週 9 月14日のほうが記念日に近い日曜日ですが、良いことをするのは早いほうがよいと思いました。

説教題が大げさでしょうか。私たちの心が少しも折れていないことを表現したいと思いました。この「教会」は「足立梅田教会」です。足立梅田教会の歴史はこれからも続きます。そのことを公に宣言いたします。

聖書の話を先にします。今日の朗読箇所は創立記念礼拝向けに特別に選んだ箇所ではなく、日本基督教団聖書日課『日毎の糧』の今日の箇所です。しかし、今日の礼拝にふさわしい内容であることが分かりました。

31節以下は「からし種のたとえ」です。からし種は小さな粒です。 1 グラムあたり725~760粒もあります。しかし、完全に成長すると、どの野菜よりも大きくなります。大きな木になり、その枝に鳥が巣を作れるほどになります。2.5から 3 メートルの高さにまで成長します。

しかし、このたとえ話の要点は、「神の国」または「教会」は必ず《拡大》していく、ということではありません。このたとえ話の要点は、蒔かれたからし種は「神の国」または「教会」の《始まり》である、ということです。

大きくなるかどうかは問題ではありません。「始めること」と「続けること」が大事です。そのことを教えるたとえ話です。

足立梅田教会は「持続可能な教会」(Sustainable Development Church)であると私は確信しています。SDGs(エスディージーズ)をもじりました。「持続可能」だけであれば、sustainableで十分です。しかし、「発展、展開、開発」などを意味するdevelopmentを残したいと思いました。「成長」の意味もありますが、「拡大」や「増加」を強調したいのではありません。

当教会が「持続可能」な理由は、初代牧師の藤村靖一牧師の基本方針がすべてです。創立36周年に当教会が発行した『足立梅田教会の歩み』(1989年)に記されています。

「私たちの歩みは、ゆっくりゆっくりが最初からの特色であり、伝統です。私の教会運営の基本方針は 3 つでした。1. 集会をできるだけ少なくする。2. 受洗者は、年にひとりでよい。しかし、最後まで脱落しないように祈っていく。3. 藤村の生活は自分で支えていく」(50頁)。

別の頁にも、同じ趣旨の言葉があります。こちらのほうが詳しいです。

「この時点(*1954年)での私の方針は、第 1 は、みんな多忙なので集会はできるだけ少なくすること。第 2 は、礼拝で培われた信仰を各自の家庭、職場、社会において力強く実践すること。さらに、急がないで進むこと。受洗者は年にひとりでよい。しかし、ひとり残らず最後まで脱落者を出さないこと。そのように祈ること。もうひとつは、教会の中で困っている人がいたら、相互に助け合っていけるような体制を作ること。けれども、それらは思うようには行きませんでした。それから、幸いに私は青山学院に勤めておりますので、自分の生活は自分で支えて行けました」(14頁)。

これは素晴らしい方針です。「ゆっくりゆっくり」を忠実に受け継いだ先に足立梅田教会の将来があります。

「ゆっくりゆっくり」は、サボることではありません。ウサギとカメの童話をご存じでしょう。イソップ童話です。明治時代の国語の初等科教科書に「油断大敵」というタイトルで掲載されていたそうです。それはウサギの視点でしょう。カメの視点で考えれば、一歩一歩着実に歩んだ先にゴールがあることを教える童話です。足立梅田教会はカメです。悪い意味ではありません。

牧師の生活については、現時点の私は教会のみなさまに助けていただいていますが、理想的には藤村先生のおっしゃるとおりです。なんとか自活を目指します。

足立梅田教会が「持続可能」である理由はまだあります。それは「教会堂に拡張性が無いこと」です。皮肉や逆説で言っていません。礼拝堂の広さは学校の 1 教室分です。この建物の中に礼拝堂も集会室も牧師館も駐車場も備わっています。コンパクトですがオールインワンです。牧師は大型バイクです。21世紀の理想的な教会です。

この建物の「サイズ」が、元々ここが藤村靖一先生の私邸だったことで決定された面があるのは承知しています。しかし、それだけではありません。

藤村先生の人生最大の恩師、浅野順一先生が「1936年 1 月10日」の日付でお書きになった文章に次のくだりがあるのを見つけました。

「近ごろ、日本でも立派な会堂を建築することが一種の流行のようである。それを一概に悪いと言うのではないが、もし容れ物は堂々たるものになったが、中身がかえって空疎、貧弱になったというのであれば、それは本末転倒という外はない。 

もし牧師の成功の一つが大会堂建築にありとする思い違いがあるならば、これは正に言語道断と考えるが、どうであろうか。 

私は決して瘦せ我慢でこういう憎まれ口を言っているのではないつもりである。今日の日本の教会はそれどころではあるまい。固定した古いものがドンドン破られて、新しいものに向かって進んで行かなければならない時であろう。 

もちろん、新しければ何でも良いなどと乱暴なことを言うのではないが、古きはすでに死し、それが新しい生命に生き返るということが福音の根本精神だとすれば、古いものを温存するその容れ物は、場合によっては打ち壊すとか投げ棄てることも必要かもしれない」

(『浅野順一著作集』第11巻、創文社、1984年、125~126頁)

89年前に書かれた文章と思えないほど、今の日本の教会の状況に符号する内容です。

この文章が書かれた1936年1月に、浅野順一先生(36歳)は美竹教会の牧師に就任されました。同じ1936年12月に藤村靖一先生(21歳)が知人の紹介で浅野先生の門を初めて叩かれました。翌1937年藤村先生は住友海上火災に就職され、同時に美竹教会に通いはじめられました。藤村靖一先生の教会堂のサイズについての思想は浅野順一先生から受け継がれた可能性が高いです。

足立梅田教会の最初の「からし種」は次の方々です。1951年 8 月、黒岩さんが富士見町教会で受洗後、1953年 9 月、当教会へ転入会。1952年12月、関口さん、樅山(もみやま)さん、杉田さんが受洗。1953年 4 月、酒井さん、木内(若林)さん、大石さん、谷古宇(やこう)さん、坪野(福岡)さん、押山さん、佐藤(柴田)さんが受洗。

1953年 9 月13日、「美竹教会梅田伝道所」開所式(当教会の創立記念日)。

1953年 9 月29日、梅田伝道所第 1 回委員会。初代委員:関口さん(23歳)、樅山さん(年齢未確認)、酒井さん(22歳)、木内(若林)さん(20歳)、佐藤(柴田)さん(17歳)。藤村靖一先生は38歳のお誕生日( 9 月28日)の翌日。みなさんお若い!

72年前に72年後の今の教会の姿を想像していた方がおられたでしょうか。これからどうなるかは、だれにも分かりません。知る必要がないことです。

神が72年、この教会の歴史を続けてくださいました。これからも神が、この教会の歴史を続けてくださいます。この教会の歴史が続いていくことが「神の存在証明」です。

(2025年 9 月 7 日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年8月31日日曜日

安息の家

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「安息の家」

マタイによる福音書12章43~50節

関口 康

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(50節)

今日の説教題の「安息の家」とは「教会」のことです、と言いたいです。しかし、教会についての感想やとらえ方は、人それぞれです。そう思えないという方もおられるでしょう。

それは私も分かるので、少し遠慮して「教会はあなたの安息の家でありたいと願っています」と申し上げておきます。

しかし、「教会」については抽象的なことを言うだけでは意味がありません。足立梅田教会の話をします。

来週 9 月 7 日(日)は足立梅田教会創立72周年記念礼拝です。来週の説教題を「教会の歴史はこれからも続く」にしました。

足立梅田教会は「持続可能な教会(SDC)」(Sustainable Development Church)であると、私は確信しています。しかし、「目標」(Goals)は必要です。目標については来週お話しします。

今日の聖書箇所の最初に「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に帰ろう』と言う」(43~44節)とあります。「霊」の話として書かれていますが、明らかに「人間」についてのたとえ話です。

「悪霊」や「悪魔」の本来の住み家は「砂漠」であるという思想があったことがイザヤ書34章14節などで確認できます。また、悪霊が人間に憑依したり人間から出て行ったりする描写が聖書に繰り返し出てきます。現代的な心理学などない時代の物語です。

たとえ話のあらすじは次のとおり。

悪霊が人間から出て行って、古巣の砂漠に戻りました。しかし、砂漠には安住の地が見つからなかったので、「出て来たわが家」である人間の心に戻ることにしました。

すると、そこは空き家になっており、掃除までされて整えられていました(44節)。空き家ならいいだろうと、悪霊が自分よりも悪い 7 つの悪霊仲間を連れてきて住み着いたら、前よりも悪くなりました(45節)。

とても気になるのは、このたとえで主イエスが何を言おうとされているかです。悪霊は最初から出て行かなかったほうがよかったかのようです。悪霊が出て行ったばかりに、空き家ができて、掃除までされていたから、そこが悪の巣窟になって前より悪くなったというのであれば、悪霊が出て行かずに住み続けていればそうならなかった、という話にならないでしょうか。

それはいくらなんでもまずいでしょう。悪霊に取りつかれたままのほうが良かったと主イエスがお考えになるはずがありません。宣教活動の柱として「福音の宣べ伝え」と共に「悪霊払い」を行われたこととの整合性が取れません。

このたとえ話の大事なポイントは、人間から悪霊が「出て行った」と言われている意味は、悪霊の自由意志による選択の結果ではなく、聖霊の力によって〝追い出された〟と理解すべきであることです。「悪霊は初めから出て行かなければよかった」という理屈は成立しません。

しかし、悪霊が追い出された後の人間の心に「空白」ができることを主イエスはご存じです。「空き家」は心の「空白」です。この教えの最も大事な意味は、人間の心の「空白」を放置してはならないということです。

東京神学大学での私の最大の恩師である大木英夫教授が当時の学生相手に繰り返しお話しになったのは、先生が終戦直前まで陸軍幼年学校の生徒だったこと、生粋の皇国少年だったこと、しかし敗戦によって心に「空白」ができたこと、その「空白」をイエス・キリストが埋めてくださったこと、でした。

かつては熱心な信仰の持ち主だった人が、信仰を失ったら、その後は何も信じられなくなったという話をよく耳にします。その「空白」を悪魔が狙っています。それが主イエスの教えです。

それならば、どうすればよいのでしょうか。この問いのひとつの答えが、次の段落(46~50節)に記されています。

「イエスがなお群衆に話しておられるとき」(46節)という言葉が、今日の箇所の2つの段落(43~45節、46~50節)が内容的に続いていることを教えています。

まだお話し中の主イエスのところに「その母と兄弟たち」が訪ねて来ました。「話したいことがあって外に立っていた」(40節)と記されています。これで分かるのは、彼らが訪ねて来た目的は、主イエスの説教を聞くことではなかったということです。

血縁の家族は「部外者」ではありません。しかし、だいぶ距離をとられています。「我々は信者ではありませんから」と言われているかのようです。「参加者」(participant)ではなく「傍観者」(bystander)です。

「参加者」(participant)は「全体の部分(a part)になった人」を意味します。「自分は全体ではない」とか「一部分にすぎない」という一種の屈辱を伴う可能性があります。

「参加」(participation)には「勇気」(courage)が必要であると、ハーヴァード大学神学部などで教えた神学者パウル・ティリッヒ(Paul Tillich [1886-1965])が主張しました。

母親や弟たちに対して主イエスがおっしゃった言葉は、ある意味で突き放すような内容でした。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」(48節)。そして弟子たちのほうを指して「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(49~50節)。

同じ出来事を描いた並行記事が、マルコ( 3 章31~35節)とルカ( 8 章19~21節)の各福音書にあります。ルカ 8 章21節には「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と記されています。「わたしの天の父の御心を行うこと」とは「神の言葉を聞いて行うこと」であることが分かります。そうする人々の集まりが「教会」です。

しかし、それでは、その「教会」とはもう少し具体的に言うと何でしょうか。

私は岡山朝日高校の「倫理・社会」の授業で学びました。ドイツの社会学者フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies [1855-1936])が、共同体のあり方を「ゲマインシャフト」(Gemeinschaft)と「ゲゼルシャフト」(Gesellschaft)に区別したことで有名になりました。

この議論が「教会」とは何なのかを理解するために役に立ちます。中高生の皆さんは、そのうち学校の教室で習いますので、この機会にぜひ覚えてください。

「ゲマインシャフト」(Gemeinschaft)とは、地縁や血縁や友情などで自然的に発生する共同体のあり方を指します。家族や友達関係などが該当します。

それに対して「ゲゼルシャフト」(Gesellschaft)とは、共通の目的や利益をもって人為的に形成される共同体のあり方を指します。会社や政治団体などが該当します。

「教会」は「ゲマインシャフト」のほうだろうか、それとも「ゲゼルシャフト」のほうだろうかと考えてみることが大切です。「実は両面ある」というのが今日の結論です。

「教会」の中の自然発生的な地縁や血縁や世襲を否定すべきではありません。幼児洗礼の制度はそれの典型です。しかし、地縁や血縁から追い出された人や、その関係を失った人にとっては、「教会」こそが新しい人生の土台となるでしょう。

「教会はゲマインシャフトなのか、それともゲゼルシャフトなのか」というこの問いは、教会の歴史の初めからある「ユダヤ人キリスト者」と「異邦人キリスト者」の対立の問題に通じます。「世襲の信者」と「新来者」がなんとなくギクシャクすることは、教会の歴史の中で絶えたことがありません。

「教会」は血縁や地縁で守られている面があります。しかし、それだけでは閉じていくだけで、先細りになります。新しい仲間を広く受け入れなくてはなりません。

「教会」は「自国民ファースト」ではありません。職業、経済力、体や心の機能、ジェンダー等の違いについて、教会が自動的に無差別であるとは言えません。「差別しない努力」が求められます。私たちはだれでも受け入れられる「安息の家」を目指しています。

(2025年 8 月31日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年8月24日日曜日

伝わらない思い

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「伝わらない思い」

マタイによる福音書 10章16~25節

関口 康

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16節)

今日の箇所は、先週の箇所の続きです。主イエスが使徒派遣に際して語られた言葉です。10章の終わりまで続きます。これら一連の言葉から読み取ることができる、12人の使徒に対して持っておられた主イエスの思いは「心配」です。

主イエスの言葉を聞いて使徒たちの内心に反発があったかどうかは描かれていません。「弟子は師にまさるものではない」(24節)とも語られていますので。

「先生は我々のことを見下げたいだけなのか」とでも反発を抱いてくれる弟子がいたら主イエスはむしろお喜びになったでしょう。凶悪な存在が蠢(うごめ)く危険領域へと愛する弟子たちを派遣する主イエスの心境はどういうものだったかを想像することが大事です。

「殉教」を意味する「証しする」という言葉が、18節に出てきます。「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しすることになる」(18節)。これは使徒たちが殉教するであろうことの主イエスの見通しです。

しかし、だからといって主イエスは使徒の殉教を望んでおられません。むしろ「逃げること」を望んでおられます。23節に「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」とあるとおりです。

イエス・キリストはどの弟子に対しても、わたしたちに対しても、「自分と一緒に死んでほしい」とも「私のために死んでほしい」とも願われる方ではありません。正反対です。「私がひとりで死ぬから、どうかみんな逃げてくれ」と願う、それがまことの救い主イエス・キリストです。

主イエスご自身も使徒たちも、これから危険なところへ出かけていくのですが、ここで大事なことは、私たちが非武装であることです。完全に丸腰です。拳銃もライフルも持ちません。戦車も戦闘機も戦艦も乗りません。それを無力と言うなら完全に無力です。だからこそ、こう言われました。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(16節)。

蛇について「賢く」と訳されている言葉(聖書協会共同訳も「賢く」)は複数の意味を持っています。蛇と言われるとどうしても「怖い」というイメージを持つ人が多いと思います。蛇は獲物を見つけると突進してきて毒牙で噛みついてきます。口に入りさえすれば何でも吞み込めるようで、牛ほどの大きな獲物でも丸呑みします。「ヘビはモチを詰まらせるか」というネットの記事があって、それには笑ってしまいましたが、笑いごとではないかもしれません。

もうひとつ「蛇」に対して私たちがどうしても否定的なイメージを抱く理由として、創世記3章に登場する、エバとアダムをそそのかす「蛇」を思い出すから、という点を挙げることができるでしょう。

創世記3章に登場する「蛇」は、たしかに悪の象徴です。しかし、今日の箇所で主イエスが引き合いに出しておられる「蛇」は違います。

「賢い」という翻訳は「ずる」を付けて「ずる賢い」と言いやすいので悪いイメージにつながりやすいです。しかし、それでは、主イエスは「蛇のように凶暴な人になりなさい」と言われたでしょうか。「危険な状況の中で強くしぶとく生きるには、人をだませるぐらいのずる賢い人間になることも必要悪である」というような悪人化のすすめをなさったでしょうか。

そんなことを主イエスが言うわけがないのです。そうではなく、主イエスは「蛇のように賢く」という言葉を肯定的な意味で語っておられます。なぜそう言えるのかについて、以下、説明いたします。

「蛇」が「用心深い」とは何を意味するのかについて、興味深い説明があることを知りました。スイスのローザンヌ大学神学部などで新約聖書学教授を勤めたピエール・ボナール教授(Prof. Dr. Pierre Bonnard [1911-2003])の説です(ボナール教授はフランス語圏のプロテスタント教会への影響力の強さにおいてカール・バルトと肩を並べる存在でした)。

ボナール教授の説明によると、蛇にはまぶたがなく、常に目覚めている(ように見える)ので「蛇のように」の意味は「用心深い」であるということです。もうひとつ、蛇は獲物を捕食すると寄り道せずに自分の巣にストレートに帰るので、「蛇のように」は「シンプルであること」を意味するということです。

蛇にまぶたがないことを、お恥ずかしながら私は知りませんでした。目の表面に透明なうろこがあって目を保護しているそうです。蛇は目を閉じることがありません。しかし、それをもって蛇を「用心深い」とするのは、あくまでイメージです。ヘビも動けば疲れますから休息しないわけがありません。目を開けたまま寝ているのでしょう。

「鳩のように素直であれ」のほうはどうでしょう。聖書協会共同訳は「素直」ではなく「無垢」と訳しています。これもあくまでイメージです。

「鳩」と言えば「騙されやすい」と否定的な意味でとらえる解釈もあるようです。しかし、ここで主イエスが言われているのは、これも肯定的な意味です。「鳩」は純粋さ、純真さ、単純さ、正直さ、オープンさ、抑制されていなさ、傷つけられていなさ、損なわれていなさ、堕落(または腐敗)していなさの象徴です。

「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」(17節)とあります。主イエスは「最高法院」に引き渡されました。使徒たちは「地方法院」(συνέδρια シュネドリア)に引き渡されます。「最高法院」も「地方法院」も、ギリシア語原文は同じシュネドリアです。文脈によって訳し分けられているようです。

「最高法院」は、70人の議員と議長1名を加えた71名で構成されていたユダヤ社会の最高権力者集団でした。「地方法院」は、120人以上の成人男子が住む都市に存在した、23人の議員で構成された、最高法院の地方支部でした。

ユダヤ人の間での鞭打ち刑は、普通の革紐で作られた鞭で行われました。ローマ法の鞭打ち刑は3種類ありました。

①自由民(freemen)に対しては、数本を束にした木製の笞(stick)が使用されました。

②軍隊内では、棍棒(rod)が使用されました。

③奴隷に対しては、多くの釘(spikes)を先端に付けた皮の鞭(scourges)、または多くの骨片(羊の指の関節)や鉛玉を鎖状につないだ鞭(whip)が用いられました。

主イエスに対して行われた鞭打ち刑は、③でした。

ユダヤの鞭打ち刑は、会堂(シナゴーグ)で会堂員によって執行されました。

その場に、地元の地方法院(シュネドリア)の議員が、3名立ち会いました。

1人目が、申命記28章58節以下、29章8節、詩篇78編38節を朗読しました。

2人目は、むち打ちの数を数えました。その際、申命記25章3節「40回までは打ってもよいが、それ以上はいけない」に基づき、40から1を引いた回数(39回)を執行人に打たせました。使徒パウロがⅡコリント11章24節で「40から1を引いた鞭を打たれた」と証言しています。

3人目が、むち打ちごとに命令を下しました。

「神の罰」としての鞭打ち刑は、神の言葉としての律法(トーラー)に基づき、宗教施設としての会堂(シナゴーグ)で行われる、一種の宗教的行為でした。

しかし、そのような時代は、終わらせなくてはなりません。

私たちはどこまでも、言論(ことば)で思いを伝えます。

(2025年8月24日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

教会学校(2025年度第2回:夏休み会)報告


2025年8月24日(日)午前9時より、子ども向けの「教会学校」を行いました。

礼拝もおやつタイムも楽しかったです。

ご協力くださった皆様に感謝いたします。

次回の「教会学校」は11月23日(日)午前9時からです。

収穫感謝会として行います。ぜひ出席してください。

2025年8月17日日曜日

使徒派遣

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「使徒派遣」

マタイによる福音書10章5~15節

関口 康

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8節)

今日の箇所に描かれているのは、イエス・キリストが多くの弟子の中から12人の弟子をお呼びになり、彼らに「使徒」と名付け、「権能」を与え、宣教の働きへと派遣なさった場面です。

イエスが12人の弟子に与えた「権能」(ギリシア語ἐξουσία エクソウシア)は、英語のauthority(オーソリティ)です。「権能」の定義は難しいです。主イエスと同じステージに立って同じことができるようになるための許認可のようなことです。

「同じことができる」の意味は、働きのスタートラインにつかせていただくことです。主イエスと同等の能力がすでに備わり、同等の結果を出すことができるということではありません。

12人の弟子に主イエスが「使徒」(英語Apostle アポッスル)と名付けられました。「十二使徒」(δώδεκα ἀποστόλων ドーデカ・アポストーロン)の名簿は、マタイ(10章2~3節)、マルコ(3章16~19節)、ルカ(6章14~16節)の各福音書にあります。この名簿に「徴税人マタイ」や「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」の名前があります。

「12人の使徒」作画・関口 康

「使徒」と呼ばれる存在は、この12人と、イスカリオテのユダの後任として選ばれたマティア、そして後に使徒となったパウロだけです。しかし、主イエスから使徒に与えられた「権能」は、彼らの代で終了したわけでありません。

使徒の働きの本質は「宣教」、すなわち福音をあまねく宣べ伝え、神のみわざを地上で行うことです。その「権能」を継承するための制度化が、キリスト教会の歴史の中で行われました。

それは、たとえば日本基督教団の教師検定制度のようなものになりました。旧約聖書・新約聖書の語学や解釈、2000年のキリスト教会の歴史、キリスト教の現代的な理解や様々な議論、説教やカウンセリングなどの試験に合格すれば、「権能」が授けられるようになりました。

もうひとつ大事なことは「12」という数字です。なぜ使徒は「12人」でしょうか。間違いなく、古代イスラエル王国が「12部族」で構成されていたことと関係あります。アブラハム、イサク、ヤコブと3代続く族長の3代目のヤコブに、神が「イスラエル」という名を与え、ヤコブの12人の子どもたち(創世記35章23~26節など)が、イスラエル12部族の祖先になりました。

使徒の時代にはユダ族とベニヤミン族の2部族だけが残存していて、ユダヤ地方を形成していました。しかし、ユダヤ人たちの自己理解においては、あくまで自分たちはモーセとダビデの時代から続く12部族の連合体としてのイスラエル王国を受け継ぐ存在であると信じていました。

5節以下の主イエスの言葉の中に「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」とあります。この「失われた羊」は「ユダ族とベニヤミン族を除く10部族」だけを指すと狭く受け取るべきではありません。しかし、イスラエルには多くの「失われた羊」がいるという事実を、彼ら自身が強く自覚していたと考えることは可能です。

ところで、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」という主イエスの教えの意味は何でしょうか。ユダヤ人は神を信じる民です。その人々に福音を宣べ伝えるというのは、すでに神を信じている人々に「神を信じてください」と言っているのと同じです。

それは、私たちの文脈に置き換えて言えば、かつて教会生活を熱心になさっていた方々や、他の教会でつまずいて教会生活ができなくなっておられる方々へのアプローチから取り組みなさいと言われているのと同じです。かつて熱心だったことがあるからこそ、「二度と信じまい、二度と教会に足を踏み入れまい」と心に誓っておられる方々がおられるかもしれません。

主イエスは「異邦人の道に行ってはならない。またサマリア人の町に入ってはならない」(5節)とも言われています。異邦人とサマリア人は当時のユダヤ人にとって軽蔑と差別の対象でした。主イエスは差別主義者なのでしょうか。そのように誤解されそうな危険な発言です。

しかし、この件は冷静に考えることが大切です。使徒たちの働きに「範囲」や「限界」が設けられたと考えることができないでしょうか。

どんな仕事にも役割分担があり、仕事の範囲があります。使徒は人間です。時間と空間の枠の中で生き、体力にも気力にも限界があります。限界を超えると過労死の原因になります。使徒たちにはユダヤ人伝道という働きがあり、他の人々には異なる働きがあるのです。

8節以下に具体的な指示が細かく記されていますが、大事なことはひとつです。それは、使徒たちの働きは「無償」であるということです。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8節)というのが至上命令です。

「使徒派遣」作画・関口 康

これは今日の教会にも当てはまります。教会の教師と役員の働きは「無償」です。これは理想主義ではありません。有償にするとたちまち格付けランキング競争が始まるでしょう。この牧師の説教の日の入場料はいくら。あの牧師よりも上か下か。座る席まで変わって来るでしょう。礼拝堂の前から順に「S席、A席、B席」。

毎週日曜の礼拝で「席上献金」をどのタイミングで行うかの議論で「説教後にすると金額が変動するので説教前のほうがいい」という意見があるのをご存じでしょうか。おひねりの感覚なら、そうなるでしょう。教会がそんなふうになってよいでしょうか。

そもそも牧師の給与は「説教の回数×〇〇円」ではありません。講演料をいただいているのではありません。特別礼拝の講師に謝礼を支払うこととそれは意味が違います。

「無牧(=定住牧師がいないこと)の教会は、他の教会から来てくださるいろんな牧師の説教を週替わりで聞けて、定住牧師とその家族の生活を支える必要がないので安上がりである」と言う人々に出会ったことがあります。反論したことはありませんが、私はいちいち傷ついています。定住牧師の存在が本当に必要かどうかは、自分自身で証明するしかなさそうです。

「神の言葉は無償である」という点はユダヤ教も同じ考えでした。律法学者がトーラーの知識を私利私欲に用いるのは間違っている。トーラーは土を掘るスコップではないし、金銭を得る手段ではないと、ラビ文書に記されています。

それでは、使徒、律法学者、牧師は、どのようにして生きていけばよいのでしょうか。主イエスの教えは次のとおりです。

「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には、袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(9~10節)。

この教えの趣旨は、禁欲や苦行のすすめではありません。任務遂行に遅れをとらないようにするために「何も持たないこと」が求められています。旅に必要な最低限の物資があれば、それで十分です。旅の食料は供給されます。

牧師の給与の話にしてしまいますと、その趣旨は「食費」であるということです。食費以上を要求する人は「偽預言者」であると『十二使徒の教訓(ディダケー)』11章6節に記されています(説教「人生の土台」2025年7月27日参照)。

飢え死にしない程度で大丈夫です。最終的には、神が天からマナを降らしてくださるでしょう(出エジプト記16章)。

(2025年8月16日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年8月10日日曜日

孤独な人々と生きる

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「孤独な人々と生きる」

マタイによる福音書 9 章 9 ~13節

関口 康

「ファリサイ派の人々はこれを見て弟子たちに『なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である』」(11-12節)

10月12日(日)に北村慈郎牧師をお迎えして「特別礼拝・講演会」を行うことになりました。主題は「これからの教会と日本基督教団」でお願いしますとお伝えして、快諾を得ました。

画像をクリックすると特別礼拝のページにジャンプします

このテーマについては、ご著書『自立と共生の場としての教会』(新教出版社、2009年)の中にほぼ記していますと北村先生が教えてくださいました。古書店に注文し、一昨日届きました。

北村慈郎著
『自立と共生の場としての教会』
(新教出版社、2009年)

「今年も皆さんに暑中見舞いをお送りします」と言いながらまだ送れていないことを申し訳なく思っています。10月12日特別礼拝の案内をどうしても書きたかったので遅くなりました。立秋を過ぎましたので「残暑見舞い」になります。ご理解いただけますと幸いです。

北村先生の『自立と共生の場としての教会』(2009年)の内容については著者ご自身からお話を伺える運びになりましたので、私が先回りして取り上げるのはやめておきます。しかし、予習のためにヒントを出します。

第 1 章の冒頭に、北村先生が目指してこられた「教会のあり方」について 3 つのポイントが挙げられています(21~23頁)。穴埋め問題の答えは10月12日(日)に発表します。

Ⅰ 共に生きる場としての教会の担い手は(①   )であること。

Ⅱ 牧師は本質的には(②   )が、現実的には(③   )であること。

Ⅲ 教会員ひとりひとりが(④   )していく(⑤   )が大切であること。


これは私も完全に同意します。北村先生ともっと早くお会いしていれば、牧師としての私の歩みが全く違ったものになっていただろうと思うほどです。

しかし、このようなことをいくら言っても無駄なので、神のご計画と導きにより、私なりの道をまるで這うように通って来て、足立梅田教会にたどり着いたと信じます。やっと納得できる線が見えてきました。 

私は日本基督教団の教師(最初は補教師、後に正教師)になって今年で35年目です。途中19年は日本キリスト改革派教会にいましたので、そこはカウントされないと判断されて東京教区東支区の「伝道30年」の記念品をもらい損ねましたが、どうでもいいことです。

それよりも重要なことは、35年という長さがちょうど、足立梅田教会の創立者、藤村靖一先生が当教会の牧師であられた期間(1953~1969年、1974~1993年)と同じであることです。途中の1969年から1974年までの 5 年間、北村慈郎先生が第 2 代牧師になられました。

私自身の35年を思い出します。藤村先生とはお会いすることができませんでしたが、藤村先生が牧師として足立梅田教会の皆さんとお付き合いになった35年の重みを、私が牧師としての自分と向き合わされた35年を思い起こすことにおいて感じることができます。 

昨年の春までは、足立梅田教会の皆さんとも北村慈郎先生とも面識がなかった私です。しかし、日本基督教団や日本のキリスト教界のつながりの中で全く無関係に生きてきたわけでもなかったことが次第に分かって来るのが、人知を超えた神のご計画の一側面でもあります。

今日の聖書箇所はこの福音書の著者マタイの物語です。マタイは徴税人でした。「徴税人マタイ」という表現が、主イエスの12人の弟子のリスト(マタイ10章 1 ~ 4 節)に出てきます。

主イエスの弟子のひとりの「徴税人マタイ」とマタイ福音書の著者マタイとが同一人物である可能性を示すデータを、私がいつも参考にしているマタイ福音書註解(J. T. Nielsen, PNT, 1971)に基づいて追加します。

a. 主イエスが食事された「家」(10節)はマタイの家。宴会に大勢招けるほど資産家だった。

b. 「徴税人」はギリシア語の知識が不可欠。「徴税人マタイ」はギリシア語使い。

c. 「マタイ」は「神からの賜物」を意味するヘブライ語「Mattatjah」または「Mattatjahoe」の略語MattaiMatjaMatjah等に由来し、ユダヤ地方出身者であることを示している。

d. マタイ福音書の著者は、ヘブライ語、アラム語、律法、預言者、ユダヤの伝統に精通している。


「福音書」は書物です。出版資金がなければ世に出ることはありません。財力と語学力を持ち、主イエスの身近にいた人しか知りえない情報を熟知し、背景の歴史や文化を描く知識と教養まで兼ね備えた人物は、そう多くはいないでしょう。

「徴税人」は、ローマ帝国に納める税金をユダヤ人から集める仕事です。ローマ人は徴税人を、通常は占領地の住民の中から、個人または団体で、通常 5 年契約で雇用しました。徴税人に与えられた裁量は、納税者に課する税金の金額を徴税人自身が完全に決めることができたことです。それで、しばしば法外な要求を自国民に強いたことが、徴税人が憎まれた理由です。

ユダヤ人の徴税人は、異教徒のローマ人と付き合いがあると言っては軽蔑され、占領軍の協力者であると見られては忌み嫌われました。完全に職業差別ですが、当時の徴税人は窃盗犯や強盗と同類扱いでした。ルカ19章の徴税人ザアカイも、マタイ同様、孤独な人でした。

今日の箇所に出てくるもうひとつのグループは「罪人」(10節)です。「罪人」と呼ばれているのは一般的な意味ではなく、ユダヤ教ファリサイ派による解釈に基づくトーラー(律法)の守り方をしない人々を指します。

ファリサイ派が当時のユダヤ教の主流派で、権力を持っていたので、「罪人」呼ばわりされた人々は、ファリサイ派からだけでなく、国民の多くからも距離を置かれ、爪弾きにされました。彼らは孤独な人でした。

ファリサイ派は、神の御心についての彼らの解釈に従って行動しました。この人々はヘブライ語の動詞「ファラッシュ」に由来するグループ名を背負う「分離主義者」であり、このグループの主張に基づくトーラー解釈に従わないすべての人を「罪人」と呼んで攻撃したり無視したりしたため、だれもかれもが「罪人」でした。

そのため、ファリサイ派の人々自身も、孤独を感じていたはずです。本人の自覚としては、信念と美学に基づく「孤高」だと思い込みたいでしょうが、外見上は大差ありません。さんざん人を切り捨て見下げた結果は、ひとりの友もいなくなった孤独な人になることです。

主イエスのお答えは、「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である」(12節)、そして「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くためである」(13節)でした。

真の救い主イエス・キリストは、「徴税人」とも、「罪人」とも、そして「ファリサイ派」とも、共に生きておられます。孤独な人々と共におられます。

主イエスと共にある教会は、孤独な人々と生きていきます。

(2025年 8 月10日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年8月4日月曜日

2025年 9 月の予定

 9 月 7 日(日)「教会の歩みはこれからも続く」教会創立記念礼拝

 9 月13日(土)教会創立記念日(創立72周年)

 9 月14日(日)「復活の体

 9 月21日(日)「教会の一致

 9 月28日(日)東京教区東支区講壇交換

 足立梅田教会「ここにも確かにおられる主」堀川樹牧師(亀戸教会)

 大島元村教会「仲間を赦さない家来のたとえ」関口康牧師(足立梅田教会)