2025年11月23日日曜日

あなたの宝 収穫感謝日礼拝

このイラストは人工知能Copilotに描いてもらいました
日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「あなたの宝」収穫感謝日礼拝

マルコによる福音書10章17~31節

関口 康

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(25節)

今日は収穫感謝日です。午前 9 時からの教会学校で収穫感謝会を行いました。コロナ明けから年 4 回を目標に再開した教会学校ですが、当日までどなたが出席してくださるか分からないので、全年齢向けの「収穫感謝クイズ」を考えました。楽しんでいただけたと思います。問題と答えをブログに書いておきますので、みなさんもぜひどうぞ。

今日の聖書の箇所は、収穫感謝日と直接的な関係はありません。しかし、話題の中心は「お金」の問題なので、間接的な関係はあります。「お金」の問題も「収穫」の問題も「生活」の問題であり、「人生」の問題です。

新約聖書の 4 つの福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカが、このときの様子を描いています。非常に生き生きと詳細に描写されているため、目撃証言があったのかもしれません。登場人物は「金持ち」です。リッチパーソンです。

この人が主イエスのもとに走り寄ってひざまずき、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(17節)と質問しました。すると、主イエスは「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)と、冷たさを感じる言葉で突き放されました。

この拒絶についていくつかの解釈があることが分かりました(*ヴィンセント・テイラーによると 6 つ)。私が最も説得力を感じたのは、「イエスはこの答えによって金持ちのへつらいを正そうとした」という解釈です。

「へつらい」とは、お世辞を言うこと、言葉や態度で相手に媚びることです。それらはすべて、人がお金持ちになるために必要な手段かもしれません。しかし、主イエスは逆質問することで自分の言葉を説明させ、言葉巧みに他人の地位や権力を利用しようとする自分の軽薄さに気づかせようとしておられます。「私にお世辞は通用しない」とおっしゃっているようでもあります。

ところで、この人は「永遠の命」を受け継ぐ方法を主イエスに尋ねています。永遠の命とは文字通り「永遠に生きること」なので「復活」を指します。それは死も苦しみも悲しみも克服された命なので「救い」とほとんど同じ意味です。

ユダヤ人の理解によれば、永遠の命は「受け継ぐ」ことができる賜物です。それで、この人は主イエスに、「永遠の命を受け継ぐために何をすればよいか」を尋ねています。しかし、この質問の表現がこの人自身の思考パターンを露呈しています。それは「永遠の命を受け継ぐために人は必ず何かをしなければならない」という考え方です。

しかも、この人は「金持ち」でした。お世辞を言いながら近づく相手に取り入る手段は「お金」でしょう。もしそれで正しいなら、この人が主イエスに尋ねているのは自分の救いに必要な金額です。「要するにいくらですか」です。多すぎもせず少なすぎもしない「相場」はいくらですかと尋ねたいのです。

この人はお金は持っています。それは生涯かけての血のにじむ努力の証拠でしょう。私のように一生懸命がんばって来た者を救わない神はありえないでしょう。私の救いはいくらですか。まさかタダではないでしょう。貧しい人でも手に入る安っぽいものではないでしょう。がんばった私とがんばらなかった人たちが同じということは、まさかないでしょう。私の救いはいくらですか。いくら払えばもらえますか。お金ならいくらでもあります。ずばり金額を教えてください。そのように言おうとしています。

主イエスは、これで二度目ですが、この人の言い分を拒絶なさいました。冷たい感じがするかもしれませんが、私たちに全く理解できないことではないはずです。

私たちもまた、教会生活を続けている中で、いろんな人に出会います。牧師の私にも「要するにいくらですか」と相場を尋ねる方が現れます。金に物を言わせるタイプの人が登場します。そうなると、教会のわたしたちはとても困ります。「そういう問題ではありません」とはっきり言わなくてはならない場面に実際に立ち会います。

主イエスがこの人にお求めになったのは、モーセの十戒の「第二の板」(第五戒から第十戒まで)の「隣人愛」の教えを守ることです(19節)。するとこの人が「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と返して来たので(20節)主イエスはこの人を見つめ、慈しんで「あなたに欠けているものがひとつある。行って、持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。(中略)それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいました(21節)。

主イエスがこの人にお求めになったのは、「隣人愛」の教えを学び、それを実践することです。「隣人愛」とは、先週学んだボンヘッファーの言葉を繰り返せば「他者のために存在すること」です。

あなたは自分の宝を「他者」と分け合っていないからリッチなのです。自分のものを抱え込み、積み上げ、守り抜くけれども、他者のためには用いようとしない。「他者を愛すること」ができない人は、神の戒めを守ったことになりません。そのことを、主イエスは教えておられます。

私は今このことをお話ししながら、平気な顔をしていません。私にはお金がないので、自分のものを売り払ってだれかに施すとしたら、毎日の食生活が成り立ちません。切り詰めて生きているつもりですが、これでもまだ贅沢しているように見える要素があるかもしれません。

「あなたはそれでも『他者のための存在』であると言えるのか、自分のことしかしていないではないか。牧師だとか言って、世のためにも人のためにも何の役にも立っていないではないか」と責められていることも自覚しています。申し訳ない気持ちでいっぱいです。

この人は主イエスの言葉に傷つき、悲しみながら立ち去りました。主イエスのほうも、この人を追いかけません。

弟子たちの中に「せっかくリッチな人が来てくれたのに、先生が傷つけるようなことを言うからいなくなった。もったいない」と思った人がいたかもしれません。教会も財政難のときには同じことを考える可能性があります。

しかし、そこに譲れない線があるのです。金に物を言わせようとする人は、信仰の交わりを壊します。イエス・キリストの教会はそういう理屈で動きません。

それは「教会とは何か」という問題でもあります。教会は、あなたの宝をガードするための「砦」(とりで)なのか。それとも、いろんなタイプの方々を広く受け入れ、互いに助け合い、分かち合うための、開かれた「広場」なのか。その開かれた広場の中での出会いこそが、あなたの宝なのか。

主イエスがおっしゃっている「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」(25節)という、ジョークとは言えませんがユーモアの要素を多く含んでいるたとえは、それが絶対に不可能であることを示すためのものです。それ以外の意味はありません。

ラクダが針の穴を通ることは絶対に不可能です。同じように、金持ちは金持ちのままでは救われません。「他者のための存在」になることが求められています。それは、あなたの宝を「他者」のために用い、分け合うことです。

救いはお金では買えません。裕福な人だけが手に入れることができ、貧しい人には手に入らないものではありません。

「人が救われるのは人間の努力や功績によってではなく、信仰によること」を主イエスは教えておられます。この教えを使徒パウロも受け継いでいます。

(2025年11月23日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

教会学校 収穫感謝会クイズ

問題 1

野菜と果物の違いを短く簡単に説明してください。

人工知能 ChatGPT(チャットジーピーティー)に答えてもらいました。

「野菜は主に料理の(①   )として使われるもので、例えば葉や根、茎などを食べます。一方、果物は甘みがあり、(②   )として食べるもので、種を含む実を食べます。これが大まかな違いです」

問題 2

人工知能 Copilot(コピロット)に収穫前のこんにゃくを描いてもらいました。これで正しい場合は〇、間違っている場合は×を書いてください⇒(③   )


問題 3

こんにゃくの生産量が日本で最も多いのは(④   )県です。全国の 9 割を占めます。

問題 4

こんにゃくは食べ過ぎると危険です。なぜでしょうか。⇒(⑤理由   )

問題 5

グラス(コップ)が8種類あります。それぞれの名前を語群の中から選んで答えてください。


前列左から
(⑥   )グラス、ロックグラス、ショットグラス、シャンパングラス

後列左から
(⑦   )グラス、カクテルグラス、(⑧   )グラス、ワイングラス

語群 タンブラー ゴブレット ピルスナー 

問題6

ごはんとみそ汁を並べるとき、みそ汁は右左どちらでしょうか。⇒(⑨   )
(※地方によって置き方が逆の場合があります)

問題7

ベトナムの「フォー」の主な原料は(⑩   )です。


2025年11月19日水曜日

「牧師館」ページを新設しました

狭義の書斎


当ブログに「牧師館」ページを新設しました。

画面上に「牧師館」ボタンを新設しました。

今後、いろいろ展開していきたいと願っています。

足立梅田教会「牧師館」ページURL

https://www.adachiumeda.church/p/parsonage.html

2025年11月16日日曜日

人の罪を赦す

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「人の罪を赦す」

コロサイの信徒への手紙 3 章12~17節

関口 康

「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(13節)

私事(わたくしごと)から始めることをお許しください。今日は私の60歳の誕生日です。先週11月 9 日(日)11月定例役員会で、私の 3 年任期を無期にしていただくことが承認されました。風来坊として生きてきましたが、夢と希望とロマンにあふれる年齢ではありません。そろそろ腰を据えて働かせていただく所存です。

今日はコロサイの信徒への手紙を開きました。先週エフェソの信徒への手紙について申し上げたのと同じことを言わなくてはなりません。 1 章 1 節に「使徒パウロ」が書いた手紙であると記されていますが、パウロの名を借りただれかが書いたものであると考えられるようになりました。そのような議論があることを踏まえたうえで、今日も「パウロが」と言わせていただきます。

もうひとつ先週と同じことを言わなくてはなりません。今日の箇所に記されていることも一般論ではなく、教会内部の事柄です。教会生活の中で「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けること」を求めています。そして、イエス・キリストがあなたがたの罪を赦してくださったように、あなたがたも互いに罪を赦し合いなさい、と呼びかけています。

今日の説教題「人の罪を赦す」の意味は、イエス・キリストが私たちの罪を赦してくださることだけではありません。それだけではなく(not only)、私たち自身が、自分以外の人の罪を赦すことをも(but also)意味しています。

それは私たちにとっては難しい課題です。「見ざる言わざる聞かざる」と目も口も耳もふさいでイヤイヤながら「あなたの罪を赦したくないが、そうしろと言われるので仕方ない」と言いたくなる心境に陥りやすいのは理解できます。しかし、「互いに罪を赦し合う」という課題が免除されることはありません。だからこそ、私たちにとって教会は「訓練」の場所になるのです。

「互いに罪を赦し合う場」がこの世界の中に存在するのはありがたいことです。「追いつけ追いこせ引っこ抜け」(ソルティー・シュガー「走れコウタロー」1970年の歌詞)と競争し続ける社会の中で互いに足を引っ張り合う人生の結末はこの世の地獄です。「互いに罪を赦し合うという難しい課題に生涯かけて取り組んでいる教会の仲間に加わることを検討してみるのも悪くないかもしれません」というくらいの言い方をしておきます。

私たちに求められている「互いに罪を赦し合うこと」は、バラやイガグリやハリセンボンのように鋭いとげや針を突き出して「寄るな触るな近づくな」と周囲を威嚇し、だれも寄せ付けようとしない生き方の正反対です。私たちは、共に生きる人々と良好な関係を保つための「あり方」を身に着ける必要があります。

そのためにパウロ( 1 章 1 節)がすすめているのは、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着けること」( 9 ~10節)です。ここで「造り主」とは、イエス・キリストのことです。 1 章16節に「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」と記されています。

「イエス・キリストが天地万物の創造者である」という教えには、人に誤解や恐怖を与える要素があります。三位一体の教義なしには決して理解できません。しかしそれもひとつの真理です。今日の箇所の「造り主の姿に倣う新しい人」の意味は「イエスの模範に従う人」です。

先週11月10日(月)映画「ボンヘッファー」をヒューマントラストシネマ有楽町(千代田区)で鑑賞しました。普通の映画館で「ボンヘッファーが始まります」とアナウンスされ、コーラ片手に大きなスクリーンでボンヘッファーを見る日が来るのを予想していませんでした。

ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer [1906-1945])

映画「ボンヘッファー」をご覧になっていない方々のために、内容には触れないようにします。ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer [1906-1945])は、医師の家庭に生まれ、 テュービンゲン大学とベルリン大学の各神学部で学び、米国に留学し、牧師になり、神学教授になりました。しかし、ナチスに抵抗しクーデターを企てるグループに属していたことが発覚して逮捕され、処刑されました。ただし彼は直接的な暴力行為に関与していません。ボンヘッファー(を演じている俳優)がピストルを持っているように見える写真を中心に置き、副題にassassin(暗殺者)と書いているこの映画のポスターは、誤解を招きます。

映画「ボンヘッファー」パンフレット(左)
『ボンヘッファー説教全集 1 』(右)

1945年 4 月 9 日に39歳で処刑されるまで、ベルリン北部のテーゲル(Tegel)の独房から両親や友人宛に書いた手紙が「獄中書簡集」として出版されました(原著ドイツ語版1951年、日本語版1964年)。「獄中書簡集」を含むボンヘッファーの多くの著作が多くの言語に訳され、読まれてきました。日本語版も多くあり、足立梅田教会の初代・第 3 代牧師の藤村靖一先生も、第 2 代牧師の北村慈郎先生、その後の牧師がたもボンヘッファーの影響を強く受けられたと思います。

ボンヘッファーの(of)/についての(on)著作(関口康蔵書)

私が1984年 4 月に東京神学大学に入学して最初に熱心に読んだ本が、ボンヘッファーの『共に生きる生活』(森野善右衛門訳、新教出版社、1975年)でした。神学生としての奉仕教会として出席した日本基督教団桜ヶ丘教会(杉並区下高井戸)や鳥居坂教会(港区六本木)の教会学校や青年会で『共に生きる生活』を読むことを提案したのは私です。

ボンヘッファーの「獄中書簡」に「ある書物の草案」と題する文章が収録されています(村上伸訳、増補新版、1988年、437~440頁)。それは、ボンヘッファーが当時の教会を痛烈に批判し、新しい教会のあり方を提案している文章です。

「第一章(中略)教会の事柄などのためには一生懸命になるが、人格的なキリスト教信仰はほとんどない。イエスは視野から消えている。社会学的には、広範な大衆への感化力はない。中産もしくは上流階級の事柄だ。難解な伝統的思想によって大変な重荷を負わせている。決定的なのは、自己防衛を事とする教会だということ。他者のための冒険は何一つしない」

「第二章(中略)神に対するわれわれの関係は、『他者のための存在』における、つまり、イエスの存在にあずかることにおける新しい生である」

「第三章(中略)教会は、他者のために存在する時にのみ教会である。新しく出発するためには、教会は全財産を窮乏している人々に贈与しなければならない。牧師は、ただ教会員の自由意志による献金によってのみ生活し、場合によってはこの世の職業につかなければならない。教会は、人間の社会生活のこの世的な課題に、支配しつつではなく、助けつつ、そして仕えつつあずからなければならない。教会は、あらゆる職業の人々に、キリストと共に生きる生活とは何であり、『他者のために存在する』ということが何を意味するかを、告げなければならない」

「第四章(中略)教会は、人間的な『模範』(それはイエスの人間性にその起源を持っているし、パウロにおいては非常に重要である!)の意義を過小評価してはならないだろう。概念によってではなく『模範』によって、教会の言葉は重みと力を得るのである」

私の受け取り方が間違っているようならお詫びします。足立梅田教会は「ボンヘッファー的な」教会です。大好きです。これからもよろしくお願いいたします。

(2025年11月16日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年11月15日土曜日

2025年12月の予定


12月の礼拝の予定は以下のとおりです。足立梅田教会にぜひおいでください!

礼拝は毎週日曜日午前10時30分からです。地図はここをクリックしてください


12月 7 日(日)アドベント(待降節)第 2 主日

       説教「再び信じる決心を」関口康牧師

       聖書 マタイによる福音書 1 章18~25節       

12月14日(日)アドベント(待降節)第 3 主日

       説教「心の支えは同じ」関口康牧師

       聖書 マタイによる福音書 2 章 1 ~12節

12月21日(日)クリスマス礼拝(教会学校と合同)

       説教「もろびとこぞりて」関口康牧師

       聖書 ルカによる福音書 2 章 1 ~14節

       午後 クリスマス愛餐会

12月24日(水)クリスマスイヴキャンドル礼拝(18時30分~)

       説教「きよしこのよる」関口康牧師

       聖書 ヨハネによる福音書 1 章14~18節

12月28日(日)年末礼拝

       説教「復活の力」関口康牧師

       聖書 フィリピの信徒への手紙 3 章12~24節