2024年11月17日日曜日

敵を愛しなさい

 

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「敵を愛しなさい」

マタイによる福音書5章38~48節

関口 康

「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(44節)

今日の箇所は主イエスの「山上の説教」に含まれる言葉です。「山上の説教」はマタイ福音書の5章から7章までにあります。

「山上の」を付けるのは、マタイ福音書5章1節に「イエスはこの群衆を見て山に登られた」と書かれているからです。ルカ福音書6章20節以下に平行記事がありますが、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らなところにお立ちになった」(ルカ6章17節)と書かれているので、マタイと内容は重複していますが「地上の説教」や「平地の説教」と呼ばれて区別されます。

今日の箇所に「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」(38節)とあります。この言葉は旧約聖書(ユダヤ教聖書の『トーラー(律法)』)に3か所あります(出エジプト記21章24節、レビ記24章20節、申命記19章21節)。

これは「同害報復(talio タリオ)」と呼ばれる法思想です。「同害報復」について詳しく論じられているのは、加藤恵司氏の「同害報復の法思想」という論文です(2009年、聖学院大学論叢22(1)、ウェブ版、1-18頁を参照)。

同様の規定が「ハムラビ法典」に出てくることは比較的よく知られています。「ハムラビ法典」とは、前1800年から前1700年頃、バビロン第一王朝6代目の王の時代にアッカド語で書かれたもので、「古代シュメール法」の影響を受けています。

「古代シュメール法」とは、20世紀になって徐々に発掘され、解読されて来た3文書の総称です。3文書とは「ウル・ナンム法書」(前2100年頃)、「リピト・イシュタール法書」(前1900年代初頭)、「エシュヌンナ法書」(前1920年代説とハムラビ法典に近い時期説あり)を指します。

加藤氏によれば、古代シュメール法には同害報復の思想を見出すことができず、ハムラビ法典と古代イスラエル法の「同害報復刑」は古代における新しい思想です。

そして加藤氏によれば、「同害報復」は第一に「犯罪に対する平等の思想」、第二に「人権尊重の思想」、第三に「正義の思想」であると特徴づけることができます(前掲書、15~16頁)。

私はこの説に同意します。同害報復の趣旨が、行き過ぎた私的復讐(プライベートリベンジ)の禁止であることは明白だからです。

たとえば創世記4章24節でカインの子孫のレメクが「カインのための復讐が7倍なら、レメクのためには77倍」と言っています。半沢直樹の「倍返し」どころではありません。復讐しないかぎり事態が収拾しないというなら、「倍返し」でも「77倍返し」でもなく、「されたことをする」だけにしなさいというのが「同害報復」の基本思想です。

「目には目を、歯には歯を」の意味は「目に物見せてやる」の正反対です。被害者が加害者への怒りに燃えて復讐の鬼になるのを抑えること、すなわち復讐の限定と抑制を意味します。

しかし、主イエスは、同害報復(タリオ)についてのそのような解釈の問題には巻き込まれません。みんなの頭上をひょいと飛び越えて「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(39節)とおっしゃいます。主イエスによると、悪人には一切抵抗してはいけないのです。

この主イエスの言葉にいろんな解釈があります。最も安易なトリックだと私には思えてならない解釈は、「この教えを守ることは人間には不可能なのであります。わたしたちの復讐心を抑えることは絶対にできません。この教えを決して守ることができない罪深いこのわたしたちのために、主イエスは十字架にかかって死んでくださったのであります。アーメン」というものです。

今やや早口でからかうような言い方をしてすみません。しかし私の正直な気持ちです。そのようなことを主イエスは教えられたでしょうか。はなからだれにも守らせる気のない言いつけをする主イエスの存在を想定しなくてはならないでしょうか。私には受け入れることができません。

わたしたちも、主イエスが「~しなさい」とか「~してはならない」とおっしゃっていることを、はなから無視するのではなく、従おうとするほうがいいです。

主イエスの教えを守るという線から導き出される「悪人に手向かってはならない」の意味は「悪は悪である。あなたまでも悪人と同じ姿になって同じことをしてはならない」ということです。これは私の自説を唱えているのではなく、こういう解釈があるのをご紹介しています。

「敵を愛しなさい」(44節)も同じ理屈です。「敵は敵である」ということです。神の義の基準は変更されません。黒いものを白いと言い張り、天地を逆転させ、悪が悪ではないかのように、敵が敵ではないかのようにすり替えて誤魔化すことと主イエスの教えを混同してはいけません。

そして大事なことは、復讐心の本質としての怒りや憎しみのコントロールの問題です。怒りに任せ、復讐心に燃えて、暴れ回って相手を攻撃しているときの自分の姿を鏡に映して見てごらんなさい、相手と同じではないですか、そんなふうに成り下がってはいけません、ということです。

「下着と上着」(40節)や「1ミリオンと2ミリオン」(44節)の話は当時のユダヤの社会状況とのかかわりがあります。

この「上着」は外套(マント)です。「下着」は借金の担保にとられる可能性がありましたが、貧困生活者の寝床になる「上着」(外套)を担保として取ることは禁止されていました。しかし、主イエスは、上着を求める人にはプレゼントすればよいと教えます。自分の権利を主張するよりも、だれかのために自分の外套を脱ぐほうが、人間関係の新しい可能性が広がるでしょう。

「ミリオン」は約1480メートルです。「行くように強いる」(41節)は強制労働です。想像できる状況は、強制労働者はひとりではないということです。同じ立場の人が大勢います。そうであるときに、「私は1ミリオンも強制的に歩かされた」と恨むのか、それとも「私は仕事仲間と一緒に2ミリオンも歩くことができた」と感謝するのかで、大きな差があるでしょう。

行き詰まった状況を打破し、硬直した人間関係を緩めるために必要なのは、個人的な取り組みです。この箇所の主イエスの教えに基づいて、国の法律や行政の条例や団体のルールを作ることは不可能です。また、そうする意味はありません。

主イエスがなさっているのは、個人レベルの話です。集団や団体でできないことを、個人がするのです。団体は法とルールに縛られています。個人は団体より自由で楽しいです。

教会も例外ではありません。今日の箇所の教えも、「山上の説教」全体も、これを団体としての教会のルールにすることはできません。

「あなたは右の頬を打たれたときに左の頬を向けませんでした。あなたはイエスの教えに反していますので、あなたを真のキリスト者であると認めることができません」などと排除の論理に悪用してはいけません。主イエスの教えは他人を切り裂く刃物ではありません。

「敵を愛しなさい」という教えは、わたしたちの人生に新しい可能性を与えます。

「どう生きることがカッコいいか」という問題は無関係かもしれませんが、関係あるかもしれません。

(2024年11月17日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2024年11月14日木曜日

教会学校のお知らせ

 

「教会学校のお知らせ」

すっかり秋ですね!朝夕は寒いと感じます。皆さんの健康と勉強の日々が守られますように、お祈りしています。

11月24日(日)、教会の「収穫感謝日」の午前9時より、子ども向けの「教会学校」を行います! 

聖書のお話、讃美歌、お祈り、おやつ、ゲームがあります。ぜひ出席してください。歓迎します!

日本キリスト教団 足立梅田教会

〒123-0851 足立区梅田5-28-9 TEL 03-3887-4010

adachiumedachurch@gmail.com    www.adachiumeda.church


2024年11月10日日曜日

アブラハムの模範

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「アブラハムの模範」

ガラテヤの信徒への手紙3章7~14節

関口 康

「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」(7節)

今日の聖書の箇所は、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙3章7節から14節までです。

この手紙のパウロは、最初から最後までけんか腰です。聖書に慰めを求めて読むとがっかりする可能性がある文書であるということを、あらかじめご承知置きいただきたく願います。

1章1節からけんか腰です。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」

これで言いたいのは、この手紙を書いているわたしパウロは、人間によって使徒にされたのではなく主イエスと父なる神によって使徒とされた者なのだから、これからわたしが言うことを黙って聞きなさいと言っているのと同じです。

1章6節から事件の概要です。

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」。

私が手塩にかけて育てたあなたがたに伝えたこととはまるで違う教えに、よくも早々と乗り換えようとしているのは一体何ごとか、と言っているのと同じです。「呪われよ」とまで言い出すと辛辣さがピークです。激辛です。

この手紙のすべてを一気に読むわけに行きませんので、かいつまんだところをピックアップしていきます。1章12節から始められるのは、パウロの証しです。

わたしパウロは先祖代々ユダヤ教徒の家庭に生まれ育ち、「神の教会」(キリスト教会)を迫害し、滅ぼそうとしていたほど熱心なユダヤ教徒でした。しかし、そのわたしを神が「母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって(使徒として)召し出してくださった」と言っています。

これで言おうとしているのは、自分の意志によらず、あるいは自分の意志に反して、このわたしパウロはキリスト教徒になり、キリストの使徒になったということです。

彼が目指していたのは、ユダヤ教の律法学者です。当時のユダヤはローマ帝国の属国でしたが、そのユダヤを統治する最高権力者会議たる最高法院(サンヘドリン)の議員になることが究極の夢でした。

最高法院の議員数は70名。議長・副議長を合わせれば71名か72名。そのメンバーはエリート中のエリートでした。

パウロはそれを目指してがんばっていましたが、その自分がなりたかった、なろうとした者にはなれず、就きたかった職業には就けず、最も忌み嫌っていたキリスト教徒になりました。自分の意志ではなく、神が決めた進路に進ませられることになったというニュアンスです。

パウロがキリスト者になったばかりの最初の頃にお世話になった人がいました。それが生前の主イエスの一番弟子、使徒ペトロです。1章18節以下の「ケファ」は使徒ペトロです。「ケファ」(アラム語)も「ペトロ」(ギリシア語)も「岩」という意味です。

「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しました」(1章18節)。

「それから三年後」(1章18節)はオリエントの数え方だそうで、その意味は「足掛け3年」ということで、「満」でいえば「2年」であると解説されている註解書があります。もしその解説が正しければ、「2年後」です。「アラビアに退いた」とか「再びダマスコに戻った」とか書かれています。その年数は書かれていませんが、年数よりも大事なのは、短期間だったことです。

5年も前ではなさそうです。「つい最近」と言える頃にはまだ熱心なキリスト教の迫害者、言い換えれば「教会の敵」であったこのわたしパウロにペトロは会ってくれた、ということはペトロがパウロを信用して受け入れたことを意味するわけですから、それだけでパウロにとってペトロは十分に恩人でしょう。

ところが、大事件発生。「その後14年経ってから」(2章1節)パウロは再びペトロに会っています。その場所はエルサレムでした(同上節)。この2人の3回目の会談が、今度はパウロがそのときいたアンティオキアのほうで行われました(2章11節)。

そのときです。パウロがペトロを面罵したというのです。パウロは、恩人ペトロを公衆の面前で怒鳴りつけました。そのときパウロが何を言ったかが、2章14節に記されています。

「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。

パウロの言い分は、ペトロを筆頭者とするエルサレムの教会の人たちが、洗礼を受けただけでは真のキリスト者ではなく、割礼を受けることによってこそ初めて真のキリスト者になることができる、というようなことを教える人たちにそそのかされて、その流れに飲み込まれ、異邦人教会に不当な圧力と過剰な負担を強いている、ということです。

生まれながらのユダヤ人たちは嬰児の頃に割礼を受けているので、儀式の最中はその痛みにきっと泣き叫んだでしょうが、恐怖の記憶が残っているわけではありません。しかし、異邦人の割礼の場合は、成人になってから受けるわけですから、とんでもない恐怖と痛みです。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」(3章1節)

パウロは強い落胆を隠しません。パウロが言いたいのは、聖書を読んでごらんなさいということです。

「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(創世記15章6節)と書かれているでしょう。「律法を行ったから義と認められた」とも「割礼を受けたから義と認められた」とも書かれていないでしょう。

モーセの出現はアブラハムのはるか後です。モーセの律法が生まれるまで誰も救われなかったのですか。そんなはずはないでしょうと言っているのです。キリスト者はアブラハムの模範に従うべきであるとパウロは言っているのです。

その意味は、神を信じるだけでいい、それ以外の何も求められていない、割礼を受けなければならないだなんてありえない、ということです。

こうしなければ、ああしなければ真のキリスト者ではないと、キリスト教信仰にあれやこれやと追加される要求に一切惑わされてはならないと、今日の箇所が、そしてガラテヤの信徒への手紙全体が、強く激しく訴えています。

「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(2章6節)というのがガラテヤの信徒への手紙の中心テーマです。

教会も同じです。信仰だけでいいです。他になんにも要りません。手ぶらで大丈夫です。

(2024年11月10日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2024年10月27日日曜日

私たちが神をおそれる理由

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「私たちが神をおそれる理由」

マタイによる福音書10章26~33節

関口 康

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)。

今日の箇所はマタイによる福音書10章26節から33節までです。10章1節に「イエスが十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」(1節)とあります。多くの弟子の中から12人の使徒を主イエスご自身がお選びになり、世の中へと派遣されました。

主イエスはすべてをおひとりで抱え込んで、ほかのだれにも何もお任せにならないような方ではありません。神のみわざを共に担う仲間を集め、その人々に何を語り、何をなすべきかを教え、ご自身のみわざをお託しになる方です。

その一点において、主イエスは教会の牧師と同じです。ユダヤ教のラビとも共通しています。共通点は、上下関係ではないことです。役割分担です。

当時、主イエスは「およそ30歳」(ルカ3章23節)でした。使徒を「弟子」とも言いますが、ペトロたちが主イエスと年齢が大きく離れているとは考えにくいです。12人の中に主イエスよりも年上の人がいたかどうかは分かりませんが、いたからといっておかしいとも言えないでしょう。

皆さんがよくおっしゃるではありませんか、「役員会の中で牧師がいちばん若い」と。主イエスと牧師が「同じ」と申し上げているのは、その意味です。

私は皆さんの上司ですか、皆さんは私の部下ですか、そうではないでしょう。年齢が上だから先輩、下だから後輩、というような枠組みも、主イエスと弟子たちの関係とは無関係です。

「教える」というのも、学校の教員が生徒に対してすることとは違います。「まだ知らないことを知ってもらう」という点は同じかもしれませんが、「まだ知らないこと」の意味が違います。教科書に書いてあるとか、大人たちは知っていることを子どもたちにも分かってもらうことが学校の働きだとすれば、主イエスが弟子たちにされたのはそういうことではありません。

主イエスが弟子たちに「教えた」のは、このわたしは何者なのか、何を語り、何をするために今ここにいるか、です。わたしはキリストである。わたしは救い主である。わたしは神の言葉を伝えに来たのである、と。

それを「教える」ことで何をしておられるかといえば、このわたしと一緒に生きてほしい、わたしの目指す目標を共有し、みわざを共に担ってほしいと訴えることです。

「いやいや、学校の教師と生徒の関係も、会社の上司と部下の関係も、それと同じですよ」とおっしゃる方がおられるかもしれません。違いを強調する必要はないかもしれません。夢や理想を言葉にして伝え、力を合わせて実現する。「それは学校だって会社だって同じです」と言われれば、たしかにそうかもしれません。

一昨日、久しぶりにラーメン店に行きました。看板に「昭和29年創業」と書かれていました。1954年です。今年70周年。昨年70周年のわたしたちの教会とほぼ同じです。

帰宅後ネットで調べたら、最初は「わずか6坪の雨漏りのする食堂」だったが、現在は全国総店舗数400、年間延べ利用者数3500万人に成長。次なる目標は1000店舗。さらに海外への進出を目指し、「日本のらーめん文化をグローバルスタンダードにしたい」と書いてありました。今の社長さんは創業者の息子さんです。

聖書と関係ない話をしていると思っていません。主イエスと弟子たちの関係、そして主イエスと教会との関係はどういうものなのかを考えるための材料を提供しています。

今日の箇所は、いまご説明した話の流れの中に位置づけられています。これは主イエスが弟子たちを世の中に派遣されるに際しての激励の言葉です。そして、これはこのまま今のわたしたちに当てはまる言葉です。

聖書学者の言葉を借りていえば、今日の箇所(26~33節)の趣旨は「イエスの名を告白するとき、人を恐れないようにと勧めている」(J.T. ニールセン)、「総じて敵対的な人々を前にしてイエスを告白すべき弟子たちの教会に対し、慰めを語りかけようとしている」(E. シュヴァイツァー)などと説明されています。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(26節)が「人々を恐れてはならないこと」の理由になっているのが、どうつながるのか分かりにくいかもしれません。

教会に敵対する人たちには大なり小なり隠しごとがあるが、そういうのは必ず発覚するものなので、そこで転んで失敗するでしょう、というような意味ではありません。そうではなく、「信仰を告白すること」自体を指していると読むべきです。

信仰告白とは「公に言い表すこと」です。隠れたまま、隠されたままがいつまでも続くことはないと、主イエスご自身がおっしゃっているのです。

「明るみで言いなさい」「屋根の上で言い広めなさい」も同じです。信仰を告白しなさい、公に言い表しなさい、ということです。

やや個人的な話になって申し訳ありません。思い出すことがあります。私の息子が中学生の頃だったので、15年ほど前です。2010年前後です。私は松戸の改革派教会で牧師をしていました。当時に限ったことではありませんが、特に当時、私は伝道に行き詰まりを感じていました。それで、中学生の息子に「お父さんどうしたらいいかね」と相談したのです。

息子の返事は即答でした。「商店街の真ん中で説教すれば?」と言いました。息子の言う通りだと思いました。

息子が中学生、娘は小学生。妻は福祉施設勤務。私は日曜日は教会。国民の祝日は、教団でいえば教区や支区のようなところ、改革派教会では中会・大会と言いますが、その会議だ修養会だ。それ以外にも自主的な研究会だ。

私はそのようなことの「準備」と称して、いちばん近くにいる家族に背を向けて、牧師室に引きこもって、パソコンの画面をにらみつけて書類を作ることに明け暮れていました。

その私の姿を、息子は苦々しく思っていたのでしょう。もっと教会の外へと出ていけばいい。商店街の真ん中で説教すればいい。内向きではなく外向きに語るべきだ、と。

その後、2016年から私は複数のキリスト教主義学校の聖書科講師として働きました。繰り返し思い出すのが息子の言葉でした。「商店街の真ん中で説教している」気持ちで授業をしました。「明るみで言いなさい」「屋根の上で言い広めなさい」も、趣旨は同じです。

「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことができる方を恐れなさい」(28節)とあるのは、信仰告白に伴う迫害や攻撃を恐れるなという主イエスからの激励の言葉です。殉教の可能性すらある中でも恐れるな。

聖書学者エドゥアルド・シュヴァイツァーが「魂」は「生命」と訳すべきであると提案しています。我々の信仰によれば、肉体の死をもってわたしたちの生命が終わるわけではないからです。神と共に生きる永遠の生命があるからです。

わたしたちと神との関係は、だれにも妨げることはできません。神がわたしたちを愛してくださるというのですから、神とわたしたちの関係はいつまでも切れません。神と共に生きることを指して「永遠の生命」というのです。

「わたしたちが神をおそれる理由」は、わたしたちが神の顔色うかがいをしなければならないからではありません。愛するに値しない罪深いこの私をも愛してくださる神の愛の大きさに恐れおののくのです。

(2024年10月27日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2024年10月6日日曜日

信じるものを求めている方々へ

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「信じるものを求めている方々へ」

ヨハネによる福音書11章28~44節

関口 康

「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(14節)

今日の箇所に登場するのは主イエス。マルタ、マリア、ラザロの3人姉弟。そして数名のユダヤ人です。一連の物語が11章冒頭から始まっています。

3人姉弟のうちマルタとマリアはルカ福音書10章に登場する姉妹と同じです。ルカ福音書のその箇所にラザロは登場しませんが、必ず全員の名前を書かなければならないことはないでしょう。

3人の年齢順は分かりません。マルタが「マリアの姉」なのは明白です。「兄弟ラザロ」は2人の姉の「弟」とみなされることが多いですが、確証はありません。2人の妹の「兄」である可能性が無いとは言えません。

しかし、全員成人している同年配の肉親同士の「男1人、女2人」で共同生活を営む家族は意外と珍しく、町の中で目立っていた様子がうかがえます。

ルカ福音書10章のほうを先にお話しします。主イエスがマルタとマリアの家までわざわざ来てくださいました。姉マルタはおもてなしをしなくてはと忙しく立ち回りました。妹マリアはお客さまの前に座り込み、じっと話を聴いていました。

マルタは激怒して主イエスに抗議しました。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(ルカ10章40節)。

主イエスはおっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(同10章41~42節)。

厳しい言葉です。私はおふたりとお話ししに来たのです、とおっしゃっているのです。私がいつ「もてなしてほしい」とあなたに頼みましたか。おもてなしはコミュニケーションを円滑にする手段であっても目的ではありません。肝心なことを忘れていませんか、です。

同じ姉妹が今日の箇所に登場します。このときもイエスさまがマルタとマリアの家に来られています。しかし、ルカ福音書の場面と状況が大きく違います。イエスさまがこの家に到着されたとき、ラザロは亡くなっていました。葬儀も終わり、墓に埋葬されて、4日経っていました。遺体から臭いもすると、マルタが言っています(39節)。

そのことを主イエスがご存じなくて、この家に到着して初めて知って驚かれたという話ではありません。主イエスはすべてご存じでした。それどころか、11章の最初から読むと分かりますが、意図的に到着を遅らせました。

遅刻の理由が14節に記されています。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(14節)。

「あなたがたが信じるようになるためである」を、古い英語聖書(KJV(1611)、RSV(1952)、NIV(1978)など)はso that you may believeと訳しています。より新しい英語聖書(REB(1989)など)はfor it will lead you to believe。直訳すれば「それがあなたがたを信じることへと導くだろうから」。

主イエスが到着されたとき、多くのユダヤ人がマルタとマリアを慰めていました(19節)。マルタは主イエスが到着したと聞いて迎えに行きましたが、マリアは家の中に座っていました(20節)。2人の態度はそれぞれルカ福音書10章の場面と似ていますが、内容は大きく違います。

マルタはとにかく体を動かして主イエスのために働く「行為の人」です。しかし、ルカ福音書のときと正反対なのはマリアです。座っているのは同じですが、ルカ福音書のマリアは主イエスの話を聞く人でした。しかし、今日の箇所のマリアは、主イエスから顔を背けて座り込んでいる人です。

マルタもマルタで、イエスさまのもとに駆けつけはしましたが、おもてなしをするためではありませんでした。また抗議です。激しい抗議です。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。こんな大事な時になぜ遅刻したのか。わたしたちを愛しているとおっしゃる言葉のすべてはウソか。帰ってくれとは言わないが反省してほしい、です。

そのあと主イエスと押し問答が始まります。マルタは教えの正しさという面で主イエスの言葉に同意することはやぶさかでないと返答したようには読めますが、元通りの信頼関係を回復できた様子はありません。

それから主イエスは、マリアを呼んでほしいとマルタに願われました。そのことをマルタがマリアに伝えたら、マリアが「すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った」(29節)というこの描写は、胸を打たれます。

わたしたちは主イエスにとって不要だった、多くの弟子の中のワンオブゼムだった、それなのになぜ「愛している」というのかと、何もかも信じられなくなってしまったマリアに、主イエスが「会いたい」と自分を呼んでくださった。そのことが分かって「すぐに」立ち上がれたのです。

イエスさまは「まだ村に入らず、マルタが出迎えた場所におられた」(30節)も、感動的です。2人に会うまでは一歩も動かないと、イエスさまが決心しておられたかのようです。

マリアはイエスさまのところに来ました。そしてマルタと全く同じことを言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)。そしてマリアは泣き、一緒にいたユダヤ人たちも泣いた。

そのときです。主イエスが「涙を流された」(35節)のは。

主イエスがなぜ泣かれたかは記されていませんが、想像ぐらいできます。理由として考えられるのは、マルタもマリアもイエスさまに同じことを言った、その内容です。

「もしここにいてくださいましたなら」?

わたしがいつ、あなたがたと一緒にいなかったと言うのか。この場所、この空間に、四六時中、目に見える距離にいれば「共にいてくれている」とか「愛してくれている」と思ってもらえるが、少しでも離れたら「もういない」とか「愛していない」ということになるのか。そんなことありえないだろう。なぜ私の愛を疑うか、ということに憤慨された「涙」です。

ラザロだってそうだ。「死にました」?「墓に葬りました」?

だからラザロは「もういない」のか?「もう愛さなくていい」のか?きれいさっぱり忘れるのか?あなたがたはなぜそんなふうに考えることができるのか。私があなたがたのことをどれほど愛しているかをどうしたら伝えられるのだろうか、という葛藤の中で流された「涙」です。

19世紀デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの『死に至る病』(1849年)は、ヨハネ福音書11章のラザロについての解釈から書き始められています。キルケゴールによると、キリスト教的な意味では「死」でさえも「死に至る病」ではありません。「死に至る病」とは「絶望」であると言っています。

主イエスはラザロの墓に行き、大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫びました。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた」(41節)と記されています。主イエスは、人々に「ほどいてやって、行かせなさい」とおっしゃいました。

ラザロは布でぐるぐる巻きにされたままで墓から出てきましたので、本当に生きているかどうかをまだ確認できません。いずれにせよ、ラザロの「蘇生」は、主イエス・キリストに起こった出来事と同じ意味での「復活」ではありません。主イエスの「復活」の前ぶれですが、「蘇生」自体はわたしたちの信仰の対象ではありません。

この箇所が教えていることは、「信じる」とはどういうことか、です。この「信じる」は、「主イエス・キリストが、いつも共にいてくださり、愛してくださっていることを信じる」です。

今日の説教題「信じるものを求めている方々へ」に興味を持ってくださった方々に、「主イエスの愛の強さと深さを信じてください」とお伝えしたいです。「絶望」という「死に至る病」から逃れる道です。

(2024年10月6日 日本基督教団足立梅田教会 聖日礼拝)