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2025年12月24日水曜日

きよしこのよる クリスマスイヴ礼拝

クリスマスイヴ愛餐会のローストチキンとシュトーレン

クリスマスイヴ礼拝プログラム

クリスマスイヴ礼拝看板

夜のクリスマスツリー


説教「きよしこのよる クリスマスイヴ礼拝」

ヨハネによる福音書 1 章14~18節

関口 康

「言(ことば)は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)

今夜はクリスマスイヴ礼拝にお集まりいただき、ありがとうございます。

今日は朝から雨で、寒くてどんよりした一日でした。これで元気でいられる人は相当タフです。

体の寒さの問題は、着る服を増やすだけで解決します。心の寒さの問題はそれほど簡単には解決しません。だれかとけんかした、修復不可能な亀裂が生じた、なんらかの事情で仕事を失った、生活が行き詰った、など。

私も他人事ではありません。牧師なので相談を受けることはありますが、まともに答えられないことのほうが多いです。「美味しいものを食べて、よく寝ることですね。ぐっすり休んでから、これからのことを考えましょう」と答えるぐらいで精一杯です。

食べることは大切です。美味しいものを食べると体も心も温まります。もちろん「美味しい」かどうかで温度差が生じますし、「美味しい」と「楽しい」が重なると、体温が上がります。

今夜の聖書箇所に「言は肉体となってわたしたちの間に宿られた」(14節)とあります。これがヨハネによる福音書の「イエス・キリストの誕生の次第」についての独特の表現です。

教会の信仰によると、イエス・キリストは、父の独り子としての御子なる神であり、人間としてお生まれになるために母マリアから「肉体」を受け取られました。

主イエスが母マリアから受け取られた「肉」は「お肉屋さんに売っているあの肉と同じです」と、東京神学大学の学生だったころ、私の記憶が正しければ左近淑教授が言われました。

この「肉」(ギリシア語「サルクス」)は人格(ペルソナ)を持ちません。わたしたちが動物の肉を食べるのは、肉そのものにはその動物のペルソナがないからです(人ではないので「人格」と呼べませんが)。もし「肉」そのものがペルソナを持っていれば、私たちは食べた肉のその動物に成り変ってしまうでしょう。

不謹慎な話をしていると思わないでいただきたいのです。神の言葉がお肉屋さんに売っている肉になった。それがイエス・キリストの誕生の次第であると、聖書に確かに記されています。

先日クリスマス礼拝後の愛餐会で、私が初めて作ったシュトーレンを食べていただきました。

クリスマスイヴの今日はローストチキンを焼きました。茶話会で食べていただきます。

どちらも自分で作るのは初めてです。私にもできるようになったのは助けがあったからです。

助けのひとつはネットのレシピです。もうひとつの助けは「生成エーアイ」(generative artificial intelligence)です。

 2 年前の2023年が「生成エーアイ元年」だそうですが、実際に多くの人が使うようになったのは今年2025年です。今年は「生成エーアイ社会実装元年」と言われます。

だれとでも競争したがる人たちはエーアイとも競争したがるようです。「エーアイにこういう質問をしたら間違った答えをした。エーアイは大したことがない」と言う人の話を耳にするたびに、どうかしていると思います。なぜ張り合うのでしょう。協力者になってもらえばいいだけです。

今日エーアイに助けてもらったのは電子レンジの使い方です。「ローストチキンを教会の皆さんに食べていただきたいのですが、万が一でも生焼けのところがあってはいけないので、オーブンで焼く前に電子レンジで火を通すほうがよいと思うのですが、その場合の電子レンジは何分ぐらいがいいと思いますか」と尋ねました。

すると「とても大切な配慮をなさっておられますね」とエーアイがほめてくれて、「600ワットで 8 ~10分程度です」と、科学的な根拠を挙げて説明してくれました。エーアイは勘(かん)では答えません。

もしかしたら将来的に、エーアイに「ローストチキンを作って」とひとこと言うだけで、買い物、調理、盛り付けから、BGM(音楽)の選曲、皿洗い、あとかたづけ、掃除、ゴミ捨てまで、すべて自動でしてくれる時代が来るかもしれません。

しかし、たとえひとことであっても「ローストチキンを作って」と私たち人間が意思表示しないかぎり、エーアイは何もしてくれないでしょう。意思表示は人間の役割です。エーアイと人間は張り合う関係にありません。うまくつきあえば世界が広がります。

そういうわけで、今年のクリスマス礼拝とイヴ礼拝は、説教の準備と同時にシュトーレンづくりとローストチキンづくりに時間と労力を注ぎました。そうすることが「これからの教会」のあり方を考えるうえで大切なことだと思えたからです。

具体的にいえば、忙しい日々の最中にクリスマス礼拝に集まり、寒い日の夕方にクリスマスイヴ礼拝に集まって、牧師が難しい聖書のお話をすることで、みんなの心が温まるかどうかを考えてみて、ありえないと思いました。別の発想が必要です。

イエス・キリストが「肉となった神の言」であられることは、私たちの「神」に「体温」があるというイメージを持つこと、「神は温かい方である」と実感することを私たちに許します。

「肉」(サルクス)の体をまとわれたイエス・キリストは「体温」を持っておられました。それは「神の体温」です。それを感じることができる「温かい教会」であることが必要です。夏は夏で、ひんやり冷たい手がうれしいです。

私は皆さんと握手することにも慎重な「非接触牧師」ですが、直接触るかどうかよりも、心と心のふれあいや、共に食事をして励まし合うことが大事です。

(2025年12月24日 日本基督教団足立梅田教会クリスマスイヴ礼拝)