2025年11月16日日曜日

人の罪を赦す

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「人の罪を赦す」

コロサイの信徒への手紙 3 章12~17節

関口 康

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(13節)

私事(わたくしごと)から始めることをお許しください。今日は私の60歳の誕生日です。先週11月 9 日(日)11月定例役員会で、私の 3 年任期を無期にしていただくことが承認されました。風来坊として生きてきましたが、夢と希望とロマンにあふれる年齢ではありません。そろそろ腰を据えて働かせていただく所存です。

今日はコロサイの信徒への手紙を開きました。先週エフェソの信徒への手紙について申し上げたのと同じことを言わなくてはなりません。 1 章 1 節に「使徒パウロ」が書いた手紙であると記されていますが、パウロの名を借りただれかが書いたものであると考えられるようになりました。そのような議論があることを踏まえたうえで、今日も「パウロが」と言わせていただきます。

もうひとつ先週と同じことを言わなくてはなりません。今日の箇所に記されていることも一般論ではなく、教会内部の事柄です。教会生活の中で「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けること」を求めています。そして、イエス・キリストがあなたがたの罪を赦してくださったように、あなたがたも互いに罪を赦し合いなさい、と呼びかけています。

今日の説教題「人の罪を赦す」の意味は、イエス・キリストが私たちの罪を赦してくださることだけではありません。それだけではなく(not only)、私たち自身が、自分以外の人の罪を赦すことをも(but also)意味しています。

それは私たちにとっては難しい課題です。「見ざる言わざる聞かざる」と目も口も耳もふさいでイヤイヤながら「あなたの罪を赦したくないが、そうしろと言われるので仕方ない」と言いたくなる心境に陥りやすいのは理解できます。しかし、「互いに罪を赦し合う」という課題が免除されることはありません。だからこそ、私たちにとって教会は「訓練」の場所になるのです。

「互いに罪を赦し合う場」がこの世界の中に存在するのはありがたいことです。「追いつけ追いこせ引っこ抜け」(ソルティー・シュガー「走れコウタロー」1970年の歌詞)と競争し続ける社会の中で互いに足を引っ張り合う人生の結末はこの世の地獄です。「互いに罪を赦し合うという難しい課題に生涯かけて取り組んでいる教会の仲間に加わることを検討してみるのも悪くないかもしれません」というくらいの言い方をしておきます。

私たちに求められている「互いに罪を赦し合うこと」は、バラやイガグリやハリセンボンのように鋭いとげや針を突き出して「寄るな触るな近づくな」と周囲を威嚇し、だれも寄せ付けようとしない生き方の正反対です。私たちは、共に生きる人々と良好な関係を保つための「あり方」を身に着ける必要があります。

そのためにパウロ( 1 章 1 節)がすすめているのは、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着けること」( 9 ~10節)です。ここで「造り主」とは、イエス・キリストのことです。 1 章16節に「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」と記されています。

「イエス・キリストが天地万物の創造者である」という教えには、人に誤解や恐怖を与える要素があります。三位一体の教義なしには決して理解できません。しかしそれもひとつの真理です。今日の箇所の「造り主の姿に倣う新しい人」の意味は「イエスの模範に従う人」です。

先週11月10日(月)映画「ボンヘッファー」をヒューマントラストシネマ有楽町(千代田区)で鑑賞しました。普通の映画館で「ボンヘッファーが始まります」とアナウンスされ、コーラ片手に大きなスクリーンでボンヘッファーを見る日が来るのを予想していませんでした。

ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer [1906-1945])

映画「ボンヘッファー」をご覧になっていない方々のために、内容には触れないようにします。ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer [1906-1945])は、医師の家庭に生まれ、 テュービンゲン大学とベルリン大学の各神学部で学び、米国に留学し、牧師になり、神学教授になりました。しかし、ナチスに抵抗しクーデターを企てるグループに属していたことが発覚して逮捕され、処刑されました。ただし彼は直接的な暴力行為に関与していません。ボンヘッファー(を演じている俳優)がピストルを持っているように見える写真を中心に置き、副題にassassin(暗殺者)と書いているこの映画のポスターは、誤解を招きます。

映画「ボンヘッファー」パンフレット(左)
『ボンヘッファー説教全集 1 』(右)

1945年 4 月 9 日に39歳で処刑されるまで、ベルリン北部のテーゲル(Tegel)の独房から両親や友人宛に書いた手紙が「獄中書簡集」として出版されました(原著ドイツ語版1951年、日本語版1964年)。「獄中書簡集」を含むボンヘッファーの多くの著作が多くの言語に訳され、読まれてきました。日本語版も多くあり、足立梅田教会の初代・第 3 代牧師の藤村靖一先生も、第 2 代牧師の北村慈郎先生、その後の牧師がたもボンヘッファーの影響を強く受けられたと思います。

ボンヘッファーの(of)/についての(on)著作(関口康蔵書)

私が1984年 4 月に東京神学大学に入学して最初に熱心に読んだ本が、ボンヘッファーの『共に生きる生活』(森野善右衛門訳、新教出版社、1975年)でした。神学生としての奉仕教会として出席した日本基督教団桜ヶ丘教会(杉並区下高井戸)や鳥居坂教会(港区六本木)の教会学校や青年会で『共に生きる生活』を読むことを提案したのは私です。

ボンヘッファーの「獄中書簡」に「ある書物の草案」と題する文章が収録されています(村上伸訳、増補新版、1988年、437~440頁)。それは、ボンヘッファーが当時の教会を痛烈に批判し、新しい教会のあり方を提案している文章です。

「第一章(中略)教会の事柄などのためには一生懸命になるが、人格的なキリスト教信仰はほとんどない。イエスは視野から消えている。社会学的には、広範な大衆への感化力はない。中産もしくは上流階級の事柄だ。難解な伝統的思想によって大変な重荷を負わせている。決定的なのは、自己防衛を事とする教会だということ。他者のための冒険は何一つしない」

「第二章(中略)神に対するわれわれの関係は、『他者のための存在』における、つまり、イエスの存在にあずかることにおける新しい生である」

「第三章(中略)教会は、他者のために存在する時にのみ教会である。新しく出発するためには、教会は全財産を窮乏している人々に贈与しなければならない。牧師は、ただ教会員の自由意志による献金によってのみ生活し、場合によってはこの世の職業につかなければならない。教会は、人間の社会生活のこの世的な課題に、支配しつつではなく、助けつつ、そして仕えつつあずからなければならない。教会は、あらゆる職業の人々に、キリストと共に生きる生活とは何であり、『他者のために存在する』ということが何を意味するかを、告げなければならない」

「第四章(中略)教会は、人間的な『模範』(それはイエスの人間性にその起源を持っているし、パウロにおいては非常に重要である!)の意義を過小評価してはならないだろう。概念によってではなく『模範』によって、教会の言葉は重みと力を得るのである」

私の受け取り方が間違っているようならお詫びします。足立梅田教会は「ボンヘッファー的な」教会です。大好きです。これからもよろしくお願いいたします。

(2025年11月16日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年11月9日日曜日

自分を見つける

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「自分を見つける」

エフェソの信徒への手紙 4 章25~32節

関口 康

日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(16節)

今日の朗読箇所は、エフェソの信徒への手紙 4 章25節から32節までです。

この書簡の著者が使徒パウロかどうかについては、議論があります。原本は残っておらず、あるのは写本だけです。筆跡鑑定などはできません。思想や文体で判断するほかありません。

学問的に誠実に語ろうとする説教者がたは「使徒パウロは」とは言わず「エフェソ書の著者は」と言います。「エフェソ書の著者は」は早口言葉のようで舌が回りません。今申し上げたことをすべて踏まえたうえで、 1 章 1 節の記述に基づいて「使徒パウロは」と言わせていただきます。

今日の箇所を理解するうえで見落としてはならない点は、これらはすべて「教会」の内部の話であるということです。一般論ではなく、教会員同士の関係の問題です。「わたしたちは互いに体の一部なのです」(25節)は「キリストは教会の頭であり、教会はキリストの体である」(ローマ12章 5 節、コリント一12章12~27節、エフェソ 1 章23節、コロサイ 1 章18節)という教えなしには、決して理解できません。

しかし、教会内部のあり方は、内部だけにとどまらず、外へと広がっていきます。教会の中で身に着けた「新しい生き方」は、見せつけたり押し付けたりしなくても、身近な人々から順に感化を及ぼしていきます。

「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」(25節)

この教えはモーセの十戒の第九戒「隣人に関して偽証してはならない」(出エジプト記20章16節)の尊重を求めています。十戒の教えを尊重することは律法主義ではありません。信仰義認の教えと十戒の尊重は矛盾しません。

「真実」は「偽り」の対義語です。「真実を語る」の意味は「ありのままの事実を正直に語る」です。恥部を暴露し、ののしり、あざ笑い、追い詰め、切り捨てるためにそうするのではありません。それは教会のすることではありません。「多くの部分があっても一つの体」としての教会においては「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(コリント一12章20~22節)とパウロが書いているとおりです。

「受洗者は年にひとりでよいので、最後までひとりも脱落しないように祈っていく」(『足立梅田教会の歩み』1989年、14頁、50頁)と初代牧師・藤村靖一先生がお定めになった足立梅田教会の基本方針を受け継ぎ、互いの罪や弱さを赦し合う教会であることを貫いていけば持続可能な教会(Sustainable Development Church)になります。

今日最もお話ししたいのは26節です。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(26節)

この言葉を最初に読んだとき激しい衝撃を受けました。東京神学大学に入学したばかりの頃で、1980年代の後半です。当時は口語訳聖書でした。口語訳では「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない」でした。とんでもなく偉大なことが言われている気がして、それ以来、私の座右の銘になりました。

カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])の「エフェソ4・21~32による説教」という題の説教(1943年10月31日、バーゼル大聖堂)が日本語で読めることが分かりました(『カール・バルト説教選集』第10巻、蓮見和男訳、日本基督教団出版局、1993年、136~149頁)。

カール・バルト説教選集(日本基督教団出版局)

実際に読んでみたら、とても長い説教でしたが、カール・バルトは25節の説明をしているだけで、26節以下には触れていませんでした。がっかりしました。

ドイツ語の新約聖書註解Das Neue Testament Deutsch (NTD)(ダス・ノイエ・テスタメント・ドイッチュ(エヌテーデー))のエフェソ書註解(日本語版1979年)のハンス・コンツェルマン(Hans Conzelmann [1915-1989])の解説は素晴らしかったです。

下段の黒ラベルが新約聖書註解で「NTD」(ドイツ語なので「エヌテーデー」)
上段の赤ラベルが旧約聖書註解で「ATD」(アーテーデー)

コンツェルマンによると、この箇所( 4 章16節)の背景に、詩編 4 編 5 節「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ」があります。ここまでは他の註解書にも記されていました。しかし、この後のコンツェルマンの解説に、私はとても驚きました。

「『怒っても罪を犯すな』という表現は注目に値する。ふつうの説明ではこうである。人は常に怒りを抑えることができるとは限らない。怒りは正に人間的現象であり、その限りで怒ることは許される。しかしそのために罪を犯し、怒りをぶちまけることがあってはならない、と。 

けれども、このような意味での容認は、31節と27節とに照らして正しくないことが明らかである。27節は、悪魔の接近は避けられないのだから、せめてそれに引き込まれないように、という意味のものでは決してない。むしろ端的に、悪魔とぶつかったら、断然それと戦え、と言っているのである。 

その意味で26節もまた、怒ることを無条件に禁止するのである(マタイ五22がそうである)。(中略)怒ることそれ自体が罪である」(同上頁)。

「次の文(26節後半)も明らかに容認ではなくて戒めである。すなわち、日が暮れるまでは怒ってもよいというのではなく、怒りの中にとどまることが禁止されるのである(ヤコ一19、20参照)。 

(中略)人はどのようにして怒りを根絶できるかと問うであろう。その場合、人はキリストにある存在を仰がなければならないのである」(同上頁)。

註解書を調べてよかったです。私が予想した可能性をすべて否定されました。ビジネス雑誌などでよく見かける「アンガーマネジメント」の話をすべきだろうかと心理学の本を読んでみましたが、そういう話ではないことが分かりました。

どうやらポイントは「教会を大切にする思い」です。

大規模な教会のことは私には分かりません。「家族的な」規模の教会では、交わりを破壊しないために、決して言ってはならない言葉や、決して顔や態度に出してはならない感情があります。

教会は失敗が許される場所です。しかし、問題は失敗の仕方です。

何十年も続いて来た教会だろうと、ただ一度「牧師が教会員を怒鳴りつけた」だけで壊れるのが教会です。

しかし、他人をわざと怒らせようとする困った人がいないとは限りません。平気でうそをつく、約束を守る気がない、他人との関係を常に上下でとらえ、すきあらば他人を見下げる、さげすむ、からかう、一方的な中傷誹謗、言いがかり、セクシャルハラスメント等。

その場合は、怒った人の側だけ責められるのもどうかと思います。どうしたらいいでしょうか。

今日の説教題は「自分を見つめる」といったん決めて「め」を「け」にして「見つける」にしました。「見つめる」と自省の念ばかり湧くのが私たちではないでしょうか。自分を責めて、反省して、自分の罪を自覚して「怒り」が収まるなら良いのですが、収まりません。

「自分を見つめる」のは、特に私たちにとっては、かえって逆効果かもしれません。「私は人間であり、人間は罪人なので、怒りを抑えられないのは当然である。そのように神が人間を創造なさったのである」というような理屈で自己正当化しはじめると、始末に負えません。

「怒り」を別の罪に置き換えても結論は同じです。窃盗、強盗、詐欺、不倫。「神が人間をそのように創造したのだから、人間が罪を犯すのは当然である」と言い出しかねません。それこそが「悪魔にすきを与えること」(27節)です。その道を私たちが選ぶことはできません。

「自分を見つける」にしたのは、暴力によらずに悪を退ける意志をイエス・キリストから与えられている自分を「見つける」ほうが大事だと思ったからです。

強烈なパンチを食らうと目の前が真っ暗になり、自分を見失います。ボクシング選手がゴングが鳴ってコーナーに戻って最初にすることは、バケツの水をかぶって頭を冷やすことです。少しは周りが見えるようになるでしょう。燃える頭を早く冷やして、冷静になり、イエス・キリストがいつも共にいてくださる自分を取り戻すことが大事です。

そして「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(26節)という今日の御言葉を思い出して、夕陽を見つめながら、大晦日の夜にするように、カウントダウンしようではありませんか。日没が怒りのタイムリミットです。

カッカしているときはインターネットでのやりとりもやめて「沈黙すること」(詩編 4 編 5 節)が大事です。

アルコールもおそらく逆効果です。冷たい水かお湯を飲むほうが「沈黙」に向いています。

(2025年11月9日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年11月3日月曜日

悲しみを乗りこえて 墓前礼拝

足立梅田教会墓地(埼玉県越生町 地産霊園内)

説教「悲しみを乗りこえて」

ヨハネの黙示録21章 3 ~ 4 節

関口 康

「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」

ヨハネの黙示録の言葉を読みました。何千年も前から言い伝えられて来た「この世」と「来世」の関係をどのようにとらえ、信じていたかが分かります。

一言でいえば「この世」と「来世」は地続きであるということです。両者は途切れておらず、「この世」は消去されるのではなく、虚無になるのではなく、むしろ評価されます。善い行いをしたら善く評価されます。犯した罪に対しては悪く評価されます。しかし、悪いほうについては、神の前で悔い改めれば、その罪を赦していただけます。

言い方を換えれば、「この世」は未完成のままであるということです。「来世」という続きがあるのですから、「この世」だけで終わりません。

これはありがたい教えです。「この世」がすでに完成しているとすれば、これから生まれる命は余計なものです。これ以上子どもを産んだり育てたりする必要はありません。それはありえない話ですし、失礼な話です。

自分の人生は自分のものであり、他のだれのものでもないと考えることは間違ってはいません。しかし、だれともかかわらずに孤立して生きていくよりも、互いに協力し、助け合い、愛し合うほうが楽しいです。

新しい命の誕生に出会うのはうれしいことです。「この世」に生まれた命は、例外なく、人生の途中で挫折と悲しみを体験します。苦しいことは無いほうが助かります。だれでもそのように言いたいです。しかし、苦境や逆境の中でこそ、私たちは目覚ましく成長します。挫折や悲しみには意味があります。

「この世」でたくさん流した涙は、「神」が「ことごとくぬぐい取って」くださいます。流したことがない涙がぬぐい取られることはありません。つらくて悲しい人生を味わいつくした人々に、喜びと平安の時が訪れるのです。

先輩たちが私たちに模範を示してくださいました。信仰をもって生きるとき、苦労の多い人生を前向きに引き受けることができることを、その身をもって証ししてくださいました。

(2025年11月3日 日本基督教団足立梅田教会 墓前礼拝 埼玉県越生町)

教会墓地の補修工事(2025年11月3日)

丁寧な作業

養生をして

補修完了!


【教会墓地の補修工事(2025年11月 3 日)】

2025年11月3日(月・休)午前11時からの足立梅田教会墓地(埼玉県越生町 地産霊園内)での「墓前礼拝」の後、有志の方々による教会墓地の補修工事が行われました。おかげさまで、とても美しくなりました。ご奉仕くださった皆様に心から感謝いたします!

2025年11月2日日曜日

永遠の救い 永眠者記念礼拝

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「永遠の救い」永眠者記念礼拝

ガラテヤの信徒への手紙 4 章12~20節

関口 康

「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(19節)

今日は永眠者記念礼拝です。足立梅田教会は今年 9 月13日に創立72周年を迎えました。当教会に関係する永眠者が現在55名です。埼玉県越生町の地産霊園内の教会墓地に納骨されている方々は17名です。ご遺族のうえにイエス・キリストによる慰めがありますようお祈りいたします。

今日の聖書箇所は先週と同じ使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙です。永眠者記念礼拝に適した箇所ではないかもしれません。

先週は 2 章11節から14節まででした。パウロがペトロを面と向かって叱りつけたときのやりとりが描かれていました。今日の箇所は、パウロがガラテヤの人たちに、調子は厳しいですが愛をこめて諭している言葉です。

パウロの性格に問題がないとは言えませんが、どちらの箇所にも、彼の中に決して譲れない線があることによって生じる激しい感情表現があらわれています。

今日の箇所の冒頭の「わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください」(12節)の意味は、コリントの信徒への手紙一 9 章19節から23節まで(以下引用)と読み比べると理解可能になります。

「わたしはだれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。(中略)すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(コリント一 9 章19~23節)。

「それは日和見主義である」とお感じになる方がおられるかもしれません。あるいは、風見鶏、アメーバなど。行く先々で、相手と調子を合わせて、自分を変える。福音を宣べ伝えるという目的を果たすために何でもする。

パウロもパウロで「わたしはだれに対しても自由な者ですが」「わたし自身はそうではないのですが」という言葉を挿入しながら書いていますので、「私にとっては心にも無いことだが、これが私の仕事なので、仮面をかぶって演技して相手に合わせてあげている」と言いたい要素があったかもしれません。しかし、それはやや意地悪すぎる見方です。

これから申し上げるのは私個人の反省です。まだ若かった、牧師として駆け出しの頃は、この箇所のようなパウロの言葉に抵抗がありました。私は自分が誘惑に弱い人間であることを自覚していますので、つい身構えてしまい、「郷に入っては郷に従うべきだと分かっていても、朱に交われば赤くなり、ミイラ取りがミイラになりかねないので、深入りせずに距離を取るほうがよい」と考えてきたところがあります。

しかし、そのような感覚が次第に変わって来ました。私なりに苦労したからだと思います。自分が志したこと、計画して始めようとしたことはすべて破綻しました。私の実力が足りないせいだと言われれば返す言葉がありません。自分なりに目標を立てて積み上げようとしたことはひとつも実りませんでした。守るべきものがひとつも無くなりました。

50を過ぎた頃から、それまで出会ったことも話したことも無かった方々と出会い、志したことも願ったこともなかったことに取り組むようになりました。それが楽しくなりました。自分で積み上げようとしても積み上がらないなら、「もうどうなってもいいや」と思えますし、「どうにでもして」かもしれません。自分の意志ではなく神の御心だけがなる、ということを自分の体で体験しました。

足立梅田教会は「自由な」教会だと思います。悪い意味ではありません。各教会の永眠者記念礼拝は、永眠者個々人の思い出を振り返るときでもありますが、その教会の歴史そのものを振り返るときでもあります。

初代・第 3 代牧師の藤村靖一先生は当教会の72年の歩みの中で34年 6 か月と、約半分の歴史を担われました。その藤村先生が、青山学院高等部聖書科専任教諭と当教会の牧師の務めとを両立されました。

どちらの働きも重いです。「一方がメイン、他方はサブ」という差はつけられません。どちらかに心が偏り、他方にいるときは仮面をかぶって演技しているだけだと思っておられたら、すぐ見抜かれたでしょう。学校の藤村先生も全力。教会の藤村先生も全力。どちらにも縛られない、まさに「自由」を体得しないかぎり不可能な働きです。

第 2 代牧師の北村慈郎先生、また第 4 代以降の木村和基先生、三上章先生、福田実先生、高橋陽一先生もきっとそうです。私個人は北村先生以外のどなたとも面識がありませんので想像の域を超えませんが、おそらくどなたも、固定した道徳観念で皆さんを縛ろうとする説教はなさらなかったでしょう。今の足立梅田教会の「自由な」姿に接してそう思います。

自由な教会だからこそ、私も自由でいられます。私が失礼なことを言ったりしたりした場合は注意していただきたいですが、気遣いが要らない、「気の置けない」教会なので助かっています。

13節以下に記されているのは、ガラテヤの人々が以前パウロに示してくれた優しさに対する感謝です。

「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いでもあるかのように、受け入れてくれました」(13~14節)

パウロが何の病気にかかったかについては、彼の書簡では明言されていません。今日の箇所に「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでもわたしに与えようとしたのです」(15節)に基づいて、目の病気だっただろうと考えられます。それほどまでにあなたがたは私のことを愛し、大切にしてくれたのに、なぜ私の教えを受け入れて自由になろうとしてくれないのですかと、パウロは言いたいわけです。

19節に記されていることが、パウロにとっての宣教の究極目標です。

「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(19節)

それは「キリストが人の心の中に形づくられる」ことです。「キリストが形をなすこと」(Christ Taking Form)です。

それは、聖書に基づく説教を通して、わたしたちがイエス・キリストを知ることです。最初はぼんやりと、次第にはっきりとイエス・キリストが個々人の心の中にお住まいになり、人生の明確な土台を得て生きられるようになることです。それが永遠の救いです。

しかしそれは、個人のレベルにとどまりません。人の集まりが教会です。社会や世界も人の集まりです。最初は「キリストが形をなす」(Christ Taking Form)のは個人の心の中です。しかし、個人が集まって教会となり、社会となり、世界となっていきます。そのようにして、世界の中でキリストが形をなす(Christ Taking Form in the World)ようになります。

キリストが増えたり減ったりするイメージは気になりますが、「聖霊とはほとんどキリストのことである」と考えれば納得できます。聖霊の本質は自由であり、強制ではありません。

(2025年11月 2 日 日本基督教団足立梅田教会 永眠者記念礼拝)