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2025年12月7日日曜日

再び信じる決心を

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「再び信じる決心を」

マタイによる福音書 1 章18~25節

関口 康

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿った』」(19-20節)

待降節(アドベント)第 2 主日を迎えました。今日の聖書の箇所は昨年と同じです。みなさんの中には80回ぐらい同じ話をお聴きになった方がおられます。私も50回以上聴きました。

この箇所に記されているのは「イエス・キリストの誕生の次第」(18節)です。マリアとヨセフが婚約していたのに、 2 人が一緒になる前にマリアが身ごもりました。ヨセフはマリアとの縁を切ることを決心しましたが、天使が夢に現れて「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの子は聖霊によって宿ったのである」(20節)とヨセフに告げたのでマリアを迎え入れました。

昨年「私は天使が苦手です」と言いました。「天使が怖い」とか「気持ち悪い」という意味ではありません。説教者として、自分はまだ見たことも触ったこともない存在について説明するのが難しいという意味です。

しかし、今年の私はひと味違います。日々進化する牧師です。昨年までは見えにくかったことが見えるようになりました。

年齢と関係ありそうです。ちょうど60歳になりました。昨年よりはっきり見えるようになったのは自分の人生の終わりです。悪い意味は全くありません。人生の終わりを意識すると人生の全体像が客観的に見えるようになる、ということが実感として分かるようになりました。

そうした中で、「天使」の役割の意味がだんだん分かってきました。天使にしか決して語ることができない言葉があることが分かってきました。

私たちの人生で、どこまで行っても結局さっぱり分からなかったと感じるものがあるとしたら、それは他者の心です。夫婦だろうと、親子だろうと、兄弟だろうと、友人だろうと、各自の自由に属する領域について完全に理解するのは不可能です。知る必要がないことです。

お互いがどこで何をしているかを完全に知る必要があるでしょうか。GPSを付けますか。24時間くっついていますか。束縛したいですか。つきまといますか。そういうのをストーカーと言うと思います。

結婚前のマリアが身ごもりました。ヨセフはマリアとの縁を切ろうと決心したというのですが、その理由が「夫ヨセフは正しい人であった」からとか「マリアのことを表ざたにするのを望まなかった」(19節)と、はなからマリアが悪人扱いです。ヨセフが「正しい人」なら、マリアは「正しくない人」でしょうか。

「表ざたにする」は、世間の評判にさらすことを指します。それは自分のことがかわいそうで、自分のプライドを守りたくて、世間に暴露して騒ぎにするかどうかを迷ったということでしょうか。一方的すぎて、奇妙な話です。

「そこは問題ではないのではないですか」と、「マリアのことを表ざたにするのを望まない」と考えている時点のヨセフに訊きたいです。「縁を切っても、どうせ納得できないでしょう。いっそ犯人を探して復讐しますか」と言いたいです。

言うまでもなく、DNA鑑定もGPSも西暦 1 世紀には存在しませんでした。それでは、マリアが身ごもっていることがヨセフにどうして分かったのでしょうか。それは間違いなくマリア自身が打ち明けたからでしょう。それとも、マリアの周囲の人がリークしたでしょうか、その可能性がゼロでないとしても、本人が黙っていれば分かりっこないことでしょう。

マリアはヨセフに事実を伝えたのです。「私には身に覚えのないことだ」と(ルカ 1 章34節参照)。ヨセフに残された唯一の選択肢は、“マリアを再び信じる”かどうかだけです。

もしこの箇所のすべてがでたらめな作り話だと私たちが考えるのでなければ、同じ問いが私たちにも投げられています。それは「マリアは聖霊によって身ごもった」という天使の言葉を信じるかどうか、です。

同じことが、私たちにとって決して完全には理解できない他人の心とどのように向き合うか、という問いにも当てはまります。

夫婦や親子や兄弟や友人は“神”ではないので、信じる対象ではないとお感じになるでしょうか。それもごもっともですが、“あたかも神を信じるようにあなたのパートナーを信じること”以外になすすべがないとも言えます。それとも、つきまとって監視しますか。

マタイ 1 章冒頭の「イエス・キリストの系図」( 1 節)は、カタカナの名前がたくさん出てくるので読むのがつらいとお感じになる方が多い箇所です。「系図」と訳されているギリシア語(Βίβλος γενέσεως)はヘブライ語の「創世記」(トレドト)と同じ言葉です。これは「イエス・キリストの創世記」と訳すことが可能です。

ユダヤ人男性が神殿奉仕者になるとき、ユダヤ人であることの血統の証明書の提出が求められました。自分の系図を作成し、最高法院(サンヘドリン)で正統性を検証してもらう必要がありました。彼らが作成していた系図は男性のみの家系でした。

「イエス・キリストの系図」に女性が 4 人登場するのは、ユダヤ人の伝統と対比すれば、極めて異例なことでした。「タマル」( 3 節)、「ラハブ」( 5 節)、「ルツ」( 5 節)、「ウリヤの妻」( 6 節)が女性の名前です。 4 人目は名前を伏せられていますが、イスラエル第 2 代国王ダビデとの間に第 3 代国王となるソロモンを産んだ「バト・シェバ」(サムエル記下11章参照)です。

「この女性たちは悪名高い罪人でした」と説明する説教を過去に何度か聴きました。女性たちを罪人呼ばわりしたうえで「罪ある女性を含む家系の中に救い主はお生まれになることによって、人類の罪を背負い、罪人の身代わりに死んでくださったのです」とつなげていく説教です。

同様の解釈がヨーロッパの教会にもあるようで、私がいつも頼りにしているオランダ語の註解書が「4 人の女性が『悪名高い罪人たち』(notoire zondaressen)であるというのは事実だろうか」と記して、その解釈に抗議しています(Vlg. J. T. Nielsen, Het evangelie naar Mattheüs I, Prediking van het Nieuwe Testament, 1971, p. 29)。

「タマルとユダの罪〔創世記38章参照〕も、ダビデとバト・シェバの罪〔サムエル記下11章参照〕も、『罪』は女性ではなく男性にある」し、「ルツ〔ルツ記参照〕はモアブ人だが、決して否定的な意味ではない」し、「ラハブは旧約聖書〔ヨシュア記 2 章 1 節など〕で『遊女』と呼ばれているが、ユダヤ人に対するラハブの奉仕は高く評価されている」と記しています(Ibid.)。信頼できる註解書に出会えてよかったです。

イエス・キリストの系図についても、イエス・キリストの誕生の次第についても、女性を悪者にして片づけようとする間違った解釈があることは否定できません。異なる読み方が必要です。

マリアを再び信じ、「すべての事情を天使に教えてもらいました。それで十分です。私はあなたを信じます。結婚してください。アイ・ラブ・ユー」と告白することができたヨセフの姿を今日の箇所は描いています。勇気が必要な生き方かもしれません。「男らしい」とは絶対言いません。

こうして私はやっと「天使」が好きになりました。「私には身に覚えがない」と訴えるマリアを、すべての疑惑から天使が守っています。それ以上のことをだれも問うべきではありません。

(2025年12月 7 日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

12月14日(日)「心の支えは同じ」という説教をします

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


次週礼拝予告

日時 2025年12月14日(日)午前10時30分より

場所 日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「心の支えは同じ」関口康牧師

聖書 マタイによる福音書 2 章 1 ~12節

ぜひおいでください。お待ちしています。

2025年12月1日月曜日

2025年12月の予定


12月の礼拝の予定は以下のとおりです。足立梅田教会にぜひおいでください!

礼拝は毎週日曜日午前10時30分からです。地図はここをクリックしてください


12月 7 日(日)アドベント(待降節)第 2 主日

       説教「再び信じる決心を」関口康牧師

       聖書 マタイによる福音書 1 章18~25節       

12月14日(日)アドベント(待降節)第 3 主日

       説教「心の支えは同じ」関口康牧師

       聖書 マタイによる福音書 2 章 1 ~12節

12月21日(日)クリスマス礼拝(教会学校と合同)

       説教「もろびとこぞりて」関口康牧師

       聖書 ルカによる福音書 2 章 1 ~14節

       午後 クリスマス愛餐会

12月24日(水)クリスマスイヴキャンドル礼拝(18時30分~)

       説教「きよしこのよる」関口康牧師

       聖書 ヨハネによる福音書 1 章14~18節

12月28日(日)年末礼拝

       説教「復活の力」関口康牧師

       聖書 フィリピの信徒への手紙 3 章12~24節