2025年11月30日日曜日

終末と希望

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「終末と希望」

テサロニケの信徒への手紙一 5 章 1 ~11節

関口 康

「主はわたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(10節)

説教題として最初に考えたのは「たとえ世界が滅びても」でした。近年、日本の小説やテレビや映画のタイトルやセリフに見かけるようになりました。この言葉には続きがあります。

「たとえ明日世界が滅びようとも、今日われらはなおリンゴの木を植えるだろう」(Und wenn morgen die Welt unter ginge, so wollen wir doch heute noch unser Apfelbäumchen pflanzen)

これは16世紀の宗教改革者マルティン・ルター(Martin Luther [1483-1546])の言葉として紹介されてきました。しかし、これが本当にルターの言葉かどうかに議論があります。マルティン・シュレーマンの『ルターのりんごの木』棟居洋訳、教文館、2015年)をぜひお読みください。シュレーマンの結論は「これはルターの言葉ではない」です。

シュレーマン『ルターのりんごの木』2015年

今日はテサロニケの信徒への手紙一を開きました。使徒パウロの手紙です。紀元50年ごろに書かれたもので、「現存するパウロの最古の手紙」であるだけでなく、「新約聖書の最古の文書」です(ヴィリー・マルクスセン『新約聖書緒論』(渡辺康麿訳、教文館、1984年、78頁参照)。

古文書の成立年代推定には根拠が必要です。そのひとつは「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められた」( 2 章 2 節)や「テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て」( 3 章 6 節)という描写を使徒言行録や他のパウロ書簡と比較して見えてくる結論です。

もうひとつは、パウロの教えの「初期」と「後期」に変化があることを認めて、どちらなのかを見分けることです。

 4 章13節から始まる話題は、世界の終末においてイエス・キリストが再び来られることについてです。パルーシア(παρουσία)と言い、「再臨」や「来臨」と訳されます。

パウロは、自分が生きている間にパルーシアが起こると、この手紙を書いたころは本気で信じていました。しかし、そうならないことが分かってトーンダウンし、やがて「再臨」について書かなくなります。それがパウロの変化です。

しかし、このような「聖書の歴史的批評的な読み方」に苦痛や反発を感じる方々が、現在世界24億人と言われるキリスト者の中にいます。聖書の言葉はすべて文字通りに実現すると信じている人々がこの箇所を説明するために用いる言葉が「携挙」(rapture)です。

まさに文字通り、世界の終末に信仰の先達とその時点で生きている人が空を飛び、彼方から飛んで来られる主イエスと空中で出会い、共に雲に包まれて携挙されます。まさにスペクタクル。

しかし、そのような非科学的なことが起こるはずはないと考えるキリスト者も大勢います。

先々週11月20日(木)五反田にあるゲンロンカフェで「宗教国家アメリカはどこへいく」というテーマで、新潮選書『アメリカの新右翼』の著者・井上弘貴氏と、中公新書『福音派』の著者・加藤喜之氏と、政治学者・三牧聖子氏の鼎談が開催されたので観覧しました。聖書の「終末論」がアメリカ社会を分断している、というのです。

『福音派』『アメリカの新右翼』

青土社(せいどしゃ)の雑誌『現代思想』11月号の特集が「終末論を考える」であると相生教会の本竜晋牧師から教えていただき、それも購入しました。なんと驚くべきことに、「終末論」が現代思想のトレンドであることが分かりました。

『現代思想』11月号 特集「終末論」を考える

 4 章16節以下について、ルターが「1532年 8 月22日付け」の文書で説明しています。

「これはたとえ話(verba Allegorica)です。子どもや単純な人に分かるように華々しい領主の行列にたとえています」(Martin Luther, Weimarer Ausgabe, 36, S. 268. M. H. Bolkestein, De brieven aan de Thessalonicenzen, Prediking van het Nieuwe Testament (PNT), 1970, p. 118からの再引用)。 

ルターが言ってくれているとおり、これは「たとえ話」(verba Allegorica)です。私たちは空を飛ばなくても大丈夫です。4 章17節は、後半に「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と記されているとおり、 5 章10節の「わたしたちが目覚めていても眠っていても主と共に生きるようになる」と趣旨が同じです。

あなたと主イエスの関係は永遠であり、生きているときも死んでからも同じように主イエスが共にいてくださるという慰めの言葉が語られていると分かれば、それで十分なのです。

マルティン・ルター

「それならば、今死んでも同じではないか。早くイエスさまにお会いしたい」と私たちは考えません。人生がつらいのは分かります。しかし、私たちは、たとえ明日世界が滅びようと、地味で地道な日常生活を営み続けます。そうする他ないではありませんか。

そして、私たちはパウロの教えに従って「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んで」( 8 節)いようと思います。

「信仰、希望、愛」の組み合わせは、本書 1 章 3 節やコリントの信徒への手紙一13章13節にもあります。ここで大事なことは、私たちが身に着けることをすすめられているのは「胸当て」と「兜」、つまり自分を守るための防具だけであるということです。攻撃するための武器はありません。「信仰」や「愛」を武器にして他者を攻撃してはいけません。

さて、ここで少し話題の方向が変わります。今日は「終末と希望」についてお話ししています。「終末」が「たとえ明日世界が滅びようとも」に当たり、「希望」は「今日われらはなおりんごの木を植えるだろう」に当たると考えていただきたいです。

すべての命あるものに終わりがあるように、世界も必ず終わりを迎えます。そのとき「教会」は何をすべきでしょうか。私たちの「りんごの木」は何でしょうか。

ファン・ルーラーは「教会はそれ自体で目的でもある」(De kerk is ook doel in zichzelf)と教えました。日本で学生運動が盛んだった1960年代に、ヨーロッパの大学でも「世界同時革命」を呼びかける学生が多くいました。

そのころ流行した神学思想の中に「目標は世界の未来である。教会は手段に過ぎない」と教え、「教会」を「革命の拠点」としてとらえるものがありました。

その教えに反対するために、ファン・ルーラーが1960年に「教会はそれ自体で目的でもある」という講義をドイツで行いました(『ファン・ルーラー著作集』第5A巻、ブーケンセントルム社、2020年、232~247頁)。

『ファン・ルーラー著作集』第5A巻(2020年)・第5C巻(2023年)


その講義の趣旨は、教会が自己目的化し、内向きになるのがよろしくないことは理解できるが、それでは教会自身には目的も目標もないのかというと、そうではない、ということです。

オランダの教会も同じですが、日本のプロテスタントは「教会に行く」といえば「説教を聴きに行くこと」と同じ意味だった時代が長かったと思います。その後、聖餐式の価値が認められてきましたが、そのあたりで止まってしまいました。

ファン・ルーラーが「教会の目的」として強調しているのは「讃美歌」です。「礼拝」にみんなで集まり、共に歌い、共に祈る交わりそのものに、他に代えがたい価値があることを強調しています。私も大賛成です。

何よりファン・ルーラーにとって「宗教改革」(Reformatie)とは「大掃除」(grote schoongemaak)でした。それは「革命」ではありませんでした。

これもたとえ話ですが、「部屋の掃除をするのが面倒くさいから、家を壊して建て直す」というなら「革命」かもしれませんが、それは暴力です。「掃除」は「革命」ではありません。そこにすでにあるものを、ホコリを払って磨いて活用するだけです。それは人間に対する見方にも通じます。プロテスタント教会は「革命」を求めず「改革」を続けます。

教会だけが「目的」ではありません。神の創造のみわざの目的は、人間をキリスト者にすることではありません。教会だけが残ることが世界の目的ではありません。教会は社会との共存を求めます。科学技術の進歩の恩恵にあずかっています。

しかし、現実はどうでしょう。人工知能の進歩によって今後奪われる職種は 2 万と言われます。「超富裕層」(3000万ドルあるいは45億円以上)は30万人、世界人口の0.005パーセントです。大多数は「貧困層」です。どうしてこれほどバランスが崩れてしまったのでしょうか。科学技術は人類を幸せにしたでしょうか。

「本当の自由は何か」「善き未来とは何か」は全人類の真剣な問いです。これらの問いに真剣に取り組んでいるルドガー・ブレグマン『希望の歴史』上・下巻(野中香方子訳、文藝春秋社、2021年)と、敬愛する水島治郎先生の『オランダは、「自由の国」だったのか』(NHK出版、2025年)を推薦いたします。

『オランダは、「自由な国」だったのか』『希望の歴史』

教会は社会の問題を考える場でもあります。たとえば、もし聖書の「終末論」の間違った解釈が戦争の原因になっているとしたら、教会がそれを無視できるはずがないではありませんか。

最後にもう一度、ファン・ルーラーの言葉を紹介します。

「キリスト教の視点からすれば、いかなる否定的なことに対しても、人類は肯定的にしか立ちません。たとえ世界が滅びても、その滅亡を人類は共に乗り越えます。最後の瞬間でさえ、別の世界へ逃げません」(「聖書の未来待望と地上の視点」(Bijbelse toekomstverwachting en aards perspectief) 『ファン・ルーラー著作集』第5C巻、ブーケンセントルム社、2023年、952頁)

私もファン・ルーラーと同じ思いです。私たちは「ここではない、どこか」へ逃げても、人間が罪から逃れられないかぎり、破局の現実はどこまでも追いかけてきます。

現実に踏みとどまって、身近なところから「改革」しようではありませんか。それは「革命」ではありません。忍耐強く、部屋を片付けていくのです。そうするだけで、自由に使える生活空間が広がります。それが私たちの「希望」です。

(2025年11月30日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年11月23日日曜日

あなたの宝 収穫感謝日礼拝

このイラストは人工知能Copilotに描いてもらいました
日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「あなたの宝」収穫感謝日礼拝

マルコによる福音書10章17~31節

関口 康

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(25節)

今日は収穫感謝日です。午前 9 時からの教会学校で収穫感謝会を行いました。コロナ明けから年 4 回を目標に再開した教会学校ですが、当日までどなたが出席してくださるか分からないので、全年齢向けの「収穫感謝クイズ」を考えました。楽しんでいただけたと思います。問題と答えをブログに書いておきますので、みなさんもぜひどうぞ。

今日の聖書の箇所は、収穫感謝日と直接的な関係はありません。しかし、話題の中心は「お金」の問題なので、間接的な関係はあります。「お金」の問題も「収穫」の問題も「生活」の問題であり、「人生」の問題です。

新約聖書の 4 つの福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカが、このときの様子を描いています。非常に生き生きと詳細に描写されているため、目撃証言があったのかもしれません。登場人物は「金持ち」です。リッチパーソンです。

この人が主イエスのもとに走り寄ってひざまずき、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)と質問しました。すると、主イエスは「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)と、冷たさを感じる言葉で突き放されました。

この拒絶についていくつかの解釈があることが分かりました(*ヴィンセント・テイラーによると 6 つ)。私が最も説得力を感じたのは、「イエスはこの答えによって金持ちのへつらいを正そうとした」という解釈です。

「へつらい」とは、お世辞を言うこと、言葉や態度で相手に媚びることです。それらはすべて、人がお金持ちになるために必要な手段かもしれません。しかし、主イエスは逆質問することで自分の言葉を説明させ、言葉巧みに他人の地位や権力を利用しようとする自分の軽薄さに気づかせようとしておられます。「私にお世辞は通用しない」とおっしゃっているようでもあります。

ところで、この人は「永遠の命」を受け継ぐ方法を主イエスに尋ねています。永遠の命とは文字通り「永遠に生きること」なので「復活」を指します。それは死も苦しみも悲しみも克服された命なので「救い」とほとんど同じ意味です。

ユダヤ人の理解によれば、永遠の命は「受け継ぐ」ことができる賜物です。それで、この人は主イエスに、「永遠の命を受け継ぐために何をすればよいか」を尋ねています。しかし、この質問の表現がこの人自身の思考パターンを露呈しています。それは「永遠の命を受け継ぐために人は必ず何かをしなければならない」という考え方です。

しかも、この人は「金持ち」でした。お世辞を言いながら近づく相手に取り入る手段は「お金」でしょう。もしそれで正しいなら、この人が主イエスに尋ねているのは自分の救いに必要な金額です。「要するにいくらですか」です。多すぎもせず少なすぎもしない「相場」はいくらですかと尋ねたいのです。

この人はお金は持っています。それは生涯かけての血のにじむ努力の証拠でしょう。私のように一生懸命がんばって来た者を救わない神はありえないでしょう。私の救いはいくらですか。まさかタダではないでしょう。貧しい人でも手に入る安っぽいものではないでしょう。がんばった私とがんばらなかった人たちが同じということは、まさかないでしょう。私の救いはいくらですか。いくら払えばもらえますか。お金ならいくらでもあります。ずばり金額を教えてください。そのように言おうとしています。

主イエスは、これで二度目ですが、この人の言い分を拒絶なさいました。冷たい感じがするかもしれませんが、私たちに全く理解できないことではないはずです。

私たちもまた、教会生活を続けている中で、いろんな人に出会います。牧師の私にも「要するにいくらですか」と相場を尋ねる方が現れます。金に物を言わせるタイプの人が登場します。そうなると、教会のわたしたちはとても困ります。「そういう問題ではありません」とはっきり言わなくてはならない場面に実際に立ち会います。

主イエスがこの人にお求めになったのは、モーセの十戒の「第二の板」(第五戒から第十戒まで)の「隣人愛」の教えを守ることです(19節)。するとこの人が「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と返して来たので(20節)主イエスはこの人を見つめ、慈しんで「あなたに欠けているものがひとつある。行って、持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。(中略)それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいました(21節)。

主イエスがこの人にお求めになったのは、「隣人愛」の教えを学び、それを実践することです。「隣人愛」とは、先週学んだボンヘッファーの言葉を繰り返せば「他者のために存在すること」です。

あなたは自分の宝を「他者」と分け合っていないからリッチなのです。自分のものを抱え込み、積み上げ、守り抜くけれども、他者のためには用いようとしない。「他者を愛すること」ができない人は、神の戒めを守ったことになりません。そのことを、主イエスは教えておられます。

私は今このことをお話ししながら、平気な顔をしていません。私にはお金がないので、自分のものを売り払ってだれかに施すとしたら、毎日の食生活が成り立ちません。切り詰めて生きているつもりですが、これでもまだ贅沢しているように見える要素があるかもしれません。

「あなたはそれでも『他者のための存在』であると言えるのか、自分のことしかしていないではないか。牧師だとか言って、世のためにも人のためにも何の役にも立っていないではないか」と責められていることも自覚しています。申し訳ない気持ちでいっぱいです。

この人は主イエスの言葉に傷つき、悲しみながら立ち去りました。主イエスのほうも、この人を追いかけません。

弟子たちの中に「せっかくリッチな人が来てくれたのに、先生が傷つけるようなことを言うからいなくなった。もったいない」と思った人がいたかもしれません。教会も財政難のときには同じことを考える可能性があります。

しかし、そこに譲れない線があるのです。金に物を言わせようとする人は、信仰の交わりを壊します。イエス・キリストの教会はそういう理屈で動きません。

それは「教会とは何か」という問題でもあります。教会は、あなたの宝をガードするための「砦」(とりで)なのか。それとも、いろんなタイプの方々を広く受け入れ、互いに助け合い、分かち合うための、開かれた「広場」なのか。その開かれた広場の中での出会いこそが、あなたの宝なのか。

主イエスがおっしゃっている「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(25節)という、ジョークとは言えませんがユーモアの要素を多く含んでいるたとえは、それが絶対に不可能であることを示すためのものです。それ以外の意味はありません。

ラクダが針の穴を通ることは絶対に不可能です。同じように、金持ちは金持ちのままでは救われません。「他者のための存在」になることが求められています。それは、あなたの宝を「他者」のために用い、分け合うことです。

救いはお金では買えません。裕福な人だけが手に入れることができ、貧しい人には手に入らないものではありません。

「人が救われるのは人間の努力や功績によってではなく、信仰によること」を主イエスは教えておられます。この教えを使徒パウロも受け継いでいます。

(2025年11月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

教会学校 収穫感謝会クイズ

問題 1

野菜と果物の違いを短く簡単に説明してください。

人工知能 ChatGPT(チャットジーピーティー)に答えてもらいました。

「野菜は主に料理の(①   )として使われるもので、例えば葉や根、茎などを食べます。一方、果物は甘みがあり、(②   )として食べるもので、種を含む実を食べます。これが大まかな違いです」

問題 2

人工知能 Copilot(コピロット)に収穫前のこんにゃくを描いてもらいました。これで正しい場合は〇、間違っている場合は×を書いてください⇒(③   )


問題 3

こんにゃくの生産量が日本で最も多いのは(④   )県です。全国の 9 割を占めます。

問題 4

こんにゃくは食べ過ぎると危険です。なぜでしょうか。⇒(⑤理由   )

問題 5

グラス(コップ)が8種類あります。それぞれの名前を語群の中から選んで答えてください。


前列左から
(⑥   )グラス、ロックグラス、ショットグラス、シャンパングラス

後列左から
(⑦   )グラス、カクテルグラス、(⑧   )グラス、ワイングラス

語群 タンブラー ゴブレット ピルスナー 

問題6

ごはんとみそ汁を並べるとき、みそ汁は右左どちらでしょうか。⇒(⑨   )
(※地方によって置き方が逆の場合があります)

問題7

ベトナムの「フォー」の主な原料は(⑩   )です。


2025年11月19日水曜日

「牧師館」ページを新設しました

狭義の書斎


当ブログに「牧師館」ページを新設しました。

画面上に「牧師館」ボタンを新設しました。

今後、いろいろ展開していきたいと願っています。

足立梅田教会「牧師館」ページURL

https://www.adachiumeda.church/p/parsonage.html

2025年11月16日日曜日

人の罪を赦す

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「人の罪を赦す」

コロサイの信徒への手紙 3 章12~17節

関口 康

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(13節)

私事(わたくしごと)から始めることをお許しください。今日は私の60歳の誕生日です。先週11月 9 日(日)11月定例役員会で、私の 3 年任期を無期にしていただくことが承認されました。風来坊として生きてきましたが、夢と希望とロマンにあふれる年齢ではありません。そろそろ腰を据えて働かせていただく所存です。

今日はコロサイの信徒への手紙を開きました。先週エフェソの信徒への手紙について申し上げたのと同じことを言わなくてはなりません。 1 章 1 節に「使徒パウロ」が書いた手紙であると記されていますが、パウロの名を借りただれかが書いたものであると考えられるようになりました。そのような議論があることを踏まえたうえで、今日も「パウロが」と言わせていただきます。

もうひとつ先週と同じことを言わなくてはなりません。今日の箇所に記されていることも一般論ではなく、教会内部の事柄です。教会生活の中で「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けること」を求めています。そして、イエス・キリストがあなたがたの罪を赦してくださったように、あなたがたも互いに罪を赦し合いなさい、と呼びかけています。

今日の説教題「人の罪を赦す」の意味は、イエス・キリストが私たちの罪を赦してくださることだけではありません。それだけではなく(not only)、私たち自身が、自分以外の人の罪を赦すことをも(but also)意味しています。

それは私たちにとっては難しい課題です。「見ざる言わざる聞かざる」と目も口も耳もふさいでイヤイヤながら「あなたの罪を赦したくないが、そうしろと言われるので仕方ない」と言いたくなる心境に陥りやすいのは理解できます。しかし、「互いに罪を赦し合う」という課題が免除されることはありません。だからこそ、私たちにとって教会は「訓練」の場所になるのです。

「互いに罪を赦し合う場」がこの世界の中に存在するのはありがたいことです。「追いつけ追いこせ引っこ抜け」(ソルティー・シュガー「走れコウタロー」1970年の歌詞)と競争し続ける社会の中で互いに足を引っ張り合う人生の結末はこの世の地獄です。「互いに罪を赦し合うという難しい課題に生涯かけて取り組んでいる教会の仲間に加わることを検討してみるのも悪くないかもしれません」というくらいの言い方をしておきます。

私たちに求められている「互いに罪を赦し合うこと」は、バラやイガグリやハリセンボンのように鋭いとげや針を突き出して「寄るな触るな近づくな」と周囲を威嚇し、だれも寄せ付けようとしない生き方の正反対です。私たちは、共に生きる人々と良好な関係を保つための「あり方」を身に着ける必要があります。

そのためにパウロ( 1 章 1 節)がすすめているのは、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着けること」( 9 ~10節)です。ここで「造り主」とは、イエス・キリストのことです。 1 章16節に「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」と記されています。

「イエス・キリストが天地万物の創造者である」という教えには、人に誤解や恐怖を与える要素があります。三位一体の教義なしには決して理解できません。しかしそれもひとつの真理です。今日の箇所の「造り主の姿に倣う新しい人」の意味は「イエスの模範に従う人」です。

先週11月10日(月)映画「ボンヘッファー」をヒューマントラストシネマ有楽町(千代田区)で鑑賞しました。普通の映画館で「ボンヘッファーが始まります」とアナウンスされ、コーラ片手に大きなスクリーンでボンヘッファーを見る日が来るのを予想していませんでした。

ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer [1906-1945])

映画「ボンヘッファー」をご覧になっていない方々のために、内容には触れないようにします。ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer [1906-1945])は、医師の家庭に生まれ、 テュービンゲン大学とベルリン大学の各神学部で学び、米国に留学し、牧師になり、神学教授になりました。しかし、ナチスに抵抗しクーデターを企てるグループに属していたことが発覚して逮捕され、処刑されました。ただし彼は直接的な暴力行為に関与していません。ボンヘッファー(を演じている俳優)がピストルを持っているように見える写真を中心に置き、副題にassassin(暗殺者)と書いているこの映画のポスターは、誤解を招きます。

映画「ボンヘッファー」パンフレット(左)
『ボンヘッファー説教全集 1 』(右)

1945年 4 月 9 日に39歳で処刑されるまで、ベルリン北部のテーゲル(Tegel)の独房から両親や友人宛に書いた手紙が「獄中書簡集」として出版されました(原著ドイツ語版1951年、日本語版1964年)。「獄中書簡集」を含むボンヘッファーの多くの著作が多くの言語に訳され、読まれてきました。日本語版も多くあり、足立梅田教会の初代・第 3 代牧師の藤村靖一先生も、第 2 代牧師の北村慈郎先生、その後の牧師がたもボンヘッファーの影響を強く受けられたと思います。

ボンヘッファーの(of)/についての(on)著作(関口康蔵書)

私が1984年 4 月に東京神学大学に入学して最初に熱心に読んだ本が、ボンヘッファーの『共に生きる生活』(森野善右衛門訳、新教出版社、1975年)でした。神学生としての奉仕教会として出席した日本基督教団桜ヶ丘教会(杉並区下高井戸)や鳥居坂教会(港区六本木)の教会学校や青年会で『共に生きる生活』を読むことを提案したのは私です。

ボンヘッファーの「獄中書簡」に「ある書物の草案」と題する文章が収録されています(村上伸訳、増補新版、1988年、437~440頁)。それは、ボンヘッファーが当時の教会を痛烈に批判し、新しい教会のあり方を提案している文章です。

「第一章(中略)教会の事柄などのためには一生懸命になるが、人格的なキリスト教信仰はほとんどない。イエスは視野から消えている。社会学的には、広範な大衆への感化力はない。中産もしくは上流階級の事柄だ。難解な伝統的思想によって大変な重荷を負わせている。決定的なのは、自己防衛を事とする教会だということ。他者のための冒険は何一つしない」

「第二章(中略)神に対するわれわれの関係は、『他者のための存在』における、つまり、イエスの存在にあずかることにおける新しい生である」

「第三章(中略)教会は、他者のために存在する時にのみ教会である。新しく出発するためには、教会は全財産を窮乏している人々に贈与しなければならない。牧師は、ただ教会員の自由意志による献金によってのみ生活し、場合によってはこの世の職業につかなければならない。教会は、人間の社会生活のこの世的な課題に、支配しつつではなく、助けつつ、そして仕えつつあずからなければならない。教会は、あらゆる職業の人々に、キリストと共に生きる生活とは何であり、『他者のために存在する』ということが何を意味するかを、告げなければならない」

「第四章(中略)教会は、人間的な『模範』(それはイエスの人間性にその起源を持っているし、パウロにおいては非常に重要である!)の意義を過小評価してはならないだろう。概念によってではなく『模範』によって、教会の言葉は重みと力を得るのである」

私の受け取り方が間違っているようならお詫びします。足立梅田教会は「ボンヘッファー的な」教会です。大好きです。これからもよろしくお願いいたします。

(2025年11月16日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)