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日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)
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説教「孤独な人々と生きる」
マタイによる福音書 9 章 9 ~13節
関口 康
「ファリサイ派の人々はこれを見て弟子たちに『なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である』」(11-12節)
10月12日(日)に北村慈郎牧師をお迎えして「特別礼拝・講演会」を行うことになりました。主題は「これからの教会と日本基督教団」でお願いしますとお伝えして、快諾を得ました。
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このテーマについては、ご著書『自立と共生の場としての教会』(新教出版社、2009年)の中にほぼ記していますと北村先生が教えてくださいました。古書店に注文し、一昨日届きました。
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北村慈郎著 『自立と共生の場としての教会』 (新教出版社、2009年) |
「今年も皆さんに暑中見舞いをお送りします」と言いながらまだ送れていないことを申し訳なく思っています。10月12日特別礼拝の案内をどうしても書きたかったので遅くなりました。立秋を過ぎましたので「残暑見舞い」になります。ご理解いただけますと幸いです。
北村先生の『自立と共生の場としての教会』(2009年)の内容については著者ご自身からお話を伺える運びになりましたので、私が先回りして取り上げるのはやめておきます。しかし、予習のためにヒントを出します。
第 1 章の冒頭に、北村先生が目指してこられた「教会のあり方」について 3 つのポイントが挙げられています(21~23頁)。穴埋め問題の答えは10月12日(日)に発表します。
Ⅰ 共に生きる場としての教会の担い手は(① )であること。
Ⅱ 牧師は本質的には(② )が、現実的には(③ )であること。
Ⅲ 教会員ひとりひとりが(④ )していく(⑤ )が大切であること。
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これは私も完全に同意します。北村先生ともっと早くお会いしていれば、牧師としての私の歩みが全く違ったものになっていただろうと思うほどです。
しかし、このようなことをいくら言っても無駄なので、神のご計画と導きにより、私なりの道をまるで這うように通って来て、足立梅田教会にたどり着いたと信じます。やっと納得できる線が見えてきました。
私は日本基督教団の教師(最初は補教師、後に正教師)になって今年で35年目です。途中19年は日本キリスト改革派教会にいましたので、そこはカウントされないと判断されて東京教区東支区の「伝道30年」の記念品をもらい損ねましたが、どうでもいいことです。
それよりも重要なことは、35年という長さがちょうど、足立梅田教会の創立者、藤村靖一先生が当教会の牧師であられた期間(1953~1969年、1974~1993年)と同じであることです。途中の1969年から1974年までの 5 年間、北村慈郎先生が第 2 代牧師になられました。
私自身の35年を思い出します。藤村先生とはお会いすることができませんでしたが、藤村先生が牧師として足立梅田教会の皆さんとお付き合いになった35年の重みを、私が牧師としての自分と向き合わされた35年を思い起こすことにおいて感じることができます。
昨年の春までは、足立梅田教会の皆さんとも北村慈郎先生とも面識がなかった私です。しかし、日本基督教団や日本のキリスト教界のつながりの中で全く無関係に生きてきたわけでもなかったことが次第に分かって来るのが、人知を超えた神のご計画の一側面でもあります。
今日の聖書箇所はこの福音書の著者マタイの物語です。マタイは徴税人でした。「徴税人マタイ」という表現が、主イエスの12人の弟子のリスト(マタイ10章 1 ~ 4 節)に出てきます。
主イエスの弟子のひとりの「徴税人マタイ」とマタイ福音書の著者マタイとが同一人物である可能性を示すデータを、私がいつも参考にしているマタイ福音書註解(J. T. Nielsen, PNT, 1971)に基づいて追加します。
a. 主イエスが食事された「家」(10節)はマタイの家。宴会に大勢招けるほど資産家だった。
b. 「徴税人」はギリシア語の知識が不可欠。「徴税人マタイ」はギリシア語使い。
c. 「マタイ」は「神からの賜物」を意味するヘブライ語「Mattatjah」または「Mattatjahoe」の略語Mattai、Matja、Matjah等に由来し、ユダヤ地方出身者であることを示している。
d. マタイ福音書の著者は、ヘブライ語、アラム語、律法、預言者、ユダヤの伝統に精通している。
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「福音書」は書物です。出版資金がなければ世に出ることはありません。財力と語学力を持ち、主イエスの身近にいた人しか知りえない情報を熟知し、背景の歴史や文化を描く知識と教養まで兼ね備えた人物は、そう多くはいないでしょう。
「徴税人」は、ローマ帝国に納める税金をユダヤ人から集める仕事です。ローマ人は徴税人を、通常は占領地の住民の中から、個人または団体で、通常 5 年契約で雇用しました。徴税人に与えられた裁量は、納税者に課する税金の金額を徴税人自身が完全に決めることができたことです。それで、しばしば法外な要求を自国民に強いたことが、徴税人が憎まれた理由です。
ユダヤ人の徴税人は、異教徒のローマ人と付き合いがあると言っては軽蔑され、占領軍の協力者であると見られては忌み嫌われました。完全に職業差別ですが、当時の徴税人は窃盗犯や強盗と同類扱いでした。ルカ19章の徴税人ザアカイも、マタイ同様、孤独な人でした。
今日の箇所に出てくるもうひとつのグループは「罪人」(10節)です。「罪人」と呼ばれているのは一般的な意味ではなく、ユダヤ教ファリサイ派による解釈に基づくトーラー(律法)の守り方をしない人々を指します。
ファリサイ派が当時のユダヤ教の主流派で、権力を持っていたので、「罪人」呼ばわりされた人々は、ファリサイ派からだけでなく、国民の多くからも距離を置かれ、爪弾きにされました。彼らは孤独な人でした。
ファリサイ派は、神の御心についての彼らの解釈に従って行動しました。この人々はヘブライ語の動詞「ファラッシュ」に由来するグループ名を背負う「分離主義者」であり、このグループの主張に基づくトーラー解釈に従わないすべての人を「罪人」と呼んで攻撃したり無視したりしたため、だれもかれもが「罪人」でした。
そのため、ファリサイ派の人々自身も、孤独を感じていたはずです。本人の自覚としては、信念と美学に基づく「孤高」だと思い込みたいでしょうが、外見上は大差ありません。さんざん人を切り捨て見下げた結果は、ひとりの友もいなくなった孤独な人になることです。
主イエスのお答えは、「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である」(12節)、そして「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くためである」(13節)でした。
真の救い主イエス・キリストは、「徴税人」とも、「罪人」とも、そして「ファリサイ派」とも、共に生きておられます。孤独な人々と共におられます。
主イエスと共にある教会は、孤独な人々と生きていきます。
(2025年 8 月10日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)